南北朝と室町

南北朝の戦乱

  この60年余にも及ぶ戦乱の中で、日本の人口はおおむね増加傾向だった。気候が温暖期になったことがその理由の一つだが、日本国内の内戦は、欧米や中国とは違い残酷な殲滅戦に発展しなかったからである。日本は自然環境に恵まれ、極端な食糧難が生じにくいため、食糧をめぐる殺し合い(社会全体の口減らし)の必要性が乏しいかったである。しかも南北朝の戦乱は、要するに武士団相互の利害闘争に過ぎないので、庶民はそれを遠くから観望していれば良かったのであった。もちろん、戦場付近の農地は荒らされ、略奪にあったが、社会全体としての損失はそれほど深刻ではなかった。

 太平記などの戦記文学には、常に10万から100万の大軍が殺し合ったように書かれてあるが、これは中国の歴史書に影響された小説家の創作である。実際には数百から数千規模の軍勢が矢を射ち合って、先に戦意を無くした方が退却する比較的のんびりした戦いだった。

 足利尊氏の新たな幕府は、その本拠地が京都の室町に置かれたことから室町幕府と呼ばれた。この幕府が京都に置かれたのは、吉野の南朝軍と対立状態にあったため、この南朝に睨みを利かせる必要があったからである。さらに京都の北朝は尊氏が擁立した傀儡に過ぎなかったので、王権の膝元にいても、干渉を恐れることが無かったからだった。

 だがこの新たな幕府は武士団と商業資本の調整をするどころか、そもそも武士団ですら満足に束ねることの出来なかった。それは統治の根拠としての幕府の権威が低かったからである。

 1350年になると、直義は尊氏と対立して南朝につき、観応の擾乱(じょうらん)が始まった。一時期は後醍醐天皇の子の後村上天皇率いる南朝が京都に入り、尊氏が南朝に降伏して北朝の三種の神器を引き渡すなど、京都や幕府は混乱した。

 1352年に直義が急死(毒殺とも伝えられています)した後も混乱は続き、尊氏派と旧直義派、さらには南朝勢力の三者の争いが続いたことで、この後も約10年にわたって京都を中心に動乱が続いた。

 この時代までの相続は惣領制(そうりょうせい)であったが、単独相続が一般的になり、その結果として各地の武士たちは血族同士の内部支配をめぐる対立が激しくなった。相続は総取り合戦であり、戦いで片方が北朝につけば、もう片方は南朝につき、血族同士の争いが南北朝と結びつき、動乱が拡大したのである。これらの動きは地方の武士の結びつきが、それまでの血縁から地縁的へと変化していく流れになった。

 尊氏は1358年に54歳で亡くなるが、南北朝の動乱は尊氏の生存中には決着がつかなかった。尊氏には人間らしい性格の良さはあったが、政治家としては適さなかったばかりか、優柔不断が政権の足を引っ張り、彼の死後も室町幕府は混乱は続き、やがて来る戦国時代への流れにつながってしまう。

 鎌倉幕府は京都の朝廷の伝統的権威(王権)を背景に、見かけ上は全国に君臨したが幕府としての厳しさに欠け。朝廷の権威も落ちてしまうことになる。

 

朝廷の衰退

 南北朝の戦乱で最も大きなダメージを受けたのは朝廷であった。かつて後醍醐天皇は朝廷を唯一絶対の権力に成長させるつもりでいたが、蓋を開けたら目算が狂っていた。朝廷が2つに分裂し、武士に大義名分を与える装置として利用され朝廷の権威は落ちた。

 足利家執事の高師直は「この世に、天皇とか上皇とかいうのがあるから話がややこしい。いっそのこと、まとめて島流しにするべきだ。どうしても必要というなら、木像でも飾っておけばよい」と云ったほどである。

 美濃(岐阜県)の豪族・土岐頼遠は、酔って上皇の牛車に出会うと、道を開けるように云われて激怒し「なに、上皇のお通りだと。そうか、犬か。犬ならば射殺してくれる」と叫び、牛車に矢を射掛けた。

 朝廷は平安時代以来、政治らしい政治をしないで、権威に寄りかかってきた。その権威が無残に崩れ去り、木像や犬に喩えられるまでに落ちぶれたのである。しかしそれに代わる政治的権威が日本にはなかった。足利将軍家は、単なる「農協の親分」に過ぎなかった。その足利家が衰退ずれば、日本は事実上の無政府状態に転落していった。それが戦国時代である。

 南北朝時代からすでに戦国時代の芽は生まれていた。各地の武士団は南北両朝を渡り歩き、攻伐を繰り返して領土を増やし、やがて中央の命令を聞かなくなった。山陰の山名氏は日本66か国のうち11か国を領有し「六分の一殿」と呼ばれ、武士団は「大名」へと成長を遂げたのである。

 また朝廷の権威が崩れ去り「下克上」と呼ばれる風潮が蔓延した。権威に頼らない能力主義が徹底されたのである。ただ足利幕府の中興の祖である義満(三代将軍)の登場で、この混乱は一時的に緩和された。彼は将軍家の軍事力を高める政策を強行し、その力を背景に山名氏や土岐氏や大内氏といった巨大武士団を打倒して勢力を弱めたのである。また義満はジリ貧状態の南朝の天皇家に対して次期皇位を約束する嘘を仕掛けて京都に誘致し軟禁状態に置いた。ここでようやく南北朝は合体を見たのである(1392年)。

 足利幕府はその後も義満以来の強権的恐怖政治で、何とか日本の秩序を維持しようと尽力したが、六代将軍・義教が赤松氏に暗殺される事件(嘉吉の乱。1441年)によってこの路線は崩壊した。これ以降、足利幕府は巨大武士団(大名)の利権に翻弄され堕して行く。さらに将軍の後継者争いに大名同士の勢力争いが複雑にからみ、未曾有の大内乱「応仁の乱」(1467~)が勃発する。10年にも及ぶこの内乱により京都が焼け野原と化し、日本は実力本位の戦国時代に突入することになる。

  ところで鎌倉時代の頼朝は冷徹などの政治家であった。さい疑深い頼朝はそれゆえに一族を破滅に追い込んだ。もし尊氏が頼朝の前例を教訓にしていたら室町幕府も違っていただろう。ところで頼朝同様に現実を冷静に見極め、自己の政権樹立の際に同じ轍を踏まないように慎重に行動した男が後の世に現れた。

 それは信長、秀吉、家康などの戦国時代の武将たちであり、特に家康は対立する勢力を卑劣な手段を用いてまでして徹底的に滅ぼし、朝廷に対しては幕府がつくった法律を守らせ、将来幕府をおびやかしそうな大名には領地を与え、その代わりに政治には口出しさせず、さらには巨大な宗教団体を分割させ幕府に対抗できないように仕向けた。

 250年以上続いた江戸幕府による平和は室町幕府の欠けているとこを冷静に補ったことによるが、室町幕府といえども江戸時代同様に長期にわたり日本を収めたことは時代の流れのなかでは評価に価する。人望があり人間らしい足利尊氏と油断のならない「狸(たぬき)オヤジ」の江戸時代は歴史上の何ともいえない皮肉である。