日明関係

大陸との関係

 元と我が国には正式な外交関係はなかったが、私的な商船は往来していた。1325年、北条氏が建長寺の再建費用を得るために、1342年には足利尊氏によって天龍寺の建立費用を得るために、それぞれ元に船を派遣して小規模ではあるが貿易を行っていた。

 南北朝の動乱の頃、武装した西国の武士や漁民たちが、船団を組んで朝鮮半島や中国大陸南部の沿岸を襲うようになった。これらの海賊は倭寇と呼ばれて沿岸住民から恐れられた。倭寇は南北朝の戦乱時に経済的に困窮した日本の漁民や地方豪族が、朝鮮半島に出向いて略奪することから始まった。彼らには「元寇の敵(かたき)討ち」との気持ちがあっ た。この倭寇は日増しに激しさを強め、いつしか中国大陸沿岸まで襲うようになった。

 倭寇は襲来の時期によって二つに分けることができる。南北朝時代の前期倭寇は対馬や壱岐、あるいは肥前の松浦地方を拠点として、日本人が中心になって構成されていた。これに対して16世紀後半からの後期倭寇は平戸や五島を拠点としていたが、その大部分は中国人であり中国沿海での密貿易を主に行っていた。「後期倭寇」は、日本人の仕業ではなかったが、これは政府に不満を持つ朝鮮や中国の土豪や民衆が、日本人の乱暴に便乗して暴れ、いつしか本家のお株を奪ったものだった。なお、後期倭寇は豊臣秀吉によって鎮圧されている。

 14世紀の半ばには元の勢力は衰え、1368年に朱元璋(しゅげんしょう)によってが建国された。明の初代皇帝・朱元璋は「日本との国交を回復したい」と博多に使者を出してきた。中国の伝統的な中華思想により、近隣諸国に対して朝貢外交を求めてきたのである。

 しかしそのころの九州は懐良親王(後醍醐の皇子)が率いる南朝軍に制圧されていたため、明の使者は北朝の天皇や足利将軍に会うことが出来ず、仕方なしに懐良親王を「日本国王」に任命した。ここで日本国王との叙任を受けたことは、日本が中国と朝貢関係を結んだことを意味しているが、もっとも懐良親王の主権は九州にしか及ばず、やがて懐良親王は足利将軍が派遣した九州探題・今川了俊に敗れて菊池一族とともに肥後(熊本県)に落ち延びた。

 明朝はこの情勢を受けて、京都の足利義満(三代将軍)を日本国王に任命しなおした。貿易が生み出す利益を第一に考えていた義満は、日本国王の名称に大いに喜び、積極的に大陸との交易政策を推進した。義満にとって明との貿易で利益があれば朝貢関係など問題視しなかったのである。義満は天皇ではなく自分を日本国王と認定されることのほうがよほど嬉しかった。足利義満の権力・権勢は天皇以上であり、自分が国王でありいずれ天皇にとって代われると思っていた。

 1401年、義満は国書を明に送り正式な国交を開く。その国書には「日本国王臣源」と書かれていた。これは自分は明の認めた国王であり、明の臣下であることを意味しており、臣下の礼儀にのっとって明へ使節を派遣したのである。使節の往来が続いた後、1403年義満は冊封を手に入れて勘合貿易の正式な許可を得ることができた。義満は明との国交を再開うるが、これは日本が中国の臣下を意味しており、聖徳太子以来の我が国の中国からの独立性を損なうものであった。

 明の皇帝はまず倭寇の取り締まりを日本に求めてきた。そこで倭寇と正式の貿易船の区切りをするために勘合符という合札を用いた。このようして日明貿易が始まるが、明から交付された勘合と呼ばれる証明書を、日明の両国が照合して私貿易と区別したことから勘合貿易と呼ばれている。

 この貿易は朝貢貿易であったが、毎年の遣明船の往来で義満は莫大な富を得た。義満は明貿易で唐からのモノの輸入だけでなく、中国の精神文化をも取り入れ、それが北山文化の主軸となった。足利義満は文化と経済の発展に尽力をつくし、日本国王としての威信を背景に皇位簒奪を狙った。しかし1408年に50歳で病没してしまう。朝廷勢力によって暗殺されたのかもしれない。

 日明貿易は朝貢形式を屈辱的外交として嫌った第4代将軍の足利義持によって、1411年に明貿易をいったん中断するが、幕府の財政確保を優先した第6代将軍の足利義教によって1432年に再開された。日明貿易は、それまでの自主独立の外交路線に反する朝貢貿易であったが、宗主国の立場である明が滞在費や運搬費などのすべての費用を負担したので、我が国は大きな利益を得ることができた。
 貿易による我が国からの輸出品は、刀剣や鎧などの武具、銅や硫黄などの鉱産物、扇や屏風などの工芸品が中心であった。輸入品銅銭が圧倒的に多く、その他には生糸や高級織物などであった。なお銅銭は明銭として我が国で普及し、日本の貨幣の流通に大きな影響をもたらした。
 勘合貿易には大名、寺社、商人も参加し、博多などに集中した巨大な商業資本は積極的に貿易船を出した。幕府が衰え始めた15世紀の後半に入ると、明との貿易は堺の商人と結んだ細川氏、博多の商人と結んだ大内氏の手に移った。両者は貿易の利権をめぐって争い、1523年に明の貿易港である寧波(ニンポー)で武力衝突した。この争いを寧波の乱という。両者の争いは大内氏の勝利に終わり、以後、大内氏が貿易を独占するが、1551年に大内氏が滅亡すると貿易は廃絶となった。

 

朝鮮との交易
 14世紀後半以降の朝鮮半島では倭寇の討伐で名を挙げた李成桂が、1392年に高麗を倒して新たに朝鮮を建国した。朝鮮が我が国に倭寇の禁止と通交とを求めると、室町幕府の第3代将軍・足利義満がこれに応じて日朝両国は国交を開いた。
 我が国と朝鮮との日朝貿易は、幕府の他にも守護大名や有力国人(地方豪族)、あるいは商人までも参加したために貿易船の数が非常に多くなった。
このため、朝鮮は1443年に嘉吉条約(かきつじょうやく)を結んで、対馬の宗氏に貿易の統制権を与え、これ以降の朝鮮との貿易は主に宗氏を通じて行われた。なお李成桂が建国した朝鮮は、古代に存在した古朝鮮と区別するために李氏朝鮮と呼ばれている。
 朝鮮は日朝貿易のために富山浦(ふざんほ)・乃而浦(ないじほ)・塩浦(えんぽ)の三つの港を開いて、我が国からの使節の接待と貿易の管理を行うために、首都の漢城(ソウル)に倭館を設けた。
 1419年、日朝貿易は朝鮮が倭寇の本拠地を対馬と誤認して襲撃した応永の外寇によって一時中断したが、その後は活発に行われた。貿易では日明貿易での勘合をまねた通信符が用いられ、我が国からは銅や硫黄などの鉱産物や工芸品、あるいは琉球貿易で入手した蘇木(染料)や香木が輸出された。
 朝鮮からは当時の我が国では生産されなかった木綿が大量に輸入され、それまでの麻に比べて保温性が高く作業衣料に適していたため、多くの人々に広く利用され我が国の生活様式に大きな影響を与えた。
 やがて朝鮮が日朝貿易を厳しく統制したため、これに不満を持つ三浦の日本人住民と現地の役人との間で1510年に紛争が起きた。この三浦の乱(さんぽのらん)によって、日朝貿易は衰退していった。

琉球・蝦夷との交易
 15世紀に入ったころの沖縄島では、北山・中山・南山のいわゆる三山による勢力争いが続いていたが、中山王の尚巴志(しょうはし)が1429年に三山を統一して、首里を王府とする琉球王国をつくり上げた。
 琉球は明との藩属国(明を宗主国とする)を保ちながら我が国とも国交を結び、海外貿易を盛んに行った。琉球貿易は商船の行動を南方のジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島にまで範囲を広げ、東アジアから東南アジア一帯における中継貿易の方式を行った。
 具体的には、琉球の商船が南方から購入してきた蘇木(染料のこと)や香木などを我が国の商人が買い取り、あるいは琉球船が博多まで乗り入れたりしていた。これらの貿易商品は我が国によって中国や朝鮮へ転売された。
 首里の外港である那覇は、貿易における重要な国際港となって栄え、情緒豊かな琉球文化をもたらした。なお琉球王国の民俗の実態をうかがえる史料としては、琉球の古い歌謡である「おもろ」が集められた、琉球の万葉集ともいわれる「おもろそうし」として知られている。

蝦夷との交易
 蝦夷地(えぞち)では、14世紀の頃に渡島半島(おしまはんとう)在住のアイヌが津軽との間を往来して、鮭・昆布・毛皮などの北海の産物を我が国にもたらしていた。これらは津軽の十三湊(とさみなと)と畿内とを結ぶ日本海交易によって京都にまで運ばれた。 
 やがて奥州の住人の中から、渡島半島に館をつくり移住する人々が現れた。彼らはアイヌから和人(わじん)と呼ばれ、津軽の豪族である安藤氏の支配に属していたが、和人の相次ぐ進出は次第にアイヌを圧迫するようになる。
 1457年、アイヌは首長のコシャマインを中心に蜂起して和人の館を次々と攻め落とした。しかし、渡島の領主であった蠣崎氏(かきざきし)によって鎮圧された。この事件によって名を挙げた蠣崎氏は、江戸時代には松前氏を名乗り蝦夷地を支配する大名となった。
 なお、この当時の和人の館は道南十二館と呼ばれており、現在では函館市にある志苔館(しのりたて)が有名である。