鎌倉幕府

 鎌倉時代は1192年~1333年の約140年間をいう。源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉幕府を開き、源氏が3代で滅亡した後は北条氏が執権となって政治を動かし、途中、2度の元寇があったがこれを退けた。しかし幕府に不満を抱いた御家人が後醍醐天皇のもとに集まり鎌倉幕府は滅び去った。文化においては、簡素で力強い作品が民衆の気持ちを吸い上げ、民衆が求める新たな仏教宗派が現れた。この鎌倉時代から、政治の権力が朝廷から幕府へと移り、武家の時代がおよそ700年続くことになる。


鎌倉政権の誕生
 源頼朝は平清盛の失政を反面教師に、頼朝は宮廷貴族に同化されることなく、武士の利権を守る政策を探っていた。ここで後白河法皇が大きな過ちを犯してしまう。たとえ義経の要求とはいえ「頼朝追討の院宣」を出したことである。

 源頼朝と義経を戦わせて、源氏の自滅を狙った院宣であったが、源頼朝を裏切る院宣は頼朝の怒りを爆発させることになった。しかも朝廷は頼朝に攻められたらひとたまりもない存在だった。

 1185年11月、源頼朝は舅(妻の父)の北条時政を筆頭に大軍を京へ送り、後白河法皇に「法皇の命令によって平氏滅亡に尽した頼朝を討て」とはどういうことかと迫った。頼朝はさすがに政治家である。2年前の義仲追討時に、10月宣旨で東国支配権の公認を朝廷に認めさせている。10月宣旨とは「東国の荘園・国衙領からの年貢が内乱よって貴族に届けられずに困っていた時、年貢を納めない現地の武士に、頼朝の命令で年貢を差し出す」ことであった。頼朝は朝廷にこの勅令を出すように提案し、もちろん貴族たちは大歓迎して、1183年の10月宣旨「年貢を差し出せ。命に従わない者は頼朝に成敗させる」との宣旨が天皇から出されたのである。これは年貢を出さない者は頼朝が成敗できること、つまり武士の親分は頼朝で支配権を持つことを朝廷が正式に認めることになった。それまでの武家の「棟梁と家人の関係」はあくまでも私的なものであったが、この関係を公認することになった。法皇は頼朝の上京を促したが、奥州藤原氏の脅威を理由に拒否している。

 北条時政は恐怖に震える後白河法皇にさらに「守護・地頭の設置」を認めさせた。これは隠れている義経を捜すため守護・地頭を置くことで、その任命権を頼朝が持つことである。つまり頼朝が総守護総地頭になることを意味していた。さらに兵粮米を反あたり5升徴収できるようにした。

 後白河法皇に「義経追討」の院宣を出させ、さらに義経を捕まえる名目で、全国に守護(追捕使)を置くことを認めさせたのである。後白河法皇は頼朝の真の狙いに気づいていたが、頼朝の巨大な軍事力に威圧され、やむなくその要求に屈した。
 地頭は公的な土地の管理人であるが、その任命権守護とともに頼朝にあった。この地頭の設置で「武士が初めて自分の土地を公的に所有できるようになった」。さらに全国の土地から収穫量の5%を兵糧米として徴収できる権利を獲得し、これによって公領や荘園にも頼朝の手が伸びることになった。守護は各国に1人、地頭は各荘園に置かれ、その任命権を頼朝が持つのだから、事実上の全国支配であった。

 守護と地頭の制度ができたため、各地の武士団は荘園内において一定の警察権と裁判権を確保し、やがて経済的権益にも拡大して、名実ともに武士たちが我が国を牛耳ることになった。守護や地頭の設置によって「武士のための政治」が大きく前進した。

 頼朝は平氏なき後の残党勢力の一掃に取りかかった。奥州の藤原秀衡は、自分を頼って逃げてきた義経を頼朝との決戦に活かそうとしていた。しかし保護から一年も経たないうちに藤原秀衡が亡くなってしまい、この秀衡の死は義経にとって大きな誤算となった。

 秀衡の後を継いだ藤原泰衡(やすひら)は、頼朝の「義経を殺せば藤原氏の安泰を保証する」という言葉を真に受けて、1189年に義経を自害に追い込んだ。しかしこの行為は頼朝への切り札を失ったことになる。事実、頼朝は同年7月、大軍を率いて泰衡を攻め、100年続いた奥州藤原氏は滅亡することになる。
 対抗する勢力をすべて滅ぼした頼朝は、1190年11月に上洛を果たすと、後白河法皇と二人で会談を行った。この場で何が話されたかの記録は残っていないが、事後の展開から、頼朝は自らを征夷大将軍に任命するように後白河法皇に迫ったのであろう。征夷大将軍は、平安時代の坂上田村麻呂のように東北地方の蝦夷を征服するための将軍という意味だけでなく、また武士の中での最高権力者という意味でもなかった。頼朝が征夷大将軍を要求したのは「幕府」の誕生と密接にかかわっていた。幕府とは中国の言葉で「軍司令官の本陣」を意味している。王に代わって指揮を取る将軍の臨時基地のことで、中国の皇帝は戦争を円滑に進めるため、皇帝の権限である徴税権や徴兵権を将軍に委任した。頼朝は自らを「幕府の将軍」になぞらえ、朝廷から独立した軍事政権を確立したかったのである。

 頼朝の思惑に気づいた後白河法皇は、征夷大将軍の代わりに頼朝を右近衛府の大将に任じた。右近衛府の大将は朝廷の警護役で、征夷大将軍より格段に位が高かった。だか右近衛府の大将はすべて朝廷の命令で動く高級官僚であった。遠征のできない右近衛大将では幕府を開けない。また位は低くても征夷大将軍は、白紙の委任状を預けられるものであった。そこで頼朝は喜んで右近衛大将を受けたふりをしてすぐに辞任すると鎌倉に帰ったのである。

 会談から2年後の1192年3月、後白河法皇が66歳で崩御すると、頼朝が改めて朝廷に征夷大将軍の地位を迫り、同1192年7月、朝廷は頼朝を征夷大将軍に任じられた。

 この段階で初めて鎌倉幕府が名実ともに成立した。そしてこれ以降の時代を鎌倉時代と呼ぶ。鎌倉時代がいつ成立したかについて様々な説が出されている。幕府時代の成立時期が話題になっている。1192年、頼朝の征夷大将軍。1190年、頼朝の右大将。1184年、公文所、問注所の設置。1180年。鎌倉を本拠。1185年、守護・地頭の設置。1183年、10月宣旨で東国支配権。このように鎌倉幕府は徐々に支配権を拡大したのであり、いつからというのは意味がない。歴史を試験産業と捉える大人の悪い癖である。

 朝廷が頼朝を征夷大将軍に任命されて、鎌倉の軍事政権が公認されたとき、やはり「いい国つくろう鎌倉幕府」の1192年が幕府成立の年にふさわしい。

  日本には朝廷と幕府という二つの権力中枢ができた。建前上は京都の天皇と貴族が日本の主権者であるが、実質は鎌倉幕府が国政を牛耳ることになった。征夷大将軍は天皇の代理を意味しており、この奇妙な二重構造は明治維新まで700年以上も続くことになる。ただ鎌倉幕府は武士政権としては中途半端で、天皇と貴族が彼らの権勢をいつ巻き返しても不思議ではなかった。幕府は出来たが征夷大将軍の資格についての合意がなかったため、征夷大将軍の地位を巡って内乱が起きる可能性があった。このバランスが大きく崩れたのが、南北朝・室町の戦乱である。朝廷は変わらなくても、各時代の最も武力の強いものが幕府をつくった。

 1180年、頼朝は鎌倉を拠点とした。鎌倉は南は海に面し、三方を丘陵に囲まれ攻めにくい土地であった。頼朝は鎌倉に新たに作らせた屋敷に入り、この屋敷が大倉御所つまり幕府と呼ばれた。

 

鎌倉幕府の組織 

 鎌倉幕府は簡素で実務を重視した。鎌倉には中央機関として、幕府と主従関係を結んだ御家人を統制して戦時には軍事・平時には警察にあたる侍所を置いた。侍所の別当(長官)には合戦で侍所長官を買ってでた和田義盛が、次官には梶原景時が就任した。

 また一般政務や財政事務を行う政所(まんどころ)が置かれ、初代別当に大江広元が就任した。大江広元は下級貴族であったが、長官に任命されたのは、当時の武士は字が読めなかったからである。承久の乱で鎌倉幕府が京都を攻めたとき、降参した公家から講和文書が来たが正式文書の漢文を読めたのは5000人の武士のうちで藤田三郎だけだった。このように武士の大半は仮名もわからない状況だった。

 当初、裁判判決は頼朝が下していたが、後に裁判事務を担当する問注所(もんちゅうじょ)が置かれ訴訟を引き受けた。問注所の初代執事(長官)には三善康信が任命されている。三善康信は下級貴族で、頼朝の乳母の妹の子であったが、頼朝が貴族を用いても武士から非難されることはなかった。三善康信は都での貴族を好ましいと思わず間違いを糺す姿勢があったからである。

 また幕府の出先機関として、京都の治安維持や西国の御家人の統轄を職務とする京都守護が置かれ、九州には鎮西奉行(ちんぜい)が奥州には奥州総奉行が置かれた。なお京都守護は後に六波羅探題と名称が変わる。

 各地方には守護や地頭が置かれた。守護は各国に一人ずつ配置され、主に東国出身の有力御家人が任じられた。守護は平時には京都大番役(皇居の警備)をかね、謀叛人や殺害人の追捕(ついぶ)といった大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)や、御家人を統率して治安の維持、あるいは警察権の行使にあたり戦時には軍を指揮した。また守護は国の役所である国衙の在庁官人(地方の役人)を支配する地方行政官の役割も果たした。

 地頭は御家人から任命され、国衙領(国の領地)や荘園の年貢の徴収や納入、土地の管理や治安維持にあたった。それまで下司(げし)と呼ばれた荘官の多くが、頼朝から新たに地頭に任命された。御家人の権利は保障され、武士たちの悲願が達成されたが、当時の地頭の設置は平家没官領を中心とした謀叛人の所領に限られていた。

 鎌倉幕府の経済基盤としては、朝廷から頼朝に与えられた知行国である関東御分国や、頼朝が持つ平家没官領である多数の荘園・関東御領(ごりょう)があった。

 

 御恩と奉公
 鎌倉政権は武士団の寄り合い所帯だった。鎌倉には将軍や執権がいたが、彼らに期待されたのは、武士団相互の利害調整であった。そのため、鎌倉政権の最も重要な機関は問注所(裁判所)であった。鎌倉幕府に参加した将軍直々の家来を「御家人」と呼ばれ、御家人と幕府は「御恩と奉公」と呼ばれる硬い契約によって結ばれていた。すなわち、幕府は御家人の権益を守り、働きに応じて恩賞を与え、あるいは他の御家人や寺社との利害を調整することにああった。その一方で、御家人は幕府の危難に際しては、軍事力や政治力を提供するという相互契約があった。

 頼朝は武士たちが命をかけて「土地」を守っていたことを知っていた。平氏全盛の頃、多くの武士は先祖代々の土地を脅かされていた。頼朝は東国の武士たちに「東国の支配は、私に任されている。おまえたちが土地を所有する権利は私が守る」と伝えた。この頼朝の言葉に東国の武士たちはひきつけられ、頼朝に味方する者は増えた。御家人は先祖伝来の所領を保障され、新たに所領を持つ権利が与えられた。御家人はこの御恩に対する奉公として、平時には自費で京都大番役、幕府の警護である鎌倉番役をつとめ、戦時には「いざ鎌倉」と戦場におもむき命を懸けて軍役についた。

 院政以降、各地で開発領主として勢力を拡大してきた武士団は、特に東国を中心とする東国武士団は、自己の所領を保障する幕府の配下となった。東国は事実上幕府の支配地域となり行政権や裁判権を幕府が握った。

 このように土地の給与を通じて、御恩と奉公の主従関係が成り立つ制度を封建制度という。また当時の武士のように「所領(=土地)のために命懸けで働く」ことを 「一所懸命」と云うようになった。

 このような契約は、双方の利害関係が一致することで初めて実効力を発揮する。鎌倉幕府の末路が呆気なかったのは、この利害関係が崩れたからである。

 

源頼朝の暗転

 源頼朝は征夷大将軍となって鎌倉幕府を開き「武士のための政治」を始めたが、朝廷の公認があっても、天皇や朝廷を差し置いての政治に「後ろめたさ」があった。また源頼朝は自分の没後も源氏が将軍として政治を行うための「後ろ盾」が欲しかった。頼朝もやはり人の親であり家系の繁栄を望んだ。

 1195年、源頼朝は京都・東大寺の再建供養に出席した際に朝廷へ向かい、娘・大姫を後鳥羽天皇の妃にしようとした。頼朝と政子の長女・大姫は、木曽義仲の子・義高(11歳)と婚約していたが義仲を討った頼朝は密かに義高を暗殺していた。これを知った大姫は10余年間、心を閉ざしていた。頼朝は大姫が後鳥羽天皇に嫁げば、自分が朝廷と縁続きとなる。大姫に皇子が生まれ天皇に即位すれば、源氏政権の強力な後ろ盾になると考えた。しかし、これは絶対にやってはいけない「禁じ手」であった。

「娘を天皇の妃にして、生まれた皇子が天皇に即位して自分は外戚になる」、これは平氏と同じやり方であった。源氏が貴族化する道を開くことになり、武士の権利が再び朝廷に奪われる懸念があった。結局、大姫が死去したため、頼朝の思惑は失敗に終わるが、鎌倉の武士団からすれば、頼朝の行為は重大な裏切りで、許すことのできないことであった。

 1199年12月27日源頼朝は、御家人の稲毛重成の亡妻の供養のため、また相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰りに稲村ガ崎で落馬した。その落馬が原因で、翌年1月13日に53歳で亡くなり、大倉法華堂に葬むられた。武家の棟梁ともあろう者が生命に関わる落馬を起こすだろうか。鎌倉幕府の正史である吾妻鏡(北条氏が編纂)には頼朝が亡くなる前後3年間の記録が抜けている。しかも吾妻鏡に源頼朝の死が書かれたのは死後13年目であった。頼朝の詳しい死因は現在も分かっていない。