室町文化

 歴代上、日本には様々な文化があり、江戸時代の「元禄文化」「化政文化」などが有名であるが、「室町時代にも素晴らしい作品がたくさん生まれており、新しい文化が誕生し、現在の生活にもつながっている。室町文化の特徴は武家文化と公家文化、中央文化と地方文化、大陸文化と伝統文化がそれぞれ交じり合い、さらに庶民の文化が加わることによって洗練されたことである。

 

室町文化

 室町時代を代表するのは「北山文化」「東山文化」であるが、室町文化を3つの時期に分けることができる。まず① 室町幕府草創から南北朝の動乱期を背景にした南北朝文化、次いで②3代将軍足利義満を中心にした北山文化、さらに③8代将軍足利義政の時代を中心にした東山文化である。

 室町幕府が京都に置かれたので、それまで東国を中心にしていた武家文化と京都の公家文化とが融合することになる。また幕府を支えた守護大名は在京だったため、京都の文化に馴れ親しんだ守護大名や家来たちが、京都の文化を地方にもちこんだ。さらに武士が政治や経済で力を持つにつれ、公家文化がしだいに武士へと移り融合した。

 また足利義満が日明貿易を推進したため、唐物・唐絵とよばれる多くの品々が遣明船によってわが国にもたらされ、それは明(中国)だけでなく朝鮮などの東アジアの文化が日本の伝統文化と融合したのである。

 さらに戦乱を避けた京都の文化人が地方に移り、都の文化を地方に伝えた。経済の向上により街道を往来する商人や庶民たちが増え、各地方の交流が見られるようになった。このような流れから、能・狂言・茶の湯・生け花など、日本独自の庶民による文化が形成された。

 

日本文化の確立

 日本の歴史の中で、室町時代は日本固有の文化が形成されたのである。室町時代nia

金閣寺、銀閣寺に代表される室町建築 、茶の湯や水墨画、芸能といった現代にも通じる多くの日本文化が生まれ広がった。

 この室町時代の文化の成り立ちや特徴をご紹介するが、文化的には興味深い時代であるが印象が希薄である。それは大衆作家が室町時代を取り上げることが少なかったせいである。終戦後、日本の歴史は教科書や学術書よりも、小説やテレビドラマによって国民に浸透した。大衆作家の草分けであった司馬遼太郎 は、南北朝・室町時代が嫌いで「この時代はクズみたいな人間しかいない」と発言し、この暴言が歴史の通説になった。

  司馬遼太郎は優れた大衆作家であるが、彼の歴史史観は「英雄史観」であり、小説では大衆を誘導する強大なカリスマ性やリーダーシッ プを持つ主人公が必須であった。そのため司馬遼太郎が勝手に想像する「リーダー不在」の南北朝・室町時代が嫌いだったのである。しかしそれは大衆作家の個人的な好みであって、個人的な好みを歴史の通説とするのは不健全である。

 司馬遼太郎が言うように、南北朝・室町期は「カリスマ不在」である。しかしそれは既存の権威が崩壊し、社会全体が混沌として複雑だったからで書きにくいのである。歴史小説やテレビドラマの主人公は単純で、苦悩や迷いがないのが特徴である。

 現在の私たちの日常は苦悩や迷いの連続であるが、小説やテレビドラマは物語性があって分かりやすいことが条件なのである。私たちの苦悩は大衆小説のテーマにはなりにくい。それは大衆小説のテーマは単純明快な「日常の憂さ晴らし」だからである。

 南北朝・室町期の混乱こそが日本の歴史そのものであり、日本人の性格や気質を知りたいのなら、この南北朝・室町期を学ぶべきである。

 

南北朝文化

 南北朝文化は、名前の通り南北朝の動乱期の文化のことである。時代の転換期であった両朝の緊張感が高まり、畿内の新興武士の新しい時代感覚を背景にしている。結果として南朝に悲劇がもたらされたが、激しい戦いが続いたことから、複雑な歴史意識が高まり、様々な特色をもつ歴史書や軍記物語を生み出した。
 後醍醐天皇の信任が厚かった南朝の公卿・北畠親房は、我が国の皇位が継承されてきたことを神皇正統記(じんのうしょうとうき)で著している。伊勢神道を理論化して、大義名分に基づいて南朝の立場から皇位継承の道理を説いている。江戸時代、水戸学に大きな影響を与えたことが知られている。

 また増鏡は源平以後の争乱から建武までの約150年間歴史を公家の立場からまとめた書物南朝に対して同情的な立場をとっている。著者は二条良基ではないかと言われている。

 足利氏の立場から南北朝の動乱を記した梅松論がある。梅松論は持明院・大覚寺両党の分裂から足利氏の政権獲得までの過程を武家の立場から記している。足利政権の継続を梅や松のめでたさにあやかって梅松論と名づけられました。

 また「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨」で始まる二条河原落書は「建武の新政」当時の政治や社会を風刺した落書として有名であるが、この落書は建武の新政の頃の混乱を真に表している。

曽我物語

 曽我物語(作者未詳)は、曾我祐成(そがすけなり)・時致(ときむね)兄弟が、父のかたき工藤祐経(くどうすけつね)を討つ物語である。曽我物として後世の文学や芸能等に多大な影響を及ぼした。

お伽草子

 室町時代は戦中の様子を書いた軍記物や歴史書が多くつくられたが、庶民を主人公にした優しい絵入りの物語「お伽草子」が生まれ、広く大衆に親しまれるようになった。この時代に生まれた「一寸法師」「浦島太郎」「桃太郎」などは現在も愛されている。

連歌(れんが)
 鎌倉時代から公家らの余技として、和歌の上の句と下の句を数人で交互に詠み連ねる連歌が生まれた。室町時代になって公家の勢力が衰えると共に、和歌にかわって連歌が流行し始め、連歌は地方にも広まり、連歌会が盛んに行われるようになった。専門的に連歌をつくる連歌師も現れ、地方を旅して連歌を広めていった。

 たとえば、「切りたくもあり切りたくもなし」につける前句(5・7・5)として、次のような作品があります。盗人をとらへて見れば我が子なり。さやかなる月を隠せる花の枝。

 こうして「盗人をとらへて見れば我が子なり 切りたくもあり切りたくもなし」、「さやかなる月を隠せる花の枝 切りたくもあり切りたくもなし(花の枝を切らなければ月を見ることができない。さりとて美しく咲き誇る花の枝を切るのもためらわれる)」というそれぞれの連歌が完成するわけである。

太平記

 太平記は、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、建武の新政の失敗と南北朝分裂、後醍醐天皇の崩御。さらに足利幕府内部の混乱、後村上天皇、足利義満の時代まで半世紀におよぶ南北朝の動乱を描いた40巻に及ぶ長編軍記物である。

 太平記とは「戦乱のない太平の物語」と誤解されやすいが、太平記のほとんどは内乱による戦乱と社会の混乱が描かれている。つまり太平記とは軍記物なのである。

 太平記には10万から100万の大軍が殺し合ったように書かれているが、これは中国の歴史書に影響された小説家の創作であろう。実際には数百から数千規模の軍勢が矢を射ち合って、先に戦意を無くした方が退却する比較的のんびりした戦いだったと思われる。
 太平記の導入部では後醍醐天皇が主人公となり、倒幕の協力者・日野俊基、子息の大塔宮が登場する。さらに後醍醐天皇の夢から発した楠木正成登用や大塔宮の経櫃など有名なエピソードとして描かれている。中盤からは足利尊氏、新田義貞、高師直など南北朝動乱の武人が登場し、戦記的要素の強い内容が繰り広げられている。

北山文化

 室町時代に開花した文化を、三代将軍足利義満が京都北山に造った別荘にちなんで「北山文化」と呼んでいる。南北朝の動乱を経て、禅宗の影響を強く受けた新興勢力の武家文化が、それまで伝統的であった公家文化と融合し、交易によってもたらされた大陸文化が華やかな文化を生み出したのである。八代将軍義政の頃の「東山文化」と合わせて「室町文化」と呼ぶのが一般的である。

 

金閣寺
 この北山の地は、もともと鎌倉時代に西園寺公経が西園寺を建立し、山荘として西園寺家が代々所有していた。西園寺氏は朝廷と鎌倉幕府との連絡役を務めていたが、鎌倉幕府滅亡後に、当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招いて暗殺しようとして発覚し、逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な北山の所領地と資産は没収され、次第に修理が及ばず荒れていった。

 室町幕府初代将軍・足利尊氏の孫に当たる第三代将軍・足利義満は、1397年に京都のこの北山に壮麗な山荘・鹿苑寺(ろくおんじ)舎利殿を建て、義満の死後、遺言により臨済宗相国寺派の寺院となった。正式名称は鹿苑寺であるが、舎利殿を含めた寺院全体は一般的に金閣寺と呼ばれている。

 金閣寺はその名のごとく派手な容姿で、建物は一層を除き金箔がはられている。金閣寺の建設資金は勘合貿易で儲けた莫大な以外にも、守護大名に大きな負担をかけ、また多くの農民がかり出されて、完成までに現在のお金で約600億円がかかっているとされている。

 金閣寺は三層からなっており、それぞれの層が異なる様式で出来ている。金閣寺の第一層は平安時代の公家の寝殿造りとなっていて、第二層は武士の武家造りになっている。第三層は仏舎利 (ぶっしゃり 釈迦の骨)がおさめられた仏堂になっている。

 金閣寺が建てられた当時、義満は禅宗の僧として出家していた。つまり寝殿造り=朝廷、書院造り=武家、禅宗様式=足利義満を意味しており、義満が公家や武家の上に位置する事を示している。金閣寺の一層の部分だけは金箔が貼られていないが、寝殿造りの一層は公家を意味しており、義満は公家の繁栄を望まなかったのだろう。

 金閣寺の周りに広がる庭園は池泉廻遊式で、庭の中心に池を置いて、その周りを歩いて楽しめるようになっている。金閣寺を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に表したと言われている。

 当時の義満は分裂していた南北朝を統一し、有力守護大名を抑止し不安定だった幕府権力を確たるものとした。義満は圧倒的な権力を手に入れ、長男・義持(よしもち)に将軍の座を譲り、次男・義嗣(よしつぐ)を天皇の子と同じ形式で宮中で元服させた。

 このことは義嗣が次期天皇になる事を示唆しており、義満は天皇の上に立つ法皇になること。つまり日本の権力の頂点に立とうとしたのである。この考えが金閣寺の建築様式に表現されている。
 金閣寺の頂上に添えられている鳳凰は徳のある天子が出現した時に姿を現すとされる想像上の鳥である。義満が将軍や天皇の上に立つことを暗示している。

 

金閣寺放火 

 昭和25年7月2日未明、21歳の見習い僧侶が金閣寺に火を放ち、自らも第三層の究竟層で死のうとした。しかし第三層は鍵がかかっていて入れず、怖くなって逃げ出した。出火の第一報で消防隊が駆けつけたが、その時には既に金閣寺から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。見習い僧侶は大文寺山中で切腹したが死ねずに夕方逮捕された。

 この放火された金閣寺は、室町時代のもので金箔ははげ落ち、現在の金閣寺とは違っている。現在の金閣寺が金ピカなのは、事件から5年後の昭和30年に、国や京都府、地元経済界などからの浄財により建て替えられ、金箔が張られたからである。
 この事件を題材に三島由紀夫が小説「金閣寺」で書いている。金閣寺の美に憑りつかれた学僧が、寺を放火するまでの経緯を一人称の告白体の形で綴っている。小説「金閣寺」は三島由紀夫の代表作だけでなく日本文学の傑作とされている。

 同じテーマで水上勉が小説「五番町夕霧楼」を書いている。舞鶴の寒村の禅宗寺院の子として生まれた犯人と幼馴染の少女との悲恋としてこの事件を描いている。個人的には「五番町夕霧楼」のほうが好きである。(放火される前後の金閣寺)

バサラ

 南北朝内乱期から、幕府の体制に反逆する悪党と呼ばれた人の中に、勝手気ままで、遠慮のない常識から逸脱して人目を引く者が現れた。羽目をはずした派手な格好で、身分の上下にとらわれず、好き勝手に振舞う者がいた。このような連中をバサラ「婆娑」といった。

 新興武士たちの中には「バサラ」の精神が特に顕著だった。華やかな北山文化の源には、南北朝の動乱期にかけて「バサラ」の流行があった。唐物で身体を飾り、人目をひく行動である「バサラ」が大名(豪族)の間で流行し、このような大名たちによって北山文化は確立した。
 足利尊氏筆頭執事の高師直、近江国(滋賀県)の守護大名の佐々木道誉、美濃国(岐阜県)守護大名の土岐頼遠などのは伝統的価値観を食い破っていることから「バサラ大名」と呼ばれ、バサラ の代表格とされている。

 太平記にはバサラ が詳細に書かれ、バサラ大名達の豪奢な生活や傍若無人な振る舞いを否定的に描いている。

 太平記はバサラが国を乱らすと断じている。しかしバサラは身分秩序を無視した実力主義的であるが、公家や天皇といった名ばか りの権威を軽んじ、公家や天皇を嘲笑して反撥し、奢侈な振る舞いや華美な服装を好む粋な室町時代の美意識が根底にあった。バサラは後の戦国時代における下剋上の風潮をつくった。

 バサラは傍若無人に徘徊する様を示す舞楽用語であるが、建武式目ではバサラを禁止し、幕府はしばしば禁止命をだすほどだった。これはそれだけ流行していたからであろう。

 バサラの流行は南北朝時代の新興武士団たちの新しい生き方が生み出し、安土桃山時代には「かぶき者」といわれた。なおバサラの語源はサンスクリット語でダイヤモンドを意味している。平安時代の雅楽・舞楽などの伝統を打ち破る自由な演奏をバサラと称しており、これは「ダイヤモンドのような硬さで常識を打ち破る」という意味で、その言葉を転訛(てんか)したのである。

 文化を考える場合、形として残された文化を示す場合が殆どである。しかしその時代の人びとの生き方を知る上でバサラは重要である。「どうせ明日の命もわからない、生きてる時ぐらいは自由でいたい」とする武士の生き方は、生きる活力を知る上で重要である。バサラは生き生きとした活力そのものであり、室町時代の生きる活力を示していると思われる。

 ただしバサラはすぐに廃れる。戦国時代の史料に「うつけ」や「カブキ」は出てくるが「バサラ」の表現は消失するのである。

東山文化

 八代将軍の足利義政は、政治家としては全く無能で、天皇から叱られるほどの人物であったが、東山文化の発展には絶大な貢献を見せた。

 足利義政は部下の対立や妻の日野富子の政局への口出しなどで混乱し、後継者争いから応仁の乱が起こり、政治に嫌気がさし、応仁の乱後、京都の東山に山荘を造り、そこに観音殿を建てた。この観音殿が銀閣寺(慈照寺)である。この寺の正式名称は「慈照寺」であるが、通称名である「銀閣寺」の方が一般にはよく知られている。

 足利義政の時代の文化は、東山山荘に象徴されることから東山文化と呼ばれているが、南北朝・北山文化・東山文化は日本史の中で、1番日本の生活に浸透した文化である。

 日本文化がこのような政治的混乱期に成熟したのか、それは「下克上」の風潮によって、それまで朝廷の権威に圧伏されていた武士や民衆が、派手な世相から世の虚しさを美と捉えたからであろう。東山文化は日本を象徴する文化であり、昭和時代まで私たちの日常生活の基盤をなしている。

 

銀閣寺
 銀閣寺は足利義政が、1482年に京都の東山に建てた山荘で、彼の死後に寺院となった。足利義満が北山の金閣寺で政治をとり続けたのに比べ、銀閣寺は、足利義政が政治と縁を切るための住居で、室町時代の代表的な建築である。銀閣寺は観音殿とよばれ1階は武士の書院造で、2階は仏堂風の禅宗仏殿造りになっていて、静かな雰囲気をただよわせている。銀閣寺そのものはそう大きなものではない。
 10年におよぶ応仁の乱で将軍の権威は落ち、銀閣寺の建設に費用を出す守護大名はいなかった。また屋根にはる銀ぱくは費用がかかるため中止となった。銀閣寺と呼ばれながら銀色ではないのは、室町幕府の権力がなく幕府に財政的なゆとりがなかったからである。あるいは派手な造りの金閣寺に対し銀閣寺は黒漆塗りの地味であったため、銀閣寺と呼ばれるようになったのであろう。銀閣寺の屋根の上には鳳凰があり、東側には庭園が拡がっている。

 将軍義政は政治面では全く評価されていないが、文化面ではその後の日本文化の基礎を築いた極めて重要な人物である。東山文化は「禅の精神に基づく簡素さをもち、幽玄(ゆうげん)・侘(わび)などの精神性を基調としている」、芸術が日常生活の中に浸透し、現在の日本文化の基調となっている。禅の精神にもとづく簡素さ、枯淡の味わいと伝統文化における風雅、幽玄、侘(わび)を精神的基調として庶民に浸透していった。

 

永六輔の話

 銀閣寺での永六輔庭師との会話である。庭師は「庭というものは座敷に座って見るように設計されていて、立って見るもんじゃない。座ると軒先の高さに応じて庭の構図をどのように計算しているのかが見えるわけで、座ってはじめて軒先と鴨居・敷居に区切られて浮かび上がる庭の見事さがわかる。最近、座って見てくれる方がいないんです。あなたがお座りになっているところに足利将軍も座っていたんです。足利将軍がご覧になったままの庭を、いまあなたがご覧になっているわけです」。永六輔は「そりゃ、いくら何でも嘘だと思いますよ。五百年以上も前と同じわけはない」。庭師はこの永六輔の言葉を遮るように「いいえ、そうなんです。ここは、昔、将軍が見たままになっています。遠くの景色はそうじゃないが、でもこの庭はそのときのままです」。永六輔は「そのままって言ったって、木が生えてきて何百年も経っているのだから、同じはずはないでしょう」、庭師は次のように答えた「永さんはお若い。盆栽のことがわかっていない。盆栽という芸はここから生まれているのです。盆栽は育てたら盆栽じゃない。育てないで何百年経とうが育てないようにして生かしておく、だから盆栽なんです」。
 「室町時代の庭は、今でも室町時代のままです。足利さんがご覧になった庭を今あなたは見ているんです」このように庭師に言われたとき、永六輔は職人の仕事って怖いと思ったと述べている。

                   北山文化                              東山文化
年 代        1400年ごろ                      15世紀世紀後半
将 軍          足利義満                             足利義政 

        公家の文化と武家の文化が       禅宗の影響を受け簡素で
       まじりあったはなやかな文化         深みのある文化
    ① 能が大成された。                 ① 狂言が大成された。
    ② 水墨画が発達した。              ② 水墨画が大成された。
    ③ 金閣寺が建てられた         ③ 銀閣寺が建てられた

書院造

 公家の住いである寝殿造に代わり、書院造という武士の屋敷が生まれた。

 公家の寝殿造は、戸を外側に向かって上に開き、天井も部屋の間仕切りもなかった。広い板敷きの屋内は採光は不十分で昼間でも薄暗く、人物の顔も判別できなかった。
 これに対し武士の書院造は、戸は引戸(ひきど)となり、雨戸や明障子を用いるようになった。庭に敷いた白河砂に反射した光が、明障子の和紙を透したのち天井に反射して屋内を明るくした。こうした間接照明によって薄暗かった室内がやわらかな光で包まれるようになった。建物内部は襖によって小部屋に分けられ、一人一人のプライバシーが守られ、襖を取り払うと大部屋として利用できた。板敷きの床一面に畳を敷きつめるようになったのもこの時代からである。
 かつての寝殿造は板敷きだったため、直接座ったり寝たりするには床がかたかった。一方書院造では畳を部屋一面に敷きつめ、すなわち「座敷」となった。座敷の成立により、茶の湯・生け花などが、座敷の上で営まれようになった。武士の書院造の起源は禅僧の書斎で、「東方の人が西方の極楽浄土に生まれかわることを求たこと」に由来している。

 書院造には、畳、ふすま、障子、付書院、床の間、ちがい棚がある。これらは現在の日本の和室のつくりの原型となっている。畳を4枚半組み合わせると正方形になり、これを基準にすれば、火事で焼失してもすぐに建て直しができた。また畳の組み合わせによって柱の本数が決まった。さらに採光のため障子ができ、部屋の区切りとして襖ができた。

 当時の将軍の隠居屋敷でさえ四畳半の茶室の始まりともされ、建物が小割りの部屋に分かれ天井が張られ、生活に適合し、客を迎え入れる座敷飾りがあるなど居住性の高いものである。これらはすべて室町時代にできたのである。

 今日のわたしたちが「日本的」とか「日本文化」と言う概念は、室町時代に確立されたものがほとんどである。茶道、華道、俳諧、将棋、囲碁、能、狂言、邦楽、礼式はいずれも南北朝室町時代に誕生し、今の生活の中ではこの頃の文化を引き継いだものが多い床の間や掛け軸などの和式の建築様式は室町時代に完成され、灯りのための油の生産性が上がったのも室町時代である。

 応仁の乱のころに将軍だった足利義政は、政治を嫌い、茶の湯に親しみ、生け花や絵を楽しむ生活を送っていた。そのため動乱の世の中にも関わらず新しい文化が盛んになった。足利義政の頃の文化を東山文化と呼んでいるが、東山というのは足利義政の別荘である銀閣寺があるところである。

 八代将軍の足利義政は、政治家としては無能というよりも、政治に興味がなかっただけであるが、東山文化の発展には大きな貢献を見せた。その意味では「応仁の乱」を引き起こした優柔不断の足利義政は日本文化の大恩人である。

(下左の写真は銀閣寺の東求堂で、現存する最古の「四畳半」である)

庭園(枯山水)
 枯山水(かれさんすい)は池水を用いず、岩石・砂利・草木などで山水を表現したものである。禅宗の精神世界を表現している点では水墨画と共通しており、「枯山水は三次元の水墨画である」。西芳寺庭園、大徳寺大仙院庭園、竜安寺石庭などが代表例である。作庭には身分の低い人びとが多く従事していた。作庭師としては、東山山荘の庭をつくった善阿弥(ぜんあみ)がよく知られている。

 茶の湯の始まり
 鎌倉時代に臨済宗の栄西が宋からもたらした茶が日本でも栽培され、
禅宗寺院に喫茶が広がり、武士階級にも喫茶が浸透した。栄西が茶の専門書「喫茶養生記」を書き、お茶の効能を説いやように、茶はもともと薬とされていた。深酒の癖のある将軍・源実朝に良薬として茶を献上している。

 室町時代の8代将軍義政の頃に、禅の精神を取り入れた「書院の茶」と呼ばれる茶会が開かれるようになった。ただこれは豪華な道具を使い、芸術品を鑑賞しながら茶を飲むという貴族的なものであった。

闘茶(とうちゃ)
 茶の習慣が普及していくと茶の生産地が拡大し、茶は薬ではなく嗜好品としての地位を獲得するに至った。その結果、茶を飲むために人びとが集まる茶会が開かれ、茶会では「茶を飲み比べ、産地や等級を当てる遊び」が生まれた。この遊びを闘茶という。基本的には宇治茶を本茶(ほんちゃ)、それ他の産地の茶を「非茶(ひちゃ)」と称し、その違いを当てた。つまり宇治茶が
ブランドとなり、勝者には金品が与えられたので一種の賭け事になった。

茶寄合(ちゃよりあい)
 闘茶の後、歌舞管弦をともなう酒宴となるなどして、バサラ精神に通じる茶会を茶寄合が開かれた。豪華な輸入された茶道具などを、茶会所に所狭しと飾り立てられた。
  多くの人が集まる社寺の門前では、その場で茶を飲ませる新商売が生まれ、これを当時「一服一銭」と称した。その名は茶一杯を一銭で売ったから、あるいは銭の匙ですくった分量の抹茶をたてて売ったからと言われている。
「一服一銭」は茶店のさきがけと言える。

侘び茶

 やがて茶は嗜好品の時代から、独自の思想・様式をもった「茶の湯」の時代へと変化していく。作法は簡素で、茶を味わい、書画を心静かに鑑賞しながら主人と客人が和みあうことで、「侘び茶」の精神をもつ茶会が始められた。侘び茶を創始したのは村田珠光(むらたじゅこう)で、村田珠光は少年の時、奈良・称名寺に入って僧になったが、出家を厭ったため寺から追放され闘茶の判者や連歌師などしながら諸国を流浪し、その後、京都に上り臨済宗大徳寺の一休宗純のもとに参禅して「茶禅一味(仏法も茶湯の中にあり)」を体得し、心の静けさを求め、わびを理念とする茶の湯を侘茶(わびちゃ)とした。

 茶室の飾りや道具を最小限にした侘び茶が室町時代末頃から、禅宗の僧や武士、堺の商人たちの間で広まっていった。侘び茶は村田珠光から武野紹鴎(たけのじょうおう)・千利休らによってが完成し、「茶の湯」は豪商や武士たちに浸透していった。当時のお茶は抹茶である。

 

生け花
 生け花の始まりは室町時代とされている。それまでは仏前に花を供える「供花」の習慣があったが、茶の湯の流行とともに、唐物陶器の輸入と呼ばれる中国の器物が日本に
多くもたらされ、それらを飾るための書院造りが成立し、床の間に飾られたのが「立花(たてばな)」でその技法を用いたのが生け花のもになった。

 京都の六角堂池坊の僧侶・池坊専慶が、生け花の最古の流派「池坊」である。池坊の様式は大きく分けて3つの形があり、一定の決まりを守って複雑な形を作って生かすものを「立花」、シンプルな形を「生花」自由に生けるものを「自由花」と呼ぶ。いずれも奇数の花材を用いて生けるのが原則となっている。

日本の伝統文化

 室町時代には「茶の湯」や「生け花」のほか「精進料理」の原形も登場してきた。町では行商人がいろんな食物を売り、それらを売る店まであった。三度の食事が定着し、本膳料理では客ごとに膳に乗せ、出される順番により1汁2菜から3汁7菜まであった。食物を調理することを料理と言うようになり、俎(まないた)の長さ・高さ・脚の大小、包丁、箸などの寸法を定められた。日本料理の特徴は箸で食べることであるが、欧米のナイフやフォークは凶器となるが、箸は人を傷つけることはない。

 料理としては豆腐が普及し、豆腐を油であげたり、田楽にしたりした。さらに酒が盛んに飲まれるようになり、京都は日本最大の酒の産地で酒屋が399あった。当時の酒は諸白といって半分澄んだものである。

 日本の伝統文化と呼ばれるものの多くは、室町時代のその端緒を見出すことが出来る。日本文化がこのような政治的混乱期に成熟したのは「下 克上」の風潮によってそれまで朝廷の権威に圧せられていた武士や民衆が健全な形で社会に表れたからであろう。

  南北朝の内乱は諸国の武士団を東奔西走させたが、この際、地方ごとの文化が激しくぶつかり、相互に創造的な刺激を与え、このことが文化の発展を遂げさせた。いわゆる地方の「名物」という概念は、南北朝時代に初めて成立した。また日本語の共通語が生まれたのもこの時代だった。

 新しい文化がおこると職人の種類も多くなり、商業の仕組みも整ってきた。各地に市が出来て店が立ち並ぶようになり、お金さえ出せば欲しいものを買えるようになった。

 また農村では支配者の勢力が弱くなり、農民たちは自分たちで治めるようになり、農民たちは村のおきてを作り、土一投で領主や高利貸しに手向かった。また町でも堺や博多などは自治の仕組みが整っていった。

 室町時代の終わり頃には、ヨーロッパとの付き合いが初まり、種子島(鹿児島県)に流れついたポルトガル人が鉄砲を伝え、キリスト教も伝わり、多くの宣教師が日本を訪ねた。

 南北朝室町は司馬遼太郎が言うように「クズしかいない駄目な時代」どころか、実は日本人の生活の基礎をつくった庶民による文化の黄金期だった。

水墨画

  水墨画は墨の濃淡を生かし絵を描きあげるもので、唐の時代から発達した。画家としては呉道玄や王維などがいたが、日本では特に室町時代から五山を中心とした禅僧の間で鑑賞され描かれるようになった。特に如拙(にょせつ)はそれまで中国風の模倣に過ぎなかった日本の水墨画に独自の要素を加え、彼に続いて登場した相国寺の禅僧・周文も水墨画の巨匠としてその名を残している。
 水墨画では狩野正信や息子の狩野元信など狩野派と呼ばれる人々が活躍した。日本の伝統的な「やまと絵」と呼ばれる技法にも精通し襖絵などの多くの障壁画を手がけている。京都の大徳寺大仙院花鳥図は狩野元信の作である。

 

雪舟

 この時代の最大の巨匠といえば雪舟である。雪舟は岡山県総社市で生まれ、相国寺で禅と水墨画を学んだ。周防の守護である大内氏から庇護を受け山口に居住し、大内氏の遣明船で明へわたり留学し様々な技法を学んだ。帰国後は日本の水墨画界に新風を吹き込み、秋冬山水図、山水長巻、天橋立図などが国宝として有名である。これらは水墨芸術の中でも最高の傑作といわれ、壮大な中国大陸の大自然と日本各地を踏破して学んだことより、楼閣・塔・人物などは中国風に、四季の移り変わりを日本風に表現している。

 雪舟の名前を聞いて、すぐに室町時代に活躍した有名な水墨画家と答えられる人は多くはなだろうが、高齢者であれば雪舟という名前をよく知っている。かつての国語の教科書に雪舟の子供の時代の話が載せられていたからである。
 その話は、総社市の宝福寺に幼くして入った少年(雪舟)は、禅の修行はそっちのけで好きな絵ばかり描いていた。それに腹を立てた住職は、ある朝、少年を本堂の柱に縛りつけるが、可哀想に思い夕方に本堂を覗いてみると、少年の足もとで一匹の大きな鼠が動き回っていた。少年が噛まれては大変と思い、住職はそれを追い払おうとしたが、不思議なことに鼠はいっこうに動かない。それもそのはずである。その鼠は生きた鼠ではなく、少年がこぼした涙を足の親指につけ、床に描いたものだったのである。はじめ動いたようにみえたのは、鼠の姿が本物のように生き生きと描かれていたからで、それ以後、住職は雪舟が絵を描くのをいましめることはなかった。
 涙で鼠を足の指で描いたとは考えにくいが、雪舟ほどの大画家ならば、少年時代から才能を発揮していたという思いが生み出した話であろう。雪舟が涙で鼠を描いた話は単なる作り話であるが、雪舟が有名なのはこの逸話があったからである。
 しかも少年時代の逸話だけに可愛い小坊主の印象がつくられ、他の有名画家とは違って親しみを感じさせる。