南北朝と室町幕府

南北朝の戦乱

  後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」がわずか2年余りで崩れた後、南北朝時代を迎える。

 足利尊氏は京都に新たに天皇を立てると、後醍醐天皇は隙を見て京都を抜け出し吉野(奈良県)に移り吉野を皇居を定めた。この結果、吉野の朝廷(南朝)と、尊氏の建てた京都の朝廷(北朝)のニつの朝廷が並び立つという空前絶後の事態を招くことになった。南北朝時代は天皇中心の公家政治に戻そうという古い力と、武家政治を推し進めようという新しい力の戦いだった。

 以後、両者はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年ものあいだ全国で争いをつづけることになる。朝時代・室町時代は平穏な時代と誤解しやすいが、それは太平記という歴史書の題名のせいで、室町時代の初期は戦いに明け暮れていた。この南北朝時代ではふたりの天皇が別々の年号を使った。

 

南北朝の始まり

 足利尊氏は武将であったが政治家ではなかった。戦いのための決断力は優れていたが、政治に対しては優柔不断であった。そもそも南北朝時代という前代未聞の事態が始まったのは、足利尊氏の優柔不断の謀略からであった。

 九州から反撃する足利軍に対して、1336年5月25日、楠木正成・正季兄弟は湊川(兵庫県)の戦いに敗れ「七生報国」を誓って差し違え自害した。
 5月27日、後醍醐天皇は叡山に逃れたが、8月15日、京都に入った足利尊氏は持明院統の光厳上皇の弟宮を立てて光明天皇とした。しかし
三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇に正統性はなかった。そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、三種の神器を光明天皇に渡すように強要した。
 後醍醐天皇はこのような事態を予期しており、偽物の神器を渡して、秘かに12月21日夜、吉野(奈良県南部)に逃れ出た。こうして南朝が始まった。神器なしの北朝の擁立、神器を得るための策略など、手段を選ばない尊氏の人となりが見てとれる。
後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが
南北朝並立の始まりである。

 足利尊氏はカリスマ性に溢れた武将であったが、幕府の混乱を招いたのは尊氏の人間味溢れる性格にあった。南北朝時代は、後醍醐天皇が建武の新政が失敗し、吉野に移り南朝を開いたのがきっかけであるが、これも尊氏の優しさが根本にあった。尊氏は後醍醐天皇を流罪にすることが可能であったが、吉野に逃がしたままであった。尊氏には源頼朝のような冷静な判断や猜疑心がなく、鷹揚であり心情的に後醍醐天皇に忠誠心があったからである。

 江戸時代から太平洋戦争にかけて、足利尊氏は天皇に弓討つ逆賊とされ、皇居には楠木正成の銅像はあっても尊氏の像はない。このように尊氏は逆賊・極悪人にされていたが、それは尊氏が南朝の後醍醐天皇に背いたからとされているが、本当は気立ての優しい正直な人だった。

 

室町幕府

 北朝では1338年に足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、足利尊氏は正式に京都に幕府を開いた。だがこの新たな幕府は武士団を調整をするどころか、武士団すら満足に束ねることは出来なかった。それは室町幕府の統治権威が低かったからである。

 足利尊氏の新たな幕府は室町幕府と呼ばれているが、これは足利義詮の子・3代将軍足利義満が京都の室町に「花の御所」を造営し、歴代将軍が住んだことから足利将軍の事を室町殿と呼び、後の時代になってからこの時代を室町時代と呼ぶようになった。

 足利尊氏と足利義詮のころは北朝と南朝の争いが続き、幕府の仕組みが整わず安定していなかった。そのためまだ「幕府」という名称さえ定着していなかった。当時の人々は室町政権を「室町幕府」と呼んだわけではない。室町幕府とよばれるようになったのは足利義詮の子。足利義満からで、それまでどのように呼ばれていたかは不明である。

 これは例えば弥生時代の名称が東京の弥生町から遺跡が発見されたからで、京都の室町通りに三代将軍足利義満が花の御所を構えたから、後に室町幕府と呼ばれたのである。

 この幕府が京都に置かれたのは、吉野の南朝軍に睨みを利かせるため、尊氏は京都から動けなかったのである。京都の北朝は尊氏が擁立した傀儡政権に過ぎなかったので、朝廷の膝元にいても北朝の干渉を恐れることはなかった。

 

建武式目

 1336年、足利尊氏は後醍醐天皇の「建武の新政」から離脱し、建武式目を定め実質的に室町幕府を開いた。この建武式目は足利尊氏の諮問に対し、二階堂是円(にかいどうぜえん)、天台宗の玄恵(げんえ)ら著名な8人の法律家たちが答申するという法令で出された。その内容は
 1.幕府の場所は京都にした。本来は幕府は鎌倉に置くべきであるが、北条氏が滅びた不吉な場所であるので反対の意見が多かった。鎌倉は北条氏が悪政を重ねた土地であり場所が凶だからである。また鎌倉を離れたいという者が多かった。しまし何といっても幕府を京都に置いたのは吉野の南朝に睨みをきかせるためだった。
 2.倹約に務め、遊興を抑制する。これは鎌倉幕府の全盛期の政治を模範とし、民を安心させる政治のためだった。
 3.人々の家を勝手に没収しない。
 4.公家・女性・僧侶などの政治への介入の禁止
 5.賄賂の禁止、守護には人物本位で任命する。
 足利氏は京都に幕府を開き、京都内の地名から室町幕府と呼ばれるようになるが、尊氏が創り上げた幕府は室町とは別の場所にあった。室町幕府は足利義満からの名称で、それ以前の幕府名は不明である。

 室町幕府は武士団と商業資本の調整をする必要があったが、室町幕府は武士団すら満足に束ねることが出来なかった。それは幕府の権威が低かったからである。

 また室町幕府は建武式目で鎌倉幕府の基本的仕組みを受け継ぐが、執権の代わりに管領(かんれい)を置いた。この管領が室町幕府の混乱を引き起こした。さらに守護を置いたが、守護の力が強力になり自らの領地に根を下ろし、室町幕府の衰退を招いた。

 

室町幕府のしくみ  
 幕府の機構もこの時代にはほぼ整い管領(かんれい)の役職を設けた。管領は将軍を補佐する中心的な職で、侍所・政所などの中央諸機関を統轄するとともに、諸国の守護に対する将軍の命令を伝達した。管領は鎌倉幕府の北条家と同じ補佐役で、足利氏一門の細川・斯波(しば)・畠山の3氏(三管領)が交代で任命された。
 侍所の長官(所司)は京都内外の警備や刑事裁判を担当し、赤松・一色(いっしき)・山名・京極(きょうごく)の四職(ししき)から任命された。この三管領・四職がやがて室町幕府を牛耳ることになる。
 また有力守護は在京して重要な政務を決定し、幕政の運営にあたった。一般の守護も領国は守護代に統治させ、自身は在京して幕府に出仕するのが原則だった。
 奉公衆(ほうこうしゅう)とは幕府の直轄軍で、古くからの足利氏の家臣、守護の一族、有力な地方武士などを集めて編成された。奉公衆はふだん京都で将軍の護衛にあたるり、さらに諸国に散在する将軍の直轄領の管理がゆだねられ、守護の動向を牽制する役割を果たした。

 

 地方の機構
 室町幕府は全国を統一したわけでなく室町幕府を中心に地方分権制度を取り入れたのである。鎌倉府は室町幕府の出先機関で、鎌倉公方とは鎌倉府の長官のことである。しかし鎌倉府に権力が集中したことから、やがて京都の幕府と衝突するようになる。
 九州探題は九州の武将を監督する役職で、中国や朝鮮との外交も行った。奥州探題は東北地方の武将を監督する役職である。その他、各地に守護大名が幕府から任命された、この守護大名はしだいに力を持ち自分の領地を幕府から独立して行った。

 

室町幕府体制
 1338年に足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられと正式に京都に幕府を開いた。足利尊氏は弟の足利直義と政務を分担して政治を行った。
足利尊氏が主に軍事や人事を担当し、足利直義が主に政治や裁判を担当した。要は兄・足利尊氏が全体的な問題を担当し、弟・足利直義は実務を担当したのである。足利兄弟の仲がよかったころは両輪の力で順調であったが、尊氏は次第に政治に口を出さなくなった。

 後醍醐天皇を追い出したことに「申し訳ない」と憂鬱だったのである。それは後醍醐天皇を隠岐に流すなど強力な措置をとらず、吉野にいることを許していたことから判断できる。

  また「建武式目」が制定される2ヶ月ほど前、足利尊氏は自筆の願文を清水寺に奉納している。その内容は「自分は仏の加護を賜り、今後の果報は弟の直義に与えていただきたい」といったものである。
 その前年、尊氏は後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り、中先代の乱を平定し、一時、鎌倉の浄光明寺に蟄居したという経緯があった。尊氏の願文奉納のきっかけは定かではないが、後醍醐天皇との戦いに勝利した時期の願文でもあるため尊氏の心理を表している。
 夢窓疎石によれば尊氏には「戦場での心の強さ」「敵をも許す慈悲の深さ」「物を惜しむことのない度量の広さ」という3つの徳があったが、そのような時代も長くは続かなかった。

 

幕府の財政
 幕府の財政基盤は脆弱で収入のほとんどが臨時税に偏っていた。財源の種類として御料所(幕府の直轄領)からの収入、守護の分担金、地頭・御家人に対する賦課金などがあった。そのほか京都で高利貸を営む土倉・酒屋が負担す る土倉役(どそうやく。倉数に応じて賦課)・酒屋役(さかややく。酒壺数に応じて賦課)、交通の要所に設けた関所からの関銭(せきせん。通行税)・津料 (つりょう。入港税)などがある。また広く金融活動をおこなっていた京都五山の僧侶にも課税した。さらに日明貿易による利益(貿易に従事した商人にも課税し幕府の財源とした。
 また内裏の造営など国家的行事を行う際には、守護を通して全国的に段銭(土地税)や棟別銭(家屋税)を賦課することがあった。

観応の擾乱

 足利尊氏は軍事に興味を失い半隠居状態になり、執事の高師直(こうのもろなお)が軍事を担当することになり、急進派の高師直と漸進派の足利直義が対立した。

 室町時代は鎌倉時代と違って一族の結束は淡白で、そのため幕府内の統制が薄れていていた。高師直と足利直義の対立は次第に激化し、ついに武力対決に突入し全国的な争乱に発展した。

 まず先手を打ったのは足利直義で、尊氏に進言して高師直を執事の座から引きずりおろした。これに対し不満を持つ高師直・師泰兄弟はクーデターを実行し幕府の主要部を占領し、足利直義の側近である上杉重能を殺した。

 高師直・師泰の兄弟は足利直義を討とうとするが、足利直義は尊氏の屋敷に逃げ込み、自らの将軍の地位を鎌倉にいた足利義詮(尊氏の嫡子)に譲り、直義は頭を丸めて出家した。2代将軍・足利義詮が足利直義に代わって政務を担当し、鎌倉には義詮の代わりに基氏(尊氏の三男)が入った(初代鎌倉公方)。

 しかし足利直義が京都を脱出すると、敵であるはずの南朝と講和し味方を集めた。新田義貞を倒した斯波高経も足利直義に味方し、高師直VS足利直義となり幕府は2つに分裂した。一時期は後醍醐天皇の子の後村上天皇率いる南朝が京都に入り、足利尊氏が南朝に降伏して北朝の三種の神器を引き渡すなど朝廷や幕府は混乱した。高師直と足利直義の戦いは足利直義が勝利し尊氏は直義と講和した。そして高師直・高師泰兄弟は京都に戻る途中、足利直義方の上杉能憲(上杉重能の養子)に「親父の仇」と殺されてしまう。

 しかししばらくして尊氏・直義の兄弟対立は再燃し、足利直義は再び京都を脱出して軍を組織する。そこで尊氏も本腰を入れて足利直義との戦いを始め、なんと今度は尊氏が南朝に降伏するという前代未聞の出来事がおきた。こうして尊氏は東海道、さらに鎌倉で足利直義と戦い撃破した。足利直義はついに降伏しまもなく死去した。足利直義の死は尊氏による毒殺との噂がされた。

 尊氏派、高師直、旧直義派、さらには南朝勢力の争いが約10年にわたって京都を中心に動乱が続いたが、全国を巻き込んだ観応の擾乱は一応終結し、ようやく幕府の権限は1本化された。観応の擾乱は壮大な兄弟喧嘩であった。

 

南北朝の対立
 1336年、京都を制圧した足利尊氏は、幕府を開くために建武式目を制定すると、2年後の1338年に北朝の光明天皇から征夷大将軍を拝命し新しい幕府を京都に開いた。持明院統の光厳上皇の弟・光明天皇を新たに即位させた。しかしこの新しい室町幕府は絶えず不安がつきまとっていた。

 それは幕府の正当性を認める朝廷が二つに分裂していたからである。北朝は本来の朝廷の都である京都にあったが、天皇を証明する三種の神器は吉野の南朝にあった。尊氏に従った新興勢力の武士の中には北朝の存在に疑問を持つ者さえいた。北朝と南朝のどちらにも「天皇」という大義名分があったからである。

 南朝では動乱の初期に楠木正成・新田義貞が戦死(湊川の戦い・藤島の戦い)して、後醍醐の新政に失望した武士団の多くが北朝につくなど形勢は不利であった。南朝に味方したのは後醍醐天皇に個人的に恩顧を受けた一部の公家と少数の武士たちで、北畠親房らが中心となり、東北・関東・九州などに拠点を築いて抗戦を続けた。しかし彼らは時の経過とともに次々に倒され、やがて後醍醐天皇も失意のうちに吉野で病死して天下は定まったかに思われた。しかし後醍醐天皇の死後、後村上天皇が後をつぎ、その後、長慶天皇と続き、乱世はさらに強くなった。

 それは北朝の幕府の武士団は寄り合いであって、将軍と幕府は武士団の都合によって擁立されていたからである。征夷大将軍を世襲する足利氏に期待するのは、武士たちの権益確保と相互間の利害調整であったが、この利害調整の調整には必ず負け組がいた。そのような負け組の中は、雪辱を晴らすために反幕府的行動を取り、それを正当化する大義名分が南朝にあった。負け組の連中は駆け込み寺よろしく吉野に出向くと、南朝から錦の御旗をもらった。つまり南北の朝廷は、対立する武士団同どうしが大義名分を得るための道具に使われたのである。武士たちはそれぞれの朝廷を旗印に土地争いを続けた。これが南北朝時代の特殊性で、優勢だった幕府(北朝)でも内紛が起きるたびに劣勢派は南朝側についた。また地方でも南朝と北朝の争いが度々起こっていた。二つの朝廷が地方の守護をそれぞれ任命して、地方豪族も南朝と北朝に分かれて争い、それぞれが自分の領地としたのである。

 

武士の相続問題

 このように動乱が長引いたのは、すでに鎌倉時代後期ころからの「武士たちの遺産相続」の問題があった。この時代までの相続は惣領制(そうりょうせい)で、惣領制とは一族の中でもっとも統率する能力のある者が一族の代表で当主になった。この惣領(嫡子)が多くを相続し、残りの所領は惣領以外の男子(庶子)や女子の間で分割された。幕府にすれば惣領を押さえれば一族を把握できるので惣領を大事に扱った。一族の者からすれば惣領のいうことを聞いていれば、幕府に目をつけられることはなかった。

 しかしやがて武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家のなかでは嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に従属する単独相続が一般的になっていた。武家は嫡子が所領を全部相続して、庶子は嫡子に従属するようになり、この単独相続は各地の武士団の内部分裂と対立を引きおこした。新規の開発も一段落したことで、分割相続の繰り返しでは、所領が細分化するばかりで武士の没落は避けられなかった。やがて惣領となれなかった者も権力を欲しくなり、また他の勢力からそそのかされ惣領のいうことを聞かなくなり独立独歩の道を進むようになった。惣領制は崩壊し単独相続が一般的になった。

 単独相続は総取りである。その結果、各地の武士たちは血族同士の内部分裂と対立を引きおこし対立が激しくなった。これらの動きは地方の武士に波及し、相続は血縁どうしの戦いとなった。内部対立の戦いで一方が北朝につけば、反対派は南朝につき、血族同士の争いが南北朝と結びつき動乱が拡大した。

 1358年、足利尊氏は54歳で亡くなるが、南北朝の動乱は尊氏の生存中には決着がつかなかった。足利尊氏には人間らしい優しい性格であったが、政治家としてはその優しい性格は適さなかった。尊氏の優柔不断が政権の足を引っ張り、尊氏の死後も室町幕府は混乱が続いた。室町幕府は京都の朝廷の伝統的権威(王権)を背景にしていたが、見かけ上は幕府は全国に君臨していたが、統制力は欠け朝廷の権威もまた落ちていた。

 

しぶとい南朝
 1338年、石津の戦いで南朝の北畠顕家が高師直の軍勢に敗北して21歳で戦死し、さらに越前(福井県)の藤島の戦いで新田義貞が斯波高経(しばたかつね)細川孝基(たかもと)の軍勢に敗北して戦死し、南朝の中核となっていた武将が全滅状態となった。翌年、失意のうちに後醍醐天皇は亡くなった。
 後醍醐天皇に背き吉野で死なせたことを尊氏は後悔し、足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都に壮大な天龍寺を造営させた。これは後醍醐天皇と仲がよかった禅宗の夢窓疎石の発案によるもので、なんとか後醍醐天皇の冥福を祈りたいと考えていた尊氏は賛成して総力を挙げて完成させた。当時は戦いの続いた時代で寺を建てる費用も充分ではなかった。そこで中国に天龍寺船という貿易船を送ってその儲けを天龍寺建築の費用にあてたのである。ちなみに延暦寺と
東大寺はこの建設に反対した。

 足利尊氏は鎌倉幕府の最後の執権であった北条高時を弔うために鎌倉に宝戒寺を、新田義貞のために、義貞の故郷である世良田(太田市尾島町旧新田郡)の長楽寺へ寺領を寄進し、さらに直義とともにこれまでの戦死者を弔うため、全国に1つずつ寺と塔を造らせた。いわゆる安国寺と利生塔である。足利尊氏はカリスマ性に溢れた根っからの武人であったが、武将にしては珍しく優しい性格だった。幕府の混乱を招いたのは尊氏の人間味溢れるこの性格にあった。尊氏には源頼朝のような冷静な判断力や猜疑心がなく、鷹揚で心情的には後醍醐天皇に忠誠心があったのである。

 

南北朝の終焉

 北朝は足利氏の援助のもと勢力を強め、5代の天皇が相次ぐことになる。南北朝の動乱も、尊氏の孫・足利義満が3代将軍になると南朝の勢力は低下し南北朝の動乱もしだいにおさまり、室町幕府はようやく安定の時期をむかえた。

 1392年、足利義満は北朝の勢力を背景に、南朝の後亀山天皇に吉野から京都に戻るように勧めた。南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇にへ天皇の印を表す三種の神器が譲らせ、次の天皇は南朝から出すと約束して南北朝の合体が実現した。

 これにより60年あまりの南北朝の争いは終わり、南北朝が1つにまとまった。和平妥協案の条件として両統迭立が約束されたが、もちろん足利義満はそれを守る意志はなかった。足利義満は後亀山天皇を京都に誘致すると軟禁状態に置き、南朝の皇族を次々と出家させて子孫を絶ったのである。三種の神器も一度受け取ると、もう南朝に渡すつもりはなかった。南朝の人々は北朝の仕打ちを恨むだけであった。

 ともあれ足利義満は一人の犠牲者を出することもなく南北朝を統一し、天皇・貴族の力が地に落ち、室町幕府の力の高まった。

 南朝と北朝が争っていた当時は室町幕府の全国支配は進まなかったが、これでやっと安定期を迎えた。地方は室町幕府から独立した国になっていったが、足利義満は動乱のなかで強大となった守護の力を削ぐため、有力守護を攻め滅ぼし、その勢力の削減につとめた。

 1390年には、美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐氏を討伐し(土岐康行の乱)、翌年には西国11カ国の守護を兼ね、六分の一衆・六分の一殿(日本六十余カ国の六分の一を持つ一族の意味)とよばれた山名氏一族の内紛に介入して山名氏清を滅ぼした(明徳の乱)。さらに1399年には、6カ国の守護を兼ね対朝鮮貿易で富強を誇った大内義弘を堺で敗死させ(応永の乱)、またそれまで朝廷が保持していた権限を幕府の管轄下におき全国的な統一政権としての幕府を確立した。

 この足利義満の時代が最も安定し、幕府としての権威も保たれ、全国的な統一政権としての体裁を整えた。
 足利幕府はその後も強権的政治で、何とか日本の秩序を維持しようとした。しかし六代将軍・義教が赤松氏に暗殺され、この独裁恐怖路線が崩壊すると、これ以降、足利幕府は巨大武士団(大名)の利権に翻弄され堕ちて行くこのになる。

 その後も各地の守護大名はそれぞれ自分の領地を守り領地を広げようとして戦いに明け暮れ、このことで戦国の世が100年あまり続くことになる。

 

朝廷の衰退

 南北朝の戦乱で最も大きなダメージを受けたのは朝廷の権威であった。かつて後醍醐天皇は朝廷を唯一絶対の権力にするつもりでいたが、蓋を開けたら目算が狂っていた。朝廷が2つに分裂し、武士に大義名分を与え、武士は朝廷を利用し朝廷の権威は落ちた。

 足利家執事の高師直は「この世に、天皇とか上皇とかいうのがあるから話がややこしい。いっそのこと、まとめて島流しにするべきだ。どうしても必要というなら、木像でも飾っておけばよい」と云ったほどである。

 美濃(岐阜県)の豪族・土岐頼遠は、酔って上皇の牛車に出会うと、道を開けるように云われて激怒し「なに、上皇のお通りだと。そうか犬か。犬ならば射殺してくれる」と牛車に矢を射掛けた。

 このような逸話が残されていることは、朝廷は平安時代以来、政治らしい政治をしないで権威に寄りかかってきたが、その権威が無残に崩れ去り、木像や犬に喩えられるまでに落ちぶれたのである。伝統的権威を無視し傍若無人な振舞いをする高師直・土岐頼遠のような者を、当時の言葉で「婆娑羅(ばさら)」といった。ただ足利幕府の中興の祖である足利義満(三代将軍)の登場で、この混乱は一時的に緩和された。

 しかし足利義満と次の将軍・義教が死去すると、それに代わる政治的権威が日本にはなかった。足利将軍家は、単なる武士の御輿に過ぎなかった。将軍家が衰退すると、日本は事実上の無政府状態に転落していった。それが戦国時代である。

 南北朝時代からすでに戦国時代の芽は生まれていた。各地の武士団は南北両朝を渡り歩き、攻伐を繰り返して自分の領土を増やし、やがて中央の命令を聞かなくなった。武士団は「大名」へと成長していった。

 さらに朝廷の権威が崩れ去り「下克上」と呼ばれる風潮が蔓延した。権威に頼らない実力主義が徹底された。

 

室町幕府の衰退

 将軍の後継者選びに大名同士の勢力が争い、各大名の相続問題が複雑にからみ、未曾有の内乱・応仁の乱が勃発する。10年にも及ぶこの内乱で京都は焼け野原となり、日本は実力本位の戦国時代に突入することになる。

  ところで鎌倉幕府を築いた源頼朝は冷徹な政治家であった。しかし猜疑深い頼朝はそれゆえに一族を破滅に追い込んだが、もし尊氏が頼朝の前例を教訓にしていたら、室町幕府の行く末も違っていただろう。

 この頼朝同様に現実を冷静に見極め、自己の政権樹立に同じ轍を踏まないように慎重に行動した男が後の世に現れた。それは信長、秀吉、家康などの戦国時代の武将たちであり、特に家康が築いた江戸幕府は見事なものであった。

 徳川家康は対立する勢力から狸おやじと言われる狡猾な手段を用いて徹底的に敵を滅ぼし、朝廷に対しては幕府がつくった法律を守らせ、将来幕府をおびやかす大名には領地を与え、その代わりに政治には口を出させなかった。さらには巨大な宗教団体を分割させ幕府に対抗できないようにした。

 250年以上続いた江戸幕府の平和は、室町幕府の欠けているとこを冷静に補ったことによるが、室町幕府といえども江戸時代同様に長期にわたり日本を収めたことは事実であり、時代の流れのなかで評価に値できる。人望があり人間らしい足利尊氏が室町時代を築き、油断のならない「狸おやじ」が江戸時代を導いたのは、歴史上の何ともいえない流れである。