南北朝と室町

南北朝の戦乱

  後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」がわずか2年余りで崩れた後、南北朝時代を迎える。足利尊氏は京都に新たに天皇を立てると、後醍醐天皇は隙を見て京都を抜け出し吉野(奈良県)に移り吉野を皇居を定めた。

 この結果、吉野の朝廷(南朝)と、尊氏の建てた京都の朝廷(北朝)のニつの朝廷が並び立つという空前絶後の異常事態が続くことになった。南北朝時代は天皇中心の公家政治に戻そうという古い力と、武家政治を推し進めようという新しい力の戦いだった。以後、両者はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間もの全国で争いをつづけた。この時代を南北朝時代よび、両者は別々の年号を使った。

 

南北朝の始まり

 そもそも南北朝並立という前代未聞の異常事態が始まったのは、足利尊氏の謀略からであった。九州から押し寄せた足利軍に対して、1336年5月25日、楠木正成・正季兄弟は湊川(兵庫県)の戦いに敗れた後、「七生報国」を誓って差し違えた。
 5月27日、後醍醐天皇は叡山に逃れたが、8月15日、京都に入った足利尊氏は持明院統の光厳上皇の弟宮を立てて光明天皇とした。しかし
三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇に正統性はなかった。そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京都に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、神器を光明天皇に渡すように強要した。
 後醍醐天皇はこうした事態を予期しており、偽物の神器を渡して、秘かに12月21日夜、吉野(奈良県南部)に逃れ出た。こうして南朝が始まった。神器なしの北朝擁立、神器を得るための策略となど、手段を選ばない尊氏の人となりが見てとれる。
後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが二朝並立の始まりである。

 

民衆の生活

 当時の日本の人口はおおむね増加傾向だった。気候が温暖期だったこともあり、また欧米や中国とは違い、日本国内の内戦は残酷な殲滅戦に発展しなかったことがその要因であった。日本は自然環境に恵まれ、極端な食糧難が生じにくいため、食糧をめぐる殺し合いの必要性が乏しいかったのある。

 しかも南北朝の戦乱は、要するに武士同士の利害闘争に過ぎなかったので、庶民は遠くから観望していれば良かった。もちろん戦場付近の農地は荒らされ、略奪もあったが、社会全体としての損失はそれほど深刻ではなかった。

 太平記などの戦記には、10万から100万の大軍が殺し合ったように書かれているが、これは小説家による創作で、実際には数百から数千規模の軍勢が矢を射ち合って、先に戦意をなくした方が退却するという比較的のんびりした戦いだった。

 

室町幕府

 足利尊氏の新たな幕府は室町幕府と呼ばれている。3代将軍足利義満が京都の室町に「花の御所」を造営して歴代将軍が住んだことから足利将軍の事を室町殿と呼び、後の時代になってからこの時代を室町時代と呼ぶようになった。

 足利尊氏の時代はまだ「幕府」という名称さえ定着していなかった。もちろん当時の人々は室町政権を「室町幕府」と呼んだことはない。室町幕府とよばれたのは足利義満からで、それまでどのように呼ばれていたかは不明である。

 これは例えば弥生時代の名称が東京の弥生町から遺跡が見つかったの同じく、京都の室町通りに三代将軍足利義満が花の御所を構えたから、後に室町幕府と呼ばれたのである。この幕府が京都に置かれたのは、吉野の南朝軍に睨みを利かせるためためで、京都から動けなかったのである。京都の北朝は尊氏が擁立した傀儡に過ぎなかったので、朝廷の膝元にいても干渉を恐れることはなかった。

 

建武式目

 1336年、足利尊氏は後醍醐天皇の「建武の新政」から離脱し、建武式目を定め室町幕府を開いた。この建武式目は足利尊氏の諮問に対し、二階堂是円(にかいどうぜえん)、天台宗の玄恵(げんえ)ら著名な8人の法律家たちが答申するという法令で出された。その内容は
 1.幕府の場所は京都にする。本来は幕府は鎌倉に置くべきだが、北条氏が滅びた不吉な場所であるので反対する意見が多かったのである。しかしそれは北条氏が驕りにより悪政を重ねたからであり場所が凶だからではなく、吉野の南朝軍に睨みをみかせるためだった。また鎌倉を離れたいという者が多かったのである。
 2.倹約に務め、遊興を抑制する。これは鎌倉幕府の全盛期の政治を模範とし、民を安んずることをもって政治の至要とすべきとした。
 3.人々の家を勝手に没収しない。
 4.公家・女性・僧侶などの政治への介入の禁止
 5.賄賂は禁止、守護にはきちんとした人物を任命する。
 室町幕府は武士団と商業資本の調整をすることを目的にしたが、武士団すら満足に束ねることが出来なかった。それは幕府の権威が低かったからである。

 また室町幕府は鎌倉幕府の基本的仕組みを受け継ぐが、執権の代わりに管領を置いた。さらに守護を置いたが、守護の力が強力になり自らの領地に根を下ろした。

 

室町幕府体制
 
初期の室町幕府は統治系統は足利尊氏が主に軍事や人事を担当し、足利直義が主に政治や裁判を担当した。要は兄・足利尊氏が全国的な問題を担当し、弟・足利直義は地域的な問題を担当したのである。兄弟二人の仲がよかったころは、二馬力で問題を解決できたが、室町幕府の初期から尊氏はだんだん政治に口を出さなくなってきた。

 後醍醐天皇を追い出したことに「申し訳ない」と思い憂鬱だったようである。その証拠に後醍醐天皇を隠岐に流すなど強力な措置をとらず、吉野にいることを許していた。

  また「建武式目」が制定される2ヶ月ほど前、足利尊氏は自筆の願文を清水寺に奉納している。その内容は「自分は仏の加護を賜り、今後の果報は弟の直義に与えていただきたい」といったものである。
 その前年、尊氏は後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り、中先代の乱を平定し、一時、鎌倉の浄光明寺に蟄居したという経緯もある。尊氏の願文奉納のきっかけは定かではないが、後醍醐天皇との戦いに勝利した時期の願文でもあるため尊氏の心理を表している。
 夢窓疎石によれば尊氏には「戦場での心の強さ」「敵をも許す慈悲の深さ」「物を惜しむことのない度量の広さ」という3つの徳があったが、そのような時代も長くは続かなかった。
 

しぶとい南朝
 1338年に石津の戦いで南朝の北畠顕家が高師直の軍勢に敗北して21歳で戦死し、さらに越前(現在の福井県)の藤島の戦いで新田義貞が斯波高経(しばたかつね)細川孝基(たかもと)の軍勢に敗北して戦死し、南朝の中核となっていた武将が全滅状態となった。翌年、失意のうちに後醍醐天皇は亡くなった。
 そこで足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都に壮大な天龍寺を造営させた。これは後醍醐天皇と仲がよかった禅宗の夢窓疎石の発案によるもので、なんとか後醍醐天皇の冥福を祈りたいと考えていた尊氏は大賛成し、総力を挙げて完成させた。ちなみに延暦寺と
東大寺はこの建設に反対した。

 足利尊氏は鎌倉幕府の最後の執権であった北条高時を弔うために鎌倉に宝戒寺を、新田義貞のために、義貞の故郷である世良田(太田市尾島町旧新田郡)の長楽寺へ寺領を寄進し、さらに直義とともにこれまでの戦死者を弔うため、全国に1つずつ寺と塔を造らせた。いわゆる安国寺と利生塔である。


観応の擾乱

 室町幕府で軍事を任せれていた筆頭家臣の高師直と政務を任せれていた足利尊氏の弟・直義が対立を始めた。先手を打ったのは足利直義で、尊氏に進言して高師直を執事の座から引きずりおろした。これに対し不満を持つ高師直・師泰兄弟はクーデターを実行し幕府の主要部を占領し、足利直義の側近である上杉重能を殺した。高師直・師泰兄弟は直義を討とうとするが、足利直義は尊氏の屋敷に逃げ込み、自らの地位を尊氏の嫡男で鎌倉にいた足利義詮(尊氏の嫡子)に譲り頭を丸めて出家した。義詮が足利直義に代わって政務を担当することになる。鎌倉には義詮の代わりに基氏(尊氏の三男)が入った(初代鎌倉公方)。

 しかし足利直義が京都を脱出すると、敵であるはずの南朝と講和し、味方を集めた。新田義貞を倒した斯波高経も足利直義に味方し、高師直VS足利直義となり幕府は2つに分裂した。一時期は後醍醐天皇の子の後村上天皇率いる南朝が京都に入り、足利尊氏が南朝に降伏して北朝の三種の神器を引き渡すなど京都や幕府は混乱した。結局は足利直義が勝利し尊氏は直義と講和した。そして高師直・高師泰兄弟は京都に戻る途中、足利直義方の上杉能憲(上杉重能の養子)に「親父の仇」と殺されてしまう。

 しかし尊氏・直義の兄弟対立はしばらくして再燃し、直義は再び京都を脱出して軍を組織する。そこで尊氏も本腰を入れて直義との戦いを始め、なんと今度は尊氏が南朝に降伏するという前代未聞の出来事がおきた。こうして尊氏は東海道、さらに鎌倉で直義と戦い撃破した。足利直義はついに降伏しまもなく死去した。尊氏による毒殺ではないかとの噂がある。尊氏派と旧直義派、さらには南朝勢力の三者の争いが続き、この後も約10年にわたって京都を中心に動乱が続いたが、全国を巻き込んだ兄弟げんかは一応終結し終わり、ようやく幕府の権限は1本化された。

 

相続

 この時代までの相続は惣領制(そうりょうせい)であった。惣領とは一族の中でもっとも力量がある者で一族の代表で当主に相当する。幕府にすれば惣領を押さえれば一族を把握できるので惣領を大事に扱った。一族の者からすれば惣領のいうことを聞いていれば、幕府に目をつけられることはなかった。

 しかしやがて惣領となれなかった者も権力を欲しくなったり、また他の勢力からそそのかされたりして惣領のいうことを聞かなくなって独立独歩の道を進み、惣領制は崩壊し単独相続が一般的になった。その結果、各地の武士たちは血族同士の内部支配をめぐる対立が激しくなった。これらの動きは地方の武士の結びつき、それまでの相続は血縁から地縁へと変化していった。

 単独相続は総取りであり、戦いで片方が北朝につけば、もう片方は南朝につき、血族同士の争いが南北朝と結びつき動乱が拡大した。

 1358年、足利尊氏は54歳で亡くなるが、南北朝の動乱は尊氏の生存中には決着がつかなかった。足利尊氏には人間らしい優しい性格であったが、政治家としてはその優しい性格は適さず、尊氏の優柔不断が政権の足を引っ張り、尊氏の死後も室町幕府は混乱が続いた。

 室町幕府は京都の朝廷の伝統的権威(王権)を背景にしたが、見かけ上は全国に君臨したが幕府としての厳しさに欠け、朝廷の権威も落ちてしまうことになる。

 

朝廷の衰退

 南北朝の戦乱で最も大きなダメージを受けたのは朝廷の権威であった。かつて後醍醐天皇は朝廷を唯一絶対の権力に成長させるつもりでいたが、蓋を開けたら目算が狂っていた。朝廷が2つに分裂し、武士に大義名分を与え、武士は朝廷を利用し朝廷の権威は落ちた。

 足利家執事の高師直は「この世に、天皇とか上皇とかいうのがあるから話がややこしい。いっそのこと、まとめて島流しにするべきだ。どうしても必要というなら、木像でも飾っておけばよい」と云ったほどである。

 美濃(岐阜県)の豪族・土岐頼遠は、酔って上皇の牛車に出会うと、道を開けるように云われて激怒し「なに、上皇のお通りだと。そうか犬か。犬ならば射殺してくれる」と牛車に矢を射掛けた。このような逸話が残されていることは、朝廷は平安時代以来、政治らしい政治をしないで権威に寄りかかってきたが、その権威が無残に崩れ去り、木像や犬に喩えられるまでに落ちぶれたのである。

 しかしそれに代わる政治的権威が日本にはなかった。足利将軍家は、単なる武士の親分に過ぎなかった。その足利家が衰退ずれば、日本は事実上の無政府状態に転落していった。それが戦国時代である。

 南北朝時代からすでに戦国時代の芽は生まれていた。各地の武士団は南北両朝を渡り歩き、攻伐を繰り返して自分の領土を増やし、やがて中央の命令を聞かなくなった。山陰の山名氏は日本66か国のうち11か国を領有し「六分の一殿」と呼ばれ、武士団は「大名」へと成長していった。

 また朝廷の権威が崩れ去り「下克上」と呼ばれる風潮が蔓延した。権威に頼らない実力主義が徹底された。ただ足利幕府の中興の祖である足利義満(三代将軍)の登場で、この混乱は一時的に緩和された。足利義満は将軍家の軍事力を高める政策を強行し、その力を背景に山名氏や土岐氏や大内氏といった巨大武士団を打倒して勢力を強めたのである。

 足利義満はジリ貧状態の南朝に対して、次期皇位を南朝から立てると約束して、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松会天皇へ天皇の印を表す三種の神器が譲らせた。その約束は嘘であり後亀山天皇を京都に誘致すると軟禁状態に置いた。ここでようやく南北朝は合体し朝廷が一つになった(1392年)。こうして60年近く乱れた世の中はやっと治まりまったが朝廷の力は全くなくなり、鎌倉時代から続いてきた公家と武家の政治の争いは終わり武家政治になった。

 足利幕府はその後も強権的政治で、何とか日本の秩序を維持しようとした。しかし六代将軍・義教が赤松氏に暗殺され、この独裁恐怖路線は崩壊した。

 これ以降、足利幕府は巨大武士団(大名)の利権に翻弄され堕して行くこのになる。さらに将軍の後継者争いに大名同士の勢力が争い、大名の相続問題が複雑にからみ、未曾有の大内乱応仁の乱が勃発する。10年にも及ぶこの内乱で京都は焼け野原となり、日本は実力本位の戦国時代に突入することになる。

  ところで鎌倉幕府を築いた源頼朝は冷徹な政治家であった。しかし猜疑深い頼朝はそれゆえに一族を破滅に追い込んだが、もし尊氏が頼朝の前例を教訓にしていたら、室町幕府の行く末も違っていただろう。

 しかし頼朝同様に現実を冷静に見極め、自己の政権樹立に同じ轍を踏まないように慎重に行動した男が後の世に現れた。それは信長、秀吉、家康などの戦国時代の武将たちであり特に家康が築いた江戸幕府は見事なものであった。

 徳川家康は対立する勢力を狸おやじと云える狡猾な手段を用いて徹底的に滅ぼし、朝廷に対しては幕府がつくった法律を守らせ、将来幕府をおびやかす大名には領地を与え、その代わりに政治には口出させず、さらには巨大な宗教団体を分割させ幕府に対抗できないようにした。

 250年以上続いた江戸幕府の平和は、室町幕府の欠けているとこを冷静に補ったことによるが、室町幕府といえども江戸時代同様に長期にわたり日本を収めたことは時代の流れのなかで評価に値できる。人望があり人間らしい足利尊氏が室町時代を築き、油断のならない「狸おやじ」が江戸時代を導いたのは、歴史上の何ともいえない流れである。