プッチーニ「蝶々夫人」

アモーレ!ニッポン

明治時代の日本を舞台にした世界的な人気を誇る歌劇「蝶々夫人」。

イタリアを代表するオペラ作曲家プッチーニは、日本独自の文化や音楽をとことん追求し、この作品に盛り込みました。

オペラ界最高の日本人ヒロイン「蝶々夫人」誕生秘話に迫ります。

 

異国の乙女に アモーレ!

歌劇「蝶々夫人」は、没落した武家の娘、蝶々さんと、アメリカ軍人ピンカートンとの悲恋の物語。

第1幕 舞台は明治時代の長崎。15歳の娘、蝶々さんは、日本(にっぽん)を訪れたアメリカの軍人ピンカートンと結婚式を挙げます。しかし、ピンカートンはアメリカの女性と正式に結婚することを考えていました。彼にとって蝶々さんは、一時のさみしさを紛らす、かりそめの妻だったのです。

第2幕 ピンカートンがアメリカに帰って3年。蝶々さんは、彼との間に生まれた子どもと、女中とともに、夫の帰りを待ち続けています。「ピンカートンは戻らない」と泣き伏す女中に、「必ず帰って来る」と信じて止まない蝶々さんは、名アリア「ある晴れた日に」を熱唱します。

第3幕 アメリカ人の女性と結婚したピンカートンは、子どもを引き取ろうと、妻と共に、蝶々さんの家を訪ねて来ます。しかし、自分を待ち続けていた蝶々さんの純粋な心に気付いたピンカートンは、深い後悔の念に駆られます。全てを悟った蝶々さんは、短刀で自ら命を絶ちます。たとえ裏切られても夫への愛を貫き通す。日本(にっぽん)人女性の誇りと信念が描かれているのです。

 

魅せられて“ジャポニズム”

オペラのヒット作を次々と発表し、頭角を現してきたプッチーニは、さらなる飛躍を目指して、次の作品の題材を探し求めていました。当時ヨーロッパでは“ジャポニズム”が大流行し、芸術家たちは日本を題材にした作品を次々と発表していました。そんな中、プッチーニは、滞在先のロンドンで、人気の劇作家デーヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」の芝居を見て涙ながらに感動。創作意欲をかきたてられた彼は、「蝶々夫人」のオペラ化に向け、日本に関する資料を精力的に集め、日本の芝居を見たり、日本の伝統的な音楽を学んだりしたと言われています。独自の入念な取材を重ね1903年に完成した歌劇「蝶々夫人」でしたが、初演は大失敗。過剰な異国情緒や日本を蔑むような表現が「愛と死」という核となるテーマを見え難くしていたと言われています。しかしプッチーニは「この作品は必ずよみがえる!」という確信を胸に改作に取り組みます。日本を蔑視するような表現を削除し、後悔の念にかられたピンカートンのアリアを新たに書き加え、蝶々さんがわが子に歌いかける最後のアリアを修正したりなど、大幅な改作を重ねました。実に3度にわたる改作の末、「蝶々夫人」は、洗練されたジャポニズムを備えつつ、「愛と死」の物語がドラマチックに描かれた傑作オペラとして生まれかわったのです。

 

恋の妄想は 果てしなく

このオペラの中で最も有名なアリア「ある晴れた日に」は、アメリカに行った夫が帰って来るに違いないと思いこむ蝶々さんの妄想の世界を歌ったもので、その妄想がメロディーに乗せて3段階で展開していきます。

メロディー展開① 冒頭の妄想

ささやくような小さい音で夢見がちに始まる冒頭のメロディーで、蝶々さんは、「海のかなたから夫が船に乗って現れる…」と信じて歌います。だんだんイメージがはっきりしてくる過程…といった印象です。

メロディー展開② 夫と会う妄想

再び同じメロディーが出る2段階目は、夢見がちだった蝶々さんの妄想が、「夫が現れ…いよいよ会う…」などとリアルな感じになっていきます。演奏も、非常に弱く奏でられていた①のメロディーpp(ピアニッシモ)が変化して、非常に強くff(フォルティッシモ)で演奏するよう指示されています。

メロディー展開③ ピークに達する思い

3段階目は、蝶々さんの思いがピークに達し絶叫した後に、同じメロディーがfff(フォルティッシシモ)と、さらに強く変化した形で演奏されます。蝶々さんの妄想の広がりが感じられる音楽のドラマチックな展開をお楽しみください。