日本の神話

日本の創世

日本の創世

 1.天地開闢

 遥か昔のことである。天の高い所にある高天原(たかまがはら)に神々が生まれた時、まだ地上の大地は混沌としていて出来てはいなかった。

 そこに多少の兆しが見え、澄んで明るいものは薄く広がって天になり、重く濁ったものは地となった。天が先に生まれ後に地が固まった

 天上界の高天原に最初に現れた神はアメノミナカヌシノカミ天之御中主神)で、次に2人の神が現れたが、この三柱(みはしら)の神たち(造化の三神)は地上には降りなかった。

 さらに天上界(高天原)から五組の神々が現れ、最後に現れたのが男女の神イザナギ(伊奘諾尊)イザナミ(伊奘再である。

 天の神たちは、夫婦の神・イザナとイザナミに国を造りを命じた。天にある沼矛(ぬほこ)を授けると、「海の中にふわふわと漂っている国を、しっかりと固め、人が住めるような国にせよ」と命じたのである。

2.国産み

 そこでイザナギとイザナミは天と地にかかる天の浮桟橋に立ち、沼矛を降ろして混沌とした下界の海水を沼矛でかき混ぜた。次に沼矛を引き上げると、矛の先からしたたり落ちる雫が、1滴1滴と重なり島になった。その時、最初にできたのがオノゴロ島である。

 イザナギとイザナミは神として初めてオノコロ島(地上)に降り立つと、神聖な天御柱を立て、柱を中心に大きな御殿(八尋殿)を建てた。オノコロ島を舞台にしてイザナキとイザナミの国づくりが始まった。

3. 夫婦の契り

 イザナギは妻のイザナミに次のように尋ねた。

「あなたの身体はどのようになっていますか?」

「私の身体は、すっかり美しく出来上がっていますが、一カ所だけ出来ていない穴があります」とイザナミが答えると、

「私の身体もよく出来ているが、一カ所だけ出来き過ぎた突起がある。では私の身体の出来すぎた部分で、あなたの身体の出来きてないところを塞ぎ、この国をつくろうと思うが、どうだろうか?」

「それはよろしいでしょう」

とイザナミが云ったのでイザナギは、

「ではこの天の御柱を、私は右から、あなたは左から回って、出会ったところで男女の交わりをしよう」と述べた。

 イザナミがこれに同意して、イザナギは左からイザナミは右から柱を回り対面すると、イザナミが先に「なんといい男でしょう」 と言うと、続いてイザナギが「ああ、なんと美しい女だ」と答えた 。

 そして二人の間に最初の子である水蛭子(ヒルコ)が誕生した。 しかしヒルコは不具の子として生まれたので、葦の船に乗せられて海に流されてしまう。 続いて淡島(アハシマ)が生まれたが、これも出来損ないとされた。

 二人は高天原に戻り、このことを天つ神に相談した。すると天つ神は「女から声をかけたのが原因だから、改めて儀式をやり直し、今度は男から女に声をかけてみるがよい」と述べられた 。

 二人はこれに従い、再び柱の周りを回って、イザナギから声をかけて二人の神は結ばれた。すると先ず淡路島を造り、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州を次々に生み、八つの島々(日本列島)が生まれた。この八つの島を大八島洲(おおやしま)という。

  

4 .イザナミの死

 日本列島を産み終えた二人の神は、その後も吉備児島、小豆島などの六つの島を産み、さらに多くの神々を誕生させていった。それらは風の神、木の神、山の神、住居の神、船の神、食物の神、火の神など35の神であった。

 しかし最後に燃えさかる火の神カグツチ)を産む際に、イザナミは陰部に大きな火傷を負い、火傷のために苦しみながら命を落としてしまった。イザナギは嘆きながら、イザナミを比婆山(島根県安来市)に埋葬した。必要な火を手に入れたが、イザナミは死んでしまう。このように死の宿命、死の悲劇を負わされることになる。

 イザナ悲しみが収まらず、原因を作った我が子である火の神カグツチの首を長い長い剣(十握剣)で切り落とした。このとき斬られたヒノカグツチの血が岩にほとばしり、剣から滴った血や亡骸から、岩石の神、火の神、雷神、雨の神、水の神など多くの山の神々が生まれた。 これは火山が噴火したときに発生する神とされ、火に対する恐れを反映している。

 イザナミが死によってイザナギとイザナミは大きく引き裂かれた。イザナミを失い我が子さえも殺してしまったイザナキ。その悲しみはいつまでもやむことはなかった。

5.黄泉の国

 イザナギは悲しみ、イザナミに会いたい一心で、死者の国に妻をむかえに行こうと思い、イザナミのいる黄泉の国(死者の国)へ出かけていった。黄泉(よみ)とは死者の国で地中深い底にある。

 イザナギは地の底へ続く長い暗い道を下りて行き、ようやく黄泉の国に辿り着くとイザナミがとびらの前で待っていた。イザナギはイザナミに、いっしょに地上へ帰ってくれるように優しく呼びかけた。

 黄泉の国で出迎えたイザナミは生前と変わらなかった。 「ああ、愛する妻よ、私とおまえの国造りはまだ終わっていない。どうかいっしょに帰っておくれ」とイザナギは泣きながら懇願した。

 イザナミは「どうしてもっと早く来てくれなかったの。私はもう黄泉の食べ物を食べてしまい、黄泉の住民になってしまったので地上には戻れない。でも愛するあなたのためですから、地上へ帰ってよいかどうかどうか黄泉の国の神の許しをもらってくるからここで待っていて欲しい。ここで待つ間、決して私の姿を見ないでほしい」と言い残して奥へ入ってしまう。

 しかしいつまで待っていてもイザナミは帰ってこない。イザナギは待ちきれず約束を破って岩の隙間から奥を覗いてしまった。すると驚いたことに、そこには醜く腐敗したイザナミの姿があり、うじ虫と蛇が這い回っていた。

 世にも恐ろしい光景に驚いたイザナギは一目散に逃げ出すが、それを知ったイザナミは「あれほどのぞかないでと言ったのに、あなたは私に恥をかかせたのね」と激怒し、鬼女や悪霊たちに「イザナギをつかまえて殺しておしまい」と命じた。すると悪霊たちはイザナギをつかまえようと、次々にわき出て、鬼女たちがイザナギを追いかけてきた。

 イザナギは追ってくる鬼女たちに冠を投げつけ、櫛を投げ、必死で地上に逃げようとした。しかし今度は黄泉の国の悪霊の軍勢が追いかけてきた。イザナギはようやく黄泉の国の境までたどり着くと、地上に出て大岩で黄泉の国の入り口を塞いだ。

 岩の向こうでは、怒りの収まらないイザナミが追ってきて「愛しいあなたが、このようなことをしたのだから、私は毎日1000人の人たちを殺ましょう」と呪いごとを言った。するとイザナギは「あなたがそうするなら、わたしは毎日1500人を産んでみせよう」と言い返した。

 このように二人の男女神はケン力別れをすると、イザナギは黄泉の国から地上に戻った。(日本語の「よみがえる=蘇る・蘇る」は「黄泉の国から返る」が語源になっている)

 地上に戻ったイザナギはこの世を守る神になり、イザナミはあの世の神となった。つまり日本列島は夫婦の神によって創られたが、「日本人はみなイザナギ(男性神)の子孫で、死ねばイザナミの支配する黄泉の国へ行く」ことになる。

島根県松江市東出雲町の黄泉比良坂
黄泉国の出入口を黄泉比良坂(よもつひらさか)といい、葦原中国とつながっているとされる。イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入った。

 6. イザナの禊ぎ

 禊ぎ(みそぎ)とは身心の汚れを清浄な水で洗い落とすことである。普段は意識しないが、神社で手をすすぐのが禊である。黄泉の国からなんとか逃げ帰ったイザナギは、穢(けが)れた国へ行ってきたので、それを後悔して、身体を清めるため九州の日向の阿波伎の原(宮崎)で禊を行った。

 イザナギが衣服や道具(杖・帯・袋・衣服・袴・冠・腕輪)を投げ捨てると、そこから十二柱の神々が生まれた。つえから生まれた神さま。帯から生まれた神さま。小物を入れる袋から生まれた神さま。衣から生まれた神さまなどである。水で体をすすぐと禍々や禍を治す十柱の神々が生まれ、さらに海の神(ワタツミ)が生まれた。

 

7. 三柱神の誕生

 最後にイザナギが顔をすすぐぎ左目を洗うとアマテラスオオミカミ天照大御神)が生まれ、右目を洗うとツクヨミノミコト月読尊)、鼻を洗うとスサノオノミコト須佐之男)が誕生した。イザナギはみそぎの最後に生まれた三人の神さまの誕生をとても喜び、「私は、これまで多くの子を生んだが、最後に貴い三人の子どもたちを得た」として首にかけていた玉の首かざりを天照大御神に授け「あなたは高天原を支配しなさい」といった。次にツクヨミには「夜の国を治めなさい」といい、スサノオノには「海原を統治しなさい」と命じた。この3神を「三貴子」(みはしらのうずのみこ)と呼んでいる。

天照大御神(アマテラスオオミカミ
 日本皇室の祖神で、日本民族の総氏神とされている。日本を作ったイザナギの子供で、イザナギが自ら生み出した神で、神々の中で最も貴いとされる三貴子の中の一人である。日本の初代天皇である神武天皇がこのアマテラスの血を受け継ぐ正当な神の化身として崇められている。神武天皇の存在は別としても、アマテラスは太陽を神格化した皇室の祖神(皇祖神)とされ、神社としては伊勢神宮が特に有名である。

 アマテラスは信仰の対象としては最高クラスで、女性のイメージが強いが、男性を思わせる部分もある。日本書紀ではスサノオが姉と呼び、また男性を連想させる記述がないため、女神とするのが一般的である。また神御衣を織らせ、神田の稲を作り大嘗祭を行う神、祭祀を行う古代の巫女的役割も女性神とする印象がある。

月読命(ツクヨミノミコト
 三柱神の中で謎に包まれているのがツクヨミである。月を神格化して夜を統べる神とされている。男神のイメージからアマテラスの弟、スサノオの兄とされている。月の神として神格化されているが、ツクヨミは日本神話の誕生の時に名前が出るだけでその後の活躍は書かれていない。
 ツクヨミは暦と結びつける説が強い。暦の歴史を見ると、月の満ち欠けが暦の基準として用いられ、月と暦は関係が深い。つまりツクヨミは暦や時を支配する神とされている。

須佐之男(スサノオヲミコト
 スサノオの性格は多面的で、母を恋しがり泣き叫ぶ子供のような一面があれば、高天原では凶暴な一面を見せ、また出雲国(地上)へ降りると英雄的な性格になり、また和歌を詠んだり、木の用途を定めたり知的な面をみせる。この変化はスサノオの成長に伴う変化との捉えられている。「スサ」は荒れすさぶの意味で、嵐や暴風雨の神とする説や勢いのままに事を行う神などの説がある。また出雲は製鉄の盛んであったことから、州砂(砂鉄)の首長、あるい出雲を奪い取った説がある。

 スサノオは出雲と結びつきが強いが、不思議なことに出雲国風土記にはその名前はない。またヤマタノオロチの説話も書かれていない。古事記・日本書紀ではスサノオは出雲の神とされているが逆の可能性が高いと考える。ヤマタノオロチが出雲の神で、それを征服したのがスサノオと考えると理屈に合うからである。ヤマタノオロチの体内から三種の神器のである草薙剣(くさなぎのつるぎ)が出てきたこと。出雲はもともと製鉄を作る集団であったが、それをスサノオが統治したのではないか。

 つまり出雲の国譲りはスサノオが出雲を征服したと考えれば理屈がつくのである。ヤマタノオロチが出雲の神で、それを退治したスサノオが天皇系の神であれば、出雲の国譲は国譲ではなく出雲(ヤマタノオロチ)が天皇系の大和朝廷(スサノオ)に征服されたと解釈できるのである。

 スサノオはアマテラスの弟で、アマテラスが日本皇室の祖神であることから、天皇家を万世一系とする大和朝廷にとっては、スサノオが出雲の神であるほうが都合が良かった。日本はアマテラスから天皇系まで万世一系で、別王朝がなったことを示すのが神話の目的であったからである。この神話は古事記・日本書紀に書かれたもので、ほぼ同じ時期の出雲国風土記にヤマタノオロチもスサノオが書かれていないのは、出雲の人々は意地でも本当のことを書かなかった、あるいは大和朝廷を恐れ書けなかったとすべきであろう。

8. 神生み勝負

 イザナギの命を受けて、アマテラスとツクヨミはそれぞれが統治する国へ赴いた。しかし末っ子のスサノオ(須佐之男)だけは海原の国を治めようとせず、亡き母のいる根の国(黄泉の国)に行きたいと泣きぐずった。その泣く有様は強烈で、山々の緑は枯れ、海川は乾き、悪い神がうごめき、あらゆる災いが広がった。これに怒ったイザナギはスサノオを天の世界から地上の世界へ追放した。

天照大御神と須佐之男命(松本楓湖筆・広島県立美術館蔵)
天照大御神と須佐之男命(松本楓湖筆・広島県立美術館蔵)

 スサノオは神の国を去るにあたって、姉であるアマテラスに別れを告げようと高天原を訪ねる。しかしこの時もスサノオが乱暴に足音を立てたため、山、川、大地が大揺れに揺れ大嵐になった。これに対しアマテラスは「スサノオがやっていることは良い心からではなく、国を奪おうとしてる」と警戒した。

 アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えてスサノオを迎えたTE4REHNJMHHGアマテラスは髪をふりほどくと、玉の緒の輪を巻きつかせ、背には千本の矢と腰には五百本の矢を筒に入れ、力強く庭を踏みつけ、威勢よく叫びながら待ち構えた。

「おまえは、どういうわけで来たのか」

「私はやましい心を持ってはいません。父のイザナギが泣きわめく理由を訊くので、母のいる黄泉の国へ行きたいと答えました。すると父は、お前はこの国いてはいけないと言って追い払らわれてしまったのです。これから黄泉の国へ行くので、姉のアマテラスに報告しようと思って参りました」

「それなら、心の清いことをどうやって証明するのか?」

 するとスサノオは「神々に誓約(ちかい)を立て、女の子を生んでみせましょう」と提案した。

 アマテラスは暇乞いに来ただけと訴えるスサノオを信じなかった。そこでスサオノは自分の潔白を証明する為、古代の占いである「誓約」をおこなうことになる。まずアマテラスがスサノオの長い剣を受け取ると、三つに折って神聖な井戸水で清め、その剣を口に入れてかみ砕いて吐き捨てた。すると吐き捨てた霧から三人の女神が生まれた。

 スサノオはアマテラスの髪や腕に巻いてある玉飾りを取り上げると、神聖な井戸水で清めて、同じようにかみ砕いて吹き捨てた。するとそこから5人の男神が誕生した。アマテラスは「玉飾りから生まれた男神は私の玉飾りから生まれたのだから、自分の子」と宣言し、スサノオは得意げに「私の心が清いから、私の剣から、このようにかわいい三人の女の神さまが生まれた。これで私の心に嘘偽りりがないことが分かっていただけたか」こうして、アマテラスのスサノオへの疑いは晴れたかのように見えた。

 

9. 天の岩戸

 スサノオは誓約に勝ったと思い、勝った勢いでアマテラスの田畑を壊し、御殿に汚物をまき散らすなど次々に乱暴をはたらいた。アマテラスは「田畑を壊したのは土地を再生させるため、汚物をまき散らしたのは酒に酔ったせいでしょう」と、かわいい弟をかばった。

 しかしある日、神聖な機織場(はたおりば)で娘が神様の着物を織っていると、スサノオは皮をはいだ斑模様の馬の皮を小屋の屋根から投げ込んだ。これに驚いた機織りの娘は機織道具板に尻もちをつき、女陰をつきさして死んでしまった。これにはさすがのアマテラスも堪忍袋の緒が切れて、とうとう天岩戸に中に入ると戸を閉じてしまった。

 太陽の化身であるアマテラスが天岩戸に隠れたため、世界は闇に包まれてしまった。高天原(天の国)も真っ暗になり、葦原の中国(地上の世界)も闇につつまれ永遠の夜になってしまった。多くの神々が騒ぎだし、あらゆる禍いが起きた。

 神々が説得してもアマテラスは天岩戸から出てこない。そこで八百万の神々が集まり、アマテラスに夜が明けたと思わせるためにニワトリが集められを集めて、いっせいに鳴かせてみたが効果はなかった。

 次に思慮の神はタマノオヤに玉飾りを、イシコリドメに鏡を作らせ、アメノコヤネが祝詞を献上し、その間に神々が岩戸からアマテラスを引きずり出す計画を立てた。

 岩戸の前では大宴会がひらかれ、アメノウズメがおもしろおかしく裸で踊りだした。女神の踊りはしだいに過激になり、着物を脱ぐと乳房をかきむしり陰部を広げた。これを見ていた八百万の神様たちは笑いだし、大声ではやし、まさに乱痴気騒ぎとなった。

 アマテラスは外の様子があまりに騒がしいのを不思議に思い岩戸を少し開けた。すると裸で踊っているアメノウズメが「あなた様よりも貴い神様がいらっしゃるので、わたしたちはみな喜んで笑い、楽しんでおりました」と思いがけないことを言った。

 そこへ差し出された鏡には美しい女神が映っていた。鏡に映っている女神を自分の姿とは知らず、新しい神の姿と間違えて、よく見ようと少し扉を開けアマテラスは身を乗り出しまった。

 その時、岩戸の横に隠れていたタヂカラオがアマテラスの腕を掴んで引っ張り出した。そしてフトダマが岩戸に縄を張り、二度と中へ戻れないようにした。このようにして世界に光が戻った。

 いっぽうスサノオは八百万の神によって、罪の償いに多くの品物を供することを科せられ、髪と手足の爪を切られて高天原を追放されてしまう。その後、根の国(黄泉の国)に渡ったとされている。

10. 五穀の誕生

 スサノオは数々の乱暴を働き、アマテラスを怒らせた罪は重く、そのため高天原の神々はスサノオの追放を決定する。罪の償いに多くの品物を科せられ、ひげと手足の爪を切られ、高天原を追放されてしまう。ひげと爪は穢れが溜まりやすいとされ、ひげと爪を切ることは穢れを落とすことを意味していた。

 こうして高天原から追放されたスサノオは、道すがら穀物の女神「オオゲツヒメ」(食料神)に食べ物を求めた。オオゲツヒメは快く求めに応じるが鼻や口、尻から食物を出したため、スサノオは汚らわしいと激怒しオオゲツヒメを斬り殺してしまう。

 すると殺されたオオゲツヒメの身体から次々と食物が生え、目から稲の穂が、耳からは栗が、鼻からは小豆が、尻からは大豆が、陰部からは麦が生えてきた。これらをカムムスビという神が刈り取って種にしたのが「五穀の起源」となった。

  なお日本書記によると、保食神を斬り殺したのはツクヨミ(夜の神)となっている。そしてアマテラスはこのツクヨミの暴挙に怒り「お前とは一緒に住みたくない」と絶縁したため、昼と夜が分かれたとしている。


 日本の神話を知る上で混乱しやすいので、下記にまとめておく。

高天原神話

 国生みの神話は、世界の始まりからイザナギとスサノオが国土を生み、イザナギがこの世を守る神になり、イザナミは死んだあの世の神となった。イザナギは九州の日向でみそぎを行い、生まれたのが三人の神さま、天照大神、素戔嗚尊(スサノオ)、月読尊である。

 イザナギの子・スサノオは亡き母のいる黄泉の国に行く前に、姉の天照大神に会いにやってくる。しかし天照大神はスサノオが天地を奪うためと誤解し、スサノオは邪心がないこと示すため天照大神と誓約をして、天照大神は3女神、スサノオは5男神を生む。スサノオが生んだ5男神は天照大神の子とされ、その天忍穂耳尊が天照大神の跡継ぎになった。

 スサノオが天上で乱暴を働いたため、怒った天照大神は天岩屋に隠れ世界は暗黒となるが、神々は天照大神を引き摺り出し、この世に光が戻った。スサノオは下界に追放され、このスサノオが出雲神話の主人公になる。出雲神話は下界の話なので、これまでの天上の神話とは別系列になり神話は急に人間らしい内容になる。

 

・高天原(たかあまのはら)は天の世界。 
・葦原中国(あしはらのなかつくに)は地上の世界。 
・黄泉の国(よみのくに)あの世の世界。
・根の堅州国(ねのかたすのくに)はあの世とこの世をつなぐ国。 


出雲神話

1.ヤマタノオロチ退治

 高天原から追放されたスサノオ(須佐之男命)は、出雲の国(島根県)に降り立った。斐伊川から箸が流れてきたので川を上って行くと、屋敷の中で泣いている美しい娘と老夫婦に出会った。泣いている理由を尋ねると「ヤマタノオロチ(八岐大蛇)が毎年やってきて、8人いた娘のうち7人まで食べられてしまった。またヤマタノオロチが来る頃で、この末娘も犠牲になってしまう」と老夫婦は泣き崩れてしまった。

 ヤマタノオロチは、その名の通りひとつのからだに八つの頭と尾を持ち、谷や山の屋根を超える巨大な蛇だった。目は赤い鬼灯のように赤く燃え、背中には苔や杉が生え、腹は血でただれている巨大な怪物だった。

 スサノオは「アマテラスの弟」であると身分を明かすと、娘のクシナダヒメ(櫛名田比売)を嫁にもらうことを条件にヤマタノオロチの退治を引き受けた。まず娘の安全を守るため神通力で櫛に変身させて自分の髪にさした。さらに家のまわりに垣根を巡らせ、老夫婦に強い酒を用意させ、ヤマタノオロチの来る家の八つの入り口に台を作り、その上に酒桶を置くように云った。

 老夫婦が云われたとおりに準備をしていると、すさまじい地響きとともにヤマタノオロチがやって来た。ヤマタノオロチは酒を見つけると、八つの酒桶に八つの頭を突っ込んで酒を飲み干し、酔っぱらってその場にもの凄い大きな音とともに倒れて寝てしまった。

 そこにスサノオが飛び出し、腰に差している剣を抜き、ヤマタノオロチを剣でずたずたに切り刻み込んだ。そのため斐伊川はヤマタノオロチの血で赤く染まった。

 スサノオがヤマタノオロチの尾を切り裂くと、剣の刃が少し欠けたので不思議に思い覗いてみると、尾の中から一振りの立派な太刀が現れ、スサノオはこれをアマテラスに献上した。これが皇室の三種の神器のひとつである草薙の剣である。スサノオはこの剣を天照御大神に献上した。

 スサノオはヤマタノオロチを退治すると、クシナダヒメを櫛から戻し妻として結婚して、出雲の根之堅洲国にある須賀(島根県安来市)へ行き、さらに出雲の国に宮殿を建てて暮らした。

 草薙剣は出雲国の古代製鉄文化を象徴する。草薙剣は鋼製で草薙剣に当たって欠けたということは、スサノオの剣は鉄製であったと推察される。当時最先端の技術であった製鋼、その技術の結晶である草薙剣を「天照御大神に献上した」ということは当時の出雲と大和の関係を暗示している。

 その後この草薙剣は三種の神器になり、源平争乱で平家滅亡の際に入水死した安徳天皇と共に失われるが、名古屋市の熱田神宮の御神体となっているともされている。

オオクニヌシの神話

 ヤマタノオロチを退治したスサノオから四代目の大国主(オオクニヌシ)は出雲の国の英雄となり国を治めていた。大国主には多くの兄弟の神がいたが、すべての神が身を引いて出雲の国の支配を大国主(オオクニヌシ)に任せた。ヤマタノオロチを退治したスサノオから四代目の大国主(オオクニヌシ)が出雲の国の英雄となり国を治めたが、大国主には多くの兄弟の神がいたにもかかわらず、すべての神が身を引いて出雲の国の支配を大国主が治めたのか、それは次のようなことがあったからである。

 

1.イナバの白ウサギ 

 オオクニヌシの兄弟の神(八十神)たちは、イナバ(鳥取県東部)に住むたいへん美しいヤガミヒメ(八上比売)と結婚したがっていた。兄弟の神たちはオオクニヌシに重い荷物を背負わせ、家来のようにしてイナバへ向かった。

 やがて気多の岬(鳥取県気多郡)に着くと、そこに毛のない皮を剥がれたウサギが泣いていた。兄弟の神たちは尋ねた。

「そこのウサギ、身体が痛いのなら、海の水を浴びてから風に吹かれて、高い山の上で寝るのがいいぞ」といじめる。

 ウサギは神たちに言われたようにすると、海の水が乾くにつれて、風が皮膚に刺ささるように痛み出した。最後に通りかかったオオクニヌシがその姿を見つけて尋ねた。

「なぜ、泣いているんだ」

「はい、わたしは隠岐の島に住んでいました。このイナバ(稻羽)の地に来たかったのですが、渡る方法がないので、海のサメ(和邇)にこう言ったのです。「おれとおまえで、どちらの仲間が多いか競争しよう。おまえは仲間を連れて来て、この島から気多の岬まで一列に並んでくれ。そしたらおれはその上を踏んで数を数えよう。これでどっちの仲間が多いかわかるだろう」

 こうしてサメたちを海の上に一列に並ばせると、その上をウサギは数えながら走った。気多の岬で下りようとした一歩手前で、「バカなサメども。お前たちはだまされているのだよ」と言ってしまったのです。すると一番最後にいたサメが、わたしをつかまえて、わたしの毛を剥いでしまったのです。それで困って泣いていたところ、先ほど通りかかった神様たちが「海水を浴びて、強い風と日光にあたって寝ていろ」と教えて下さったので、そのとおりにしたら、全身が傷ついてしまい、痛みに苦しん泣いていたのです。

 そこでオオクニヌシはそのウサギにこう教えた。

「今すぐにあの河口に行って、真水で体を洗いなさい。それから河口に生えている蒲(がま)の穂を採って、その花粉をまき、その上で転がりなさい。そうすれは膚(はだ)は治るでしょう」

 ウサギが言われたとおりにすると、すっかり元どおりに治った。このウサギは、オオクニヌシにこう言った。

「わたしをだましたあの神様たちは、ヤガミヒメと結婚できないでしょう。家来のように袋をしょっているがあなたこそが、ヤガミヒメと結婚できるお方です」 

 兄弟の神々がヤガミヒメの所に行くと、ヤガミヒメはイナバの白ウサギが云ったとおり「わたしは、あなたたちの言う事は聞きません。オオクニヌシさまと結婚します」と大勢に兄弟の神たちに言ったので、神様(八十神)たちは怒り狂い、オオクニヌシを殺そうと相談した。そこで伯耆の国(ほうき、鳥取県西部)の山のふもとへやってくると、

「この山に赤いイノシシがいる。これを追い出すから、お前はここで待って捕まえろ。もし失敗したらお前の命をもらうぞ」と神たちがオオクニヌシに言うと、イノシシに似た大きな石を火でまっ赤に焼き、山の上から転がり落とした。オオクニヌシは落ちて来た火石をつかもうとして、無惨にも熱に焼かれて死んでしまった。

 オオクニヌシの母親の神が嘆き悲しみ、高天原に昇ってカミムスビノミコト(神産巣日命)に相談すると、神産巣日命はオオクニヌシを生き返らせるためにキサガイヒメ(キサ貝=赤貝)とウムガイヒメ(蛤貝比売)を遣わした。キサガイヒメは自分の身を削り、ウムガイヒメがそれを受けとめてオオクニヌシの身体にやさしく塗ると、オオクニヌシは美しい青年に復活したのだった。

 これを見ていた兄弟の神様たちは、またオオクニヌシをだまして山へ連れて行き、大きな木を切り、その間にクサビの矢を打って中にオオクニヌシを入れた。そしてクサビをいきなり放したため、オオクニヌシは木の間に挟まれてまた死んでしまった。母親の神は泣きながらオオクニヌシを探すと助け出した。

「おなたは、ここにいれば、いずれ兄弟たちに殺されてしまう」

 母親の神はそう言って、紀伊の国(和歌山県)のオオヤビコノカミ(大屋毘古神)のところへ避難させた。

 兄弟の神たちは追いかけて来て、矢で射ろうとしたが、オオヤビコノカミはオオクニヌシを逃がしながらこう言った。「オオクニヌシのご先祖のスサノオがいる根の堅州国(ねのかたすくに)へ行きなさい。必ずスサノオが知恵を授けてくれるでしょう」

 

ここまでのオオクニヌシの神話

 オオクニヌシはヤガミヒメ(八上比売)と結婚しようとする、兄弟の八十の神たちにいじめられ、因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)を助けるが,兄弟の神たちに迫害され死んでしまう。しかし何度死んでも母親の願いで生き返る。ここまでは英雄となる前の若き英雄の迫害物語である。また因幡の白兎とあるが、稲羽が因幡(鳥取県東部)であるとの記載はどこにもない。また因幡国風土記にも出雲国風土記にも因幡の素兎の記載はないことから確かなことは分からない。稲葉や稲場の地名は各地にあり、「イナバ」は稲葉、稲場でイネの置き場を指している可能性がある。

 心優しきオオクニヌシと意地の悪い兄弟の神たちが対比させ、また地上にいるオオクニヌシが死後の世界にいるスサノオにたすけを求めるのが、死後の世界と出雲が混同しながら共存させ、最初の妻であるヤガミヒメを因幡国に残してゆくのが興味深い展開である。


2. スセリビメ(須勢理毘売命) 

 オオクニヌシは八十神たちの追跡から逃れるために、云われるままスサノオのいる根の国(死後の国)へゆき、スサノオの娘スセリビメ(須勢理毘売命)と出会う。2柱の神は目が合ったとたんに恋に落ち、男女の交わりを交わして結婚を誓った。スセリビメはオオクニヌシの心を一目で奪った女神である。

 スセリビメは父のスサノオに「とっても立派な神様がいらっしゃいました」と報告した。

 父のスサノオ(須佐之男命)は高天原でさんざん悪さをして、姉の天照大御神を天岩戸に引きこもらせた神である。

 その後、高天原を追放されたスサノオは出雲の国へ降り立ち、八俣大蛇を退治して櫛名田比売命(クシナダヒメ)と結婚した。スサノオは出雲の神の祖神とされているが、娘のスセリヒメを溺愛していた父のスサノオは「あれはアシハラシコ(大国主の別名)だな」と冷たく言うと、オオクニヌシがスセリヒメを妻に迎えたいと告げるが、スサノオは娘を取られた怒りから様々な試練を与えた。

 オオクニヌシを宮殿に呼びつけると、ヘビがいる部屋に寝かせた。そこで娘のスセリビメはヘビよけの魔力がある布をオオクニヌシに授ると、

「ヘビたちが、あなたを噛もうとしたら、その布を三回振れば逃げ出すでしょう」と言った。オオクニヌシは娘のいうとおりにすると、蛇はおとなしくなり、オオクニヌシはゆっくりと眠ることができた。

 次の日の夜、スサノオはオオクニヌシを大ムカデと蜂の部屋に入れた。そこで娘のスセリビメは、今度はムカデと蜂よけの布を夫に授たので、オオクニヌシは部屋を逃げ出すことができた。

 スサノオは音の鳴りひびく矢を広い野原の中にはなち、オオクニヌシに探してこいと命じた。オオクニヌシが原っぱに出るとその回りに火を放った。逃げ場所に迷っていると一匹のねずみが地面の穴から出てきて、「外から見ると穴は埋まっているけど、中はほら穴だよ」と誘い、オオクニヌシが穴に隠れていると火は通り過ぎていった。そのねずみは音の鳴る矢をくわえてオオクニヌシに差し上げた。

 娘のスセリビメはオオクニヌシが死んだと思い、お葬式を前になげき悲しんでいた。父のスサノオが野原に出て行くと、無事だったオオクニヌシは矢をスサノオに差し上げた。

 スサノオは宮殿にオオクニヌシを連れて帰ると大きな部屋に案内し、頭のシラミを取ってあげようと言った。しかし頭にはムカデがたくさんいたので、娘のスセリビメは椋(ムク)の木の実と赤い土を夫に授けた。オオクニヌシはその木の実を食い、赤土も口に含んでつばを吐き出した。それを見ていたスサノオは、ムカデを退治するため食いちぎってツバを吐いていると思い、かわいいやつと思い寝てしまった。

 オオクニヌシは寝ているスサノオの髪の毛を部屋の垂木(たるき)に結び付け、大きな石で部屋の出口を塞いだ。 オオクニヌシは娘のスセリビメを背負い、スサノオの大きな刀と弓矢と美しい琴を持って逃げようとしたが、その琴が木に触れ、地面が鳴りひびいた。驚いたスサノオは部屋ごと引き倒し起き上がったが、垂木に結ばれた髪の毛をほどいている間に、オオクニヌシとスセリビメは遠くまで逃げていった。

 スセリヒメはその都度オオクニヌシを助け、最後はスサノオを騙して駆け落ちしたのである。スセリヒメはスサノオに似て気性が激しく父サノオを恐れず、オオクニヌシと力を合わせて試練を乗り越えたのである。

 

3. 英雄の誕生

 スサノオは二人の後を追って来て、黄泉比良坂(よもつひらさか)までやって来ると遠くにいるオオクニヌシに向かい「おまえの持っている、わしの太刀と弓矢で、おまえの兄弟だちを山や河に追い払い、オオクニヌシ神になり、わしの娘スセリビメを妻とし、御埼山(出雲市)のふもとに、大きな太い柱を立て、天高く千木(神社の建築で屋上で交叉する木材)を上げ、その宮殿に住め」と言った。

 スサノオはオオクニヌシの知恵とたくましさを認め、さらにスセリヒメの愛の強さに根負けして2人の結婚を許したのである。ここで黄泉比良坂に注目いてほしい。イザナキとイザナミの物語を思い出せば、スサノオは黄泉(あの世)から葦原中津国に行けない立場だったのである。そこでオオクニヌシは太刀と弓で八十神の兄弟の神様たちを追い払い、出雲の国を造った。

 オオクニヌシはスセリヒメを本妻として迎えるが、ここであの因幡の白兎で兄弟神と奪い合ったヤガミヒメを思い出して欲しい。最初の約束通りにオオクニヌシと結婚したヤガミヒメは、その時、オオクニヌシの子を身ごもり臨月を迎えていた。ヤガミヒメはオオクニヌシの元を訪ねるが、嫉妬深い正妻のスセリヒメはヤガミヒメをいじめ、怖くなったヤガミヒメは自分の生んだ子を木の又に差し挟んだまま因幡の国に帰ってしまった。そこでこの子をキノマタノカミと名付けられた。

 ヤガミヒメはこのような悲哀な運命にあった。振り返えると八十神に「あなた達と一緒にならない」と言って、オオクニヌシと結婚し、その言葉がきっかけにオオクニヌシは八十神に命を奪われ、ヤガミヒメと過ごす時間もなく根の国に逃げたのである。さらにスセリビメの嫉妬を怖れ、ヤガミヒメは因幡に帰ってしまうのである。このようなヤガミヒメは哀れであるが、ヤガミヒメは美しさ故に周りからチヤホヤされ、人の些細な気持ちを察することが出来なかったのである。たった一言で人生を左右してしまうことがヤガミヒメの悲哀から読みとることができる。

 ここまでの流れとして、オオクニヌシも運のない誠実な神だと思う。兄弟の八十神から逆恨みで2度も殺され、さらには逃げようとしても執拗に追ってきてなおも殺そうとする。そのため逃げるようにオオクニヌシは根の国に向かう。そこで正妻スセリビメと出会うが、その父であるスサノオからは冷遇される。

 ここで気になるのが、スサノオがオオクニヌシが自分の子孫との認識がまるでないことである。血族を気にしていないのか、自分の子孫と思わなかったのか分からないが、ここでもスサノオからひどい扱いを受ける。殺されかけるが娘のスセリヒメの助言で何とか生き延びた。

 オオクニヌシはスサノオが眠っている間にスセリビメと琴、大刀、弓矢を盗み泥棒のように根の国を後にする。根の国と地上との黄泉比良坂の入り口で、スサノオは渋々娘を嫁がせること、盗まれた剣と弓をそのままに譲って二人を送り出している。スサノオが娘の結婚を最後の最後で認めるところは子を持つ親心なのであろう。

 一方スセリビメのスセリは進むのススで、すさぶのスサと同じ積極的な意味をもつ。なにしろスセリヒメはスサノオに溺愛された娘である。スサノオの娘なら伸び伸びと成長し、女神の激情が父の試練の危機から夫の救ったのである。スセリヒメは夫の妻であるヤガミヒメに対して、激しく嫉妬するが、愛が自分に向いてる時は健気でも、その愛が他の者に向くと牙を剥く。まさに女心をそのままに生きた神様だといえる。スセリヒメは激情と嫉妬の激しさをもった気の強い女神といえる。

 この根の国での話は、父が結婚相手のオオクニヌに試練を与え、結婚相手の妻の助言によって克服する神話である。オオクニヌシはこの試練をスセリビメの助けを得て乗り越え、正妻としたことにより真に大国主になることができたのである。

 

4.ヌナカワヒメとの恋 

 その後、オオクニヌシは越の国の沼河(新潟県糸魚川市)に住むヌナカワヒメ(奴奈川姫)を第2の妻にしようとして、夜にヌナカワヒメの家に行き、家の窓の外から求婚の歌をよんだ。ここでお二人が交わされた歌が古事記で初めて出てくる恋の歌である。

 オオクニヌシは夜這い(夜に女性の家へ行くこと)のためヒメの寝ている窓の板戸をゆさぶったが、反応はなく、窓の板戸のそばで立ちすくんでしまう。

 そのうち緑の山にはヌエ(想像上の動物)が鳴き、野鳥のキジも鳴き、ニワトリも鳴き出した。

「ああ、いまいましく鳴く鳥よ お願いだから鳴くのをやめてくれ 」 オオクニヌシこの歌にヌナカワヒメは戸を開けずに、家の中から同じように次の歌で答えた。

 

 ヤチホコの神様 わたしは、しおれた草のような女です

 わたしの心は、漂う水鳥のようです

 今は、自分のことしか考えてない鳥ですが

 でもいずれは、あなた様の鳥になるでしょう

 ですから、どうぞ殺さないでください

 緑の山に日が沈めば、真っ暗な夜がやって来てください

 でもあなたは、朝日のように さわやかにやって来て

 白い腕で 泡雪のような 若く白い乳房を

 そっと抱いてください 

 そして 手をにぎってください

 玉のような美しい わたしの手をからめて 

 足をのばして くつろんでください

 わびしい恋などしないでください ヤチホコの神様

 そこで二人は、その夜は合わず、翌晩お会いになり結ばれた。

 

 ヌナカワヒメの「ヌ」は「玉」を表し、玉は宝石のことで、実際には「翡翠」のことである。 高志国の糸魚川は古くから翡翠の産地で、このヌナカワヒメとオオクニヌシとの間に生まれたのがタケミナカタで、タケミナカタが姫川を上って諏訪に入り、諏訪大社の祭神になった。

 JR糸魚川駅前にはヌナカワヒメの像があり、左手にヒスイの勾玉を持っている。ヌナカワヒメは「ヒスイの玉を身につけ、占いごとや呪術を巧みに行っていた女神」で、ヌナカワヒメにまつわる伝承が多く存在している。オオクニヌシ(大国主)とヌナカワヒメ(奴奈川姫)の結婚(3人目)は、出雲の国と高志の国の結びつける意味で重要である。この「ヌナカワヒメ」と「オオクニヌシ」の間の子が「タケミナカタ」というのは、ヌナカワヒメが越の国の女神と考えると、諏訪のタケミナカタがその子供であるのは自然なことである。

 

 5.スセリビメのヤキモチ 

 オオクニヌシの正妻のスセリビメはとても嫉妬深く、その嫉妬の激しさはオオクニヌシの最初の妻・八上比売が生まれたばかりの子を置いて帰ってしまうほどであった。それを夫のオオクニヌシは心配して、出雲からヤマトの国に出発しようとして片手を馬のくらにかけ、片足を馬の鐙(あぶみ)に踏み入れて次のように歌われた。

 

 カワセミ(鳥の名)のように青い着物をつくってくれたが、鳥が羽ばたくように手を動かしてみたが、似合わないので波うちぎわに脱ぎ捨ててしまった。

 「あかね草」の汁で染めた着物をこしらえてくれたが、手を動かしてみたが、これはたいへんよいようだ。

 いとしい妻よ、群れをなして飛んで行く鳥と一緒にわたしが行っても、あなたは泣かないと言うが、きっと山のふもとの一本のすすきのように頭をうなだれて泣き、朝の雨が上がった霧の中に立ちすくむでしょう。若草のように若々しくわが妻よ

 

 次にスセリビメは、大きな酒杯を取って、オオクニヌシにささげ、次のように歌った。

 

  わがオオクニヌシよ、あなたは男だから、あちこちの島や磯の浜辺で、若草のように若く美しい妻を持つでしょう。でもわたしは女ですから、あなた以外に夫はいないのです。寝心地の良い部屋の絹のふとんの下で、やさやと音をたて、泡雪のように白いわたしの乳房を、コウゾのような白い腕でそっとさわってください。手をにぎってください。玉のような美しいわたしの手をからめて、足をのばしてくつろいでください。そしておいしいお酒をお飲み下さい。

  こう歌って二人は酒杯を交わし、お互いのからだを抱きしめ合った。

 

6.スクナビコナ(少彦名神) 

 オオクニヌシが出雲の美保(島根県美保)の岬に行くと、飛沫立つ波頭を天の船に乗って絹の着物をまとった小さな神が近よってきた。オオクニヌシが名前を尋ねると答えないので、お伴の神たちに聞いてみるが、みな知らないという。すると一匹のヒキガエルが現れ、「この神さまの名前は、クエビコ(久延毘古)なら知っている」

と答えたので、クエビコを呼んで尋ねると、

「これはカミムズビノカミ(神産巣日神)のお子様で、名をスクナビコナ(少彦名神)という神さまです」それで、母神のカミムズビノカミに尋ねてみると「確かに自分の子どもで、わたしの指の間からこぼれ落ちた子どもです」。さらに高天原(天界)の神は、オオクニヌシに「スクナビコと兄弟の契りを結び国を守り固めなさい」と告げた。

スクナビコは小さく一寸法師のモデルとされている
スクナビコは小さく一寸法師のモデルとされている

 スクナビコはオオクニヌシに信頼され片腕となって、葦原の中つ国(日本の国)を造り固めることになる。

 オオクニヌシとスクナビコナはふたりで国々をまわり、稲や粟の栽培方法や鳥獣や昆虫の害から穀物を守るためのまじないを定め国を造り固めた。

 オオクニヌシとスクナビコナが「遠く行くのに、屎(大便)をしないで遠く行くのと、屎(大便)をするため赤土をかついで行くのと、どちらがよいだろうか」と言い争った。オオクニヌシは「私は便をしないで行こうと思う」というと、スクナビコナは「私は赤土の荷を担いで行こうと思う」といった。何日か経ってオオクニヌシは「私はもうがまんできない」といって、その場にしゃがんで便をした。その時、スクナビコナは笑って「その通りだ。私も苦しかったのだ」と、赤い埴土を岡に投げつけたので、この岡は埴岡(ハニオカ)と名付けられた(兵庫県神河町)。

 スクナビコは高天原の神の使いで、オオクニヌシが国造りを行なう際、高天原から使者として送られ、スクナビコは様々な薬や酒、温泉を作った。四国の道後温泉や箱根の湯本温泉はスクナビコが発見したとされている。そのためスクナビコは医療の神、酒造りの神、温泉の神となっている。こうしてスクナビコは国造りに様々な功績を残したが、高天原に戻らなくてはならない期限が迫ってきた。

 スクナビコナは何も言わず、海のむこうへ帰ってしまった。オオクニヌシは、「ああ、これからわたし一人で、どうやってこの国を作ることができるだろうか」と嘆きながらこう言と、海の上を明かりで照らしながら、神さまがやって来てこう言った。「わたしをお祭りすれば、わたしは、あなたといっしょに、この国を作ることができます。もしそうすればこの国を立派に造れるでしょう」

 そこでオオクニヌシはその神さまに

「では、どうやって、あなた様をお祭りすればよろしいのでしょうか」と尋ねますと、その神さまはこうお答えた。

「わたしを、ヤマトの国の青々とした山々の、東の山の上に祭りなさい」

 これが三輪山(奈良県桜井市三輪町)の大神神社(おおみわじんじゃ)に祀られているオオモノヌシノカミ(大物主神)である。

 

 オオクニヌシもスクナビコも賢い神様で、そのため互いを認め、信頼で繋がっていた。オオクニヌシはスクナビコがいなくなり、国造りの意思はさらに強くなる。オオクニヌシはスクナビコの無言の意志を察し、最後まで諦めずに国造りに取り組むのである。誰のためでもなく、公のために慈仁を尽くすことになる。

 スクナビコは己の欲を口にせず、静かに去っていったが、人間も問題が起きると何も言わず、黙々と自分で解決する人がいる。このように何も言わずに問題を正すことをスクナビコは伝えたのであろう。その後、この心は出雲の国の国譲りへ繋がってゆく。


葦原中国平定

 天照大御神(アマテラス)は「千五百年も長く続いている水穂の国日本)は、天照大御神の子孫とすべし」として、何人かの神を出雲に使わした。照大御神には荒ぶる弟の神スサノオの子孫であるオオクニヌシが水穂国を治めていたが、自分の子孫の神が治めるべきとしたのである。

 まず息子のアメノオシホミミ(天忍穂耳命)が治めるべきとしたが、アメノオシホミミが天の浮橋に立って下界を見下ろすと「この国は、ずいぶん騒がしくて手に負えない」と戻ってきてしまった。そこでアマテラスは八百万の神たちを集め、思金神(オモイカネノカミ)が中心になって対策を考えた。

 アマテラスは「この日本の国は、まず私の息子が治めるとしたが、息子はこの国には乱暴な神が大勢いると思っている。どの神を使って、この国を従わせたらよいか」と天の安の河の川原に八百万の神々を集めて尋ねた。思金神は、八百万の神たちと相談してこう述べた。

「アメノホヒノミコト(天穂日命)を遣わずのがよいでしょう」そこで選ばれたのが、アマテラスの子であるアメノホヒノミコト(天穂日命)である。しかしアメノホヒはアマテラスを裏切って、地上に降るとなんと3年間もオオクニヌシに懐柔され音沙汰がなかった。

 次にアメノワカヒコが選ばれ、弓と矢を授けられたが、この神は野心が強くオオクニヌシの娘である下照比賣(シタテルヒメ)と結婚し、出雲を乗っ取ろうと8年も報告をしなかった。不審に思ったアマテラスは、キジのナキメ(雉の鳴女)を遣わした。

 アマテラスはキジにこう命じた。お前が下界に行ってアメノワカヒコに尋ねるのは「お前を水穂の国に派遣したのは、この国の乱暴な神たちをおとなしくさせ、服従させることであったが、どうして8年間も何の報告もしないのか」である。

 そこでナキメは雉(きじ)になり下界に降りて、アメノワカヒコの家の木に止まり理由を聞くため、家の前で大きな鳴き声を上げ、アマテラスの言葉をそのまま伝えた。これを聞いた妻のシタテルヒメが「うるさいから殺して」とそそのかすと、アメノワカヒコはアマテラスより授けられた弓矢を持ち出して、矢を放ちナキメを殺してしまった。

 雉(きじ)を殺し血に染まった矢は高天原の、アマテラスとタカギ(天津神)の足下にまで飛んできた。タカギは「アメノワカヒコに邪心があれば、この矢にて災いを」と誓約すると、矢は返り飛びアメノワカヒコの胸を一直線に貫き刺し、その命を奪った。これで邪心があったことが証明された。

 二人の神々は高天原に戻らないどころか裏切るという行動を取ってしまった。これは今まで自分たちの国を持ったことがない神々にとって、自らが頂点に立ち国を治めることに惹かれたからである。欲望に駆られて主君の命令を無視する行為は、神としてあるまじき行為であった。人が作り出した神話には、人間くさい部分が多いが、アメノワカヒコのように葦原中国を乗っ取ってやろうという大それた願いを抱いたために、最後は死という結末を迎えてしまうのである。

 アマテラスは、次に刀剣の神の息子のタケミカヅチ(建御雷神)にアメノトリフネ(天鳥船神)を従わせて出雲に派遣した。

国譲りの神話

     出雲大社にある大国主の銅像
     出雲大社にある大国主の銅像

国譲り
 ヤマタノオロチを退治したスサノオはクシナダヒメと結婚し、それから四代目の大国主神(オオクニヌシ)が出雲の国を治めていた。オオクニヌシは出雲の国の英雄で国づくりの神である。オオクニヌシは須久那美迦微(スクナビコナ)と協力して天下を治め、まじないや医療などを教え国造りを完成させていた。

 オオクニヌシは縁結びの神として知られているが、それは多数の女神と結ばれたからで、実際にスセリビメ、ヌナガワヒメ、ヤガミヒメ、タキリビメ、カムヤタテヒメ、トトリヒメを妻に設け、180柱の神をもうけている。オオクニヌシは多くの女神と結ばれているが、この妻子の多さはオオクニヌシが広い地域で信仰されていたことを示す。

 また「縁とは男女の縁のみならずこの世の一切を統率する、人と人の根本的なもの」とされている。 さらにオオクニヌシの大国はダイコクと読めることから、大黒天として民間信仰に浸透し、オオクニヌシの子コトシロヌシは釣りが好きだったことから、恵比寿と同一視され、そのため大黒様と恵比寿は親子とされている。

 

国譲りの使者

 天照大御神(アマテラスオオミカミ)も大国主大神の祖先であるスサナオもイザナギから生まている兄弟の神である。だが高天原の神々は、葦原中国(地上)を統治するのはアマテラスの子孫のみとし、そのために出雲を従わせるため、神を出雲に遣わしたのである。

 タケミカヅチと天鳥船神は、出雲国伊那佐の小濱に降り立って、十束の剣を抜いて、逆さに立て、その剣の先に胡坐をかいて座り、大国主を威嚇しながら「大国主よ、この国は我が御子が統治すべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と尋ねると、大国主神は「私は年老いてしまったので、判断は二人の息子ゆだねる」と答えた。

 そこで息子のヤエコトシロヌシを探すと、美保の岬で釣りをしていた。タケミカヅチがやってくると、コトシロヌシは「お言葉に従います」と答えたが、乗っていた船をひっくり返して船の中に隠れてしまった。内心では反抗して隠れたのである。
 もう一人の息子タケミナカタは力自慢だったので、タケミカヅチに勝負を挑んできた。こうして葦原中国を巡って天神と国神との戦いがはじまった。しかしタケミカヅチ(天神)がタケミナカタ(国神)の手を握ると、タケミナカタの手は氷柱にかわり握りつぶされてしまった。タケミカヅチは建御雷之男神と書くように雷神、刀剣の神である。これには敵わないとタケミナカタは逃げ出し、御柱祭で有名な諏訪大社の神となった。

 タケミカヅチはオオクニヌシの元へと戻り、息子たちの降伏を伝え、オオクニヌシは立派な社を建てる事を条件に国譲りを承知した。この国譲りの際に「富足る天の御巣の如き大きな宮殿を建てて欲しい」と条件を出したが、この大きな宮殿というのが、出雲大社のことをさしている。

 大国主命の願い通り、出雲大社の屋根は高天原に届くほどの高く、地の底にまで柱が届いた。その高さは48mであるが、かつては96mであったと伝えられている。葦原中国はこうして平定された。

国譲りの重要性

 国譲りは、天皇家の祖先神である「天照大神」が旧来の支配者であった大国主(オオクニヌシ)に、国を譲るように要請した神話である。ここで重要なのはこれが事実であるかどうかではなく、なぜこのような神話が残されたかということである。

 世界の例を見れば、ある民族が別の土地に侵入すると、先住民族は殺されるか奴隷にされる。ところが国譲りの神話では「話し合いによって国譲り」が成立している。ここに日本人の持つ「話し合い絶対主義」の重要性が示されている。この国譲りの神話には、日本人の民族性が隠れているのである。

 またアマテラスが自らの判断で葦原中国(日本)を平定するということを決めたが、その方法をオモイカネや八百万の神々に任せたことである。アマテラスが全てを他神に任せたことは神々を統治するものとして絶対性が希薄になるが、これも日本神話の特徴である。この国譲りの後、アマテラスの子孫であるニニギノミコトが九州高千穂の霊峰へ天降し、日向の宮という大きな宮殿を築き、その後、神武東征などを経て日本は現人神である天皇のもとに統一された。

ニニギの神話

天孫降臨

 大国主の国譲りが成立し、天照大御神と高木神が「今、葦原中国(アシハラナカツクニ=日本)は平定された。天照大御神は以前から命じていたように「地上に降りて統治せよ」とオシホミミに命じた。

 そこで命じられたオシホミミが地上に降りることになったが、しかしオシホミミは「わたしが地上に降りるように身支度をしていたらニニギが生まれました。この子・ニニギを地上に使わすのが良いでしょう」と答えた。アマテラスはこれを了承して孫の二ギギが地上に降りることになった。

 ニニギは正式には天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシクニキシアマツヒコヒコホノ)という名で、ニニギは「豊かに実る」という意味で「天邇岐志」は天が賑わい「国邇岐志」は国が賑わうという意味である。
  ニニギの名前は穀物神を表しており、父のアメノオシホミミも同じ穀物神を表しているが、アメノオシホミミは勝利を表す名前で、ニニギは「国が繁栄する」という意味合いが強く示されていた。このためニニギは日本に降るのにふさわしい名前であった。

 ところが二ギギが降臨しようとした時、高天原と葦原中国の途中にある十字路で、周囲に光を輝かせる神が立ちはだかった。二ギギはアメノウズメ女神に「お前はか弱い女とはいえ、敵をにらみ倒す根性がある。神の御子が天降ろうとする時に、その道の途中に立って何をしているのか」と偵察を命じる。アメノウズメ女神とは天戸岩で裸踊りをした神である。そのアメノウズメが問いたところ、光を輝かせる神は道の案内のサルタビコであると名乗った。「私は国つ神のサルタビコノカミ(猿田毘古神)と申す。天つ神の御子が天から降られるときいて、その案内に参った」つまり心強い味方であった。このサルタビコの道案内で神々は地上に降臨した。

 二ギギと共に降りたのはアメノウズメや知恵の神オモイカネなど多くの神々で、「勾玉、鏡、草薙の剣の三種の神器」を携えていた。アマテラスは別れの際、この鏡をアマテラス自身だと思って祀うように命じ、オモイカネの神に祭司を命じた。この鏡とオモイカネは伊勢の神宮に祀られ、これが伊勢神宮祭祀の始まりとされている。

 二ギギは高天原の神座を離れ、八重にたなびく雲を押しわけ、日向の高千穂の峰に降り立ち宮を建てて住処とした。この神話はアマテラスの孫が降臨して地上の支配者となることから天孫降臨と呼ばれている。

 天照大御神は邇邇芸命に「稲穂」と「三種の神器」を授け、地上の国の永遠の発展を祝った(左)。この絵からも天照大御神が女神であることがわかる、

 天孫降臨、天照大御神の孫・邇邇芸命に天照大御神は邇邇芸命に「稲穂」「三種の神器」を授け、地上の国の永遠の発展を祝った(右)

 天孫降臨、天照大御神の孫・邇邇芸命が稲穂と三種の神器を手に高天原から地上に下る場面である。この途中で、邇邇芸命に道案内したのが猿田彦命である。(所属・画像提供・神宮微古館)(左)。


 生まれたばかりの幼いニニギを降臨させたのは、神話が作られた当時の政治状況を表わしている。当時は持統天皇の時代で藤原不比等が権力を持ち、持統天皇の子の草壁皇子が死んでしまい、持統天皇の次は持統天皇彼の家系とは違う皇子がなるはずだった、しかし持統天皇は次の天皇を孫の文武天皇に継がせた。幼いニニギが天孫降臨したのはこの正当性をつくるためとされている。

 

短命の始まり

 天から地上の支配を譲り受けた二ギギは宮殿を完成させ、ある時、能登半島の浜辺で一人の美しい娘・木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)に出会う。木花咲耶姫とは木の花(桜の花、あるいは梅の花)が咲くように美しい女性を意味している。その美しさに二ギギは結婚を申し込む。すると娘は「私はオオヤマツミノカミ(国津神)の娘です、父に尋ねてくださいと答えた。さらにわたしには姉がいますと付け加えた。そこでニニギは娘の父親に「おまえの娘を見た、嫁に欲しい」と言った。娘の父親は相手が天孫のニニギですから。この縁談を喜び、気を利かしてか勘違いしてか、それとも何かを企んでか姉も一緒にどうぞと、娘と姉の二人をニニギの元に送った。姉のイワナガも一緒に娶らせることで結婚を許すことになったが、姉のイワナガはあまりに醜いため、二ギギはイワナガを嫌い送り返してしまった。ニニギは姉や父から恨みを買ったことは言うまでもない。

 これを知った国津神は怒って二ギギに云った。「私が娘の二人を贈ったのは、イワナガが岩のように永遠の命を保ち、木花が咲くがごとく永遠に栄えることなのに、それなのにイワナガを送り返して来たからには、御子の命は儚くもつきてしまうであろう」。そのため二ギギの子孫である天皇に寿命がつけられてしまう。

 一方、二ギギはコノハナサクヤヒメと一夜の契りを結び、コノハナサクヤヒメは身籠もった。一夜で妊娠したため二ギギは、自分の子ではなく、どこかの神との子ではないかと疑う。コノハナサクヤヒメは怒って「天孫のお子でないなら、無事に生まれるはずがない」と云うと、産屋にこもって自ら産屋に火を放った。そして炎が燃えさかる中で3人の子を出産した。

 コノハナサクヤヒメは炎の中で出産したことから、火を沈める水神となり、富士山の噴火を鎮めるために、浅間大社に祀られている。

コノハナノサクヤビメ(上)とコノハナノサクヤビメが鎮まるとされる富士山と浅間神社

海幸彦・山幸彦の神話

 二ギギと夫婦になったコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)は兄弟を産む。つまり海幸彦・山幸彦で、ふたりは天の神と国の神(地上の神)の間に産まれた神様だった。火が照り輝く時に生まれたホデリノミコトは海で大小さまざまの魚を取っていたので海彦(ホデリ)とよばれ、、火が弱まったきた時に生まれた弟のホオリノミコトは山で狩りをして暮らしていたので山幸彦と呼ばれた。

 ある日のこと、山幸彦は獲物を獲る道具を交換しようと海幸彦にいった。兄のは許さなかっが、やっとのことで取り替えてもらい、海幸彦は山へ,山幸彦は海へ出かけ。しかし二人とも獲物がなく、山幸彦は一匹も釣れないばかりか兄に借りた釣針を海でなくしてしまう。それを聞いた兄はたいへん怒り、どうしても自分の釣針を返せと弟を責め立てた。
そこで山幸彦は自分の剣(十拳剣)をこわして500本の釣り針を作り,それを持って行って償おうとしたが,「なくした釣り針以外はいらない」と言って許してはくれませんでした。次に1000本作って持って行っても「元の針でなければだめだ」と言われてしまいました。

 どんなに探しても元の針を見つけることはできません。困り果てて泣きながら海岸にたたずんでいると,潮路の神で塩椎神(シオツチノカミ)という老人と出会った。山幸彦がわけを話すと,老人は竹で編んだ籠(かご)を作って小舟とし、これに乗ってワタツミノ神の宮殿へ行くように云った。

 さらに「私が小舟を押し流したらそのまま進みなさい。そのうちよい潮にぶつかるので,その流れに乗れば魚の鱗のように並ぶ宮が見えてくる。そこは綿津見の神(ワタツミノカミ:海神)の宮殿なので,門まで行ったら,そばにある泉のほとりに桂(かつら)の木があるので,その木の上で待っていなさい。綿津見の神の娘があなたを見つけて取りはからってくれるでしょう」山幸彦はその老人に言われるまま海に出て行った。

 やがてワタツミノ神の宮殿に着いた山幸彦は、井戸の水を汲んでいた海神ワタツミの娘のトヨタマヒメ(豊玉比売)と出会う。トヨタマヒメも山幸彦に一目惚れし、そのことを父の海神ワタツミに報告した。海神ワタツミは山幸彦が神の子とわかり,宮殿に招き入れた。そこでアシカの皮と絹で出来た敷物を何枚も重ねて座を作り,そこに山幸彦を座らせると,たくさんのごちそうやきれいな踊りで歓待した。海神ワタツミも喜んで二人の結婚を許した。しばらくして山幸彦はトヨタマヒメと結婚し海の神の家で暮らした。
 そのままワタツミの宮に住み着いて3年の月日が経ち、山幸彦は時々ため息をつくようになった。山幸彦は自分がここに来た理由を思い出し悲嘆に暮れていた。トヨタマヒメがそれを見て「もしかして,あなたは家に帰りたいのではありませんか」と尋ねた。山幸彦は自分の気持ちを語ると、事情を聞いたヒメは海神ワタツミに相談すると「なくした針を見つけてあげましょう」と言って海の中の全部の魚を集めて尋ねると、赤鯛が喉を痛めて物を食べることができず悩んでいることを知った。そこで赤鯛をよんで喉の奥を探ったところ釣針が引っかかっていた。海神ワタツミはこれを取り出し,清めてホオリノミコトに渡した。
 ワタツミヒメは釣り針を探し出したが、戻れば兄と争いになることになると思い、山幸彦に次のような秘策を授けた。釣針を兄に返す時に山幸彦に「呪文を唱えながら、後ろ手で返しなさい。兄が高い場所に田を作ったら低い場所に、低い場所に作ったら高い場所に田を作りなさい。私が水を操りますから兄は3年で貧しくなります。もしそのことで兄が攻めてこられたら、この塩盈玉で溺れさせてしまいなさい。兄が苦しんで許しを乞うならば今度は潮干珠で助けなさい」と、海の水を自由に操る潮満珠と潮干珠を山幸彦に授けた」。

 帰る時,山幸彦は一番早いサメに乗って1日で元の海岸にたどり着いた。サメに礼としてひも付きの小刀を首にかけてやった。地上に地上に戻った山幸彦は、ワタツミヒメの言葉とおりにした。すると兄は貧しくなり、この後、次第に兄弟の関係は悪化して遂に争いになった。貧しくなった兄が山幸彦を攻めてきたのである。そこで山幸彦は塩盈玉を使って兄を溺れさせると、海幸彦は頭を下げて降伏した。さらに海幸彦は山幸彦の守り神になることを誓った。

和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町)山幸彦が辿り着いた海宮の古跡。山幸彦はここに三年留まり、豊玉姫命を妃とした。
豊玉姫神社:鹿児島県南九州市知覧町。

左:ホオリとトヨタマヒメの邂逅。

右:トヨタマヒメと妹(タマヨリヒメ)。謡曲「玉ノ井」より(魚屋北渓)。

天皇家の始まり
 山彦と結ばれた海神の娘(トヨタマヒメ)は身ごもり、しばらくして夫の山彦のところに自らやって来て「天孫の子を海では産めなので、ここで産みます」と云うとその海辺の渚に鵜の羽を使って産屋を建て始めた。しかし産屋の完成が間に合わず、トヨタマヒメは産気づき、ヒメは山彦に「産む時になると、元の国の姿になって産みます。そこで、私も今、元の姿になって産みますから、お願いですから決して見ないで下さい」と頼み産屋に入った。
 しかしそう言われても、気になる山彦は産屋の中を覗いてしまった。するとそこには大きなワニ(和邇)がのたうち回っていた。驚いた山彦は逃げ出し、夫の裏切りを知ったトヨタマヒメはこれを知って恥ずかしくなり、ここには居られないと産んだ子を残したまま海に帰ってしまった。さらに地上の国と海神の国との境をふさいでしまった。
 生まれた御子はウガヤフキアエズと名付けられた。これは鵜の羽の屋根が葺(ふ)き終わる前に生まれたという意味である。母親のトヨタマヒメは妹のタマヨリヒメ(玉依比売)を遣わして、この子を育てさせた。
 そして成長した子は育ての親であるタマヨリヒメ(玉依比売)と結婚して、4人の子供をもうけた。末子の名前はイワレビコで、イワレビコこそが初代天皇・神武天皇のことである。
 日向神話で活躍する二ニギ、山彦、ウガヤフキアエズを日向三代と呼ばれている。一代目のニニギノミコトは、山の神オオヤマツミの娘コノハナサクヤヒメとの結婚して、山の支配権を得た。二代目のホオリノミコト(山幸彦)と三代目のウガヤフキアエズは、ともに海の神ワタツミの娘と結婚し、海の支配権を得た。こうして天と地と海の支配者としての資格を持った天つ神の子は大支配者となった。日向三代は神と天皇とを結ぶ重要な役割持つが、万能である天皇にも寿命があり、海に自由に出入りできないことを説明している。

ヤマトタケルの神話

 ヤマトタケルの神話

 ヤマトタケルは第12代景行天皇の子として誕生し、兄の大碓命(オオウス)とは双子の兄弟である。ヤマトタケルは後の名で、それまでの名は小碓命(オウス)といった。

 ある日,景行天皇の日代宮(奈良県桜井市穴師)に呼ばれた兄の大碓命(オオウス)は、父から美濃にいる兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の美人姉妹を召しつれてくるように命じられた。兵を連れて美濃に出かけた大碓命(オオウス)は,ふたりががあまりに美しい娘だったので、気に入ってしまい自分の下に置くことに決め、父には別の娘を差し出して誤魔化していた。しかしこのことが父の景行天皇に知るところになり、大碓命(オオウス)は父の前に顔を出しづらくなってしまった。そのため朝夕の食事にも同席せず、大事な儀式に出ないようになった。景行天皇は咎めなかったが、兄の大碓皇子は景行天皇を避けていたのである。大事な儀式にも出ないため、それを改めさせるために弟の小碓皇子を説得に行かせた。

 第二皇子の小碓命は景行天皇に呼ばれ、「兄の大碓皇子が食事の席に出てこないので、出て来るように諭しなさい」と命じられた。

 しばらくして帰ってきた小碓皇子は「兄がトイレに入っている所を掴みつぶし、手足を引きちぎって体を藁に包んで投げ捨てました」と報告した。

 小碓皇子は父親を裏切った兄の大碓命を許せなかったのである。しかし父景行天皇は勇猛ではあるが、小碓皇子の気性の荒々しさが将来災いを招くことを恐れた。そのため小碓皇子は皇太子の地位にありながら、日本中を遠征させられ、大和朝廷の勢力範囲を広げるために利用された。

 日本神話の英雄ヤマトタケルには、日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命というように表記が違う漢字名である。また日本の神話は、古事記、日本書紀でそれぞれ大きく違っているが、ヤマトタケルの遠征ルートも違っている。

 

熊襲征伐

 まず小碓命(オウス)が16才のとき、景行天皇は九州の熊襲(くまそ)を征伐するように命じた。九州では熊襲建(タケル)という二人の兄弟が、朝廷に従わずに反抗を続けていた。天皇は小碓皇子を遠ざけるため、熊襲建の討伐を命じたのである。

 天皇に疎まれた小碓皇子(オウス)は、熊襲建兄弟の討伐のため九州に向かう途中で叔母のヤマトヒメのいる伊勢に立ち寄った。伊勢にはアマテラスを祀る伊勢神宮があり、そこで小碓皇子(オウス)は叔母から授けられた小袖を持って九州の熊襲建兄弟の征伐に向かった。

 熊襲建の兄弟の大きな屋敷は強固な軍で守られ容易に攻め込めなかった。機会を待っていると、屋敷の増築完成の祝いの宴が催されることになった。そこで小碓皇子は髪を少女のように結び、叔母からもらった小袖を着て少女に変装して宴に紛れ込んだ。酒を飲んで上機嫌になっている兄弟を見ると,その前に進み出て目にとまるような仕草をした。色白で美しい小碓命に熊襲建の兄が声をかけてそばに座らせた。熊襲建は女装した小碓皇子を気に入り、傍に置いて酌をさせ宴が進んだ。

 宴も終わりに近づき人影もまばらになり、兄の王(川上梟師)もこの美女と今夜は楽しむだろうと思い、みんながそばを離れた。兄が小碓命を自分の膝の上に抱きかかえようとしたとき,小碓命はここぞどかりに懐にしのばせた剣を取り出して川上梟師の胸を刺した。熊襲建の弟は兄が短刀で一気に刺し殺されるのを見て外に走って逃げようとした。しかし小碓皇子は弟を追い背中から刀をさした。

 熊襲建の弟は、自分たち兄弟より強い者は西方にはいないが、倭にはいたこを知り,自分たちの「建」の名をもらってほしいと願い、「これからは日本武尊(ヤマトタケルのみこ)と名乗られるように」と言い残して絶命した。

 つまり熊襲建が最も強いと思い「タケル」を名乗っていたが、その自分を倒したのだから「タケル」の名を譲ると言ったのである。「建」とは勇敢な者という意味を持つ名前である。ここで初めて日本武尊(ヤマトタケル)の名前が誕生した。このようにして日本武尊は九州を平定すると、大和にある宮に戻る途中でも、山の神,川の神,河口の神などの大王に従わない者たちを征伐し次は出雲へ向かった。

 出雲征伐

 日本武尊は初め出雲の首長・出雲建(いずもたける)と仲良くなる振りをして山中に誘い出し、肥の川で沐浴をしている最中にこっそり出雲建の刀をニセモノとすり替えた。そして「太刀合わせをしよう」と言って刀を抜いた。出雲建の剣はニセモノだったので、出雲建は日本武尊斬り殺されてしまった。出雲建を見事に打ち倒すと父の景行天皇の元に戻った。日本武尊(ヤマトタケル)は熊襲に加え、出雲まで平定して意気揚々と凱旋したが、天皇からはねぎらいの言葉はなく、休む間もなく次は東の地の遠征を命じられた。

 父の景行天皇は,東国の12か国(伊勢,尾張,三河,遠江,駿河,甲斐,伊豆,相模:,武蔵,総,常陸,陸奥)が従わないので平定するように命じたのだった。

 ヤマトタケルは羽曳野で一人の娘と出会った。その名は弟橘比売(おとたちばなひめ)で、やがて二人は結ばれた。

 日本武尊は東に向う前に再び叔母のヤマトヒメ(倭比売)の元を訪ねて「天皇は私など死んでしまえと思っているのでしょう」と嘆いた。ヤマトヒメは日本武尊を励まし天照大神に献上した天叢雲(あめのむらくも)の剣を授けた。天叢雲(草薙の剣)はスサノオがヤマトノオロチの体内から取り出した聖剣である。さらにもしもの事があればこれを開けなさいと一つの袋を渡した。

 日本武尊は袋をもって尾張国(愛知県)に入ると、豪族の娘・美夜受比売(ミヤズヒメ)とと出会い,東国の平定後に結婚することを約束した。美夜受比売の兄の建稲種命(たけいなだねのみこと)は尾張の水軍を率いており、建稲種命を副将軍として東国の平定に出かけることとなった。

 ヤマトタケルは東征の途中,尾張の萱津(かやつ)神社に立ち寄った。村人たちが塩漬けの野菜の漬け物を献上すると「藪二神物(やぶにこうのもの)」とよんだことから,漬け物のことを「香の物」ともよぶようにもなった。この萱津神社の御祭神は鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)で漬け物の祖神である。

東の遠征

 相模の国に入る前で弟橘比売(おとたちばなひめ)が合流したが、東の遠征は苦難の連続であった。土地の役人がヤマトタケルを迎え,草原の神が従わないから成敗してほしいと沼に案内した。しかしそれは罠であった。いつの間にか草原に火がつけられ炎に囲まれてしまった。

 まさに絶体絶命、弟橘比売とともに焼かれてしまうところだったが、日本武尊は叔母から渡された袋を開けると、袋の中には火打石が入っていた。それを見て持っていた天叢雲(あめのむらくも)の剣でまわりの草を刈り,叔母にもらった火打ち石で向かい火をたいて火の向きを変えた。このとき風向きも味方し、ヤマトタケルは罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いた。天叢雲(あめのむらくも)の剣によって難を逃れたヤマトタケルはこの剣を「草薙の剣」と改名した。この地が静岡県の静岡市(旧清水市)で、そこには草薙神社があり、草原の地名が「草薙」で、ヤマトタケルは小高い丘に登り周りの平原を見渡した。この姿を見た土地の人たちはここを「日本平」と名付けた。

走水の海

 走水の海(浦賀水道)は三浦半島沖と房総半島にはさまれた海をさすが,船出をしたヤマトタケルたちを嵐が襲った。黒い雲が巻き起こり波が船を襲った。雷鳴がとどろき,激しい雨と風に船はなすすべもなかった。嵐で船が沈みかけ、覚悟を決めたとき同行していた妃のオトタチバナヒメ(弟橘比売)は、これは「海神の祟(たた)り」というと,その怒りを静めようと海に身を投げてしまった。自ら生け贄となって海に入り神を宥めると、荒波は鎮まり船は無事に上総(千葉県)に渡ることができた。

 七日後にオトタチバナヒメ(弟橘比売)の櫛が海岸に辿り着き、それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げてきた。日本武尊は悲しみの中でヒメの墓をつくり櫛を納めた。甲斐から相模へ行くとき煙を吐く富士山を見ている。

 こうして東国の神々を平定たヤマトタケルたちは甲斐,信濃長野,美濃大井,釜戸,池田から尾張の国境にある内津峠に入った。
 そこで早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から,甲斐での戦いの後,東海道を通っていたはずの建稲種命(たけいなたのみこと)が駿河の海で水死したことを聞いた。
 ヤマトタケルは「ああ現哉(うつつがな)々々」と嘆き悲しみ建稲種命の霊を祭った。これが内々(うつつ)神社の始まりで,実際に祭った場所は奥の院とされている。ヤマトタケルが建稲種命の霊を祭った内々を振り返ったとき,馬の尾が西を向いたのでこの地を西尾とよんだ。ここ神屋で休んで手を洗った。この清水は1年中かれることなくわき出たといわれ,小さな祠が建てられている。この後,ヤマトタケルは美夜受比売(みやずひめ)と再会した。

伊吹山

 無事に婚約者の美夜受比売(みやずひめ)の元へと帰った日本武尊は約束通り結婚し、次に伊吹山の神を征伐に行く。これまで負け無しだったので、素手で戦うからと叔母から授けられた草薙の剣を美夜受比売に預けて出てしまう。

 伊吹山を登り始めてしばらくすると日本武尊は白い大きな猪(イノシシ)を見かける。白い猪を伊吹山の使いと思い、神を倒した後で狩ろうと白い猪を侮っていた。ところがこの白い猪こそが伊吹山の神であった。

 怒った伊吹山の神は大きな大氷雨を降らせ、日本武尊にぶつけてきた。大氷雨に当たった日本武尊は気を失うが、なんとか泉の所まで辿りつき、どうにか山をおりるが身体は大きな痛手を受けてしまう。 

 伊吹山での戦いで疲れ果てたヤマトタケルは、やがて病にかかり、身体にムチを打って伊吹山を下り、愛しい故郷大和へと足を進めた。ヤマトタケルは鈴鹿の山が目に入ったが大変疲れていた。目の前の急坂を上るために杖をつきながら歩いた。この坂を杖衝坂とよび旧東海道に残っている。200mほど坂を上ったところで足を見るとたくさんの血が出ていた。大和を目指して歩き続けるヤマトタケルであったが,体力は衰え「わが足三重の匂(まか)りなして,いと疲れたり」と語った。このことからこの地を三重と呼んだ。

 しかしついに己の死期を悟り、「やまとは 国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる やまとしうるはし」

(大和は国の中で最も秀でている。重なり合う美しい山々、その山々に囲まれた大和は美しい)と詠んだ。ヤマトタケルは能煩野(のぼの)に着くとここで力尽きた。

白鳥

 日本武尊の死は宮にいる妃たちにも届き、駆けつけて悲しむと妃たちの目の前を、ヤマトタケルの魂が白鳥に姿を変えて天高く飛び去った。その白鳥がとまった場所に白鳥陵が設けられ、日本武尊が置いていった草薙の剣は熱田神宮に奉納された。

 ヤマトタケルの古墳の場所は「白鳥塚」鈴鹿市加佐登、「武備塚」鈴鹿市長沢「双児塚」鈴鹿市長沢,「王塚」鈴鹿市国府,「丁子塚」亀山市田村町などさまざま伝えられて定かではないが,明治12年に内務省が亀山市の能褒野神社西にある「丁字塚」と呼ばれる前方後円墳をヤマトタケルの陵と指定した。この御墓は全長90m,後円部の直径54m,高さ9mで三重北部最大の前方後円墳である。この能褒野神社にはヤマトタケル,弟橘姫命などが祀られている。

 また鈴鹿市加佐登町の加佐登神社はヤマトタケル,天照大御神を祭神し、この地は高宮の里ともよばれている。加佐登神社はもとは御笠殿(みかさどの)社といいヤマトタケルが最後まで持っていた笠と杖をご神体として祀っている。近くには奉冠塚があり着物がおさめられている。神社の北には白鳥陵があり,ここにヤマトタケルが葬られ白鳥となって飛んでいったとされている。古墳は東西78m,南北59m,高さ13mで、三重県最大の円墳で墳丘には葺き石が残されている。

神話の後

 次に初代天皇である神武天皇(イワレナビコ)が登場する所で古事記の上巻は終わる。神話はここまでで、神武天皇からは神話ではなくヒトの時代となる。

 「日本書紀」や「古事記」によれば、神武天皇は生まれながらに頭がよく、性格もしっかりしていて3人の兄がいたが15歳で皇太子になった。神武天皇が実在していたのか、あるいは架空なのかは不明であるが、その元になった人物は存在していたのであろう。

 神武天皇の東征軍で進んだ経路には、その遺跡が新たに発見されている。当時の天皇家は強い権力を持った日向の豪族であったが従わぬ者が多くいた。天皇家は歴史的に云えば豪族であるが、古事記風に云えば「神の子の子孫」である。

 神武天皇(イワレナビコ)が45歳になると、日向の高千穂で葦原中国(日本)を治めるのにふさわしい場所はどこかと兄たちと相談し、美しい大和に都をかまえるため、大軍を率いて九州の日向をでた。これを神武東征」という。

神武東征

 神武東征は、初代天皇イワレビコ(神武天皇)が九州の日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した話である。日向の都を大和に移す意味で「東遷」と呼ばれることが多く、宮崎の書物には「神武東遷」と記されている。

 イワレビコ(神武天皇)らは日向の美々津河口を出発したが、出発が急に早まったため、早朝村人を起こして回り、このことから現在も「起きよ祭り」として当地に残されている。また出発にあたり、餅の餡(あん)を包む時間がなかったため村人が小豆と餅を一緒につき込んだ。この餅は「つき入れ餅」とされ、現在でも宮崎の名産として売られている。

 日向を出発したイワレビコ(神武天皇)らは筑紫へ向かい、豊国の宇沙(宇佐市)から岡田宮に移動して1年を過ごし、さらに準備のために阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年間、吉備国の高島宮で8年間を過ごした。

 皇軍は多くの船団を率いて難波(大阪)に入り、後に河内(南大阪)へ入り、ここで兵船を整え、食糧を蓄えて生駒山を越え大和へ入ろうとした。

 

長髄彦との戦い

 河内の国の草香に上陸した神武軍は大和に向かう途中で、その地を支配する長髄彦(ながすねひこ)の軍勢が待ち構えており戦いを仕掛けてきた。そこで長兄の五瀬命(イツセ)の脛(すね)に流れ矢が当たり重症を負ってしまった。
 
イワレビコ(神武天皇)は守りの堅い大阪湾側からの侵攻をあきらめた。日神の子孫である皇軍が日に向って敵と戦うことは天の道に逆らうことと悟り、一度退却して敵を油断させ、日神の勢いを背負って日影が挿すように敵を倒そうとした。そこで紀伊半島を迂回して奈良盆地の東側から侵攻することを決意する。部下たちはその意見に賛同した。皇軍は紀伊半島を迂回するため、イワレビコ(神武天皇)全軍に退却命令を出し、海で紀伊半島を回り込み、熊野から上陸することにした

 この時、風にあおられ船は少しも前へ進まない。この状況を嘆いた五瀬命(イツセ)は脛の傷が酷くなり、報復できずに死んでしまうことを憂いながら雄叫びを上げ、紀ノ川の河口で没した。

 海路を渡っている時に、熊野の荒坂の津(熊野市二木島)で暴風雨に遭い、兄の稲飯命(イナイ)と三毛入野命(ミケイリノハ)は嵐に対して怒り、剣を抜いて海に入水した。波を踏んで海の彼方の常世の国へ渡ったのである。

 多くの兵船を失い、やっとのことで上陸を果たしたイワレビコ(神武天皇)は皇軍を率いて熊野荒坂津へ入り、そこでニシキトベという者を殺した。そのとき土地の神が毒を吐いたため、イワレビコと皇軍は毒気を受け、今度は全軍が倒れてしまった。

 この時、神武天皇のピンチを救ったのが霊剣・布都御魂(ふつのみたま)と八咫烏(やたがらす)である。

 熊野は山深い、道案内なく熊野山中の縦断は困難であった。憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下(たかくらじ)に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。この霊剣の一振りの太刀で倒れていた全軍が目を覚ました。 その剣の霊力が、毒気から覚醒させ、皇軍に活力を得て復活させたのである。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマとして、現在、石上神宮に鎮座されいる。

 目を覚ました皇軍は早速進軍しようとしたが想像以上に山が険しく、とても山を越えられそうになかった。しかしその日の夜、神武天皇の夢の中に天照大御神が現れ、頭八咫烏(ヤタノカラス)を使わして道案内をさせると伝えた。

 すると翌日、ヤタガラスが天空から駆け下りてきて神武天皇の弓に止まり光り輝いた。ここで三本の足を持つ八咫烏(やたがらす)が登場する。八咫烏は神武天皇の東征の際に遣わされた神の使いで、熊野国から大和国までの道案内をした。この八咫烏は現在、日本サッカーのシンボルマークで日本選手が左胸に付けている。八咫烏は「幸を運ぶ鳥」とされている。

 大和には兄に重症を負わせた強敵・長髄彦(ながすねひこ)がいた。その長髄彦と遂に決戦となった。連戦するもが一進一退で完全に勝てなかったが、天が曇り雹が降ってきたところで鵄(とび)があらわれ、イワレビコ(神武天皇)の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへイワレビコ(神武天皇)の軍が攻めかかった。饒速日命が長髄彦を殺して長髄彦の軍は降伏した。このようにイワレビコ(神武天皇)は苦戦をしいられたが放たれた矢が威力を発し、長髄彦の軍を打ち破ることができた。

 また高尾張邑には土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたが、葛網が罠を作って捕らえて殺し、これに因んでこの地を葛城と称した。これによってイワレビコ(神武天皇)は中州を平定し、畝傍山の東南の橿原の地を都と定めた。

 イワレビコ(神武天皇)は大和を平定すると、宮殿を建てて初代天皇になった。ちなみにこの神武天皇の祖父は「海幸、山幸」神話の山幸彦で、その父親は「天孫降臨」神話のニニギノミコトで、そのニニギノミコトの親が天照大御神である。つまり神武天皇は天照大御神の子孫になる。

 神武天皇については霊剣などの神々が次々に現れ神話めいた話が多い。また神武天皇は古事記では137歳、日本書紀でも127歳まで生きたとされている。神武天皇の死後は後継者に2代綏靖(すいぜい)天皇が即位し、この綏靖天皇から第9代の開化天皇までの8代天皇は系譜だけで業績は書かれていない。

 業績が書かれているのは10崇神天皇からで、このことから8天皇を欠史八代と呼び、皇室の起源の古さと権威のために偽作された可能性がある。古事記の下巻になると神との関わりは極端に減り、崇神天皇から各天皇の業績が書かれている。

  さらに日本書紀では崇神天皇からの記述が詳しくなり、古代の日本に何があったのかが分りやすい。古事記は第33代推古天皇で幕を閉じるが、推古天皇で終わったのは、古事記は日本の古代を記す書で、古事記の編集を命じた天武天皇(第40代)の時代にとっては推古天皇までが古代だったのである。古事記から8年後に書かれた日本書紀の世界観は古事記とは異なっている。古事記は天皇家の正当性を、日本書紀は中国に日本の正史として認められることを目的にしているからである。