南北朝と室町

南北朝の戦乱

  尊氏に押し込められた後醍醐天皇は、隙を見て京都を抜け出し吉野(奈良県)に移り吉野を皇居を定めた。この結果、吉野の朝廷(南朝)と、尊氏の建てた京都の朝廷(北朝)

のニつの朝廷が出来てしまった。天皇中心の公家政治に戻そうという古い力と武家治を推し進めようという新しい力の戦いだった。以後、60年余にも及ぶ南北朝時代の戦乱となった。

 その当時の日本の人口はおおむね増加傾向だった。気候が温暖期だったこともあるが、日本国内の内戦は欧米や中国とは違い、残酷な殲滅戦に発展しなかったことも影響があった。日本は自然環境に恵まれ、極端な食糧難が生じにくいため、食糧をめぐる殺し合いの必要性が乏しいかったのある。しかも南北朝の戦乱は、要するに武士団相互の利害闘争に過ぎなかったので、庶民は遠くから観望していれば良かった。もちろん戦場付近の農地は荒らされ略奪もあったが、社会全体としての損失はそれほど深刻ではなかった。

 太平記などの戦記には、常に10万から100万の大軍が殺し合ったように書かれているが、これは小説家の創作で、実際には数百から数千規模の軍勢が矢を射ち合って、先に戦意を無くした方が退却する比較的のんびりした戦いだった。

室町幕府

 足利尊氏の新たな幕府は室町幕府と呼ばれている。3代将軍足利義満が京都の室町に「花の御所」を造営して歴代将軍が住んだことから足利将軍の事を室町殿と呼び、後の時代になってから室町幕府、この時代を室町時代と呼ぶようになった。この時代はまだ「幕府」という名称さえ定着していなかった。当然当時の人々は室町政権を「室町幕府」という呼び方をしたことはない。これは例えば、弥生時代の名称が東京の弥生町から遺跡が見つかったの同じく、京都の室町通りに三代将軍足利義満が花の御所を構えたせいである。この幕府が京都に置かれたのは、吉野の南朝軍と対立状態にあったため、この南朝に睨みを利かせるため京都から動けなかったからである。京都の北朝は尊氏が擁立した傀儡に過ぎなかったので、王権の膝元にいても干渉を恐れることはなかった。

 尊氏は1336年、建武式目を定め鎌倉幕府を開く。この建武式目は足利尊氏の諮問に対し、二階堂是円(にかいどうぜえん)、天台宗の玄恵(げんえ)ら著名な法律家たちが答申するという形式で出された。その内容は
 1.幕府の場所は京都にする 
 (本来は鎌倉にすべきだが、北条氏が滅びた不吉な場所であるので反対意見が多い)
 2.倹約に務め、遊興を抑制する。
 3.人々の家を勝手に没収しない。
 4.公家・女性・僧侶などの政治への介入禁止
 5.賄賂は禁止、守護にはきちんとした人物を任命する。
 などといったものである。
 この新たな幕府は武士団と商業資本の調整をするどころか、武士団すら満足に束ねることの出来なかった。それは統治の根拠としての幕府の権威が低かったからである。

 また室町幕府は鎌倉幕府の仕組みを基本的に受け継ぎますが、執権の代わりに管領を置いたこと、守護の力が非常に強力になり自らの領地にどっしりと根を下ろした。
 また、幕府成立前からその傾向があったが、
初期の幕府は統治系統は足利尊氏が主に軍事や人事を担当し、足利直義が主に政治や裁判を担当した。
 要は兄貴は全国的な、弟は地域的な問題を担当。二人が仲がよかったころは、二馬力で問題を解決できるのでよかったが、幕府を開いたころから尊氏はだんだん政治に口を出さなくなってきた。どうも後醍醐天皇を追い出したことに「申し訳ない」と思っていて、憂鬱だったようで、その証拠に後醍醐天皇を隠岐に流すなど強力な措置をとることも無く、吉野にいることを許していた。
しぶとい南朝
 1338年に石津の戦いで南朝の北畠顕家が高師直の軍勢に敗北して21歳で戦死し、さらに越前(現在の福井県)の藤島の戦いで新田義貞が斯波高経(しばたかつね)細川孝基(ほそかわたかもと)の軍勢に敗北して戦死し、南朝の中核となっていた武将が全滅状態となった。翌年、失意のうちに後醍醐天皇は亡くなった。
 そこで足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都に壮大な天龍寺を造営させた。これは、後醍醐天皇と仲がよかった禅宗の夢窓疎石(むそうそせき)の発案によるもので、なんとか後醍醐天皇の冥福を祈りたいと考えていた尊氏は大賛成。幕府の宣伝にもなりますから、総力を挙げて完成させました。ちなみに、延暦寺が建設反対と東大寺などと共に激しくデモをおこなっている。

 また鎌倉幕府の最後の執権であった北条高時を弔うために鎌倉に宝戒寺を、新田義貞のために、彼の故郷である世良田(群馬県太田市尾島町旧新田郡)の長楽寺へ寺領を寄進し、さらに直義とともにこれまでの戦死者を弔うため、全国に1つずつ寺と塔を造らせた。いわゆる安国寺と利生塔である。


観応の擾乱

 とうとう高師直と足利直義が対立を始める。先手を打ったのは足利直義で、尊氏に迫り高師直の執事職を辞めさせた。これに対し高師直はクーデターを実行し幕府の主要部を占領し、足利直義の側近である上杉重能は殺され、直義は尊氏の屋敷に逃げ込み、自らの地位を尊氏の嫡男で鎌倉公方(かまくらくぼう)を務めていた足利義詮に譲り、頭を丸めて出家せざるを得なかった。

 しかし今度は直義は京都を脱出すると、敵であるはずの南朝と講和し、味方を集めていった。新田義貞を倒した斯波高経も足利直義に味方し、高師直VS足利直義となり、幕府は2つに分裂。一時期は後醍醐天皇の子の後村上天皇率いる南朝が京都に入り、尊氏が南朝に降伏して北朝の三種の神器を引き渡すなど京都や幕府は混乱した。結局は直義が勝利し尊氏は直義と講和した。そして高師直・高師泰兄弟は京都に戻る途中、足利直義方の上杉能憲(上杉重能の養子)に「親父の仇」と殺されてしまう。

  しかし尊氏・直義の兄弟対立はしばらくして再燃し、直義は再び京都を脱出して軍を組織する。そこで尊氏も本腰を入れて直義との戦いを始め、なんと今度は尊氏が南朝に降伏するという前代未聞の出来事がおきた。こうして尊氏は東海道、さらに鎌倉で直義と戦い撃破した。直義はついに降伏し、まもなく死去した。尊氏による毒殺ではないかとのウワサがある。尊氏派と旧直義派、さらには南朝勢力の三者の争いが続き、この後も約10年にわたって京都を中心に動乱が続いたが、こうして全国を巻き込んだ兄弟げんかは一応終結し終わってみればようやく幕府の権限は1本化されたことになる。

相続

 この時代までの相続は惣領制(そうりょうせい)であったが、単独相続が一般的になり、その結果として各地の武士たちは血族同士の内部支配をめぐる対立が激しくなった。単独相続は総取りであり、戦いで片方が北朝につけば、もう片方は南朝につき、血族同士の争いが南北朝と結びつき、動乱が拡大したのである。これらの動きは地方の武士の結びつき、それまでの血縁から地縁へと変化していった。

 足利尊氏は1358年に54歳で亡くなるが、南北朝の動乱は尊氏の生存中には決着がつかなかった。尊氏には人間らしい優しい性格であったが、政治家としてはその優しい性格は適さなかったばかりか、尊氏の優柔不断が政権の足を引っ張り、尊氏の死後も室町幕府は混乱は続き、やがて来る戦国時代への流れになる。

 鎌倉幕府は京都の朝廷の伝統的権威(王権)を背景にしていたが、見かけ上は全国に君臨したが幕府としての厳しさに欠け。朝廷の権威も落ちてしまうことになる。

 

朝廷の衰退

 南北朝の戦乱で最も大きなダメージを受けたのは朝廷の権威であった。かつて後醍醐天皇は朝廷を唯一絶対の権力に成長させるつもりでいたが、蓋を開けたら目算が狂っていた。朝廷が2つに分裂し武士に大義名分を与え、武士は朝廷を利用し、朝廷の権威は落ちた。

 足利家執事の高師直は「この世に、天皇とか上皇とかいうのがあるから話がややこしい。いっそのこと、まとめて島流しにするべきだ。どうしても必要というなら、木像でも飾っておけばよい」と云ったほどである。

 美濃(岐阜県)の豪族・土岐頼遠は、酔って上皇の牛車に出会うと、道を開けるように云われて激怒し「なに、上皇のお通りだと。そうか犬か。犬ならば射殺してくれる」と牛車に矢を射掛けた。このような逸話が残されている。朝廷は平安時代以来、政治らしい政治をしないで、権威に寄りかかってきた。その権威が無残に崩れ去り、木像や犬に喩えられるまでに落ちぶれたのである。しかしそれに代わる政治的権威が日本にはなかった。足利将軍家は、単なる「農協の親分」に過ぎなかった。その足利家が衰退ずれば、日本は事実上の無政府状態に転落していった。それが戦国時代である。

 南北朝時代からすでに戦国時代の芽は生まれていた。各地の武士団は南北両朝を渡り歩き、攻伐を繰り返して自分の領土を増やし、やがて中央の命令を聞かなくなった。山陰の山名氏は日本66か国のうち11か国を領有し「六分の一殿」と呼ばれ、武士団は「大名」へと成長したのである。

 また朝廷の権威が崩れ去り「下克上」と呼ばれる風潮が蔓延した。権威に頼らない実力主義が徹底されたのである。ただ足利幕府の中興の祖である義満(三代将軍)の登場で、この混乱は一時的に緩和された。義満は将軍家の軍事力を高める政策を強行し、その力を背景に山名氏や土岐氏や大内氏といった巨大武士団を打倒して勢力を強めたのである。

 義満はジリ貧状態の南朝に対して、次期皇位を南朝から立てると約束して、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松会天皇へ天皇の印を表す三種の神器が譲らせた。その約束は嘘の仕掛けであり後亀山天皇を京都に誘致すると軟禁状態に置いた。ここでようやく南北朝は合体し朝廷が一つになった(1392年)。こうして60年近く乱れた世の中はやっと治まりまったが朝廷の力は全くなくなり、鎌倉時代から続いてきた公家と武家の政治の争いは終わり武家政治になった。

 足利幕府はその後も義満以来の強権的政治で、何とか日本の秩序を維持しようとした。しかし六代将軍・義教が赤松氏に暗殺され、この独裁恐怖路線は崩壊した。これ以降、足利幕府は巨大武士団(大名)の利権に翻弄され堕して行くこのになる。さらに将軍の後継者争いに大名同士の勢力が争い、大名の相続問題が複雑にからみ、未曾有の大内乱応仁の乱が勃発する。10年にも及ぶこの内乱で京都は焼け野原となり、日本は実力本位の戦国時代に突入することになる。

  ところで鎌倉幕府を築いた源頼朝は冷徹な政治家であった。しかし猜疑深い頼朝はそれゆえに一族を破滅に追い込んだが、もし尊氏が頼朝の前例を教訓にしていたら、室町幕府の行く末も違っていただろう。

 しかし頼朝同様に現実を冷静に見極め、自己の政権樹立に同じ轍を踏まないように慎重に行動した男が後の世に現れた。それは信長、秀吉、家康などの戦国時代の武将たちであり特に家康が築いた江戸幕府は見事なものであった。

 徳川家康は対立する勢力を狸おやじと云える狡猾な手段を用いて徹底的に滅ぼし、朝廷に対しては幕府がつくった法律を守らせ、将来幕府をおびやかす大名には領地を与え、その代わりに政治には口出させず、さらには巨大な宗教団体を分割させ幕府に対抗できないようにした。

 250年以上続いた江戸幕府の平和は、室町幕府の欠けているとこを冷静に補ったことによるが、室町幕府といえども江戸時代同様に長期にわたり日本を収めたことは時代の流れのなかで評価に値できる。人望があり人間らしい足利尊氏が室町時代を築き、油断のならない「狸おやじ」が江戸時代を導いたのは、歴史上の何ともいえない流れである。