源 義経

 源義経は源平の戦いで大勝利をもたらし、鎌倉幕府成立の立役者となったが、義経の絶頂期は「一の谷の合戦から、翌年の屋島と壇ノ浦の戦い」までの僅か2年にすぎない。この2年間のために義経は生まれ、平家滅亡の役目を終えた義経は、皮肉にも兄頼朝によって破滅への道を辿る。31歳の若さで奥州平泉の地で自害するが、その余りにも短い生涯は、平家一族を滅ぼすためだけにあった。平家が滅びると義経もまた彗星のように歴史から消えていった。民衆は衣川で死を迎えた悲劇のヒーローを何度も蘇えらせては、判官贔屓の心情を抱き涙を流すのである。

 義経は日本人の無意識の結晶である。日本人の中にある悲劇の英雄像が義経という人物に投影され、それ故に義経伝説として長い年月を経て脚色され、変節を強いられ「義経=ジンギスカン」のような極端な説まで飛び 出すことになる。義経の激動の生涯を辿り、その運命を総括し、さらに義経をこれほどまでに愛し続けた日本人の意識を考えてみたい。

 

牛若丸
 1159年、牛若丸(源義経)は清和源氏・源為義の流れを汲む源義朝の九男として京都で生まれた。母は絶世の美人で義朝の愛妾・常盤御前である正室や他の側室との子供を含めると義経は9番目の男子で、12歳年上の兄・源頼朝3男であるが正室の嫡男である。源義朝と常盤との間には今若、乙若、3男としての牛若丸がいた。牛若丸は義経の幼名であるが、青春時代は遮那王、元服して九郎義経と改名している。

 父・義朝は義経が生まれた年に平治の乱で平清盛に敗れ、再起を誓って東国へ逃れる途中で家臣の裏切りにより入浴中に殺されている。平治の乱で勝利を得た清盛は、36歳の義朝の首を都で晒すと、敵対した者をことごとく斬首した。斬首は末裔による復讐を恐れたからで、報復を防ぐ当然のことであった。事実、温情をかけた頼朝や義経によって平家は滅亡することになる。

 12歳の嫡男・頼朝は、清盛の叔母の強い助命から伊豆の辺境の地に流罪になった。なお長男の義平は斬首され、次男も落ち武者狩りで討たれている。

 平治の乱の後に、平清盛は成長した後の報復を恐れ、常盤御前の子3人を殺すように命じていた。常盤御前と三人の幼い子は、外戚を頼って身を隠そうとしたが、縁者は身にふりかかる災いを恐れ断った。そこで平家から逃れるために大和路(奈良)の東大寺に身を隠していた。

 しかし常盤は母が平氏に捕まっていることを知り「母の命を助けようとすれば三人の子どもが斬られ、子どもを助ようとすれば老いたる母を失う」常盤は悩んだあげく悲しみに沈みながら清盛の前に出頭した。
 
出頭すると清盛は類まれな常盤御前を手篭めにするため、乳飲み子の牛若丸らを出家することを条件に助命し、常盤御前に愛妾になることを強要した。常盤御前は我が子の為に清盛の命に従った。清盛は常盤御前を側室にするが、すぐに飽きてしまい常盤御前は下級公家の藤原長成と再婚して後生を静かに暮らすことになる。

 公家の藤原長成は牛若丸が6歳になると、平家の監視から牛若丸を守るため、僧侶にしようと鞍馬寺に預けた。牛若は仏教や儒教を学ぶなど、学問に明け暮れる毎日を過ごした。

 しかし牛若丸が10歳の時に、正門坊と名乗る僧が現れ、牛若が平清盛に破れた源氏の大将・義朝の子であること、牛若の兄・源頼朝が伊豆の国に流されていること、さらには源氏代々の武功勇武を語った。

 牛若丸は自分が源義朝の子であることを知ると、その日を境に、打倒平家を誓って鞍馬山で武芸に励むことになる。昼は仏教を中心とした学問を学び、夜になると密かに寺を抜けだし、鞍馬寺の裏の暗い森(僧正ヶ谷)で武芸に励んだ。鞍馬山で牛若丸に武芸を教えたのは天狗(荒法師)とされているが、鞍馬寺は以前から朝廷とのつながりが強く、貴族化してゆく平家に反感を持っていた。そのため僧侶たちは自分たちの反平家感情を牛若丸に託して武芸を学ばせたのである。

 鞍馬山で仏教を学ぶことは僧侶になることを意味していたが、牛若丸は父の無念を晴らすため平家を撃つことを心に強く決めていた。鞍馬寺の本尊のもとで、密かに平氏討伐を祈願していた。
 鞍馬山で武芸を学び、しばしば洛中に出ては、刀集めなどを行い武芸の実践を試した。このとき出会ったのが武蔵坊弁慶である。

 武蔵坊弁慶は紀伊熊野別当の湛増(たんぞう)が大納言の娘を強奪して産ませたとされている。

 母の胎内に18ヶ月とどまり、生まれた時にはすでに髪は肩まで伸び、歯も生えそろっていたとされている。その後、弁慶は元服前に比叡山に預けられたが、乱暴すぎて追い出されてしまう。

 武蔵坊弁慶は剛勇の僧侶で、京の五條橋に雲突くばかりの入道の姿で毎夜現われた。弁慶は剛勇を示すため、京で1000本の太刀を奪う悲願を立て、道行く武者と決闘をしては刀を取り上げ、拒めば切り捨てた。道行く武士を襲い太刀は999本まで集められた。

 五條の橋は昼の雑踏に比べ、夜は森閑として誰一人通る者はいなかった。弁慶はいつものように姿を現すと、五条大橋の欄干にもたれながら鴨川の流れに映る十五夜の月を眺めていた。あと1本で念願の1000本になると獲物を狙っていると、笛を吹きながら歩いてきた牛若丸と五条大橋で出会った。弁慶は牛若丸が腰につけている見事な太刀に目を止め太刀をかけて襲いかかるが、牛若丸はひらりと攻撃をかわし、弁慶を負かせてしまう。弁慶は身軽な義経にかなわず返り討ちに遭ってしまう。

 弁慶は牛若丸の強さに驚き、また出会えたことを喜び、降参すると牛若丸の家来となることを決意する。武蔵坊弁慶は牛若丸の忠臣になると、義経が平泉で共に死去するまで運命をともにする。

 

奥州平泉

 牛若丸はこのまま鞍馬寺にいれば僧侶になってしまい、出家すれば父の復讐をはたすことはできないと焦りを覚えていた。平家は復讐を恐れ、早く出家させるようにと鞍馬寺に圧力をかけてきた。

 ちょうどその頃(16歳)、奥州の商人・金売吉次と出会うことになる。金売吉次は平泉と京都を行き来して黄金の売買をしていた商人である。金売吉次は商売がら奥州藤原氏と親しかった。奥州藤原氏が源氏に好意的であること、また平家に対抗しうる勢力であることを教えてくれた。

 奥州藤原氏初代の藤原清衡は後三年の役でかつて源義家と同盟関係にあった。

 金売吉次が牛若丸と会ったのは、後白河法皇の命のよるものとされている。金売吉次は、後白河法皇から牛若丸を鞍馬山を出て奥州藤原氏へ預ける役割を託されていた。後白河法皇は平清盛の後継者として牛若丸を考えていた。後白河法皇は牛若丸の力量を知っており、平家が滅んでも清盛の後継者になれると考えていたのである。

 牛若丸金売吉次の話を聞くと「祈願が通じた、この時こそ」と意を決し、翌日、鞍馬寺を出ると平家の監視が及ばない奥州藤原氏を目指すことになる。

 牛若丸の一行は道中で熱田神社(名古屋)に立ち寄った。熱田神社は源頼朝の母の実家で、源頼朝は熱田神社で生まれている牛若丸は秀衡に会う前に元服を済ませたいと願い、熱田神社の宮司のもとで元服の儀式を行い名を源九郎義経と改め、一人前の武士として奥州平泉へ向かった。道中の宿で地元を荒らし回る勇豪を成敗するなどの逸話が残されている。

 奥州藤原氏の第3代の当主藤原秀衡は奥羽随一の実力者で鎮守府将軍に任じられていた。藤原秀衡は義経を匿う危険性を熟知していたが、英雄は英雄を知るがごとく、義経の優れた器量をすぐに見抜いた。藤原秀衡は平凡な息子よりも、義経の力量を重視したのである。西国は平清盛、東国は義経を中心とした奥羽藤原氏によって国を二つに治めようとしていた。藤原秀衡は義経を自分の館のそばに住ませると手厚く配慮した。義経は逞しく成長し、平泉で6年間を過ごすことになる。

 

源平の争い

  義経が平泉で19歳の春を迎えたころ、後白河法皇をはじめとする貴族や武士の間に政治を我が物にする平氏一門への反感が深まっていた。平氏打倒の動きは、1177年6月の「鹿ヶ谷の陰謀」となって表面化する。「鹿ヶ谷の陰謀」は仲間の裏切りよって失敗に終わっるが、3年後に後白河法皇の皇子・以仁王が地方に散らばる源氏に平氏討伐の令旨を送ったのである。

 以仁王は平氏に討たれ本懐を遂げることはできなかったが、以仁王による平氏討伐ののろしは伊豆に流されていた源頼朝のもとにも届き、頼朝旗揚げのきっかけになった。1180年秋、頼朝が伊豆で挙兵したとの知らせが義経の元に入った。

 源頼朝が北条家と挙兵すると、伊豆国の山木兼隆の館を襲い勝利を挙げ、次の石橋の戦いでは僅かばかりの兵に対し、その10倍の兵力で攻められ、命からがら土肥から海路で房総に逃れた。房総の千葉介常胤のもとに身を委ねると、頼朝の挙兵を知った平家に不満を持つ坂東武士が続々と集まってきた。頼朝は千葉氏の教えを受け、鎌倉を本拠地にして勢力を拡大したが、しかしその1週間後には、頼朝追討の宣旨を受けた平家の大群が平成盛を大将にして鎌倉を目指していた。

 1180年10月、源平の両軍は富士川を挟んで対峙した。この富士川の戦いが源平の戦いの始まりになるが、決戦の前夜、何万もの水鳥が飛び立つ羽の音に平家は源氏の敵襲と驚き逃げ出したため、頼朝は戦わずに快勝した。敵を見て敗走することはあるが、水鳥の音を聞いて敗走したことは「聞き逃げ」として遊女たちの笑いの種になった。

 頼朝は敗走した平家軍を追って京に上り全面対決するかどうか迷っていた。しかし頼朝の有力な御家人である千葉介常胤や畠山重忠は京に攻め上る前に、まず東国で強固な権力地盤を築くべきと諌めた。頼朝が東国の武士の大将になってからまだ日が浅く、東国でも平家を支持する豪族がいて基盤が軟弱だったからである。頼朝が東国武士の大将となれたのは単に血筋から祭り上げられたにすぎなかった。東国武士の気まぐれから離反する武士が出てくる可能性があった。武士による政権を東国に樹立して固めることがまず肝腎だった。

 

頼朝との対面

 この富士川の戦いの翌日、引き上げる途中の黄瀬川(静岡清水町)の陣中に、義経は藤原秀衡の配下の佐藤忠信兄弟ら80騎とともに馳せ参じた。頼朝には関東の御家人を味方につけたが身内の家臣はいなかった。頼朝は初めて見る義経の手を取り「よくぞ訪ねてきてくれた」と、涙を流してふたりは打倒平家を誓いあった。

 東国武士の棟梁になるためには血筋だけでなく、実力をともなう象徴性が必要であった。東国武士団の比類なきリーダーであることを内外に見せ付けるためには義経を弟として特別扱いするわけにはいかなかった。しかし義経はこの「東国武士の団結最優先」の真意を察せなかった。義経は政治的な駆け引きに疎かったのである。

 この年、頼朝は関東での勢力を固めるため鎌倉の鶴岡八幡宮を移築した。その鶴岡八幡宮の上棟式で、義経と他の家来に宮大工の馬の引き役を命じた。義経にすれば、他の家来とは違うという思いから、同格扱いを嫌がり馬引きを断った。しかしこれを知った頼朝は激怒し、あまりの剣幕に義経はおとなしく引き受けることになった。頼朝にとっては誰が絶対的トップなのかを示す必要があった。弟だからといって義経を特別扱いすることはなかった。

 頼朝の挙兵から1ヵ月後、木曽(長野)でも従兄弟の木曽(源)義仲が蜂起して快進撃を続けた。その連戦連勝から「朝日将軍」の異名がつけられたほどであった。木曽義仲は倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を殲滅すると、その勢のまま京都を目指し、平家を「都落ち」に追い込んだ。しかし戦いに次ぐ戦いで兵士たちは疲れきっていて、しかも西国は飢饉で食料が少なく、義仲軍兵のモラルは完全に崩壊していた。義仲軍は都一帯で民衆への略奪や暴行を繰り返し「平家の方がマシだった」と民衆は失望と反感を持つようになった。

 木曽義仲の狼藉をみていた後白河法皇は、頼朝に「上洛して義仲を討て」と密かに院宣を出した。頼朝は義仲軍の狼藉を「源氏の恥」と捉えて討伐を決意した。

 しかし頼朝は義仲軍に勝っても負けても、後白河法皇に利用されることを恐れ、自分は鎌倉を動かず弟の範頼(のりより、義経の異母兄)を大将に大軍を派遣することにした。

 さらに状況を把握する為に先遣隊として義経軍を伊勢に派遣した。義経は鎌倉を出陣するとき、まさかこれが鎌倉の見納めになるとは夢にも思わなかった。

 なお「院宣」は法皇の命令書で「勅書」は天皇の命令書、「令旨」は皇太子や親王の命令書で、いずれも公文書によるに命令であった。

 1184年、義経(25歳)と範頼は伊勢で合流して都を目指した。迎え撃つ木曽義仲は増水した宇治川の橋を落として対峙するが、義経軍は宇治川を果敢に突破し、義仲軍を蹴散らした(宇治川の戦い)。義経は初陣で見事に勝利を飾り京の人々から喝采を受けた。

 

源平の戦い、義経の終末

 鎌倉に、平家との最後の戦いである壇ノ浦の大勝利の報告が入った。頼朝は義経に恩賞を与えようとしたが、源範頼と梶原景時から義経に関する抗議の書状が届いた。

 源範頼は義経に対し「頼朝に報告もせず、何でも独断で物事を進める。あまりに家来に厳しく些細なミスでも処罰する。また自分に一任された九州の管理に介入してきた」と訴えた。梶原景時は「高慢なので誰も心から従っていない。手柄を自分一人のものとしている。頼朝より法皇を重んじ、24名の家来が義経の真似をして勝手に官位を受けた。私が忠告すると、私まで処罰しようとした」と激しい怒りをぶちまけた。頼朝はかつて石橋の戦いで梶原景時に命を救われたことがあり、これらの中傷を信じてしまう。義経は戦いの天才であったが、同僚への配慮が欠けていた。

 頼朝は義経をどう処断すべきか考えた。確かに義経はよくやったが、大切なのは東国武士団の団結である。結束を乱すスタンドプレーがこのような深い亀裂を残した。将兵たちに規律を守らせる為に、ここは厳しく罰する必要があった。頼朝は義経に対し決断を下した。

 

三種の神器

 平家政権は清盛一代の政権であった。平家政権が短命で終わったのは、平清盛は武士という階級でありながら貴族と変わらない政治手法をとったからである。平安時代はすでに400年近く経っているのに、平家一族で政権の中枢を占め、清盛は天皇の祖父となったが、そのような貴族の政治システムは新しい武士の時代に合わなかった。 源義経は周知の通り天性の戦上手で、平家の合戦で連戦連勝し、壇ノ浦で平家を討ち滅ぼし、源氏の中で最大級の戦功を挙げた。この義経の類まれな戦術による勝利の功績は大きいが、義経は天皇の証明となる三種の神器を取り戻せなかった。このことに頼朝は激怒したのである。

 頼朝にとって、父の仇を滅亡させた義経の功績を評価しないはずはないが、頼朝は自分の感情よりも武士全体の利益を考えていた。義経は平家を滅亡に追い込んだが、それは「武士のための政治」を実現させるものではなかった。頼朝は朝廷を動かして「武士のための政治」を実現させるための切り札として三種の神器を考えていたのである。

 後鳥羽天皇を即位させた「治天の君」の後白河法皇も、三種の神器がなくては後ろめたさがあった。頼朝は三種の神器を自らの手で取り返し、後白河法皇に引き取らせ、武士の要求を認めさせようとしていた。義経は頼朝のこの政治的考えを理解していなかった。平家滅亡に気をとられ三種の神器の重要性に気づかなかった。三種の神器は清盛の未亡人が抱えて、安徳天皇とともに海の中へ消えたのである。

 頼朝は全国の海女を動員して三種の神器を探させ、勾玉(まがたま)と鏡を取り戻したが、草薙の剣は海の底に沈んだままであった。これでは後白河法皇への切り札にならなかった。

 

 義経の致命的ミス

 さらに義経は致命的なミスを犯してしまう。頼朝の許可なく後白河法皇から京都の治安維持を担当する検非違使の官職を勝手に受けてしまったのである。任官後の義経は「九郎判官」と呼ばれ、これが後に「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉を生むことになる。この義経の「頼朝の許可なく朝廷からの任官を受ける行為」は、頼朝のそれまでの努力を逆なでにした。

 頼朝が目指す「武士のための政治」は、朝廷から独立した武士政権を確立することで、武士政権の独立性を確保するには、武士の人事権が頼朝になければいけない。頼朝の承認もなく、朝廷から官位を授かることは、頼朝の権威をつぶすだけでなく「武士のための政治」を壊す行為だった。それを義経があっさりと朝廷から官位を受けたのだから、頼朝の怒りは当然であった。武士が仕えるのは、肩書きを与える主人のためである。義経が検非違使という肩書きを後白河法皇から授かったことは、頼朝の家来であるが、後白河の家来であることを同時に意味していた。頼朝は「必ず私の許可を得よ」と厳命していたが、義経は勝手に官位をもらったのである。ここに後白河法皇の源氏同士の仲間割れの策略があった。

 この後、多くの家臣が「弟の義経様が受け取るのであれば」と朝廷から次々と任官を受けた。このことに対する頼朝の嘆きや怒りは凄まじいものであった。しかし義経は三種の神器と同様、自分の大きなミスに気づいていなかった。

 頼朝に許しを乞うた「腰越状」においても、官位は名誉として受けたと記し謝罪の意志を示していない。後白河法皇が義経に官位を授けたのは、兄弟の不和をあおるためで、頼朝の独占を排除するためだった。後白河法皇の政治的知恵であったが、義経は法皇の意図を理解していなかった。頼朝に送った手紙のなかで「自分が朝廷の任官を受けることは、源氏一族にとって名誉なことではないですか」と書いているくらいである。義経は生け捕りにした平家の残党を引き連れて京へ凱旋し、平家の没落を間近に見た民衆から喝采を浴びでいた。

 ここに「政治家」の頼朝と「軍人」の義経の考えの落差があった。この二人の間を取り持つ人材がいなかったことが、お互いの意思の疎通を失わせ、兄弟対立を生む結果になってしまう。さらに義経は平家の一族である平時忠の娘・夕花を本妻(静御前は妾)にしたことが源頼朝をいっそう怒らせた。

 平家との戦いに勝つには、天才的で強引な作戦が必要だった。しかし源義経は戦上手であるが故に、独断専行で功績をひとりじめにしすぎてしまった。功績をひとりじめにすれば、他の武士たちの功績が目立たなくなってしまう。武士は功績のために戦うのである。そのため他の武士たちは源義経に反感を抱いていた。もちろん多大な功績を上げた義経をやっかむ武家たちもいた。

 ここで武士たちは、源頼朝を自分たちの棟梁として厳しい目で見ていた。そのため源義経を特別扱いにするわけにはいかなった。特別扱いをすれば、平家一族だけを大切にした平家と同じになってしまう。武士たちの心が源氏から離反させないためには、身内により厳しくしなければいけなかった。

義経の間違い

  鎌倉に大勝利の報告が入った当初、頼朝は弟に恩賞を与えようとしていた。だが、源範頼と梶原景時から義経に関する抗議の書状が届いていた。範頼は「頼朝に報告せず何でも独断で物事を進める」「あまりに家来に厳しく些細なミスで処罰する」「自分に一任された九州の管理に介入してきた」と訴え、景時は「高慢なので誰も心から従っていない」「手柄は自分一人のものと考える」「法皇を頼朝より重んじる」「24名の家来が義経の真似をして勝手に官位を受けた」「私が忠告すれば私まで処罰される雰囲気」と激しい怒り(というか憎しみ)をぶちまけた。頼朝はかつて戦場で景時に命を救われたことがあり、これらの中傷をまともに信じてしまう。
 頼朝は考える。弟をどう処断すべきか。確かによくやってくれたが、新時代に向けて大切なのは東国武士団の絶対の団結だ。結束を乱すスタンドプレーがこのような深い亀裂を残した。将兵たちに規律を守らせる為に、ここは厳しくする必要がある。頼朝は決断を下した。「許可なく官位を受けた24名は鎌倉を追放」「頼朝に忠を尽くす者は、今後、義経に従ってはならぬ」。

腰越状

 義経は宗盛を鎌倉へ護送しつつ気分は凱旋気分だった。弁明書さえ届けばこんな誤解はすぐ解け、功績を讃えてくれると信じきっていた。ところが、鎌倉の一歩手前で「鎌倉へ入ることまかりならぬ。しばし待て」と警備に足止めされてしまう。腰越で兄の怒りが解けるのを待つが、半月経っても音沙汰なし。義経はもう一度筆をとり「腰越状」を記す。 仰天したのは義経。裏切る気持ちは全くないと弁明書を鎌倉に送った。だが、これがマズかった。この時点で会いに行くべきだった。頼朝は「これまで官位の件など何も報告して来ないのに、こんな時だけ送ってくるとは。それもわずか一通!これで済ませるつもりか」
 義経は宗盛を鎌倉へ護送しつつ気分は凱旋モードだった。弁明書さえ届けばこんな誤解はすぐ解け、功績を讃えてくれると信じきっていた。ところが鎌倉の一歩手前で「鎌倉へ入ることまかりならぬ。しばし待て」と警備に足止めされてしまう。腰越で兄の怒りが解けるのを待つが、半月経っても音沙汰なし。義経はもう一度筆をとり「腰越状」を記す。頼朝の檄怒に驚いた義経は、裏切る気持ちは全くないと弁明書を鎌倉に送った。だが頼朝は「これまで官位の件など一度も報告していないのに、こんな時だけ
弁明書を送ってくるとは、それもわずか一通、これで済ませるつもりなのか」と許さなかった。
 義経は捕らえた平宗盛を鎌倉へ護送して、英雄として鎌倉に凱旋するつもりだった。弁明書さえ届けば誤解はすぐに解け、功績を讃えてくれると信じていた。ところが鎌倉の一歩手前の腰越で「鎌倉へ入ることまかりならぬ。しばし待て」と足止めをくらってしまう。腰越で兄の怒りが解けるのを待つが、半月経っても音沙汰はなかった。

 義経はもう一度筆をとり「腰越状」を書いて大江広元に取りなしを頼んだ。

「当然恩賞があるべきはずのところ、恐ろしい讒言(悪口)によって、莫大な勲功を黙殺されたばかりか、義経は罪もないのにお咎めを受け、ただ為すすべもなく血の涙を流しております。事実を調査せず、鎌倉の中へさえ入れず、私の思うところを申し上げることも出来ず、むなしい毎日を送ってまいりました。このような事態に至った今、兄上の顔を見る事も出来ないのならば、骨肉を分けた兄弟の関係が既に絶え、前世からの運命も極めて儚く、縁は何の役にも立たないのであります。亡き父以外に、誰が私の悲しい嘆きを申し開いてくれましょう。誰が憐れみをかけてくれましょうか」

 頼朝の代わりに平家を追討したのに、なぜ罪人扱いなのか。腰越状には「検非違使の任官は源氏にとって名誉」と書かれていた。義経は自分の非がわからなかったのである。この腰越状を読んだ頼朝は胸を動かされ、京都に帰して少し様子を見ることにした。

 義経は真心を込めた腰越状が無視されたと思い込み、腰越を去る時に「この恨みは平氏への恨みより深い、頼朝に恨みがある者はついてこい」と悪態をついてしまう。この悪態はすぐさま頼朝に伝わり、義経に与えた平氏の旧所領24ヶ所をすべて没収する命令がだされた。 

 さらに怒りが収まらない頼朝は「二度と鎌倉には入るな」「許可なく官位を受けた24名は鎌倉を追放し、頼朝に忠を尽くす者は、今後、義経に従ってはならぬ」と一方的に突き放した。

 

去る義経

 義経は近江で平宗盛を斬首し、義経の配慮で宗盛父子の胴は一つ穴に埋葬された。都に入ると野心あって頼朝と対立していた叔父・源行家が「こうなれば西に独立国を造りましょう」と接近してきた。頼朝は景時の子・景季を都に送り、義経と源行家が手を組むかどうかを調べさせていた。

 頼朝が「源行討伐令」を伝えて反応を探ると、義経は今は病気なので、治り次第に作戦を練るとの返事であった。頼朝は義経が行家と内通し時間稼ぎをしていると見なし、義経追討を決意する。
 4ヶ月後、義経は刺客60騎の襲撃を受け、頼朝との関係は修復不可能と悟り、行家と結んで挙兵に踏み切った。頼朝は義経の領地をすべて取り上げ暗殺までしかけ、義経は頼朝と全面対決を決意するようになる。後白河法皇に頼朝追討の発令を求め、従わないなら皇室全員を引き連れ九州で挙兵すると告げたため法皇は「頼朝追討」の宣旨を下した。しかしその直後、朝敵にされて怒った頼朝が6万の大軍を都に送ると聞くと、後白河法皇は態度を変えて、頼朝に求められるまま「義経追討」の宣旨を下した。このあたりが後白河法皇が「日本一の大天狗」と頼朝に言われる由縁である。
 源義経は味方の武士が200騎しか集まらないことに焦った。恩賞として与える所領がなかったからである。義経は西国で再起を図るべく大阪湾に出た。しかし平家の呪いと言われるほどの暴風に吹き晒され、元々少なかった家来とさらに離れ離れになった。

 このまま京にいることに危険を感じた義経は、西国支配の宣旨が下されるのを待って、西方を目指すことにした。1185年11月3日、総勢1万5000騎のうち、義経や叔父の備前守・源行家、狩装束に身を包んだ静御前など一行500人は大船で海路を行き、残りは陸路で都落ちをした。「義経記」に、この折の思いが次のように記されている。「荒磯かけて漕ぐ時は、渚々になく千鳥、折りし顔にぞ聞えける。霞へだてゝ漕ぐ時は、沖に鴎のなく声も敵のときのこゑかと思ひける」
 しかしながら、嵐のため船を思いの通りに進められず、漕ぎ出した摂津(兵庫県)の浜に押し戻される始末であった。こうして、待ち構えていた頼朝の軍勢と戦うこととなったが、嵐で軍備や兵に痛手を受けながらも家来の活躍を得て勝利に持ち込んだ。これにより、頼朝の追跡の手が更に厳しくなることが予想されたため、義経は家来の行く末を案じ多くをゆかりの地へ帰還させ、自身は、静や弁慶・佐藤忠信らわずかな手勢とともに吉野山を目指すこととなった。このとき「都に春は来れども、吉野はいまだ冬ごもる」季節で、吉野の谷川には氷さえ見えた。

静あわれ
 静を伴って吉野に着いたが、慣れない山越えの道中で疲れ果て、そのうえ義経の子をはらむ身であった。そこで義経は静を京に返す決心をし、数人の家来をつけて山を下らせた。義経は別れ際に小鏡を静に手渡し、これを朝晩わたしと思ってながめるように言い聞かせると、静は「涙に暮れならが、見るとても嬉しくもなします恋しき人のかげをとめねば」と詠み、吉野山を下って行った。
 山を下る途中、静は義経から貰った財宝を家来たちに持ち逃げされ途方に暮れているところ、山中で頼朝の追っ手に捕らえられてしまった。静は、吉野から鎌倉に連れて行かれ男子を出産したが、生まれたばかりの赤ん坊は、頼朝の命により海に投げ落され、殺された。悲しみに沈む十九歳の静は、髪を剃りお経を読んでわが子の成仏を願っていた。その後の静の行方は諸説あってはっきりしない。

義経、吉野を下る
 山中で静が捕らえられたことにより、義経が吉野に潜んでいることを察知した僧徒たちは、「義経殿は吉野にいる。いざや寄せて討ち取りて、鎌倉殿の見参に入らん」と意気込んだ。それは義経が吉野に潜むことが頼朝に知れれば、追手がきて寺は焼き滅ぼされてしまう。義経が敵というわけではではないが、焼かれる前に義経を討ち取るほかに手はないということだった。僧徒が打ち鳴らす不気味な鐘の音を聞くと、弁慶は義経の制止を振りきり様子を見に山麓まで下った。
 大日堂から眺めると僧徒達は南大門に集まり詮議をしているところで、総勢百人はいるだろうと思われた。冑の緒をしめ、弓、長刀(なぎなた)を手に攻め上がろうとしていた。弁慶の報告を聞き、山の地理を知り尽くした僧徒相手では勝ち目がないと判断した義経は、吉野の山を離れることを決心した。

 このとき佐藤忠信から申し入れがあり、忠信を含め七人の家来が僧徒を待ち伏せして戦い、義経らが無事に逃げ延びる手助けをすることになった。義経一行は、屋島の合戦で散った佐藤継信を思い、そして弟・忠信との今生の別れを予感しつつ無言のまま吉野を下って行った。佐藤忠信とともに残った中には、奥州から共に馳せ参じた五十人の内、わずかに生き残った五人の兵が含まれていた。佐藤忠信は敵方きっての曲者・覚範を死闘の末に討ち取り、高々と首を翳(かざす)すと、僧兵たちは「覚範さへもかなはず、まして我等さこそあらんず、いざや麓に帰りて、後日の詮議にせん」と言って戦場から消えていった。他の家来はすべて討ち死にし、佐藤忠信は一人京に戻るが、1186年1月6日、六條堀川の判官館に潜むところを頼朝の軍勢に襲われ、壮絶な自刃を遂げている。この時忠信28歳であった。

奥州平泉に落つ
 吉野を下った義経主従は、その後、頼朝方の目から逃れるため奈良や京都で散り散りに身を隠したが、このまま隠れ居を続けても事態を好転できる望みがなく、義経は奥州平泉へ逃げることを決意した。

 頼朝が敷いた広く強固な包囲網のため、義経の逃避行に用意された地は藤原秀衡が統治する平泉を措いて他になかった。家来たちは一人の心変わりもなく参集し、1187年2月、山伏のいでたちに身を包み北へ旅立った。山伏の連には、義経の奥方・北の方とその守役・兼房の姿があった。

 義経と繋がりのある女性といえば静御前ばかりが注目されるが、実は正妻の郷(さと)御前も特筆に値する女性だった。奥州で義経は家族3人で幸せに暮らしているが、これは郷が幼い娘を連れて、はるばるやって来てくれたからである。義経が頼朝との戦を決心した時に、郷は一度離縁され、故郷の武蔵国に帰るよう言い渡されていた。これは謀反人の自分と結婚していたら、郷の実家・河越氏に害が及ぶと心配したからである。しかも乳児がおり、過酷な逃避行の道連れは困難だった。もともとこの縁組は頼朝が取り決めたものであり河越氏に咎めがあるのも変な話であるが、郷の父は領地を没収され、兄は出仕停止の処分を受けている。つまり郷は離縁されたのに実家に戻らず「自分は正妻だから」と本人の意思で奥州へ向かったのである。初めは政略結婚でも最後は心から愛し合っていたのである。

 

勧進帳

  源義経は追われる身になった。しばらく近畿周辺に潜伏していたが、包囲網が狭まったことを悟り奥州へ向かうことにした。東海道は便利で最も近い道であったが、監視の目が厳しかった。そこで北陸道を通って敦賀湾から船で出羽に向かうため、総勢16人は山伏の姿に身を変えた。弁慶を先頭に63歳の老人増尾十郎兼房、少年山伏の姿に変えた北の方(義経の奥方)も含まれていた。

 しかし山伏の姿の姿で義経が京都を出たことが噂されていた。頼朝は義経の動きを察知し、各地の関所に監視を厳しく行うように命令した。義経一行は野宿をしながらやっともことで愛発山(あらち)にたどり着いた。北の方は両足から血を流し見かねた山伏たちは交代で背負って歩いた。

 愛発山を越え、加賀国の安宅の関(石川県小松市)にたどり着くと、北陸随一の知将・富樫泰家が関守として厳重な警戒に当たっていた。引き返すこともできず、山伏姿に変装した義経一行は、武蔵坊弁慶を先頭に思い切って安宅の関を通過しようとした。義経一行を疑った富樫泰家は尋問を始めた。

 すると弁慶が進み出て「焼失した東大寺の復興のための勧進として諸国を廻っている」と説明した。すると富樫泰家は「勧進のためならば勧進帳があるはず、それを見せろ」とせまった。弁慶は機転を利かし、白紙の勧進帳を読み上げた。なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問いただすが、弁慶は淀みなく答えてしまう(山伏問答)。

 富樫は通行を許すが、通過しようとしたとき、関所の番卒が強力姿の義経に気づき絶体絶命になった。その瞬間、弁慶は富樫に疑念を晴らすため「義経に似ているとは何事か、お前のためにどれだけ迷惑したか」と金剛杖を手に持ち、義経をこれでもかと何度も打ち据えた。富樫は「主君を打ち据えてまでもその命を救おうとする弁慶の苦衷」を察し,義経一行と知りながら通行を許した。

 その後、生涯泣いたことのない弁慶が義経に駆け寄ると、いかに富樫を欺くためとはいえ、主君を打ち据えた罪の大きさに、頭を垂れて大声で泣き詫びた。弁慶ほどの剛の者が泣く姿をみて、義経は弁慶の智謀と自分を思う気持ちに「機知の働きは天の加護」と感激し、その労を厚くねぎらった。

 その後、富樫左衛門は源頼朝の怒りを受け、切腹のところを死一等免じられて安宅の関・守護職を解かれた。しばらくして富樫左衛門は一族と共に平泉に赴き義経と再会した。平泉にしばらく留まるが、その後は安宅の関のあった今の石川県石川郡野々市町に戻り出家して仏誓と名乗り天寿を全うした。

 一行は、手配られた追手方をどうにか振りきり苦心惨澹(さんたん)の末、平泉に到着した。このとき、主従を纏う山伏の装束は風雨に痛みぼろぼろになっていた。秀衡は義経主従の平泉入りをおおいに歓迎し、義経を大将にいただき頼朝と一戦を交える覚悟があることを諷した。頼朝は、脅し文句を綴った書簡を送り付け平泉を牽制したが、秀衡は動じることなく義経をかくまい続けた。

 

兵どどもが夢のあと

 頼朝に追われ義経を受け入れたのは、奥州藤原氏の秀衡である。秀衡は平泉にたどり着いた義経を歓迎し、義経や家来を衣川河畔の藤原基成の邸宅に住まわせた。藤原秀衡には、源平の合戦を乗り切ったしたたかな作戦があった。

 藤原秀衡は清衡、基衡と続いた奥州藤原氏の権力を強固なものにして、奥州の支配体制を確立させていた。源平の争いにおいても、独立勢力として巧妙な外交を展開した。平宗盛が奥州藤原氏を関東に進出させ、 源氏を包囲しようとすると「今、立つところ」「もう白河を越えている」と京に伝え、実は一歩も平泉を出ていなかった。鎌倉に対しては中立の立場を主張して、頼朝を牽制することで平家への義理をはたし、源平の争いでは両面作戦をとった。

 義経が平泉に逃げたことは頼朝の元にも届けられた。天才戦略家・義経が平泉を拠点に態勢を整え鎌倉を攻めてきたらどうなるかわからない。そう考えた頼朝が、すぐにでも平泉に攻めてくる可能性があった。それでも秀衡が義経をかくまったのは、奥州藤原氏が鎌倉政権から独立した勢力で、また頼朝と対峙する勢力がことごとく潰されているのを見てきたからである。遅かれ早かれ、鎌倉が奥州進出を目指してくると予想していた。

 義経という当代きっての戦略家を抱えていることは、頼朝の奥州進出の決断をためらわせる効果を持つ。またもし戦いが始まつても、義経が味方なら逆に鎌倉を攻めることも難しいことではないと考えていた。

 頼朝の使者の追及をのらりくらりとかわし、その間に義経と極秘の鎌倉侵攻作戦を計画していた。その計画とは、まず秀衡が大将軍として第1軍を率いて下野国に入り、那須野に布陣して野戦に挑む。これは鎌倉軍の主力を那須野に集結させる作戦であった。その間、第2軍は越後に入り、信濃から甲斐に進み、相模国南部に鎌倉攻撃の陣を敷く。さらに義経を将軍とする第3軍が浜通りから常陸国に入り、主力は迂回して南から那須野に迫る。また義経が率いる兵は、密かに久慈湊(くじみなと)から船で南下して夷隅湊 (いすみみなと)に上陸して房総半島を横切り、天羽湊(あまはみなと)から鎌倉に向かつて出発する。そして精鋭部隊のみが鎌倉幕府の小御所を襲い頼朝を討つというものであった。

 この綿密な計画は実行されるはずだった。だが計画から間もなく秀衡は病に倒れ、息子の国衡と泰衡に「義経を主君に、協力して頼朝を攻撃しろ」と言い残して亡くなった。このようにして鎌倉侵攻計画は頓挫し、奥州藤原氏は座して滅亡を待つことにとなる。

 

秀衡臨終
 しかしここで義経の運命を大きく揺さぶる事態が生じた。都落ちから1年も経たないのに義経を強力に支援してくれた藤原秀衡が病に倒れたのである。秀衡は遺言で息子の泰衡に「義経を将軍に立て鎌倉に対抗し、彼の命を全力で守れ」と残した。奮い立った義経は再起を図って西国の武将に決起を促す使者を送ったが、この使者が鎌倉側に捕まり、逆に義経が奥州に潜伏していることが分かってしまった。

 藤原秀衡は頼朝と朝廷の双方から義経の身柄を引き渡すよう命じられたが、頑なにこれを拒否して義経を守って病死した。義経は秀衡の死という予期せぬ事態に絶望し慟哭した。義経は「ただ義経が運のきはむる所」と深く歎き、「義経記」には肩を落とす義経の様子が「同じ道にと悲しみ給へども、空しき野辺にただひとり、送り捨ててぞ帰り給ふ」と綴られている。秀衡の死は、秀衡と頼朝との間に確執が生じていたことや、一族に秀衡ほどの統治能力をもった子弟がいないことなどから、奥州防衛上、最大の危機が迫っていることを意味した。秀衡は兄弟力合わせて難局を凌ぐように遺言して果てたが、その願いとは逆に義経の扱いをめぐって兄弟間にのっぴきならぬ対立が生じ、藤原一族の結束は一気に弱体化した。

 頼朝は再三にわたって泰衡に圧力をかけた。義経さえ除けば全てが解決するような圧力のかけ方をした。父・秀衡に比べ政治家としての経験に乏しかった泰衡は、まんまとこれに乘ってしまう。さいわいにも秀衡がなくなったが義経がいた。衣川の合戦で義経を討ったのは秀衡に守るべく言われていたが、これは頼朝に奥州制圧の格好の機会を与えることになった。

 藤原秀衡が死去すると、業を煮やした頼朝は泰衡に対して大軍を送ると脅迫し、奥州藤原氏の滅亡を恐れた泰衡はついに頼朝に屈した。

 

高館の戦い
 それはおよそ1ヶ月後の4月30日の朝のことだった。藤原泰衡は家来の長崎太郎を大将に500騎の軍勢で義経の居館高館(衣川館)に攻め込んできた。兼房と喜三太は屋敷の上に駆けあがり、引き戸の格子を楯にして弓矢を次々と射ち放った。

 屋敷の大手門には弁慶、片岡八郎、鈴木三郎と亀井六郎の兄弟、鷲尾三郎、増尾十郎、伊勢の三郎、備前の平四郎の8人が立ちふさがった。常陸坊など11人は朝から山寺参りに出向いてまだ帰っていなかった。弁慶は、鎧をまとい大長刀の真ん中を握って立ち構えると「囃し立ててくれ、殿原達。東の方の奴原にいいものをみせてやる。わしはこう見えても若い頃、比叡山で詩歌管絃を許されていた。一手舞って奴原に見せてやるわい」と言い、鈴木三郎、亀井六郎に囃させて踊り出した。
 うれしや瀧の水 鳴るは瀧の水 日は照るとも絶えずとふたり 東の奴原が
 鎧兜を首もろともに 衣川に切流しつるかな
 寄せ手の一人は、判官殿には剛の者がいる。寄せ手が500騎で攻めているのに、城にはたった10騎ばかり。それでもああやって踊っているんだから、と呆れ顔で言った。弁慶は舞を終えると「東の方の奴原に、手並みの程を見せてくれようぞ」と言って長刀をふるい、鈴木三郎と亀井六郎の兄弟は太刀を冑の真っ向に構え、轡をならべて敵方に攻め込んだ。すると寄せ手がさっと退いた。
 鈴木三郎は弓手に二騎、馬手に三騎切り伏せ、七、八騎に手負わせたが、自らも致命的な痛手を受け、弟の亀井の六郎に「犬死にするな」と言い残して自刃して果てた。亀井六郎は「奴原はわしの弓の力を未だ知るまい。初めて見せてくれようぞ」と言い残して弓矢を射ちまくり三騎討ち取り、六騎に手を負わせたが、切り込まれ自刃した。備前の平四郎と増尾十郎も討ち死にした。
 片岡八郎と鷲尾三郎は一つになって戦っていたが、鷲尾は深く攻められて死に、そこへ入ってきた弁慶と伊勢の三郎と三人で敵陣深く攻め入った。伊勢の三郎は深手を負って「暇乞(いとまご)いをして死出の山で待っている」と言い遺し首を垂れた。
弁慶は喉笛を打裂かれ、全身を赤く染めながら、威風堂々の戦いを見せていた。

 弁慶が持仏堂に入ると義経は静かにお経を読んでいた。弁慶が「軍はかぎりになりて候。備前、鷲尾、増尾、鈴木、亀井、伊勢の三郎、各々軍思ひのままに打死し。今は弁慶と片岡ばかりである。限りにて候ふ程に、君の御目に今一度かかり候はんずる為に参りて候。君御先立ち給ひ候はず、死出の山にて御待ち候へ、弁慶先立ち参らせれば、三途の河にて待ち参らせん」と言うと、義経は「今一入名残の惜しきぞよ、死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に留めんとすれば、御方のおのおの討死する。自害の所へ雑人の入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力及ばず、假令我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば誠に三途の河にて待ち候へ。御経も今少しなり、読み果つる程は死したりとも我を守護せよ」と続けて言った。
 弁慶は御座する所の御簾(みす)をそっと引き上げ、義経に別れを告げた。義経の目に、むせび泣く弁慶の姿が映った。敵の接近する音を近くに聞くと弁慶はあわてて立ち去ろうとしたが、すぐに戻って、六道のみちの巷に待てよ君おくれ先だつならひありともの歌を詠み、死後にふたたび会う約束を交わすと、義経は「後の世もまた後の世もめぐりあへそむ紫の雲の上まで」と返歌して慟哭した。
 弁慶が戦に戻ると、片岡は傷を負い精魂使い果たしたかのようにぐったしていた。もう、腕も肩も限界だった。片岡は、もうこれまでと自らの手で刀を深く刺した。

 

弁慶の最後
 義経の手勢は弁慶、屋根で弓を引く兼房と喜三太の三人のみだった。弁慶は血に染まりながらも最後の力を絞って長刀を振るった。人馬の区別なく、狂ったように手当たり次第に長刀を切りつけ戦場に血の雨を降らせた。黒羽、白羽、染羽など、弁慶が受けた矢は数知れず、前身が矢だらけになりながらも縦横無尽の動きを見せていた。とそのとき、弁慶は、一度大きく長刀を振って敵を打ち払い、長刀を逆さまに突き立て、仁王立ちに成った。弁慶の動きが止まった。まさに仁王のようになり、一口笑ったかと思うと微動だにしなくなった。寄り手は、気味悪がって近づかない。寄り手の一人が言った。「剛のものは、立ちながら死ぬ事があるというぞ。だれか行って確かめて来い」が、誰も近づこうとしない。その時、一人の武者が弁慶の身体に馬を当てた。
「弁慶が倒れた!」長刀をしっかり握ったままで息まだあるかに見えたが、このとき、弁慶は既に昇天していた。
弁慶は、命が絶えようとしたとき義経の最後の言葉を思い出していた。
「私が自害するところに下賎の者が入れば、武士の恥となる。お経も今少しで読み終える。読み終えるまでの間、おまえが死んだとしても、私を守護しなさい」弁慶の大往生は「死んでも殿の自害を守る」弁慶の最後の奉公だったのである。そのころ、兼房と喜三太は櫓の上から飛んで下りたが、喜三太は首を射られ失せていた。

 

義経の最期
 義経は「もはやこれまで」と持仏堂に入り読経を読みおえると、一人残った兼房に自害の時を告げた。義経は幼少のころ鞍馬山で授かった守刀を取り出すと、刀を身体深く突き刺した。
 義経の命により、兼房は「北の方」の右脇に刃をあてた。五歳になる若君は、兼房の首に抱きついて「死出の山とやらに早々参らん。兼房急ぎ参れ」と言うと、兼房は前後不覚になりながら、泣く泣く言葉に従った。敵はすぐの処に寄せており、もう一刻の猶予もならなかった。念仏を唱えながら生後七日の姫君を母のもとに送った。

 兼房は屋敷の中を駆け回り急ぎ火を付けると、鎧を脱ぎ捨てて腹巻の上帯をぎゅっと固め、屋敷内に控える敵将との最後の戦に臨んだ。兼房はまず大将長崎太郎に切ってかかった。老兵の必死の思いが天に通じたか、長崎太郎は馬ごと地面に倒れ込んだ。兼房がここぞと押さえ込みとどめを刺した。その時、弟の長崎次郎が馬上から兼房に切りかかった。兼房はすこしもひるまず敵を引き落とすと、素早く左脇に抱え込み「ともに死出の山へ」と言うと燃え盛る炎の中に消えた。

 

平泉の陥落
 平泉の高舘で自刃した義経の首は鎌倉へ送られたが頼朝は首実検をせず、代わりに梶原景時、和田義盛にさせた。確認後に首を鞍馬時代の師・聖弘上人が貰い受け、神奈川・藤沢の白旗神社付近に埋葬された。

 藤原泰衡は誇らしげに義経の首を頼朝のもとに届けたが、届けた家来は褒美を期待していたが頼朝はこの家来たちを切り捨てた。泰衡は吉報を待ったが、義経をかくまった罪により自ら出向いて奥州を征伐するという容赦のないものだった。頼朝は罪人をかくまったことをあげつらい、勅命を得ないまま藤原泰衡追討のため鎌倉を立った。

 泰衡は頼朝に「義経を助けかくまったのは父秀衡で、私はその経緯を知らない。父の死後あなたの命令で義経を討ち取った。それは功績というべきであり、私には罪がないのに征伐するのは何故か」と書簡を送ったが聞き入れられず、1189年7月19日、頼朝は大軍を率いて鎌倉を発った。

 藤原泰衡は奥州藤原氏を守るべく衣川の合戦で義経を討ったが、義経を討ったことが頼朝に奥州制圧の格好の機会を与えることになった。これまで奥州侵攻をためらわせていたのは義経がいたからであった。源頼朝は奥州藤原氏を常に狙っていた。頼朝の父祖もこの地を支配しようとして、野望を果たせずに死去している。奥州制圧は源氏の宿願だった。源氏の全国支配を確立するためには、奥州藤原氏を絶対に制圧していなければならなかった。

 平泉に入ると藤原泰衡の降伏を頼朝は拒否したため、9月3日、泰衡は居館に火を放って北へ逃れたが、従田次郎に討たれ奥州藤原氏は滅亡した。泰衡の首は志和郡(岩手県紫波郡)に滞在していた頼朝のもとに届けられた。泰衡の首は現在、中尊寺金色堂に清衡、基衡、秀衡の遺骸とともに納められている。

 

 

静御前

 源義経の愛妾「静御前」は白拍子(歌い舞う高級遊女)で、生来から際立った美貌だった。その生涯は不明の点が多いが、伝承によると「干ばつが続いていたため、後白河法皇が白拍子100人に雨乞いの舞を舞わせ、99人までが舞っても雨が降らなかったが、100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたとされている。 

 義経は兄の頼朝と不仲になり、義経が京を落ちるときにも「静御前」は一緒に行動している。九州へ向かう義経一行は、摂津国大物浦から船出するが暴風のために難破し、その後、吉野へ逃げるが、この時も静御前は義経たちと同行している。しかし女性連れの僧侶たちが怪しいとの御触れが出て、しかも身重のために吉野で義経と別れることになる。吉野から都に戻ろうとした静は従者に裏切られ、荷を奪われ頼朝勢に捕らえられた。京から鎌倉に連れられ頼朝の前に引き出された。

 世に名高い舞の名人ゆえ、頼朝と妻の政子は静に舞を所望するが、静はそれを断り続けた。静は自分たちを酷い目にあわせた頼朝の為に舞うことは恥辱の限りとして、体調の不具合を理由に固辞していた。

 しかし頼朝に「源氏の繁栄を祈る舞を鶴岡八幡宮に奉納せよ」と厳命され、とうとう舞うことになった。

 4月8日、鶴岡八幡宮の若宮の回廊で、八幡大菩薩に献舞するため舞を披露することになる。工藤祐経が鼓を、畠山重忠が銅拍子を担当し、静御前は扇を手に舞い始めた。

  「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ 恋しき」

 (吉野山で白雪を踏み分け、山深く入ってしまったあの人の足跡さえも、今は恋しいのです)

 「しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな」

 (麻糸の玉がくるくる回転するように、「静、静」と呼ばれた昔に戻れたらどんなに良いでしょう)

  生き別れた義経を切々と舞う静は、静御前のプライドをかけての命がけの抵抗だった。参列した者は感動し袖を濡らし心を動かされた。しかし頼朝は烈火のごとく怒り「わしが聞いていることを知りながら、反逆者を慕い別れの歌を舞うとはもってのほか」と刀に手をかけた。

 だがこのとき妻の政子が「主を思う女心は、女にしかわからないもの。私が静御前だったとしてもあのように舞った」ととりなした。政子と頼朝は駆け落ちの結婚だったので、政子の「愛しい人と離れる不安は耐え難きもの。ここは別れても、なお慕う静の貞節を誉めるべきです」という言葉には説得力があった。

 政子は自分が着ていた衣を褒美として静御前に与えた。政子の言葉に頼朝は怒りを解き静は命を救わた。しかし静は自由の身になれなかった。子を宿していたからである。頼朝は鎌倉で産むよう命じ「女子なら見逃すが、男子の場合は諦めよ」と、覚悟をするように伝えた。不運なことに生まれてきたのは男子だった。泣き叫ぶ静の腕から赤子は取り上げられ、由比ヶ浜の海に沈められた。

 半年の鎌倉での幽閉を経て、静はやっと自由の身となった。傷心の静に遺された最後の望みは義経との再会だけだった。静と従者は、頼朝の兵たちが厳重に固める太平洋沿いの道を北上せず、越後から会津へ抜ける長く険しい道を平泉に向かった。

 長旅の途中の栃堀の地にさしかかると、静は病を患い、1190年4月28日、若い身空で世を去った。従者は栃堀の里人の手を借りて、小高い丘の中腹に静の遺骸を埋葬し、そのふもとに庵を造って静の霊を守り続けた。この庵が高徳寺(長岡市大字栃堀)とされている。

 明治の末、静の話を聞き知った地元の娘が静を哀れみ、稼いだ金を細々とたくわえ、静の供養のために石塔を建立した。これが、今に残る栃堀の高徳寺の丘に建つ「静御前の墓」に隣接する石塔である。

 

義経考察

 源義経は武士の時代をつくる上で大きな功績を残した。しかし正当な評価を得ることもなく、わずか30年で生涯を閉じた。このことから多くの同情を引き「判官びいき」という言葉まで生まれた。義経は幅広い世代から人気があり、それゆえに多くの伝説や物語が生まれた。義経は奥州平泉で討たずに、鎌倉に送られた義経の首は影武者のもので、義経は逃げ延びて北海道に渡ったのではないかと言われ、実際にアイヌの村に「義経神社」があり義経の木像が祀られている。さらには大陸に渡たり、モンゴルのジンギスカンになったのではないかなど様々の説がある。

 源平の争いを制して新しい時代への扉を開いた源頼朝と義経。革命家と軍事天才による理想的な体制が、なぜ兄による弟殺害という悲劇とともに崩壊したのか。何が二人を引き裂いたのか。

 頼朝が平家打倒の兵を挙げると、義経は武蔵坊弁慶をはじめとした側近らとともに平泉から馳せ参じ、以後平家との戦いを主導し、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし義経はその最大の功労者となった。

 だが義経はその勝利の恩賞として後白河法皇から検非違使左衛門尉を任じられ、官位を受けたことが取り返しのつかないミスとなった。三種の神器を失ったこと、さらに源範頼や梶原景時の讒言が加わり。身内であるゆえに最も厳しい対応をとったのであろう。

 このように義経は軍事的統率者としては極めて優秀だったが、総大将・頼朝と現地司令官・義経の対立は決定的なものになった。

 頼朝は平家への出陣にあたって「恩賞は後に一括申請するので個々与えないでほしい」と朝廷に申し入れをしていた。また頼朝は出陣する東国武士団にも「朝廷から恩賞の沙汰があっても絶対に受けてはいけない」と申し渡している。恩賞は公平でなければならない。また公平な恩賞の「裁定役」が頼朝だった。

 義経の任官は頼朝の大前提を崩すことになった。組織力と団結力を頼みとする東国武士団をまとめるのが頼朝の役割だったため頼朝は激怒したのである。

 これは頼朝・義経の兄弟げんかではない。義経は全くこのことを理解していなかった。義経は、親の仇である平家を討ち、朝廷から源家の名誉として官位いただいた。つまり兄・頼朝の怒りを理解できなかった。この対立は宿命的なものだった。義経は新しい武士の時代に求められるルールづくりを進める頼朝を理解していなかったのである。

 権謀家の後白河法皇は頼朝と義経を対立させ、分裂させるために官位を義経に与えた。その企みに簡単に義経が乗ってしまったのである。冷静な頼朝は弟・義経の断罪を「新しい武士の時代はルールを守らなければ、弟であっても排除する」という厳しさをみせつけたのである。

 武家政権を築こうとした頼朝と、朝廷の権威を後ろ盾に源氏を巨大にしようとした義経。この2人の目指す方向はあまりに違っていた。頼朝の背景にある東国武士団は完璧な一枚岩ではなく、何より結束を強化することが最優先であり軍全体が一丸となって行動することに意義があった。「皆で勝ち取った勝利」、これが重要であり、スタンド・プレーは必要なかった。どんなに義経が武勲を挙げても、東国武士団との間に深い亀裂を残しては意味がないのだった。まして身内であるゆえに官位は最も慎重を要することであったが、義経はあまりに無頓着すぎた。
 頼朝は弟の所領を没収して東国武士たちに分け与えたが、義経には屈辱的でも、「頼朝公はそこまでして我ら東国武士団を思って下さっている」と支持基盤はいっそう堅固になった。逆に言えば、弟にそこまで鬼に徹せねばならないほど、長引く戦乱で団結力が揺らいでいたのだ。しかし義経には兄の胸中を察することが出来なかった。兄も弟が純粋に誉めてもらいたくて奮闘している気持を信じきることができなかった。それがこの兄弟の最大の不幸だろう。いずれにせよ、義経本人がどれほど人間的魅力に溢れていたかは、彼をよく知る周囲の人間が証明している。悲惨な境遇でも最期まで裏切らなかった弁慶たち、身の危険を顧みずに義経を愛し抜いた郷御前、静御前の2人の女性。義経はそこまで愛するに値する人物だったのだろう。