後醍醐天皇

 後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、南北朝時代を作り上げたことから、日本史上重要な位置づけがなされている。しかしなぜ後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうとしたのか、なぜ隠岐に流されたのか、なぜ鎌倉幕府側の足利尊氏が寝返って南北朝時代となったのか。鎌倉時代末期から南北朝にかけてのわずかの期間に様々な事件が起きていて複雑であるが、その中心人物である後醍醐天皇について分かりやすく説明したい。


両統迭立(てつりつ)

 鎌倉末期、朝廷に皇位継承権を巡る大きな問題が起きた。その原因を作ったのは第88代・後嵯峨天皇で、後嵯峨天皇は次の第89代・後深草天皇に譲位して院政を行った。このまま後深草天皇の系譜に皇位が継承されていれば内部対立は起きなかった。しかし後嵯峨上皇は後深草天皇に、弟の亀山天皇への譲位を強く迫ったまま死去し、しかも次の天皇を決めずに鎌倉幕府の推薦に任せたのである。

 後深草天皇と亀山天皇は兄弟である。こうなると天皇の位や私有地をめぐって、後深草天皇の「持明院統」と亀山天皇の「大覚寺統」という二つの系統にわかれ(両統迭立)、亀山天皇の次は伏見天皇ではなく後宇多天皇になった。このように亀山天皇以降、皇位継承権を巡る対立が深まり、大覚寺統と持明院統との不満や軋轢は強まり、これが南北朝の遠因となった。朝廷内では皇位後継者をめぐる内紛から、朝廷は持明院統と大覚寺統に分裂し140年もの間争うことになる。

 朝廷内では皇位継承権の問題を解決できず、当時の朝廷は鎌倉幕府の強い支配下にあったため、鎌倉幕府の仲裁によって天皇を10年ごとに両系から交互に出すことになった。天皇の在位期間は10年と決まっており、次の天皇は鎌倉幕府が決めることになった。

 この両統迭立によって朝廷の皇位継承は一時的に安定したが、天皇を決める権限幕府にあり、天皇に即位しても10年後には天皇の座を譲らなければならなかった。つまり自分の嫡男を次の天皇にしたいと思ってもできなかった。

 後醍醐天皇の兄である後二条天皇が第94代天皇となったが、1308年に24歳で急死したため、次の天皇は持明院統へ移り、花園天皇(95代)が12歳で即位した。花園天皇は若年だったので、当然、持明院統の父の伏見上皇や兄の後伏見上皇が「院政」を行った。

後醍醐天皇の誕生

 元寇から40年後、鎌倉幕府の統治権力を北条氏が握るなかで、1318年2月、京で後醍醐天皇の即位式が行われた。現在でも天皇を今上天皇と呼ぶように、天皇の名は死後に「おくり名」として名付けられるのが通常であった。しかし後醍醐天皇は現役時代から醍醐天皇の後の天皇という意味で後醍醐天皇と名乗った。

 醍醐天皇とは平安時代のはじめの頃の天皇で、藤原時平・菅原道真を左右の大臣にして、その上にたって天皇自らが政治をおこなった。そのため醍醐天皇の政治は「延喜の治」とよばれ、その後、藤原氏による摂政政治になり、次に退位した天皇が上皇となって院政がおこなわれ、鎌倉幕府になると北条家が朝廷を左右するようになり、次期天皇さえも鎌倉幕府に決定権があった。

 後醍醐天皇は、かつての醍醐天皇の政治にあこがれ、自らを後醍醐と名乗ったのである。後醍醐天皇は幼少期から何不自由なく宮廷の中で生活していたが、現実の政治に意欲を燃やし、朱子学(儒教)に傾倒して、国の実権を握る鎌倉政権を深く憎んでいた。

 そのため後醍醐天皇は幕府を滅ぼし、かつての天皇中心の国家に戻そうとしていた。すなわち藤原氏以前の天皇中心の政治を理想としたのである。

 

院政
 院政とは天皇が生きているうちに天皇の座を後継者に譲って上皇になり、上皇が天皇に代わって政務を行うもので、即位した天皇は名ばかりで、権威・権力は上皇が握ることになる。

 後二条天皇が亡くなると、第95代に花園天皇となり、10年交代の約束により、次は後宇多天皇の第2皇子であった尊治親王(後醍醐天皇)が中継ぎとして皇位継承権が巡ってきた。中継ぎとされたのは後二条天皇の皇太子が幼かったからである。このようにして1318年に大覚寺統の後醍醐天皇(31歳)が第96代天皇になった。

 しかし父の後宇多上皇が再び院政を開始したため、後醍醐天皇は名ばかりの天皇になり、さらに後醍醐天皇は「中継ぎ」であり、自分の子である護良親王に皇位継承権がないことが不満であった。次期の天皇は大覚寺統の後二条天皇の皇子がなる予定であった。このように次期の天皇を継承し、決定するのは鎌倉幕府の執権・北条氏だった。

 1321年、後醍醐天皇は父・後宇多天皇の院政を停止させると、自分中心の天皇親政を復活させようとした。後醍醐天皇は「鎌倉幕府も摂政も関白も置かずに、天皇みずからが政治の中心となる朝廷政治」を目指した。


討幕計画(正中の変

 「なぜ朝廷が鎌倉幕府の指図を受けなければならないのか。このまま幕府の言いなりになれば、自分も天皇の地位からひきずりおろされることになる」、このように「天皇中心の政治」をめざした後醍醐天皇の怒りやあせりが強くなっていった。

 鎌倉幕府の指名で、次の天皇は持明院統の量仁親王に決まっており、大覚寺統の後醍醐天皇は窮地に追い込まれていた。後醍醐天皇は吉田定房、北畠親房らを登用して政治の中心機関・記録所をつくり政治改革を行うが、後醍醐天皇の政治は思うようにいかなかった。

 いっぽう蒙古襲来以来、鎌倉幕府の政治は乱れ、恩賞などの不満から御家人の恨みの声が強くなっていた。幕府の執権北条氏だけが繁栄し、ほかの御家人は貧しくなるばかりで、各地に幕府に逆らう「悪党」がふえ、社会不安が高まった。しかし鎌倉幕府は悪党らを取り締まらなかった。

 元寇以降、鎌倉幕府の支配力は急速に衰えていった。鎌倉幕府の役割は武士の利益を保護し、土地問題を調停することであったが、それが出来にくくなっていた。元寇の役で蒙古軍を退けたが、全国の武士達は疲弊の極地にあった。武士達は幕府の命令で自前で戦い、幕府側も武士達に恩賞を与えたかったが与える土地がなかったからである。執権北条時宗は山積する問題を前に34歳の若さで死去した。

 恩賞をもらえず、訴訟を起こせば幕府の要人に賄賂を贈る方が勝つ。これでは何のための幕府なのか。 御家人たちの不満の矛先は北条氏に向けられた。時宗の後を継いだのが14歳の北条貞時で、その後を継いだのが最後の執権となる北条高時であった。

 鎌倉幕府は源頼朝が開いた幕府なので、北条氏に不満を持つ武士は多くいた。後醍醐天皇はこの機会を狙って倒幕の計画を立てた。

 1324年西国から反幕府運動が起きた。後醍醐天皇にとってはこの西国の反幕府運動は渡りに船であった。貴族たちは後醍醐天皇が朝廷の権力を取りもどしてくれることを期待し、後醍醐天皇は側近の日野資朝・俊基らと鎌倉幕府の討滅を計画するが、その計画が鎌倉幕府に密告されてしまう。

 日野資朝は佐渡に流されたが、日野俊基は無罪となり、後醍醐天皇は幕府に釈明して許された。天皇が武家に弁明することは前代未聞だった。正中の変)このように第1回目の倒幕計画は事前に発覚して失敗したが、これが第2回目の挙兵、元弘(げんこう)の変につながってゆく。

 

 元弘の乱

 正中の変から7年後の1331年、後醍醐天皇は再び討幕を企てるが、天皇側近の吉田定房が幕府に密告し、倒幕計画が暴露して六波羅探題(幕府)の軍勢が御所に乗り込んできた。後醍醐天皇は三種の神器を持って女装してひそかに京都を脱出して比叡山に向かった。しかし延暦寺は六波羅探題に降伏しており、奈良の東大寺と興福寺は幕府側なのか朝廷側なのか判断できなかった。

 

笠置山での霊夢
 後醍醐天皇は比叡山から笠置山の笠置寺に潜伏したが、自身の周りに名のある武将が全くいないことを不安に感じていた。思い悩んで寝ていると夢を見た。それは「庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下に官人が座っていた。南に設けられていた上座にはまだ誰も座っていなかった」その席は誰のために設けられたのかと不思議に思っていると童子が来て「その席はあなたのために設けられたもの」と言って空に上って消えてしまった。

 後醍醐天皇は夢から覚めると、夢の意味を考えた。「木」に「南」と書くと「楠」という字になる。このことに気付き、寺の衆徒に「この近辺に楠という武士はいるか」と尋ねると、河内国金剛山(大阪府南河内郡千早赤阪村)に楠正成という者がいるということだった。後醍醐天皇はすぐに楠正成を笠置山に呼び寄せた。

 後醍醐天皇は笠置寺に入るが、すぐに笠置山は北条軍(六波羅軍)7万5000騎に包囲された。戦力の面では圧倒的に不利な状況にあったが、笠置山は天然の要害で幕府側相手に天皇軍の兵3000人は善戦し笠置は落ちなかった。笠置山は標高300メートル足らずの低山であるが傾斜の強い天然の要害であった。

 

後醍醐天皇の流罪
 執権・北条高時は20万7600の大軍を笠置へ向けて出発させるが、到着前の9月29日、風雨の激しい夜半に笠置山裏手から幕府軍の精鋭が笠置城内へ忍びこみ放火し、これが契機となって笠置山は火の海となり陥落した。

 後醍醐天皇は楠木正成の籠もる赤坂城を目差したが敗走軍からはぐれ、さ迷う中で幕府軍に捕えられた。後醍醐天皇の度重なる討幕計画に対し、1332年に鎌倉幕府は、かつての後鳥羽上皇と同様に隠岐へ流罪にして持明院統の光厳天皇を新たな天皇にした。しかし今回はかつての承久の乱のときとは時勢が変わっていた。

 

児島高徳
 児島高徳は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての備前出身の武将で太平記に登場する。元弘の乱で隠岐に流される後醍醐天皇を、途中の船坂山で奪回しようとその跡を追ったが果せず、高徳は播磨・美作国境の杉坂まで追うが追いつけずに軍勢は雲散霧消してしう。

 夜になって宿舎に忍び込むが、警備の厳しさから救出をあきらめるが、児島高徳はせめて志だけでも伝えようと、庭の桜樹の幹を削って十字の詩を書いた。いずれお助けに来るので、それまで望みをもたれるようにと、次のの中国の故事「天莫空勾践 時非無笵蠡」を桜の幹に書き残したのである。  
 朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は、何と書いてあるのか解らなかった。外が騒がしいために仔細を聞いた後醍醐天皇は、この詩を見られてすぐに意味を理解し微笑まれた。つまり天は越王勾践を破滅させるようなことはしない。必ず范蠡のような忠臣が現れて勾践を助ける。後醍醐天皇の場合も范蠡のような忠臣が現れて助けるであろう。それまでしばしお待ちくださいと言う意味であった。

 

後醍醐天皇の脱出
 後醍醐天皇は天皇の座を奪われ島流しになったが、隠岐島にも天皇方につく役人がいた。また潜伏していた楠木正成が再び挙兵すると六波羅探題勢を撃破し、さらに護良親王が吉野で挙兵した。

 千早城の楠木正成が鎌倉幕府相手に勝利したとの知らせは日本各地に伝わり、後醍醐天皇も名和長年らの力を借りて隠岐島から脱出すると、伯耆・船上山にて倒幕の綸旨を天下へ発した。
 後醍醐天皇の挙兵によって、西国の反幕府勢力は「大義名分」を得て立ち上がった。各地では執拗な戦いが繰り広げられ、特に河内の豪族・楠木正成の勢力は強力で、正成が篭る千早城は鎌倉幕府の大軍の猛攻を頑として撥ね付け幕府軍を苦しめた。

 これを鎮圧するため、鎌倉幕府は足利尊氏軍を送るが足利尊氏は後醍醐天皇を倒さず、逆に幕府の六波羅探題を攻め、新田義貞は鎌倉を攻め鎌倉幕府を攻撃した。足利尊氏と新田義貞が鎌倉幕府に反旗を翻したのは、すでに世の情勢が変わっていたからである。

 天下の情勢は天皇方に傾き、1333年、幕府を見限った御家人が続々と朝廷に忠誠を誓った。幕府側の足利尊氏と新田義貞が、それぞれが京都の六波羅探題と鎌倉を攻略し、執権・北条高時ら総計800人余りが最期まで鎌倉で戦い壮絶な最期を遂げた。日本は再び後醍醐天皇中心の中央集権国家として生まれ変わることになる。

建武の新政

 1333年、足利尊氏によって京都・六波羅探題が攻略され、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした。後醍醐天皇は帰京の途上、摂津国(兵庫)で幕府滅亡の知らせを聞いた。後醍醐天皇は公家や武士の助けを借りて150年ぶりに鎌倉幕府を滅ぼすことに成功したのである。

 後醍醐天皇は京都に帰ると「朕の新儀は未来の先例なり」と声明し、光厳天皇を廃位させ後醍醐天皇による天皇親政を開始することになる。

 元号が建武に代わったことから、1334年のこの新政は「建武の新政」と呼ばれている。後醍醐天皇は後醍醐天皇自ら指示の出せる政治、つまり幕府、摂政・関白などが関与しない「天皇中心の政治」を行うことに執念を燃やした。

 それまでの政治は天皇は飾り物で、平安中期には藤原氏が摂関関白となり、上皇が院政をしき、平安後期には征夷大将軍が幕府を開いて実際の政治を行っていた。これらの政治を否定して、天皇中心の政治を行おうとした。これを建武の新政という。

 後隠醐天皇は記録所・雑訴決断所・恩賞方を新設し、記録所は一般の政治を扱う最高決定機関で、雑訴決断所は領地争いなどの裁判を行い、恩賞方は手柄を調べ褒美を与える部署である。また京都を守る武者所の長官には新田義貞が、征夷大将軍には護良親王がなった。地方組織としては鎌倉は後醍醐天皇の子・成良親王と尊氏の弟・足利直義を、東北には後醍醐天皇の子・義良親王と北畠親房の子・顕家をつかわして治めさせた。全国に国司と守護を設置したが、権限は国司のほうが守護より上であった。なお勲功第一の足利尊氏は重職には任じられていない。そのため世間では「尊氏なし」と呼ばれ、不可解に思われていた。尊氏は「後醍醐天皇のやり方じゃ絶対うまくいくわけがない」と考え、わざと政権の中に入らなかったとされている。

 いずれにせよ、この新政府を構成した者たちは同床異夢で、天皇を中心とする朝廷勢力と足利尊氏を中心にする武士勢力では「建武の新政」に寄せる期待が根本的に異なっていた。

 武士団の多くが鎌倉政権を見限ったのは、鎌倉幕府が武士の権益の保護や利害の調整をはたさなかったからである。武士たちは鎌倉政権に代わる「新しい幕府」を期待していた。すなわち利害調整能力を持つ新たな政府であった。

 後醍醐天皇が武士たちの気持ちを満たす政策を行えば問題はなかったが、朝廷は失政を繰り返した。天皇中心の政治を目指した後醍醐天皇は、貴族や寺院たちを優遇し、鎌倉幕府を倒すために命をかけた武士たちにはほとんど恩賞を与えなかった。このため多くの武士たちは不満を持つことになる。

 最悪だったのは「公地公民制」を復活させ、武士の所領をいったん国有化したことだった。武士たちは所領の権益を確保するためには、京都の新政府から改めて所領を下賜してもらう手続きが必要だった。その結果、土地所有を巡っての係争が相次ぎ、その量は新政府の裁判調停能力をはるかに超えていた。

 日本を支える基盤である武士団は、後醍醐の新政によって鎌倉政権よりも大きな不利益を被ったのである。

 日本の政治機能を「朝廷に一元化」する後醍醐天皇の政策は、考えとしては間違いではなかった。しかし後醍醐天皇の政策は世の現状を無視した時代錯誤と言うほかない。後醍醐天皇が短期的でも武士団の権益を保護する政策を進めていれば、違った展開になっていただろう。

 戦力を持たない天皇や貴族が再び政治の中心になることはありえなかった。戦いに勝つには戦力が必要で、戦うのは武士であり貴族や天皇ではなかった。鎌倉幕府の誕生によって武士たちは自分の力に目覚め、何かあれば自分たちが武力に訴えれば、武力のない貴族や天皇は何もできないことを知っていたのである。

 朝廷の失政を見て北条一族の残党が反乱を起こした。その中でも最強の勢力を誇る北条時行の軍勢は鎌倉を占領するほどの勢いであった。そのため朝廷軍の総司令官・足利尊氏が出陣して反乱軍を崩壊させた。

 諸国の武士団は古い鎌倉幕府の再興よりも、足利尊氏による新たな幕府を希望するようになった。このことに気づいた尊氏は、鎌倉に腰を据えると軍功のあった武士たちに勝手に恩賞をばら撒いた。朝廷の許可を得ないこの行為は、事実上の朝廷への独立宣言であった。

 ちなみに後醍醐天皇の第1皇子・護良親王(もりよし)は足利尊氏が反乱を起こすのではないかと怪しみ後醍醐天皇に忠告したが、後醍醐天皇は足利尊氏の「あなたの息子の護良親王が反乱をたくらんている」という言葉を信じ、1335年に護良親王を拿捕し、鎌倉の東光寺に幽閉させた。1336年の中先代の乱の際に、鎌倉にいた足利尊氏の弟・足利直義の命により護良親王は殺害された。敵に護良親王を擁立されることを警戒したのである。

 山梨県の石船神社に祀られている頭蓋骨は、護良親王のものとされているが、護良親王の子を身籠った雛鶴姫が同じ山梨方面に逃ていてその可能性は高い。護良親王が命を落とした東光寺跡には、明治天皇の命にて「鎌倉宮」が造営されている。

 

後醍醐天皇の政治の失敗
 後醍醐天皇の天皇中心の政治はわずか2年で崩れ去った。その原因は武士が力を持っているのに、世の中の大きな動きを読めず、天皇や貴族がかつての王朝政治に戻そうとしたからである。武士は自分たちの武力の大きさに気づいていた。武力の前では天皇や貴族はいいなりになることを知っていた。
 鎌倉幕府(北条氏)を滅ぼしたのは武士たちだった。しかし手柄を立てたのは武士なのに、朝廷は戦いもしない皇子や貴族に領地を与えたため、武士たちの不満が高まったのも当然である。さらに政権中枢の建物が貧相では格好がつかないとして、権威を示す大内裏(天皇の住まいと政治の場)の建設を始め、その費用を地方の国に割り当てたのである。そのため武士や農民の負担がふえ、人々の恨みは募るばかりとなった。鎌倉幕府の政治に不満を持っていた公家・武士・庶民(農民)の多くが後醍醐天皇に期待したが、天皇親政の急進的な改革によって日本国は大混乱に陥り諸国では反乱を招くことになった。
 最悪だったのは「公地公民」の建前に戻すため、武士の所領をいったん白紙にして国有化したことである。鎌倉時代の土地所有権を認めず、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)のみが土地の所有権を保証すると宣言したのだった。これは天皇の絶対的権威を天下に知らしめるためであったが、武士たちは所領地の権益を確保するために、京都の新政府から改めて所領を下賜してもらうことが必要だった。その結果、土地所有を巡っての係争が相次ぎ、その量は朝廷の裁判調停能力を大きく上回った。しかも慣れていない朝廷は「今日言ったことを明日に変えてしまうう」朝令暮改で「いったいあの命令は何が正しいんだ」と混乱状態となった。
 武士たちは御成敗式目の第8条で「現在の持ち主が20年間、その土地を事実上支配していたら、その土地の所有権は変更できない」と示し、武士たちは安心して土地を所有していたが、この土地所有権は大問題となった。そもそも確認作業だけでも膨大で調停能力を上回っていた。
 このため日本を支える最も重要な武士団は、後醍醐の新政によって鎌倉政権よりも大きな不利益と混乱を被り、政治は思うように進まず人々の恨みは募るばかりだった。そのため朝廷は、1333年7月23日に前言を翻して諸国平均知行安堵法を出した。
 これは後醍醐天皇が武士の所有地を裁決するのを止め、各地の国司に委任して所領紛争の仲裁を朝廷が取り扱いをやめてしまったのである。このことから武士の新政に対する不満がいっそう強まった。朝廷は諸国の所領問題を解決できず、国内の治安・庶民の生活の安定も維持できなかった。
 日本の政治を朝廷に一元化する政策は、かつての公地公民の政策であった。後醍醐天皇は日本の政治機能を朝廷に一元化することにこだわり、世の現状を無視し、しかも強引で急速すぎた。後醍醐天皇は武士団の権益を保護する政策に立って改革を進めれば結果は違っていただろう。
 しかし後醍醐天皇は君主の手足となって動く(中国王朝)の官僚政治を理想としており、家柄にこだわらない有能な人材を得るため官職の世襲制を廃止しようとした。この急進的な官僚制度改革は上流貴族(公卿)の既得権益を削減するものだったため公家からも建武の新政に反発があった。内大臣までなった公家の三条公忠は「後醍醐天皇の御代は物狂いの沙汰としか思えず、先例になるとは到底思えない」と日記に書いてある。
 建武の新政の頃は諸国で合戦がおき、盗賊・重税などによって農民が最も苦しめられ、国司・守護・悪党らの圧迫や搾取などで、建武の新政に対する民衆の不満は高まりを見せてた。

 二条河原には、建武の新政に対する京の民衆が「このごろ都に流行るもの、夜討・強盗・謀綸旨(にせりんじ)・召人・早馬・虚騒動・生頸・還俗・自由出家」が七五調で書き込まれた。このことから民衆も大きな不満を持っていたことがわかる。

 建武の新政は武士、公家、民衆の不満を募らせ、軍記物語・太平記では後醍醐天皇を欠徳の君主(無策な悪君)としている。このような状況の中で、不満をもつ武士たちは足利尊氏のもとに集まるようになり、やがて足利尊氏が後醍醐天皇に対して反乱をおこすことになる。

 下左)後醍醐天皇の朝議「輪言(りんげん)汗のごとし」というように天皇が一度決断したならば、絶対に変更はないといわれていたが、後醍醐天皇のそれは朝出した決定が夕方には変わる朝令暮改であった。下右)雑訴決断所牒地頭らの年貢横領の訴えに対して、信濃国守護所にその糾明を命じる旨が書かれている。

護良親王
 征夷大将軍になった護良親王は、足利尊氏が全国の武士たちから支持されているのを見て「後醍醐天皇のためにも、今のうちに足利尊氏は排除しなければならない。ここで足利尊氏中心の幕府を開かせてしまっては、なんのために朝廷政権を取り戻したのか解らない。武士を集めたい」と考えていた。護良親王は武骨の人物で、鎌倉幕府を倒すときにも楠木正成と共に赤坂城で戦い、近畿の武士たちを統合し、全国へ密使を派遣して鎌倉幕府討伐を呼びかけるなど幕府滅亡の縁の下の力持ちになっていた。幕府滅亡後は征夷大将軍に任命されていた。
 このことに気づいた足利尊氏は後醍醐天皇に対し、当時、後醍醐天皇が熱心に愛していた阿野廉子(あのれんし)を通じて「実は、密かに護良親王が帝位を狙っている」とささやかせたのである。当然、激怒した後醍醐天皇は護良親王を捕らえ、なんと尊氏の弟である足利直義に預け、鎌倉に幽閉させてしまった。これとほぼ同時に発生したのが中先代の乱であった。

 

中先代の乱の初め
 権大納言・西園寺公宗(きんむね)による後醍醐天皇暗殺計画が発覚した。西園寺家は代々鎌倉幕府と朝廷を結ぶ関東申次という役職にあり、北条家の勢いが盛んなころには西園寺家も朝廷の中で大きな力があった。ところが鎌倉幕府が衰弱すると西園寺家も力を失っていった。
 28歳の西園寺公宗としては「あのころの栄光を再び」と考えたのだろうが、そこに最後の執権・北条高時の弟・泰家が訪ねてきた。北条泰家は分倍河原の合戦で新田義貞に負けたが、その後、兄と運命を共にせず北条家残党をまとめて暗躍していた。後醍醐天皇天皇を殺せば我々の天下が再び戻ってくると述べ、西園寺公宗は後醍醐天皇を京都の北山での紅葉見物に誘い、風呂に入った隙を見計らって殺害しようとした。しかし弟の西園寺公重によって計画が密告され、後醍醐天皇は難を逃れ西園寺公宗は処刑された。

中先代の乱
 親政が始まって2年後に北条高時の遺児・北条時行が信濃で反乱をおこした。北条時行は北条高時の次男で諏訪頼重ら北条氏の旧御家人とともに鎌倉を奪還すべく侵攻し、鎌倉に攻め込み鎌倉の足利直義の軍を負かしたのである。
 これを中先代の乱というが、京にいた足利尊氏は「自分を征夷大将軍にして関東に派遣すること」を後醍醐天皇に懇願するが許されなかった。そこで尊氏は天皇の命令を得ずに、勝手に反乱鎮圧を名目に征東将軍を名乗り関東に下った。

 武士たちは睨み合いがあり、足利尊氏と新田義貞は互いに競い、この対立の中で、かつてを知る武士たちの多くが足利尊氏のもとに集まった。
 反乱鎮圧を名目にした尊氏の行動に、武士たちはわれ先に追従し、尊氏は弟の直義とカを合わせて鎌倉の北条時行の軍を破った。諸国の武士団は古い鎌倉幕府の再興よりも、足利尊氏の手による新たな幕府を望んでいた。このことに気づいた尊氏は鎌倉に戻ると腰を据え、軍功のあった武士団に勝手に恩賞をばら撒いた。朝廷の許可を得ないこの行為は、後醍醐天皇にそむくことを意味していたが、幕府の再建をめざしていた足利尊氏は、反乱鎮圧と同時に新朝廷政権に反旗を翻したのである。

 

尊氏追討軍

 この足利尊氏に激怒した後醍醐天皇は、新田義貞を尊氏追討軍として鎌倉に送った。いわゆる1335年の建武の内戦である。後醍醐天皇は足利尊氏の追討を命じたが、足利尊氏は箱根で新田義貞を打ち破ると、新田義貞を追撃する形で京都へ上った。足利尊氏のこの戦いは後醍醐政権を倒して、再び新たな幕府をつくるためのもので、武士たちはわれがちに追従しその軍勢は10万を数えていた。古い家柄の武士たちは新顔の楠木正成や名和長年らを快く思っていなかった。

 後醍醐天皇はいったん尊氏に京都を明け渡して比叡山に移ると、敵の兵糧を絶ちながら諸国の援軍を集めて包囲網を敷いた。朝廷軍の新田義貞と楠木正成の軍勢に畠山氏の軍勢が加わると、尊氏は京の戦いで大敗して九州へ下った。

 足利尊氏の本拠地は鎌倉と足利にあるが、そのほか全国30箇所に荘園を持ち、そこからの情報が常に尊氏に集められていた。そのため現地の武士の考えや要望を直接把握することができた。足利尊氏は九州で武士を集めると、起死回生の策略で窮地を乗り切り、再び京都に攻め寄せた。起死回生の策略とは、尊氏は後醍醐天皇に皇位を奪われた持明院統の光厳天皇を即位させ「自分は正しい朝廷のために戦っている」という大義名分を掲げたのである。持明院統の光厳上皇から院宣を受けて、勢いを得た足利軍は多々良浜の戦い(福岡市東区)で南朝方の武将である菊池武敏の軍勢を破ると、一気に中国地方から畿内(関西)へ入った。

 尊氏軍の勢いを感じた朝廷側の楠木正成は尊氏との和睦を後醍醐天皇に何度も進言するが受け入れられず、1336年に天皇の命を受けて摂津国湊川(みなとがわ)で尊氏軍を迎え撃ち敗れて自害した。
 
尊氏は新田義貞も撃破し再び京都を制圧しすると持明院統の皇族を帝位に就け、わずか二年半で後醍醐天皇の新政は瓦解することになる。

 

南北朝時代の始まり
 後醍醐天皇は比叡山に逃れ尊氏との和睦に応じ、天皇であることを証明する三種の神器をわたし、光厳上皇の弟・光明天皇が新たに即位した。しかし後醍醐天皇は隙を見て京都を脱出して奈良の吉野へ向かった。

 吉野に逃れた後醍醐天皇は光明天皇を認めず、光明天皇に渡した三種の神器は偽物であると宣言した。このようにして2人の天皇が同時に在位することになり、京都の朝廷(持明院統)と吉野の朝廷(大覚寺統)が対峙し南北朝の動乱の時代となった。

 地理的に北側になる京都の朝廷が北朝、南側になる吉野の朝廷を南朝といった。これ以降約60年間、日本は南北朝が対立する戦乱の渦に叩き込まれる。足利尊氏は建武式目を制定し光明天皇を擁立し(北朝)、1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開いた。
 後醍醐天皇は吉野朝廷を開き足利尊氏の「北朝」と対立し、南北朝時代の56年間が始まった。

 後醍醐天皇は各地に自らの皇子を派遣して協力を要請した。しかし多くの武士は足利尊氏につき、後醍醐天皇についていた名和長年、結城親光、千種忠顕、北畠顕家、新田義貞らが討死にすると、吉野に移って3年目に後醍醐天皇は失意のうちに52歳で崩御した。
 南朝は勢力を弱めたが、北畠親房は篭城した常陸・小田城にて南朝の正統性を示す「神皇正統記」を書き関東の武士を味方につけた。しかし懐良親王、北畠顕能、宗良親王らはすでに亡くなっており、次第に南朝の勢力が衰え、1392年に南朝は降伏する。
 後醍醐天皇は自分の理想通的政治を始めたかったが、この政治は始めから武士によって潰される運命にあった。なお明治44年に、明治政府は南朝の天皇を正統と定めたため、足利尊氏が擁立した光明天皇などの北朝時代の天皇は歴代天皇として数えられていない。

 

阿野廉子
 阿野廉子は後醍醐天皇の寵愛を受け3人の皇子を産んでいる。この3人の皇子の誰かが後醍醐天皇の後継ぎになるようにと、隠岐まで付き添った阿野廉子も京都へ帰還すると、建武の親政にも様々に口を出した。
 後醍醐天皇の女性関係は実に華やかだった。天皇家の系図の中で比較的信憑性の高い「本朝皇胤紹運録」によると、後醍醐天皇の子を産んだ女性だけで20人いる。生まれた皇子は17人、皇女15人で、子を産まなかった女性は数に入っていないので、実際に性的関係を持った女性が何人かは分からない。「太平記」から推察すると、20人以上の女性の中で後醍醐天皇の寵愛は阿野廉子に向けられた。

 この阿野廉子の運命が大きく変わったのは、中宮・西薗寺禧子の後醍醐天皇への入内の時だった。廉阿野子17-18歳の頃、中宮・禧子につきそい宮中に入ることになる。廉子はすぐに後醍醐の目にとまり、寵愛を受けることになった。その結果、後醍醐天皇との初めての子・恒良親王を産み、次に成良親王、同年には義良親王を産んでいる。
 阿野廉子は美貌と肉体だけが売り物の女性ではなく、才女で後醍醐天皇のよき話し相手だった。そのため後醍醐天皇が隠岐へ流されたときも、後醍醐天皇は廉子を手放すことができず、配流先の隠岐まで連れて行った。
 後醍醐天皇の皇子のうち比較的はっきりする8人を出生順に列挙すると尊良・世良・護良・宗良・恒良・成良・義良・懐良の各親王たちである。廉子の産んだ長子の恒良より前に、少なくとも4人の男子がいたため、恒良より上の4人の中に、中宮・禧子の産んだ子がいれば、その皇子が皇太子となる可能性が高かった。しかし廉子にしてみれば幸いなことに中宮禧子の子はいなかった。

 阿野廉子は日本史の教科書には出てこないが上昇志向を持つ執念と実現力を持つ女性で、阿野廉子は次の目標を後醍醐天皇の後継者を自分の子にすることだった。後醍醐天皇には20人ほどの妻と30人以上の子供がおり、たとえ後醍醐天皇の愛情をほしいままにしても、次期天皇候補には数多のライバルがいた。苛烈な皇位争奪戦を勝ち抜かなければならない。

 護良親王は元弘・建武の争乱にあたって後醍醐天皇の手足となって軍事行動を起こし、一時的には征夷大将軍にもなっている。後醍醐天皇の後継者に最も近かった。しかし自分の子でない護良親王が天皇になることに廉子は不服であった。
 ところが、1334年1月23日、立太子の儀が行われたとき、皇太子に選ばれたのは護良親王ではなく廉子の長子・恒良親王だった。つまり後醍醐天皇は実績のある護良親王ではなく、まだ10歳になったばかりの阿野廉子の長男・恒良親王を後継者としたのだった。

 さらに廉子は二人目の子・成良親王を鎌倉に下らせ、三人目の子・義良親王を奥州に下らせた。つまり廉子は将来性のある地位にそれぞれ後醍醐天皇との実子を送り込んだのである。つまり恒良親王を後醍醐天皇直系に、成良親王を足利尊氏に、義良親王を北畠親房に送り、誰が勝っても廉子の生んだ子を政権の座に就かせるようにした。
 護良親王が皇太子になれなかったのは、阿野廉子が自分の子が皇位に就くのに邪魔になると考え、同じように護良親王を排除しようとしていた足利尊氏と目的が一致して、廉子は足利尊氏と組んだのである。尊氏から「護良親王が後醍醐天皇を廃そうとしている」という護良親王謀反の通報があり、阿野廉子からそれを聞いた後醍醐天皇が護良親王を捕えたのである。これは「太平記」の記載であるがこの叙述を100%信用できないにしても、そのような素地はあったのだろう。

後醍醐天皇の年表

1288年 後宇多天皇の第2皇子として生まれる。
1318年 後醍醐天皇が即位して天皇になる。
     父の後宇多天皇が上皇、院政を始める。
1321年 父の後宇多上皇の院政をやめさせ後醍醐天皇が直接政治を始める。
1324年 後醍醐天皇が鎌倉幕府をつぶす計画をおこす。

    (正中の変)
1331年 後醍醐天皇が元弘の乱をおこし、後醍醐天皇は笠置山(かさぎやま 奈良県)にのがれ立てこもる。鎌倉幕府軍は20万以上で笠置山を攻撃し醍醐天皇は敗れる。
1332年   後醍醐天皇が鎌倉幕府にとらえられえ、隠岐島(島根県)に流される。後醍醐天皇は隠岐島から抜け出し、名和長年、楠木正成などとともに倒幕をおこす。鎌倉幕府軍の足利尊氏や新田義貞が鎌倉幕府をうらぎり、逆に鎌倉幕府を攻撃する。
1333年 鎌倉幕府が滅びる。
1334年 後醍醐天皇が建武の新政を始める。          

                    ↓
1335年 足利尊氏が後醍醐天皇にそむき反乱をおこす。新田義

     貞、楠木正成、北畠顕家の活躍で足利尊氏をやぶる。
              ↓
    九州で戦力をととのえた足利尊氏に再び京都に攻めこみ、
         今度は後醍醐天皇軍がやぶれる。
              ↓
         後醍醐天皇が京都から比叡山にのがれる。
              ↓
         後醍醐天皇が足利尊氏に降伏し京都にもどる。
              ↓
1336年 足利尊氏が京都で光明天皇を即位させる。(北朝)
     捕らえられていた後醍醐天皇は、吉野(奈良県)にのがれる。(南朝)
1338年 光明天皇は足利尊氏に征夷大将軍に任命される。
     足利尊氏が京都に室町幕府をひらく。
1339年 後醍醐天皇、吉野で病死(52才)