チャイコフスキーの3大バレイ

 チイコフスキー(1840-1893)がバレエ音楽を作曲していなかったら、その後のバレエ界はどうなっていただろうか。バレイの基礎を築いたマリウス・ブティパも確かに立派だったけれど、チイコフスキーの音楽があるからこそ、三大バレエは生き残ったわけだし、のちのモーリス・ベジヤールもジョン・ノイマイーもマシユー・ボーンもシヤン=クリストフ・マイョーも、あの雄弁な音楽ゆえにそこから新しいものを生み出せたわけである。チイコフスキーこそは、バレエ芸術における大功労者であることは間違いない。

 そもそもチイコフスキーがバレエ音楽の分野に手を染める以前は、バレエ音楽とは、はるか昔のバロック時代を除くなら、レオン・ミンクスやチェーザレ ・プーニのような専門作曲家が独占的に支配する分野であった。彼らはバレエ音楽以外には何も作曲しない。その代わりに、この商売のあらゆる細部やしきたりに通じており、いわば物分かりの良い作曲家であった。そこでは個性的であること、過度に刺激的であること、難しい音楽であること、聴衆の注意を惹きつけすぎることは禁じられていた。つまりほどほどにやっておればよかったのである。

 作曲家は振付家の指示に従って、まるで下請け業務のように作曲するのが当然であり、オペラのように作曲家が台本家と対等、あるいは優位に立ちながら、ときにはキャスト(歌手)の選定や演出にまでロをさしはさめる創造行為はできなかった。一流の作曲家はオペラをいつか手がけるベきだが、バレエ音楽なんてつまらない分野の仕事はしなくたっていい。大方そういう認識であった。当時のある評論家は次のように述べている。「最良の女性が何も言わない人であるように、 最良のバレエ音楽とは、ほとんど何も気づかれないで過ぎていくものである」。 現代でもバレエ音楽はたとえチャィコフスキーの作曲したものであっても、 上演する側の演出や振付の都合によって、ある部分を適当に割愛したり、繰り返しを増やしたりするのはもちろんのこと、曲そのものをカットしたり、順番を入れ替えたり、果ては別の作品を挿入したり、といったことが当たり前のように行われている。最も有名なケースとしては、白鳥の湖のいわゆる「黒鳥のパ・ド・ドゥ」で、これはチャイコフスキー本来の意図とは関係のない場所からの入れ替えによつて当てられた音楽である。

 白鳥の胡が1877年にボリショイ劇場で初演されたとき、新聞では「バレイは音楽のために作られるのか、それとも音楽はバレイのために作曲されるのか」という皮肉的な評まで出た。ではなぜ、チャイコフスキーはそんな蔑視されるジャンルであるバレエ音楽の作曲をわざわざ引き受けたのだろケか?それはひとえに、チャイコフスキーがバレエ芸術のよき理解者であったことに尽きる。よく知られているように、当時バレエは踊り子が娼婦のようにみなされていた風潮を反映して、猥褻な見せものとする見方が一般的であった。そうした常識的な見方に基づいて冷やかした友人に向かつて、チャイコフスキーはこう反論している。バレエは最も純粋で無垢な芸術だよ。でなかつたら、どうして人は子供たち をバレエに連れて行くんだい?」と。