源 義経

 源義経は源平の戦いで大勝利をもたらし鎌倉幕府成立の立役者となったが、義経の絶頂期は「一の谷の合戦から、翌年の屋島と壇ノ浦の戦い」にかけての僅か2年にすぎない。この2年間のために義経は生まれ、平家滅亡の役目を終えた義経は、皮肉なことに兄頼朝によって破滅への道を辿る。31歳の若さで奥州平泉の地で自害するが、その余りにも短い生涯は、平家一族を滅ぼすためだけにあっ た。平家が滅びると義経もまた歴史の中から彗星のように消えていった。民衆は衣川で死を迎えた悲劇のヒーローを、何度も蘇えらせては判官贔屓の心情を抱き涙を流すのであった。

牛若丸
 牛若丸(源義経)は清和源氏・源為義の流れを汲む源義朝の九男として京都で生まれた。母親は絶世の美人で義朝の愛妾・常盤御前である正室や他の側室との子供を含めると義経は9番目の男子で、鎌倉幕府を開いた兄・源頼朝は12歳年上の正室の嫡男で3男になる。義経の幼名は牛若丸で、青春時代は遮那王、元服して九郎義経と改名している。

 父義朝は義経が生まれた年に、平治の乱で清盛に敗れ、東国を目指して逃れる途中で旧臣の裏切りにより入浴中に殺されている。平治の乱で勝利を得た清盛は、義朝の首を都で晒すと、敵対した者をことごとく斬首にした。斬首は末裔の復讐を恐れての当然のことで、事実、温情をかけた頼朝や義経によって平家は滅亡することになる。

 12歳の嫡男・頼朝は、清盛の叔母の強い助命から伊豆の辺境の地に流罪になっている。なお長男の義平は斬首され、次男も落ち武者狩りで討たれている。

 常盤御前と牛若丸と二人の幼い子は、平家から逃れるために大和路(奈良)の東大寺に身を隠していた。常盤御前はたぐいまれな美人で、清盛は常盤御前を手にいれるため捜査網を敷き、常盤御前の老母を捕らえると虐待を加えた。この悲報を知った常盤御前は耐えられなくなり清盛の前に出頭すると、清盛は常盤御前を手篭めにするため、乳飲み子の牛若丸らを出家することを条件に助命し、常盤御前に愛妾になることを強要し、常盤御前は我が子の為に清盛の命に従った。清盛は常盤御前を側室にするがすぐに飽きてしまい、常盤御前は下級公家・藤原長成と再婚して後生を静かに暮らすことになる。

 公家の藤原長成は牛若丸が6歳になると、平家の監視から牛若丸を守るため鞍馬寺に僧侶として預けた。しかし牛若丸は10歳の時に、自分が源氏の義朝の子であることを知り、以後、打倒平家を誓って鞍馬山で武芸に励むことになる。昼は仏教を中心とした学問を学び、夜になると鞍馬寺の裏の暗い森(僧正ヶ谷)で武芸に励んだ。

 鞍馬山で牛若丸に武芸を教えたのは天狗(荒法師)とされている。鞍馬寺は以前から朝廷とのつながりが強く、僧侶は貴族化してゆく平家に反感を持っていた。そのため僧侶たちは自分たちの反平家感情を牛若丸に託して武芸を学ばせた。

 鞍馬山で仏教を学ぶことは僧侶になることを意味していたが、牛若丸は父の無念を晴らすため平家を撃つことを心に強く決めていた。鞍馬山で武芸を学び、しばしば洛中に出ては、刀集めなどを行い武芸の実践を試した。このとき出会ったのが武蔵坊弁慶である。

 武蔵坊弁慶は紀伊熊野別当である湛増(たんぞう)が二位大納言の娘を強奪して産ませたとされている。母の胎内に18ヶ月とどまり、生まれた時にはすでに髪は肩まで伸び、歯も生えそろっていたとされている。その後、弁慶は元服前に比叡山に預けられたが、乱暴すぎて追い出されてしまう。

 武蔵坊弁慶は剛勇の僧侶で、京の五條の橋に毎夜雲突くばかりの入道の姿で現われた。弁慶は剛勇を示すため京で1000本の太刀を奪う悲願を立て、道行く武者と決闘をしては刀を取り上げ拒めば切り捨てた。道行く武士を襲い太刀は999本まで集められていた。

 五條の橋は昼の雑踏に比べ、夜は森閑として誰一人通る者はいなかった。弁慶はいつものように姿を現すと、五条大橋の欄干にもたれながら鴨川の流れに映る十五夜の月を眺めていた。あと1本で念願の1000本になると獲物を狙っていると、笛を吹きながら歩いてきた牛若丸と五条大橋で出会った。弁慶は牛若丸が腰につけている見事な太刀に目を止め、太刀をかけて襲いかかるが、牛若丸はひらりと攻撃をかわし弁慶を負かせてしまう。弁慶は身軽な義経にかなわず返り討ちに遭ってしまう。

 弁慶は牛若丸の強さに驚き、また出会えたことを喜び、降参すると牛若丸の家来となることを決意する。武蔵坊弁慶は牛若丸の忠臣になると、義経が平泉で共に死去するまで運命をともにする。

奥州平泉

 牛若丸はこのまま鞍馬寺にいれば僧侶になってしまい、出家すれば復讐はできないと焦りを覚えていた。平家は復讐を恐れ早く出家させるようにと鞍馬寺に圧力をかけてきた。ちょうどその頃(16歳)、奥州の商人・金売吉次と出会うことになる。金売吉次は平泉と京都を行き来して黄金の売買をしていた商人である。金売吉次奥州藤原氏が源氏に好意的であること、平家に対抗する勢力であることを教えてくれた。奥州藤原氏初代の清衡は後三年の役でかつての源義家と同盟関係にあった。

 金売吉次が牛若丸と会ったのは、後白河法皇の命のよるものとされている。金売吉次は、牛若丸を鞍馬山から奥州藤原氏へ預ける役割を託されていた。後白河法皇は平清盛の後継者として牛若丸を考えていた。後白河法皇は牛若丸の力量を知っており、平家が滅んでも清盛の後継者にできると考えていたのである。牛若丸金売吉次の話を聞くと、はやる気持ちを抑えきれず、鞍馬寺を出ると平家の監視が及ばない奥州藤原氏を目指すことになる。

 牛若丸の一行は道中で熱田神社(名古屋)によった。熱田神社は源頼朝の母の実家で、源頼朝は熱田神社で生まれている熱田神社の宮司のもとで元服の儀式を行うと名を源九郎義経と改め、一人前の武士として奥州平泉へ向かった。道中の宿で地元を荒らし回る勇豪を成敗するなどの逸話が残されている。

 奥州藤原氏の第3代の当主藤原秀衡は奥羽随一の実力者で鎮守府将軍に任じられていた。藤原秀衡は義経を匿う危険性を熟知していたが、英雄は英雄を知るがごとく、義経の優秀な器量をすぐに見抜いた。藤原秀衡は平凡な息子よりも、義経の力量を重視したのである。西国は平清盛、東国は義経を中心とした奥羽藤原氏によって国を二つに治めようとしていた。藤原秀衡は義経を自分の館のそばに住ませると手厚い配慮を加えた。義経は逞しく成長し、平泉で6年間を過ごすことになる。

源平の争い

  1180年秋、頼朝が伊豆で挙兵したとの知らせが入った。

 源頼朝が北条家と挙兵すると、伊豆国の山木兼隆の館を襲い勝利を挙げ、次の石橋の戦いでは僅かばかりの兵に10倍の兵力で攻められ、命からがら土肥から海路で房総に逃れた。千葉介常胤のもとに身を委ねると、頼朝の挙兵を知った坂東武士が続々と集まった。頼朝は千葉氏の教えを受け、鎌倉を本拠地にすると勢力を拡大した。しかしその1週間後には、頼朝追討の宣旨を受けた平家の大群が平成盛を大将に鎌倉を目指していた。

 1180年10月、源平の両軍は富士川を挟んで対峙した。この富士川の戦いが源平の戦いの始まりになるが、決戦の前夜、何万もの水鳥が飛び立つ羽の音に平家は源氏の敵襲と驚き逃げ出したため、頼朝は戦わずに快勝した。敵を見て敗走することはあるが、水鳥の音を聞いて敗走したことは「聞き逃げ」として遊女たちの笑いの種になった。

 頼朝は敗走した平家軍を追って京に上り全面対決するかどうか迷っていた。しかし頼朝の有力な御家人である千葉介常胤や畠山重忠は京に攻め上る前に、まず東国で強固な権力地盤を築 くべきと諌めた。頼朝が東国の武士の大将になってからまだ日が浅く、東国でも平家を支持する豪族がいて基盤が軟弱だったからである。頼朝が東国武士の大将となれたのは単に血筋から祭り上げられたにすぎなかった。東国武士の気まぐれから離反する武士が出てくる可能性があった。平氏や貴族から武士による政権を東国に樹立することがまず肝腎だった。

 

頼朝との対面

 この富士川の戦いの翌日、引き上げる途中の黄瀬川(静岡清水町)の陣中に、義経は藤原秀衡の配下の佐藤忠信兄弟ら80騎とともに馳せ参じた。頼朝には関東の御家人を味方につけたが身内の家臣はいなかった。頼朝は初めて見る義経の手を取り「よくぞ訪ねてきてくれた」と、涙を流してふたりは打倒平家を誓いあった。

 東国武士の棟梁になるには血筋ではなく、実力をともなう象徴性が必要であった。そのためには義経を弟として特別扱いするわけにはいかなかった。しかし義経は、この「東国武士の団結最優先」の頼朝の真意を察せなかった。義経は政治的な駆け引きに疎かったのである。

 この年、頼朝は関東での勢力を固めるため鎌倉の鶴岡八幡宮を移築すると、その鶴岡八幡宮の上棟式で、義経と他の家来に宮大工の馬の引き役を命じた。義経にすれば、他の家来とは違うという思いから、同格扱いを嫌がり馬引きを断った。しかしこれを知った頼朝は激怒し、あまりの剣幕に義経はおとなしく引き受けることになった。頼朝にとっては誰が絶対的トップなのかを示す必要があった。弟だからといって義経を特別扱いすることはできなかった。

 頼朝の挙兵から1ヵ月後、木曽(長野)でも従兄弟の木曽(源)義仲が蜂起して快進撃を続けた。その連戦連勝から「朝日将軍」の異名がつけられたほどであった。木曽義仲は倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を殲滅すると、その勢のまま京都を目指し、平家を「都落ち」に追い込んだ。しかし戦いに次ぐ戦いで兵士たちは疲れきっていて、しかも西国は飢饉で食料も少なく、義仲軍のモラルは完全に崩壊した。義仲軍は都一帯で民衆への略奪や暴行を繰り返し「平家の方がマシだった」と民衆の間で失望感と反感が広がった。

 木曽義仲の狼藉をみていた後白河法皇は、頼朝に「上洛して義仲を討て」と密かに院宣を出した。頼朝は義仲軍の狼藉を「源氏の恥」と捉えて討伐を決意した。

 しかし頼朝は義仲軍に勝っても負けても、後白河法皇に利用されることを恐れ、自分は鎌倉を動かず弟の範頼(のりより、義経の異母兄)を大将に大軍を派遣することにした。

 さらに状況を把握する為に先遣隊として義経軍を伊勢に派遣した。義経は鎌倉を出陣するとき、まさかこれが鎌倉の見納めになるとは夢にも思わなかった。

 なお「院宣」は法皇の命令書で「勅書」は天皇の命令書、「令旨」は皇太子や親王の命令書で、いずれも公文書によるに命令であった。

 1184年、義経(25歳)と範頼は伊勢で合流して都を目指した。迎え撃つ木曽義仲は増水した宇治川の橋を落として対峙するが、義経軍は宇治川を果敢に突破し、義仲軍を蹴散らした(宇治川の戦い)。義経は初陣で見事に勝利を飾り京の人々から喝采を受けた。

 

源平の戦い、義経の終末

 鎌倉に平家との最後の戦いである壇ノ浦の大勝利の報告が入った。頼朝は義経に恩賞を与えようとしたが、源範頼と梶原景時から義経に関する抗議の書状が届いた。

 源範頼は義経に対し「頼朝に報告もせずに、何でも独断で物事を進める。あまりに家来に厳しく些細なミスで処罰する。また自分に一任された九州の管理に介入してきた」と訴えた。梶原景時は「高慢なので誰も心から従っていない。手柄を自分一人のものと考える。法皇を頼朝より重んじ、24名の家来が義経の真似をして勝手に官位を受けた。私が忠告すると私まで処罰される雰囲気であった」と激しい怒りをぶちまけた。頼朝はかつて戦場で梶原景時に命を救われたことがあり、これらの中傷を信じてしまう。

 頼朝は義経をどう処断すべきか考えた。確かに義経はよくやってくれたが、大切なのは東国武士団の団結である。結束を乱すスタンドプレーがこのような深い亀裂を残した。将兵たちに規律を守らせる為に、ここは厳しく罰する必要があった。頼朝は決断を下した。

 

三種の神器

 平家政権は清盛一代の政権であった。平家政権が短命で終わったのは、平清盛は武士という階級でありながら貴族と変わらない政治手法をとったためである。平安時代はすでに400年近く経っているのに、平家一族で政権の中枢を占め、清盛は天皇の祖父となったが、そのような貴族の政治システムは新しい武士の時代に合わなかった。 

 源義経は周知の通り天性の戦上手で、平家の合戦で連戦連勝し、壇ノ浦で平家を討ち滅ぼし、源氏の中で最大級の戦功を挙げた。

 義経の類まれな戦術による勝利の功績は大きいが、義経は天皇の証明となる三種の神器を取り戻せなかった。このことに頼朝は激怒したのである。頼朝にとって、父の仇を滅亡させた義経の功績を評価しないはずはなかったが、頼朝は自分の感情よりも武士全体の利益を考えていた。

 義経は平家を滅亡に追い込んだが、それは「武士のための政治」を実現させるものではなかった。頼朝は朝廷を動かして「武士のための政治」を実現させるための切り札として三種の神器を考えていたのである。

 後鳥羽天皇を即位させた「治天の君」の後白河法皇も、三種の神器がなくては後ろめたさがあった。頼朝は三種の神器を自らの手で取り返し、後白河法皇に引き取らせ、武士の要求を認めさせようとした。義経は頼朝のこの政治的考えを理解していなかった。平家滅亡に気をとられ三種の神器の重要性に気づかなかった。三種の神器は清盛の未亡人が抱えて、安徳天皇とともに海の中へ消えたのである。

 頼朝は全国の海女を動員して三種の神器を探させ、勾玉(まがたま)と鏡を取り戻したが、草薙の剣は海の底に沈んだままであった。これでは後白河法皇への切り札にならなかった。

 

 義経の致命的ミス

 さらに義経は致命的なミスを犯してしまう。頼朝の許可なく後白河法皇から京都の治安維持担当する検非違使の官職を勝手に受けてしまったのである。任官後の義経は「九郎判官」と呼ばれ、これが後に「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉を生むことになる。この義経の「頼朝の許可なく朝廷からの任官を受ける行為」は、頼朝のそれまでの努力を逆なでにすることになった。

 頼朝が目指す「武士のための政治」は、朝廷から独立した武士政権を確立することで、武士政権の独立性を確保するためには、武士の人事権が頼朝になければいけない。頼朝の承認もなく、朝廷から官位を授かることは、頼朝の権威をつぶすだけでなく「武士のための政治」を壊す行為だった。それを義経があっさりと朝廷から官位を受けたのだから、頼朝の怒りは当然であった。武士が仕えるのは、肩書きを与える主人のためである。義経が検非違使という肩書きを後白河法皇から授かったことは、頼朝の家来であるが、後白河の家来であることを同時に意味していた。頼朝は「必ず私の許可を得よ」と厳命していたが義経が勝手に官位をもらったのである。ここに後白河法皇の、源氏同士の仲間割れの策略があった。

 この後、多くの頼朝の家臣が「弟の義経様が受け取るのであれば」と朝廷から次々と任官を受けた。このことに対する頼朝の嘆きや怒りは凄まじいものであった。しかし義経は三種の神器と同様、自分の大きなミスに気づいていなかった。頼朝に許しを乞うた「腰越状」においても、官立は名誉として受けたと記し謝罪の意志を示していない。後白河法皇が義経を任官したのは、兄弟の不和をあおることで、頼朝の独占を排するためだった。後白河法皇の政治的知恵であったが、義経は法皇の意図を理解できなかった。頼朝に送った手紙のなかで「自分が朝廷の任官を受けることは、源氏一族にとって名誉なことではないですか」と書いているくらいである。義経は生け捕りにした平家の残党を引き連れて京へ凱旋し、平家の没落を間近に見た民衆から喝采を浴びた。

 「政治家」の頼朝と「軍人」の義経では考えが異なっていた。この二人の間を取り持つ人材がいなかったことが、お互いの意思の疎通を失わせ、兄弟対立を生む結果になってしまう。さらに義経は平家の一族である平時忠の娘・夕花を本妻(静御前は妾)にしたことが源頼朝をいっそう怒らせた。

 平家との戦いに勝つには、天才的で強引な作戦が必要だった。しかし源義経は戦上手であるが故に、独断専行で功績をひとりじめにしすぎてしまった。功績をひとりじめにすれば、他の武士たちの功績が目立たなくなってしまう。武士は功績のために戦うのである。そのため他の武士たちは源義経に反感を抱いていた。もちろん多大な功績を上げた義経をやっかむ武家たちもいた。

 ここで武士たちは、源頼朝を自分たちの棟梁として厳しい目で見ていた。そのため源義経を特別扱いにするわけにはいかなった。特別扱いをすれば、平家一族だけを大切にした平家と同じになってしまう。武士たちの心が源氏から離反させないためには、身内により厳しくしなければいけなかった。

 

腰越状

 頼朝の檄怒に驚いた義経は、裏切る気持ちは全くないと弁明書を鎌倉に送った。だが頼朝は「これまで官位の件など一度も報告していないのに、こんな時だけ弁明書を送ってくるとは、それもわずか一通、これで済ませるつもりなのか」と許さなかった。
 義経は捕らえた平宗盛を鎌倉へ護送して、英雄として鎌倉に凱旋するつもりだった。弁明書さえ届けば誤解はすぐ解け、功績を讃えてくれると信じていた。ところが鎌倉の一歩手前の腰越で「鎌倉へ入ることまかりならぬ。しばし待て」と足止めをされてしまう。腰越で兄の怒りが解けるのを待つが、半月経っても音沙汰はなかった。義経はもう一度筆をとり「腰越状」を書いて大江広元に取りなしを頼んだ。

「当然恩賞があるべきはずのところ、恐ろしい讒言(悪口)によって、莫大な勲功を黙殺されたばかりか、義経は罪もないのにお咎めを受け、ただ為すことなく血の涙を流しております。事実を調査せず、鎌倉の中へさえ入れず、私の思うところを申し上げることも出来ず、むなしく毎日を送ってまいりました。このような事態に至った今、兄上の顔を見る事も出来ないのならば、骨肉を分けた兄弟の関係が既に絶え、前世からの運命も極めて儚く、縁は何の役にも立たないのであります。亡き父以外に、誰が私の悲しい嘆きを申し開いてくれましょう。誰が憐れみをかけてくれましょうか」

 頼朝の代わりに平家を追討したのに、なぜ罪人扱いなのか、この腰越状を読んだ頼朝は胸を動かされ、京都に帰して少し様子を見ることにした。腰越状には「検非違使の任官は源氏にとって名誉」と書かれていた。義経は自分の非がわからなかったのである。

 義経は真心を込めた腰越状が無視されたと思い込み、腰越を去る時に「この恨みは平氏への恨みより深い、頼朝に恨みがある者はついてこい」と悪態をついてしまう。この悪態はすぐさま頼朝に伝わり、義経に与えた平氏の旧所領24ヶ所をすべて没収する命令がだされた。 

 さらに怒りが収まらない頼朝は「二度と鎌倉には入るな」「許可なく官位を受けた24名は鎌倉を追放し、頼朝に忠を尽くす者は、今後、義経に従ってはならぬ」と一方的に突き放されてしまった。

 

去る義経

 義経は近江で平宗盛を斬首して京都に戻ると、義経の配慮で宗盛父子の胴は一つ穴に埋葬された。都に入ると野心あって頼朝と対立していた叔父・源行家が「こうなれば西に独立国を作しましょう」と接近してきた。頼朝は景時の子・景季を都に送り、義経と行家が手を組むかどうかを調べさせていた。

 頼朝が「源行討伐令」を伝えて反応を探ると、義経は今は病気なので、治り次第に作戦を練るとの返事であった。頼朝は義経が行家と内通し時間稼ぎをしていると見なし、義経追討を決断する。
 4ヶ月後、義経は刺客60騎の襲撃を受け、頼朝との関係は修復不可能と悟り、行家と結んで挙兵に踏み切った。頼朝は義経の領地をすべて取り上げ暗殺までしかけ、義経は頼朝と全面対決を決意するようになる。後白河法皇に頼朝追討の発令を求め、従わないなら皇室全員を引き連れ九州で挙兵すると告げたため法皇は「頼朝追討」の宣旨を下した。

 しかしその直後、朝敵にされて怒った頼朝が6万の大軍を都に送ると聞くと、後白河法皇は態度を変えて、頼朝に求められるまま「義経追討」の宣旨を下す。
 源義経は味方の武士が200騎しか集まらないことに焦った。恩賞として与える所領がなかったからである。義経は西国で再起を図るべく大阪湾に出た。しかし平家の呪いと言われるほどの暴風に吹き戻され、元々少なかった家来とさらに離れ離れになった。

 

勧進帳

  源義経は追われる身になった。しばらく近畿周辺に潜伏していたが、包囲網が狭まったことを悟り奥州へ向かうことにした。東海道は便利で最も道であったが、監視の目が厳しかった。そこで北陸道を通って敦賀湾から船で出羽に向かう方法を考え、総勢16人は山伏の姿を変えた。弁慶を先頭に63歳の老人増尾十郎兼房、少年山伏の姿に変えた北の方(義経の奥方)も含まれていた。

 しかし山伏の姿の姿で義経が京都を出たことが噂されていたのである。頼朝は義経の動きを察知し、各地の関所に監視を厳しく行うように命令した。義経一行は野宿をしながらやっともことで愛発山(あらち)にたどり着いた。北の方は両足から血を流し見かねた山伏たちは交代で背負って歩いた。

 愛発山を越え、加賀国の安宅の関(石川県小松市)にたどり着くと、北陸随一の知将・富樫左衛門泰家が関守として厳重な警戒に当たっていた。引き返すこともできず、山伏姿に変装した義経一行は、武蔵坊弁慶を先頭に思い切って安宅の関を通過しようとした。義経一行を疑った富樫泰家は尋問を始めた。

 すると弁慶が進み出て「焼失した東大寺の復興のための勧進として諸国を廻っている」と説明した。すると富樫泰家は「勧進のためならば勧進帳があるはず、それを見せろ」とせまった。弁慶は機転を利かし、白紙の勧進帳を読み上げた。なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問いただすが、弁慶は淀みなく答えてしまう(山伏問答)。

 富樫は通行を許すが、通行が通過しようとしたとき、関所の番卒が強力姿の義経に気づき絶体絶命になった。その瞬間、弁慶は富樫に疑念を晴らすため「義経に似ているとは何事か、お前のためにどれだけめいわくしたか」と金剛杖を手に持ち、義経をこれでもかと何度も打ち据えた。富樫は「主君を打ち据えてまでもその命を救おうとする弁慶の苦衷」を察し,義経一行と知りながら通行を許した。

 その後、生涯泣いたことのない弁慶が義経に駆け寄ると「いかに富樫を欺くためとはいえ、主君を打ち据えた罪の大きさ」に頭を垂れて大声で泣き詫びた。弁慶ほどの剛の者が泣く姿をみて、義経は弁慶の智謀と自分を思う気持ちに「機知の働きは天の加護」と感激し、その労を厚くねぎらった。

 その後、富樫左衛門は源頼朝の怒りを受け、切腹のところを死一等免じられて安宅の関・守護職を解かれた。その後、富樫左衛門は一族と共に平泉に赴き義経と再会する。平泉にしばらく留まるが、その後は安宅の関のあった今の石川県石川郡野々市町に戻り、出家して仏誓と名乗り天寿を全うした。

 

兵どどもが夢のあと

 頼朝に追われ義経を受け入れたのは、奥州藤原氏の秀衡である。秀衡は平泉にたどり着いた義経を歓迎し、義経や家来を衣川河畔に建つ藤原基成の邸宅に住まわせた。藤原秀衡には源平の合戦を乗り切ったしたたかな作戦があった。

 藤原秀衡は清衡、基衡と続いた奥州藤原氏の権力を強固なものにして、奥州の支配体制を確立させていた。源平の争いにおいても、独立勢力として巧妙な外交を展開した。平宗盛が奥州藤原氏を関東に進出させ、 源氏を包囲しようとすると「今にも立つ」「もう白河を越えている」と京に伝え、実は一歩も平泉を出ていなかった。鎌倉に対しては中立の立場を主張して、頼朝を牽制することで平家への義理をもはたす両面作戦だった。

 義経が平泉に逃げたことは頼朝の元にも届けられた。天才戦略家・義経が平泉を拠点に態勢を整え鎌倉を攻めてきたらどうなるかわからない。そう考えた頼朝が、すぐにでも平泉に攻めてくる可能性があった。それでも秀衡が義経をかくまったのは、奥州藤原氏が鎌倉政権から独立した勢力で、また頼朝と対峙する勢力がことごとく潰されているのを見てきたからである。遅かれ早かれ、鎌倉が奥州進出を目指してくると予想していた。

 義経という当代きっての戦略家を抱えていることは、頼朝の奥州進出の決断をためらわせる効果を持つ。またもし戦いが始まつても、義経が味方なら逆に鎌倉を攻めることも難しいことではないと考えていた。

 頼朝の使者の追及をのらりくらりとかわし、その間に義経と極秘の鎌倉侵攻作戦を計画していた。その計画とは、まず秀衡が大将軍として第1軍を率いて下野国に入り、那須野に布陣して野戦に挑む。これは鎌倉軍の主力を那須野に集結させる作戦であった。その間、第2軍は越後に入り、信濃から甲斐に進み、相模国南部に鎌倉攻撃の陣を敷く。さらに義経を将軍とする第3軍が浜通りから常陸国に入り、主力は迂回して南から那須野に迫る。また義経が率いる兵は、密かに久慈湊(くじみなと)から船で南下して夷隅湊 (いすみみなと)に上陸して房総半島を横切り、天羽湊(あまはみなと)から鎌倉に向かつて出発する。そして精鋭部隊のみが鎌倉幕府の小御所を襲い、頼朝を討つというものであった。

 この綿密な計画は実行されるはずだった。だが計画から間もなく秀衡は病に倒れ、息子の国衡と泰衡に「義経を主君に、協力して頼朝を攻撃しろ」と言い残して亡くなってしまう。このようにして鎌倉侵攻計画は頓挫し、奥州藤原氏は座して滅亡を待つことにとなる。

義経の最後

 源頼朝は奥州藤原氏を常に狙っていた。しかも頼朝の父祖もこの地を支配しようとしたが野望を果たせずに去っている。奥州制圧は源氏の宿願だった。源氏の全国支配を確立するためにも、ここは絶対に制圧していなければならなかった。

 さいわいにも秀衡がなくなったが義経がいた。守るべく衣川の合戦で義経を討ったのは藤原泰衡だったが、これは頼朝に奥州制圧の格好の機会を与えることになった。頼朝は再三にわたって泰衡をそそのかした。義経さえ除けば全てが解決するような圧力のかけ方をした。父・秀衡に比べ政治家としての経験に乏しかった泰衡 はまんまとこれに乘ってしまったのである。

 いよいよ藤原泰衡の軍隊が衣川の高館に迫ってきた。義経は「誰が大将か」と尋ねると藤原泰衡の家来の長崎太夫が名乗りを上げた。義経は藤原泰衡なら打って出るが、家来ならば自害すると決めていた。

 武蔵坊弁慶は館を出ると3万の敵の前で、戦に勝ったときの舞を悠々と踊った。弁慶の鎧には次々と矢が刺さった。針鼠のように弁慶は死んでいるはずなのにすごい形相で立っていた。ひとりの武士が弁慶のわきを馬で走り抜けると、弁慶はどっと倒れた。

 源義経は衣川の高館で法華経を読み終えると、館に火をつけさせ、胸に剣を指し腹を切った。

奥州藤原氏の滅亡

 藤原秀衡が死去すると藤原泰衡 藤原泰衡は源義経を衣川館に襲い自害させた。藤原泰衡は義経の首をとると、誇らしげに鎌倉の頼朝に届けた。藤原泰衡の家来は褒美を期待して届けたのだが、頼朝はこの家来たちを切り捨てた。これまで頼朝は奥州侵攻をためらっていたが、義経がいない奥州に怖い者はいなかった。

 源頼朝は藤原泰衡が罪人をかくまったとあげつらい、勅命を得ないまま藤原泰衡追討のため7万の大軍を奥州に送りこんだ。平泉に入ると藤原泰衡の降伏を拒否すると、藤原泰衡は従田次郎に討たれ死去し奥州藤原氏は滅亡した。

  

静御前

 源義経の愛妾「静御前」は白拍子(歌い舞う高級遊女)で、生来から際立った美貌だった。その生涯は不明の点が多いが、伝承によると「干ばつが続いていたため、後白河法皇が白拍子100人に雨乞いの舞を舞わせ、99人までが舞っても雨が降らなかった。しかし100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたとされている。 

 義経は兄の頼朝と不仲になり、義経が京を落ちるときにも「静御前」は一緒に行動している。九州へ向かう義経一行は、摂津国大物浦から船出するが暴風のために難破し、その後、吉野へ逃げるが、この時も静御前は義経たちと同行している。しかし女性連れの僧侶たちが怪しいとの御触れが出て、しかも身重のために吉野で義経と別れることになる。吉野から都に戻ろうとした静は従者に裏切られ、荷を奪われ頼朝勢に捕らえられた。京から鎌倉に連れられ頼朝の前に引き出された。

 世に名高い舞の名人ゆえ、頼朝と妻の政子は静に舞を所望するが、静はそれを断り続ける。静は自分たちを酷い目にあわせた頼朝の為に舞うことは恥辱の限りと、体調の不具合などを理由にして固辞していた。

 しかし頼朝に「源氏の繁栄を祈る舞を鶴岡八幡宮に奉納せよ」と厳しく命じられて、とうとう舞うことになった。

 4月8日、鶴岡八幡宮の若宮の回廊で、八幡大菩薩に献舞するため舞を披露することになる。工藤祐経が鼓を、畠山重忠が銅拍子を担当し、静御前は扇を手に舞い始めた。

  「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ 恋しき」

 (吉野山で白雪を踏み分け、山深く入ってしまったあの人の足跡さえも、今は恋しいのです)

 「しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな」

 (麻糸の玉がくるくる回転するように、「静、静」と呼ばれた昔に戻れたらどんなに良いでしょう)

  生き別れた義経を切々と舞う静は、静御前のプライドをかけての命がけの抵抗だった。参列した者は感動し袖を濡らし、心を動かされた。しかし頼朝は烈火のごとく怒り、「わしが聞いていることを知りながら、反逆者を慕い別れの歌を舞うとはもってのほか」と刀に手をかける。

 だがこのとき妻の政子が「主を思う女心は、女にしかわからないもの。私が静御前だったとしてもあのように舞った」ととりなした。政子と頼朝は駆け落ちの結婚だったので、政子の「愛しい人と離れる不安は耐え難きもの。ここは別れても、なお慕う静の貞節を誉めるべきです」という言葉には説得力があった。政子は自分が着ていた衣を褒美として静御前に与えた。政子の言葉に頼朝は怒りを解き静は命を救わた。

 しかし静は自由の身になれなかった。子を宿していたからである。頼朝は鎌倉で産むよう命じ「女子なら見逃すが、男子の場合は諦めよ」と、覚悟をするよう伝えた。不運なことに生まれてきたのは男子だった。泣き叫ぶ静の腕から赤子は取り上げられ、由比ヶ浜の海に沈められた。

 半年の鎌倉での幽閉を経て、静はやっと自由の身となった。傷心の静に遺された最後の望みは義経との再会だけだった。静と従者は、頼朝の兵たちが厳重に固める太平洋沿いの道を北上せず、越後から会津へ抜ける長く険しい道を平泉に向かった。

 長旅の途中の栃堀の地にさしかかると、静は病を患い、1190年4月28日、若い身空で世を去った。従者は栃堀の里人の手を借りて、小高い丘の中腹に静の遺骸を埋葬し、そのふもとに庵を造って静の霊を守り続けた。この庵が高徳寺(長岡市大字栃堀)とされている。

 明治の末、静の話を聞き知った地元の娘が静を哀れみ、稼いだ金を細々とたくわえ、静の供養のために石塔を建立した。これが、今に残る栃堀の高徳寺の丘に建つ「静御前の墓」に隣接する石塔である。

 奥州藤原氏を守るべく衣川の合戦で義経を討った藤原泰衡だったが、義経を討ったことが頼朝に奥州制圧の格好の機会を与えることになった。これまで奥州侵攻をためらわせていたのは義経がいたからであった。頼朝の父祖もこの地を支配しようとして、野望を果たせずに死去している。奥州制圧は源氏の宿願だった。源氏の全国支配を確立するためには、奥州藤原氏を絶対に制圧していなければならなかった。

 頼朝は再三にわたって泰衡に圧力をかけた。義経さえ除けば全てが解決するような圧力のかけ方をした。父・秀衡に比べ政治家としての経験に乏しかった泰衡は、まんまとこれに乘ってしまう。藤原秀衡が死去すると、藤原泰衡、藤原基成に源義経追討の宣旨が下るり、藤原泰衡は源義経を衣川館に襲い自害させるのであった。

 源頼朝は義経が死ぬと、頼朝は藤原泰衡が罪人をかくまつていたことをあげつらい、勅命を得ないまま藤原泰衡追討のため鎌倉を立った。 平泉に入ると藤原泰衡の降伏を拒否し、藤原泰衡は従田次郎に討たれ死去し、奥州藤原氏は滅亡した。

 

義経考察

 源義経は武士の時代をつくる上で大きな功績を残した。しかし正当な評価を得ることもなく、わずか30年で生涯を閉じた。このことから多くの同情を引き「判官びいき」という言葉まで生まれた。義経は幅広い世代から人気があり、それゆえに多くの伝説や物語が生まれた。義経は奥州平泉で討たれたが、鎌倉に送られた義経の首は本物だったのか、義経は逃げ延びて大陸に渡ったのではないか、モンゴルへ渡りジンギスカンになったのではないかなど様々の説がある。

 源平の争いを制して新しい時代への扉を開いた源頼朝と義経。革命家と軍事の天才による理想的な体制が、なぜ兄による弟殺害という悲劇とともに崩壊したのか。何が二人を引き裂いたのか。

 兄頼朝が平家打倒の兵を挙げると、義経は武蔵坊弁慶をはじめとした側近とともに平泉から馳せ参じ、以後平家との戦いを主導し、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし義経はその最大の功労者となった。

 だが、義経はその勝利の恩賞として後白河法皇から検非違使左衛門尉を任じられ、官位を受けたことが取り返しのつかないミスとなった。義経は軍事的統率者としては極めて優秀だったが、総大将・頼朝現地司令官・義経の対立は決定的なものになった。

 頼朝は平家への出陣にあたって「恩賞は後に一括申請するので個々与えないでほしい」と朝廷に申し入れをしていた。また頼朝は出陣する東国武士団にも「朝廷から恩賞の沙汰があっても絶対に受けてはいけない」と申し渡している。恩賞は公平でなければならない。その公平な恩賞の「裁定役」が頼朝だった。

 義経の任官は頼朝の大前提を崩すことになった。組織力と団結力を頼みとする東国武士団をまとめるのが頼朝の役割だったため頼朝は激怒したのである。

 これは頼朝・義経の兄弟げんかではない。義経は全くこのことを理解していなかった。義経は、親の仇である平家を討ち、朝廷から源家の名誉として官位いただいた。つまり兄・頼朝の怒りを理解できなかった。この対立は宿命的なものだった。義経は新しい武士の時代に求められるルールづくりを進める頼朝を理解していなかったのである。

 権謀家の後白河法皇は頼朝と義経を対立させ、分裂させるために官位を義経に与えた。その企みに簡単に義経が乗ってしまったのである。冷静な頼朝は弟・義経の断罪を「新しい武士の時代はルールを守らなければ、弟であっても排除する」という厳しさをみせつけるため、最大の効果を狙ったのでる。