磐井の乱

磐井の乱までの流れ

 527年8月1日、26代継体天皇はヤマト政権に従わない九州の筑紫国造・磐井に対して討伐命令を出した。ヤマト政権は物部麁鹿火(もののべのあらかい)を大将に任じヤマト政権軍と磐井軍が激しく戦うが、この戦いは古代日本で最大の反乱で、これをきっかけに磐井を制圧したヤマト政権が統一国家としての日本を整備してゆく。

 大和朝廷の歴史について簡単に述べる。大和朝廷「三輪王朝」の実質的創始者は10代崇神天皇とされ、日本武(やまとたける)・神功皇后の二代によって大きく勢力範囲を広げていった。神功皇后の子孫が「河内王朝」と呼ばれているが、21代雄略天皇はカリスマ性の高い天皇で物部・大伴氏などの諸豪族も仕えていた。しかし25代武烈天皇は乱暴なだけで人心は天皇から離れ恐らく暗殺されている。

 武烈天皇の後継者として丹波の国の倭彦王を擁立しようとするが、倭彦王はヤマト政権の軍が迎えに行くと自分を討ちに来たと思い逃げてしまう。次の候補として北陸から東海に掛けて勢力を握っていた越前の男大迹(おとど)王の所へ行く。

 大和豪族の長・大伴金村が「あなたを次の天皇として擁立したい」というが、男大迹王はなかなか返事をしない。大伴金村としては男大迹を天皇にしたかったので、誠意を尽くして説得してようやく男大迹王が26代継体天皇となる。

 しかしこの皇位継承には異論のある豪族たちがいたため、継体天皇は承諾から20年目にしてようやく大和に移ってきた。継体天皇が即位した時には57歳で妻と大きな子供たちがいたが、既存勢力との融合のため手白髪姫を皇后に迎え入れ、結果的にこの手白髪姫が生んだ欽明天皇がその後の皇統の祖となる。

 当時のヤマト政権は日本を直接まとめていたのではない。地方はそれぞれの豪族が各々の土地を支配し、その豪族たちが大王に服従し、はじめて誼を結ぶかたちで統治されていた。つまりヤマト政権は日本を統一するほどの力はなかったのである。

 しかし継体天皇がやっと大和に入ってきた時、朝鮮の任那の失地回復のため新羅征伐の必要に迫られた。しかしヤマト政権の軍が朝鮮に出兵に向かうと、九州の筑紫国造の磐井が妨害したのである。

磐井の乱

 磐井の乱とは、九州筑紫の国造・磐井がヤマト政権に対して起こした大規模な反乱で、日本古代史における最大の乱とされている。筑紫とは北九州一帯をさし、国造とはヤマト政権の地方官の意味であるが、ヤマト政権から任命されたとはいえ、磐井は九州を支配する最大の豪族であり任命は形だけのものであった。磐井の勢力は、磐井が生前に造った岩戸山古墳を見れば想像がつく。岩戸山古墳は古墳後期における日本最大規模の古墳である。

 五世紀後半から、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の争いが激しくなり、朝鮮半島南部には日本が実効支配している任那(みまな)があった。この任那が新羅からしばしば侵略を受けていたため、大和にやっと落ち着いた継体天皇は、527年に任那を助けるべく新羅征討出兵を決意することになった。大和朝廷が任那にこだわったのは、朝鮮半島の南部が鉄の最大産地だったからである。

 日本は鉄を産出せず、鉄はすべて朝鮮半島から輸入されていた。鉄で作られた農具や武器はすべて朝鮮からの鉄を用いていたので、ヤマト政権にとっては朝鮮半島、とくに任那(加羅)は生命線であった。この出兵が「磐井の乱」を引き起こすきかっけになる。この古代史最大の内乱の経過は「日本書紀」に詳しく書かれている。

 527年6月、新羅への出兵の命を受けた将軍・近江毛野が、6万人の兵を率いて新羅に奪われた南加羅を回復するため任那へ向けて出発した。ところがこの情報を知った新羅は「もし日本が攻めてきたら新羅は滅亡する」と危機感をつのらせ、新羅は以前から大和朝廷の支配に不満をもつ筑紫国造・磐井へ賄賂を贈り、磐井にヤマト政権軍の渡海を妨害するように要請したのである。百済とヤマト政権が同盟していることから、新羅は磐井と手を結んだのである。

 国造・磐井はこれまでヤマト政権が朝鮮へ出兵するたびに動員を命じられ、その負担に不満をいだいていた。国造・磐井は九州の北半分を勢力範囲に納めていて、ヤマト政権がまだ一枚岩でないの見て、ヤマト政権とは別の独自の国を作ろうとしたのである。ヤマト政権より自分たちのほうが力があるという反発意思を強く持っていたのである。

 磐井は新羅からの提案に合意すると、九州の他の豪族たちを説得して挙兵した。火国(肥前・肥後)、豊国(豊前・豊後)に勢力を拡張し、大伴金村の部下の将軍・近江毛野の軍勢の前に立ちはだかった。朝鮮半島への海路を絶ち、朝鮮からヤマトへ向かう朝貢船を略奪し、ヤマト朝廷に妨害行為を起こしたのである。

 戦いのとき磐井はヤマト政権軍の大将・近江毛野に対し「お前とは同じ釜の飯を食った仲。それが朝廷の使者となって私を従わせようとするのはどうゆうわけだ、お前の指示は受けない」と伝えた。磐井は代々筑紫の名門の生まれで、首長を継続する立場にあった。磐井は若いころ故郷を出て朝廷に仕えた経験があり、近江毛野はその時の仲間であった。その近江毛野に向かい、地方豪族といえども、中央の朝廷にはなびかないと啖呵を切ったのである。磐井の抵抗によりヤマト朝廷軍の朝鮮出兵は九州で足止めをくらった。

 ヤマト政権は日本列島を完全に掌握するためにも、磐井を絶対に潰さなければならなかった。磐井を許せば全国各地で同様の乱が起きると予想されたからである。ヤマト朝廷では、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らと相談して将軍の人選を行い、大将を近江毛野にかえて物部麁鹿火を任命した。同年8月1日、天皇の名で磐井討伐命令が出され、物部麁鹿火が将軍になり大軍が動員された。しかし磐井の力も非常に強く1年半近く苦戦が続いた。

 ヤマト朝廷は日本を統一したが、まだ一枚岩ではなかった。武烈天皇の後継者は越前(福井県)にいた継体天皇に決まりながらも、反勢力が強いため即位後20年間も都に入れなかったことからも想像がつく。

 ヤマト朝廷が朝鮮半島にこだわったのは、朝鮮半島南部が鉄の一大産地だったからで、鉄の利用によって地方豪族を服従させてきたヤマト朝廷にとって、鉄はまさに生命線であった。この反乱の背景には、朝鮮半島における鉄の利権争いがあった。また豪族の磐井が新羅と組めば、日本の主導権を奪われてしまう可能性があった。

 九州の一豪族に過ぎない磐井が1年半近くもヤマト政権に反抗し続けたのは、この戦いは磐井だけでなく九州の豪族の多くが参戦したからである。九州の豪族たちは大和朝廷の朝鮮出兵のたびに大きな負担を強いられ、ヤマト政権に対する不満が高まっていた。その不満が爆発して磐井のもとに集まり反乱に加わったのである。また九州は中国、朝鮮半島に近く、朝鮮半島で高句麗の南下が強まると、高句麗沿海の航行が難しくなり、有明海から済州島を経て中国に至るルートが一般的になっていた。このこともあり連綿として築いてきた利権を脅かされるための反乱だったと思われる。九州の豪族は、武器や装飾品、農具など金属地金の旺盛な国内需要に支えられ、朝鮮半島諸国との交易で蓄えた強力な経済基盤を有していたであろう。九州の豪族の勢力はヤマト政権を脅かすほどで、その統帥が筑紫君磐井であった。

 528年11月11日、物部麁鹿火が率いるヤマト政権軍が、筑紫三井郡(福岡県小郡市)で筑後川をはさんで磐井軍と対峙し激しく激突した。戦いの結果、磐井軍は敗北し、磐井は物部麁鹿火に斬られたとされている。これを御井郡(みいのこおり)の戦いという。

 磐井の子・筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座を逃れるため、糟屋(福岡県糟屋郡)の屯倉をヤマト政権へ献上して死罪を免れている。

 磐井は物部麁鹿火に斬られたとしているが、このことは「日本書紀」書かれているが、筑紫国風土記では磐井は豊前に逃げ込み、生を全うしたとしている。また磐井の子・筑紫君葛子は死罪を免れたとあるが、「反逆者の一族は財産没収の上皆殺し」の時代である。日本書紀の記載には疑問はあるが何ら確証はない。

 当時、九州の海上交通をおさえていた磐井の力は強大で、大和政権としても侮れなかった。そのような独立勢力だった磐井が生き残るため朝廷と手を切り新羅と手を組んでも不思議ではなかった。九州への支配力を強める大和政権に対して、自らの存続をかけて挑んだ戦いであった。いずれにしても磐井には「九州独立、日本制覇」の野望があった。

 磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱とされていたが、古代国家形成の視点で見ると、乱当時はまだ統一的な中央政権は完全ではなく、磐井が独自の地域国家を確立し、国土統一を企図するヤマト朝廷と衝突したといえる。

 この戦いで磐井が負け、磐井の息子は大和朝廷に完全に従ったため九州におけるヤマト朝廷の勢力は強まり、国家統一に向け大きな1歩を踏み出すことになった。

 この磐井乱後、ヤマト政権は再び近江毛野を任那へ派遣し、新羅との領土交渉を行っている。この近江毛野(けぬ)は大伴金村の部下で、磐井が最初のヤマト朝廷の軍勢を阻んだ大将だった人物である。近江毛野は新羅との領土交渉にも失敗し、この外交政策失敗をきっかけに大伴金村は信頼を失い、ヤマト政権での勢力を落とすことになった。また磐井の乱が起きたのは地方に対しる締め付けがゆるすぎるせいとして、締め上げる動きがヤマト政権内で起こり、監視を強めるために屯倉(直轄地)を増やすことになった。

岩戸山古墳

 福岡県八女市南部に岩戸山古墳がある。この古墳は前方後円墳で九州一の規模で、後円部の径は約60㍍、高さ約18㍍である。長さは125メートルの前方後円墳で、磐井が生前に造ったものである。磐井が生前に築造したことは築造時期から筑紫国造磐井が造ったことは確かで、被葬者と築造時期を推定できる日本では数少ない古墳の1つである。岩戸山古墳の周囲には石人、石馬、力士、盾、太刀、水鳥など多彩な石像(下右)が立てられ、これらの石像は他の古墳には見られない岩戸山古墳独自のものである。また古墳の東北部に一辺が約43mの方形の別区が設けられていて磐井の政所と考えられている。

 日本書紀では磐井は物部麁鹿火に斬られたとしているが、筑後国風土記では磐井の行方が分かっていないため、ヤマト朝廷の軍勢は腹いせに岩戸山古墳の回りの石像の手や頭を叩き割ったと書かれている。