道鏡

孝謙上皇と道鏡

 光明皇太后が死去すると、恵美押勝の勢力は次第に衰えていった。そのようなとき孝謙上皇が行幸先の近江で重病になり、密教の修法を会得した道鏡に祈祷を頼むことになった。この祈祷が効いてまたたく間に病は治癒した。道教は誰も治せなかった上皇の病を祈祷で治し、孝謙上皇の寵愛を一身に浴びることになった。道教は恵美押勝に裏切られた女帝の心に深く入り込んできた。女帝にとっては、まさに待ち人現れるの心境だったのだろう。上皇は道鏡を手放さず道鏡も断ることはなかった。以来孝謙上皇は常に道鏡を傍らに置き、恵美押勝(藤原仲麻呂)との関係はさらに疎遠となった。

 道鏡は河内国の物部氏の一族で弓削氏(ゆげし)の出のため弓削道鏡と呼ばれていた。華厳宗の僧で密教の経典や修法を読解し、如意輪法を会得していた。当時の仏教は学問的な色彩が強く、祈祷を主体とした新たな仏教である密教は不可思議で神秘的であった。また中国語や梵語(サンスクリット語)も喋れて理解もできる知識人であった。
 平城京に都が移ってから50年。朝廷は政争に明け暮れ、天下を揺るがす乱や騒動が起き、長屋王や藤原広嗣、橘奈良麻呂といった有力者が次々と消えていった。そして恵美押勝が道鏡の排除のため挙兵したが、この恵美押勝の道鏡排除に向けたクーデターは失敗した。

 

孝謙上皇と道鏡

 恵美押勝がクーデターに失敗して死ぬと、孝謙上皇と道鏡をさえぎる者はいなくなった。仲麻呂の乱淳仁天皇を廃して淡路に流罪にすると孝謙上皇は再び天皇の座に戻り称徳天皇となった。恵美押勝の太政大臣の後任として道鏡をあて、道鏡への女帝の寵愛はさらに深まり、破格のスピードで出世を重ねていった。

 このとき夫婦同然といわれた2人は、恵美押勝の乱の翌年に旅に出る。和、紀伊、和泉をめぐる新婚旅行同然の旅で、旅の終盤、道鏡の地元の弓削寺で称徳天皇は道鏡を太政大臣に任じることを仏に誓う。道鏡は断るが、天皇の強い願いに道鏡は断れきれなかった。

 称徳天皇の愛人として力を伸ばした道鏡は、政敵・藤原氏の代表格・恵美押勝を戦いで破って以来、昇進に昇進を重ね、太政大臣禅師から法王の座についた。法王の待遇は天皇と同じで、宮廷では「天皇の後継者」という噂が広まった。法王となった道鏡の元には大臣以下の役人が参賀に訪れた。これを知った宮廷の誰もが次期天皇への不安を抱いていた。この時期には造寺・造仏が盛んに行われ、加墾禁止令(765年)でも寺社が除外されるなど寺社が優遇された。


 2人の周辺では、道鏡のライバルだった和気王の謀反による死。淡路に流された淳仁天皇の変死。天皇の異母妹・不破内親王の皇籍剥奪などの怪事件が相次いで起き、道鏡の陰謀説がささやかれた。

 そのようなとき、769年5月、九州から大宰主神と大宰帥の弓削浄人が宮廷に現れ「宇佐八幡の大神が、道鏡を天皇にすれば天下は安泰であると告げた」と、道鏡の皇位を告げる神託があったことを知らせてきた。これには後継者がいない称徳天皇は喜んだ。これで称徳天皇の後継者は道鏡で決まりと思われたが、穏やかでない空気が宮廷を包み、称徳天皇の道鏡に譲位する心積もりも鈍っていた。これが次期天皇の座に関ることだけに、朝廷内では大騒動になった。道鏡の皇位を告げた大宰帥の弓削浄人は道鏡の弟で、朝廷は過去にもニセ神託の事件を起こしたことがあり、臣下の多くは神託に疑問をもった。そこに割って入ってきたのは意外にも道鏡であった。道鏡は「宇佐八幡へ使者を遣わされて確かめるように」と提案したのだった。よほど自信があったのだろう。この提案に周囲からの異論など起きるはずはなかった。

 神託とは「神が巫女の口を借りて告げるお言葉」なので、どこまで信用できるかが問題だった。そこで称徳天皇は、信頼を置いていた女官・和気広虫(わけのひろむし)を九州への派遣しようとした。

 和気広虫は、称徳天皇が11歳の時から30年近く仕えており、仏への信仰があつく、災害や戦いで親を亡くした孤児を預かるなど、孤児院の先駆けとなる福祉活動で知られていた。だが称徳天皇の前に出た和気広虫は、病を理由に弟の清麻呂を推薦した。

 和気清麻呂が宇佐神宮へ派遣されることになるが、宇佐八幡から持ち帰った神の言葉は、先の神託は偽りであり、「国が始まって以来、主君と臣下は定まっている」が正しい神託であると述べたのである。吉報を待ち焦がれていた道鏡の即位は否定され、この結果に大いに激怒した称徳天皇は、清麻呂に因幡(鳥取)行きを命じるが、再調査で清麻呂の偽証を知ると官位を剥奪して清麻呂の名を奪って別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と名乗ることを強要して大隅(鹿児島)に流刑とし、和気広虫も備後(広島)に流した。

 押勝の乱で称徳天皇側についた清麻呂は「女帝ファミリー」として出世したが、この神託が裏切りだったのか、本当かどうかはどうかは不明である。宇佐八幡に派遣される直前に、道鏡から脅迫まがいの恫喝を受け反発したともされている。清麻呂は押勝の強引な政治手法に嫌気がさして称徳天皇側に味方をしたが、道鏡の昇進にまで手を貸すつもりはなかったのであろう。

 清麻呂の事件以来、浄人らが伝えた宇佐八幡の神託が本当だったのか、誰の報告を信じればよいのか、称徳天皇は疑心暗鬼に陥った。そのため後継者は自分が決めると宣言すると、みだらに皇位を求めないように警告した。

 ところが称徳天皇は道鏡と連れだって道鏡の故郷、河内(大阪)に行幸している。やはり道鏡にご執心の称徳天皇は、道鏡による皇位継承の夢を見ていたのだろうか。最初の行幸から4年が経っていた。由義宮は宮城らしい景観に整えられ、称徳天皇素晴らしさをたたえて西京と名づけた。

 称徳天皇と道鏡は翌年も由義宮を訪れて、歌舞音曲の世界に浸る。しかしここで女帝は急に体調を崩して亡くなってしまう。崩御時は「女帝ファミリー」の吉備真備の妹の吉備由利が立ち会ったのみで、道鏡や臣下の姿もない寂しい最期だった。称徳女帝が病気になってから病没するまで、誰も近づくことはできなかった。病没後の埋葬場所も分かっていない。現在、考謙天皇墓とされる古墳は後世に名付けたものである。

 

道鏡の失落

 以後、後ろ盾を失った道鏡は崖から落ちるように急速に力を失った。政敵・藤原氏の藤原百川の推薦で皇位に就いた光仁天皇により、道鏡は下野(栃木)へ左遷される。
 宇佐八幡のニセ神託で、国家転覆の計画であればあまりに刑が軽かったため、ニセ神託の主犯は称徳天皇だったとも藤原百川だったとも噂されている。光仁天皇への皇位継承の際には称徳天皇の遺言が読み上げられたが、その遺言も偽造とされている。

 藤原百川黒幕説は、称徳天皇の崩御の様子は藤原百川伝の日記にしかない。このことは藤原百川が称徳天皇の崩御を知りうる立場であったことを示している。また道鏡は下野(栃木)の薬師寺へ左遷されたが、現在、その近くの下都賀郡石橋に孝謙天皇神社が建てられている。女帝が左遷された道鏡の後を追って、この地で終焉を迎えたという言い伝えが神社に残されている。ここで孝謙天皇が亡くなられたかどうかは別にして、天皇の名前がついた神社は一般人が建てることは不可能である。その地域の地方長官が事情を知っているはずであるが、現在では誰も知らないことだろう。

 結局、一介の僧による国家乗っ取り騒動は、敵、味方とも嘘で塗り固めた、現代人顔負けの詐欺事件だった。では最も興味の深い「称徳天皇(孝謙天皇)との性的関係」についてはどうだろうか。俗説として、「称徳天皇は、始めのうちは藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされた。その後、称徳天皇の愛を一身に受けた道鏡が天皇になろうと野心を持った」というものである。さらには「道鏡巨根説」などが有名である。
 まず称徳天皇と藤原仲麻呂の関係であるが、両者は好意的関係よりむしろ対立関係にあった。藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を得ることによって、称徳天皇を差し置いて政治の実権を独占し、ついには無謀ともいえる新羅征討まで考える仲麻呂に対し、亡国の危機を救うために称徳天皇が立ち上がって、政界に復帰したというのが本来の姿であろう。
 称徳天皇と道鏡の関係については、当時の仏教では「戒律」があり、それを補うために唐の高僧・鑑真が来日したわけだが、様々な戒律の中でもっとも厳格なのは「異性と通じてはならない」である。鑑真によって戒律が伝えられ、それが広がり始めた頃に道鏡の活躍が始まっている。もし道鏡が称徳天皇と愛人関係になって自ら戒律を破るようなことがあれば、当時の仏教勢力が道鏡を支持しただろうか。

 また称徳天皇が崩御された後に、道鏡は下野国に追放になるが、もし道鏡と称徳天皇が愛人関係ならば、戒律を破った罪で僧籍を剥奪されるか、場合によっては殺害されてもおかしくない。しかし道鏡は僧のままこの世を去っている。「道鏡が天皇になろうとした」のではなく、「称徳天皇が道鏡を天皇にしたかった」というのが正しい表現なのだろう。

 また歴史の怪事件は、「最も得するものが仕掛けた」とする原則があるが、それに従うならば、次の権力者藤原百川が黒幕になる。称徳天皇と道鏡が「藤原氏に対抗する勢力」だったからで、それを転覆するために仕掛けたとも考えられた。時代の勝者となった藤原氏にとって、藤原氏の墾田の私有を禁じられていたのだから、天皇も道鏡も敵対勢力である。称徳天皇と道鏡の二人を悪役として印象づけるために、男女の関係を暗示させるストリーを作ったとも考えられた。もちろん本当のところは誰もわからない。

 

道鏡の巨根伝説
 孝謙天皇として皇位に就き、一度退いた後、再び称徳天皇として即位している。道鏡と関わったのは2度目の称徳天皇の時で、この2人について「道ならぬ恋に狂った女帝」、「怪僧・道鏡の巨根に狂わされて判断を誤った」などと後世で揶揄されている。

 江戸時代の川柳に「道鏡はすわると膝が三つでき」というものがある。この道鏡巨根伝説が登場する史料が鎌倉時代の説話集の「古事談」で、道鏡のイチモツにまだ不満に思っていた称徳女帝が山芋で作った張型を用いて、これが折れて病になり崩御したという逸話まで収められている。いつの世もこのような庶民が喜ぶ話はあるのである。中国の史書「史記」に、秦の始皇帝の母・太后が巨根の男を寵愛したという話がある。

 これらの創作話は江戸時代の庶民の間に広まったもので、女帝である称徳天皇を蔑む儒教的風潮もあって戦前までは盛んに言われた。
 ただ実際に女帝と道鏡がデキていたかどうかは不明であり、道鏡が巨根であったかどうかも具体的根拠はない。また2度目の即位で、聖武天皇と「日本の聖母マリア」などと称えられた光明皇后の間に生まれた称徳天皇が、巨根に惑わされるとはない。むしろ真相は称徳天皇は「開かれた皇室」を目指したのからなのもしれない。
 称徳天皇は密室で事が運ばれる当時の皇室のあり方が嫌いで、これを天皇家の世襲制度のせいと考えた。そのため皇室を民間に開くために、天皇も民間から選べる制度を取り入れようとしたのかもしれない。
 称徳天皇が病に倒れ、その看護に当たったのが道鏡だった。さらに道鏡は呪術に優れ、その病を治してしまったのである。称徳天皇は道鏡の呪術の力に大きな可能性を感じたのだろう。長らく続いた皇室の制度を変えるのは、天変地異を起こすほどの政治力が必要だった。まずは「変える」ことが大事で、道鏡の呪力にその可能性を感じ、政治の力は後からついて来る。あるいはついて来なくても上皇として自分が院政を敷けば良いとしたのだろう。「天皇を民間から選ぶ」というのは、あまりに突飛な発想だった。「やっぱり女は何を考えるかわからない」、そんな恐怖が後々世間を揺るがせたのである。
 これを現代のような民主主義的政治を目指しただけの話といえるのだろうか。ただ進歩的過ぎたというだけのことでしょう。当時としては称徳天皇の考えが決して理にかなわないものではないことがわかっていただけに、よりが周囲は脅威を感じたのだろう。世間の支持を集めないように、後世の権力者たちは称徳天皇の真意を覆い隠うために、道鏡の「巨根伝説」などを強引に作り上げて同天皇を俗物化したのだと思われる。

藤原百川・藤原永手
 称徳天皇は後継者を決めずに崩御されたため、次の天皇を誰が継ぐのかについて朝廷内で協議された。称徳天皇は女性で、しかも独身だったので子供はいなかった。

 右大臣として復権していた吉備真備は、天武天皇の血を引く文室浄三という元皇族を推挙したが、しかし土壇場で参議の藤原百川藤原永手が支持する白壁王が第49代の光仁天皇として即位された。
 即位時62歳と高齢の光仁天皇は皇室の血を引いていたが天智天皇の孫であった。壬申の乱以来、天武系で占められていた天皇の地位が、約100年ぶりに天智系に復帰したのである。この大逆転には称徳天皇の遺言を偽造したことによるとされている。
 光仁天皇は白壁王の時代に、他の皇族たちが権力闘争で次々と命を落としていくのを横目で見ながら、酒を飲み続け、野心のないことを示していた。光仁天皇はまさか天智系の自分が天皇になるとは思ってもいなかったので、とても喜び藤原百川には感謝の気持ちばかりであった。天皇に即位した光仁天皇は藤原百川ら藤原氏の一族を重く用い、吉備真備は再び中央政界から去った。まさの権力闘争であった。

 光仁天皇と藤原氏によって、律令政治の再建を目指すことになる。藤原百川は藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子で、藤原永手は房前(ふささき)の子になる。

 このようにして奈良時代の短い間に繰り広げられた勢力争いは、最終的には藤原氏の手に引き継がれ、以後、藤原氏は政治に積極的に関わっていくことになる。