壬申の乱

天智天皇の息子(大友皇子)と天智天皇の弟(大海人皇子)との戦い。大海人皇子が勝利し天武天皇となる

 蘇我氏と物部氏の戦争から85年後古代における日本最大の内乱と称せられる壬申の乱が勃発する。壬申の乱は皇位継承に関わるクーデターだったが、この乱は天智天皇の独裁政治が生んだ内乱といえる。天智天皇は大化の改新ので中臣鎌足とともに、蘇我氏を潰した中大兄皇子であるが、中大兄皇子には弟がいてそれが大海人皇子だった

 天智天皇は大化の改新を断行し、豪族の私有地・私有民を廃止し、都を飛鳥から難波に移し公地公民制を一新した。さらに白村江の戦いに負けると、唐・新羅連合軍の襲来を恐れ、太宰府を守るために水城を築き、全国各地に山城や狼煙台を設置し、都を大津にうつした。このため国家財政は傾き、豪族や民の負担が重くなった。そのため天智天皇の晩年には人心は離れ人々は不満をつのらせていた。

 天智天皇は次期皇位継承者についても、ルール違反のわがままを通そうとした。当時、同母弟がいた場合、皇位は弟に譲るのが通常であった。弟の大海人皇子は天智天皇を常に補佐してきたので、周囲は当然大海人皇子が継ぐものだと思い、大海人皇子も同様に思い込んでいた。天智天皇はもともと大海人皇子に皇位を継がせるつもりでいたが、自分の息子である大友皇子が成長すると、大友皇子に皇位を継がせようと思うようになった。そこで邪魔になった大海人皇子を政権から排除しようとした。

 大友皇子には天皇になるだけの実績がなかった。そこで天智天皇は大友皇子に実績を持たせようとして、671年1月5日、新たに太政大臣のポストを新設すると、大友皇子を太政大臣に、左大臣には蘇我赤兄が、右大臣には中臣連金を任命した。太政大臣は朝廷では最高の位で、大友皇子を太政大臣にすることは、次期天皇には大友皇子がなることを意味していた。しかし従来の決まりでは、大友皇子には天皇になる資格がなかった。大友皇子は天智天皇の嫡男であったが、伊勢の豪族の娘との間に生まれた子だったからである。当時の皇位継続には、母親が皇族であることが必須だった。しかし天智天皇はこの原則を破り、大友皇子を後継にする意思を周囲に示したのである。実質的に政権を担当していた大海人皇子は無位無官の立場におとされた。

 天智天皇と大海人皇子の間には、額田王をめぐる心情的不和があった。額田王は大海人皇子と恋仲にあったが、その額田王を天智天皇が奪ったのである。このことは額田王と大海人皇子の和歌のやりとりから容易に想像がつくが、このことも感情的側面になっていたのだろう。

 天智天皇が病に臥せると、天智天皇は大友皇子への皇位継承が心配になった。671年10月17日、天智天皇は弟の大海人皇子を枕元によびつけた。この時、天皇がよんでいることを伝えたのは、皇子と親しい蘇我臣安麻呂であった。安麻呂は天皇のよびつけを皇子に伝えた後、「言葉には十分注意してください」といった。このことから大海人皇子は、兄の天智天皇を警戒していた。これまで天智天皇に睨まれた古人大兄皇子蘇我倉山田石川麻呂有馬皇子がいずれも不幸な最後を遂げたのをみてきたからである。政敵には情け容赦のない非情な兄であることを知っていた。

 大海人皇子は安麻呂の言葉を噛みしめ、不安な気持ちで天皇の居間へと急ぐと、病床の天皇は、

 「大海人皇子よ、わしの病気は重い、おまえに皇位を譲る」と言った。大海人皇子は天皇の意外な言葉に戸惑った。もちろん大海人皇子に次期天皇の座を譲る」という天智天皇の言葉は本心ではなかった。天智天皇は大友皇子を次の天皇にすることを決めていたからである。

 大海人皇子は安麻呂の言葉を思い出し、これは自分を試している罠であると直感し、返答によっては命すら危ないと感じた。もしこのとき大海人皇子が素直に譲渡を受け入れていたら「謀反の野心あり」としてて殺されていたであろう。

 大海人皇子は、

「わたしはもともと病気がちで、次期天皇には大友皇子がなるべきです。わたしは天皇の病気回復ために出家したいと思います」と、次期天皇に大友皇子を推挙すると、自分には天皇になる意志がないことを伝え,部屋を出るとすぐに剃髪して出家した。大海人皇子は天智天皇の内心を見抜き、やわらかく皇位を固辞したのである。

 2日後、大海人皇子は武器を朝廷に返上して,妻(後の持統天皇)や子、さらにわずかばかりの従者を連れて大津宮を去り奈良の吉野へ向かった。宇治橋まで見送った舎人(とねり)は,去っていく大海人皇子を見て「翼のある虎を野に放すようなものだ」と言った。

 671年12月3日、天智天皇が近江宮で46歳で崩御すると、近江宮(大津宮)で実権を握った24歳の大友皇子は、危険な大海人皇子を滅ぼそうと兵を集めた。672年5月、吉野に緊急の事態が知らされた。それは近江朝廷が天智天皇の陵を造ることを口実に、美濃と尾張の農民を集め,武器を持たせているという情報だった。また大津から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,吉野への道を塞ぐ動きがあると伝えてきた。

 

吉野を出る

 もちろん大海人皇子は自分に危険が迫っているのを感じ、ついに決断した。6月24日、大海人皇子はただちに村国連男依らの使者を、近江(滋賀県・大津宮)に残っている息子の高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)に送り、さらに自身の領地である美濃(岐阜県)にも使者を送り挙兵の準備をさせた。飛鳥でも兵を募り、大伴馬来田(おおとものまぐた)とその弟・吹負(ふけい)を味方につけた。

 吉野には女子供だけで兵力がなかったため、安全な地へ身を移さなければいけなかった。大海人皇子は美濃へ脱出すため、東国の豪族たちに味方につくように連絡をとった。大友皇子の軍勢よりも多く兵を集めること、さらに近江と東国の重要な通路である「不破関をいち早く抑えようとした。大海人皇子は美濃の国司と連絡をとって軍勢を集めた。スピードが勝敗のカギになるとわかっていた。

 6月26日、大海人皇子は吉野を出て美濃へ向かう。妻子従者20数人と昼夜を歩き伊賀(三重県)の名張へ着いた。名張に着いて兵を集めようとするが、名張郡司は出兵を拒否した。伊賀の東部は大友皇子の母の出身地(大山田村)であったので、いつ敵に襲われても不思議ではなかった。この状況を不利と見た大海人皇子は伊勢国に滞在すると、伊勢神宮に参拝した。

 空には不気味な黒雲が漂い、雷が鳴り響いていた。

 「これから天下が二つに分かれようとしているが、自分が最後には天下を取るだろう」大海人皇子がこのように呟いた直後、伊賀の長が500の兵を引き連れて大海人皇子の下に馳せ参じた。さらに美濃、伊勢、熊野などの豪族が次々に参戦し、積殖(伊賀市柘植)で息子の高市皇子の軍と合流することができた。

 さらに伊勢国でも兵を得て美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の要請を受けていた多臣品治がすでに兵を興し、不破関の道を封鎖し、朝廷軍の援軍補給路を絶っていた。東国からの兵力を集めた大海人皇子は軍勢を二手にわけ、第一軍は村国男依を大将軍とする東方主力軍で美濃の精鋭部隊を中心とする総勢2万の部隊で、第二軍は琵琶湖西岸を進軍する西方軍で出雲狛(いずものこま)・羽田矢国(はたのやくに)を将軍とする総勢3千の軍団だった。二つの部隊を琵琶湖畔を両岸から挟むようにして大津宮を目指した。

 大友皇子は大海人皇子が吉野を脱したことを知ると、家臣が「ただちに騎馬兵を差し向けて大海人皇子を殺すべし」と忠告するが、大友皇子は「大海人皇子を殺すより、これを機に大海人皇子に味方する勢力を一掃すべき」と考え、東国、吉備、筑紫(九州)に兵の動員を命じた。

 しかし東国の使者は不破で大海人皇子の部隊に阻まれ、吉備では総領の気持ちを動かすことができず、筑紫では外国への備えを理由に出兵を断ってきた。それでも近江朝廷は諸国から兵力を集めることができた。

 飛鳥では大海人皇子が去ったあと、近江朝が兵を集めたが、大海人皇子側大伴吹負が挙兵して朝廷部隊の指揮権をうばった。大伴吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝軍と激戦を繰り広げ、近江朝の方が優勢となり大伴吹負の軍はたびたび敗走した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着すると、大伴吹負は窮地を救われ、吹負は軍を再結集して朝廷との戦いを続け、ついに撃退した。

 近江朝は美濃にも軍を向けたが、副将の蘇我果安(はたやす)が総大将・山部王を殺害する事件が起きた。

 蘇我果安は大海人皇子が大津から吉野へ向かうとき「翼のある虎を野に放したようなものだ」と言った人物である。なぜ蘇我果安が総大将・山部王を殺害したかは不明であるが、大海人皇子に内通していた総大将・山部王が大海人皇子軍に降伏しようとするのを蘇我果安が諌止して殺害したとされている。

 この殺害のため近江の大軍は統率を失い、この戦線を崩壊混乱させた蘇我果安は山部王を殺害後に責任を取る形で自ら自刃して果てた。蘇我果安は近江朝廷に忠誠心の強い重臣だった。

瀬田の唐橋の決戦

 村国男依に率いられた大海人皇子の部隊は連戦連勝で進撃を続けた。大海人皇子は総大将を高市皇子にすると「不破」より軍を二手に分け、一隊は琵琶湖の西岸より大津近江へ、もう一隊は琵琶湖東岸を下り瀬田へ向わせた。瀬田へ向う軍勢は鳥籠山、安河、栗太などで、大友軍と戦い勝利を重ね、7月22日、最後の決戦が瀬田の唐橋で起きた(大津市唐橋町)。

 唐橋を挟んで東側に村国男依の軍が布陣,西に大友皇子率いる朝廷軍が構えた。朝廷軍は軍の後方が見えないほどの大軍であった。朝廷軍が村国男依の軍を待ちかまえ、弓を構えた兵たちが一斉に矢を放つと,それらが雨のように落ちてきた。

 朝廷軍は橋の中程の板をはずし、板をでつなぎ、敵が渡ってきたら綱を引き、敵を川へ落とす仕掛けをつくっていた。しかし大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)はこのワナを見破り、大分君稚臣は盾を捨て、鎧を二重に着ると、抜刀して弓矢の中を切り込んできた。その速さは尋常ではなく、板を渡ると仕掛けの綱を切った。そこへ大海人皇子軍がなだれ込み、さらに村国男依の軍が一気に対岸を目指してつっこんできた

 朝廷軍は総崩れとなり、村国男依軍が朝廷軍を破り朝廷軍は敗走した。その日のうちに大津宮は戦火に燃え落ち、大友皇子はあやうくなりながら長等山に逃れ大津京を眼下に見ながら首を吊った。

壬申の乱の勝因

 この壬申の乱には大きな謎が潜んでいる。それは吉野を出た大海人皇子は数人の付き人だけだったのに、なぜ朝廷軍に勝つほどの軍勢が集まったのかである。軍勢のない大海人皇子が吉野から東国に逃れたのは、東国に親大海人皇子の豪族がいたからである。大海人皇子に加勢した豪族は、尾張氏、蘇我氏、大伴氏で、彼らは東国と強いつながりを持っていた。特に尾張氏は大海氏と同族で、2万の軍勢と最大の軍資金を提供している。しかし日本書紀には尾張氏を意識的に無視しているように記載が少ない。

 さらに地方の豪族や民たちは天智天皇(中大兄皇子)の強引な独裁に恨みを持っていた。特に白村江の戦いで負け、国防を強化するため民を駆り集めで山城を造り、近江朝に遷都し、そのために重税が課せられていた。天智天皇の独裁的に政策に恨みを持っていたため、本来ならば天皇側につくはずだったが、不遇な大海人皇子側についたのである。このように大海人皇子の勝因は天智天皇の急進改革によって特権を奪われた貴族・地方豪族の不満があった。それを吸収して近江朝廷にぶつけたのである。

 さらに当時の皇位継承は母親の血統や后妃の位が重視されていた。このことは嫡男ながら身分の低い豪族の娘との子である大友皇子の弱点であった。

 これらを背景に、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの天智天皇への反発が乱の結果を招いたのである。さらに大海人皇子の行動が迅速で、大友皇子の行動が全てが後手にまわり、決戦を控えて内部混乱が生じていた。この約1ヶ月に渡る争いを「壬申の乱」と呼ぶのは、この年の干支が壬申だったからである。

 673年2月、壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位した。近江朝廷が滅び、都は再び飛鳥に移された。大海人皇子は即位して天武天皇となった。この天皇の名称は歴史上天武天皇が始めて用いられたのである。それまでの天皇は、神話の時代からのすべて大王とよばれていたが、それがさかのぼって天皇と新たに呼ぶことになった。

 壬申の乱に勝利し、実力で皇位に就いた大海人皇子(天武天皇)の権力は強大になり、天皇の 神格化・律令体制の整備が急速に進んだ。

 

壬申の乱で大海人皇子を父に、大友皇子を夫にした女性 

 薄幸の生涯を送った女性は、古代から多くいるが、十市皇女ほど身を裂かれるような、悲劇的な選択を迫られた女性は少ないであろう。十市皇女は「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に、大友皇子を夫に持つ女性だった。父と夫が戦う事態はまさに悲劇としか言いようがない。(上図、比売神社、奈良市高畑町)

 十市皇女の動静についてはほとんど記録に残っておらず、まさに謎だらけで、生年についてもいくつかの説があり確定していない。没したのは678年とされている。大海人皇子の第一皇女(母は額田王)として生まれ大友皇子の正妃として嫁いでいる。

 父の大海人皇子が、兄の天智天皇から大田皇女、鵜野讃良皇女(持統天皇)の2人の皇女を娶ったことから、両者の関係をさらに緊密にする意味も加わって、大海人皇子からは妻・額田王との間に生まれた皇女十市皇女を天智天皇の長子、大友皇子の妻にした。このことが十市皇女にとって大きな悲劇を生むことになる。

 十市皇女の生涯は詳らかではないが、天武天皇の皇子(長男)である高市皇子との悲恋があった。高市皇子は天武天皇の皇子の中で草壁皇子、大津皇子に次ぐNo.3の座にあったが、天武天皇が亡くなった後、大津皇子、そして草壁皇子が亡くなるとトップに昇り詰め、太政大臣を務め持統天皇政権を支えた。

 したがって政略結婚として大友皇子のもとに嫁ぐことがなければ、十市皇女は高市皇子との恋を成就していた。高市皇子の気持ちは分からないが、異例の年齢まで正妃を持たず独身だった。恐らく高市皇子は十市皇女を想い続け、他の妻を迎え入れる気にならなかったのだろう。

 十市皇女は大友皇子の正妃とに馴染めず、父母への思慕が強かったのかのか、宇治拾遺物語では十市皇女が父の大海人皇子に夫・大友皇子の動静を通報している。大海人皇子にとって娘婿である大友皇子との雌雄を決することになる「壬申の乱」に至る過程で、情報は喉から手が出るほど欲しかった。その役割を十市皇女は担っていたのである。鮒のつつみ焼きの腹中に密書を忍ばせて吉野に送ったとされている。

 十市皇女の死についても謎がある。十市皇女は未亡人であったが、泊瀬倉梯宮の斎宮となることが決まっていた。斎宮といえば未婚の女性が選ばれるのだが、まさにその当日の4月7日朝、日本中の天神地祇のあらゆる神々を天武天皇自らが行幸する日に、十市皇女は急死してしまうのである。この行幸は無期限に延期され事実上中止となった。このことから天武天皇の神事に十市皇女が絡んでいた可能性が高いのである。

 当時の皇后は皇位の正統な継承資格を有していた。つまり大友皇子が死去すれば、天武天皇と並ぶ地位を十市皇女は得ていたのである。このことは十市皇女にその気がなくても、天皇に担ぎ出す勢力が出る可能性があった。そのため天武天皇に暗殺された説、あるいは父の天武天皇と愛する我が子である葛野王の未来を守るために自殺した説がある。十市皇女はまだ30歳前後だった。この不審な急死に対し、自殺説、暗殺説がある。

 王権をめぐって自分の父と夫が戦うという、悲痛の運命を背負わされた女性の悲しすぎるエンディングだった。

 日本書紀では「十市皇女、卒然に病発して宮中に薨せぬ」とだけ記されている。7日後の4月14日、亡骸は大和の赤穂の地に葬られた。1981年、比売塚(ひめづか)という古墳の上に建てられた比売神社に十市皇女は祀られている。この比売神社は現在、奈良市高畑町の一角にある。

大友皇子
 壬申の乱は日本書紀に書かれている、大友皇子は天智天皇の崩御から天武天皇まで、素直に考えれば天皇として即位していたずである。しかし日本書紀にはそのことについて一切触れていない。
 大海人皇子が吉野で挙兵し、武力で正当な天皇を倒したことは、まさに天皇虐殺、皇位簒奪行為だった。大海人皇子(天武天皇)が恐れたのは、皇位簒奪者の汚名が後世に伝えられることで、そのためには大友皇子の即位の事実を認めず、あるいはなかったことにすればよかった。自分が天命によって皇位に就いたと後世に残せば良いのだった。

 日本書紀は天武天皇が編纂を命じているのである。日本書紀は30巻で構成され、神代の記述に当てた最初の2巻を除く残り28巻は、神武天皇から持統天皇までの歴史を記述しているが、その中で突出して記述量が多いのが天武の紀である。巻28と巻29の2巻が天武天皇一代の治績を記述している。しかも巻28のほとんどは壬申の乱についての記述である。
 天武天皇の治世が他の天皇より長いわけではないが、日本書紀の編纂を命じたのが天武天皇であることを忘れてはいけない。万世一系の天皇家の尊厳を強調するとともに、天武天皇の皇位簒奪という汚名を隠したのである。
 日本書紀の記述から、これまで大友皇子の即位は見なされて来なかった。しかし、明治政府は明治3年(1870)になって大友皇子に弘文天皇と追号して第39代天皇として認めている。つまり大海人皇子が弘文天皇から皇位を奪ったのが壬申の乱である。