源氏終焉

源氏の終焉

 初代将軍の源頼朝は猜疑心の強い性質で、自分の権威を脅かす可能性を次々と排除していった。従兄弟の木曽義仲、叔父の源行家、弟の義経と範頼を抹殺し、そのため有能な源氏一族は壊滅した。

 1199年、源頼朝が急死すると、頼朝の嫡男源頼家(よりいえ)が家督を継いで第2代将軍になった。頼家は18歳であったが、甘く育てられた頼家の性格には有力な御家人を統率する力量はなく、権力を振りかざした行動だけが目立った。父並みの器量は望むべくもなく、有力御家人から「将軍失格」の烙印を押されてしまう。そのため有力御家人13人による会議がもたれ、この13人の合議制で政治を運営していくことになる。名目上は若い頼家を補佐するためであったが、実際には頼家から実権を取り上げるためであった。頼家が将軍になって僅か3ヶ月後の事である。頼家は裁判権も奪われ、幕府組織を運営を行う能力なしとの烙印をおされた。やがて頼家を追放し、次男の実朝を新将軍に迎えようとする一派が現れた。

 その中心人物が実母の北条政子とその父北条時政であった。実母の北条政子が頼家を嫌ったのは、源頼家の乳母は比企氏であり、比企氏の台頭を快く思わなかったからである

 頼朝の乳母をしていた比企尼は、頼朝が14歳で伊豆国に流されて以来、長年に渡って頼朝を助け続けてきた。頼朝はその功をねぎらうため、比企尼の娘たちを嫡男の乳母に任じ、比企尼の甥の比企能員の妻も乳母となり比企能員(ひきよしかず)は乳母父となった。

 1202年に源頼家が将軍になると比企一族が重用された。また頼家も有力御家人である比企能員の娘を妻とし、後ろ盾として比企氏を頼りにした。そのため比企能員は外戚として権勢を振るい、さらに娘の若狭局が頼家の嫡男一幡を生んだのである。疎外された北条氏は強い危機感を抱いた。

 将軍頼家は幕府の最高権力者ではなく、たんなるお飾りの将軍に過ぎなかった。北条時政と頼家の母である政子は、頼家を廃すると政子が養育した頼家の弟・千幡(実朝)を将軍にしようとした。

 翌年7月に源頼家が病におちいると、北条時政と政子は絶好の機会として、関西38カ国の地頭職を頼家の弟・実朝に与えた。さらに全国の守護職と関東28箇所の地頭職の支配を頼家の息子・一幡に譲るように画策し、頼家が存命していたていたにもかかわらず、実朝を将軍にするように朝廷へ働きかけた。

 さらに先手を打って、1203年に無警戒であった比企能員を、北条時政・政子は自邸におびき寄せ殺害してしまう。さらに畠山重忠、小山朝政、三浦義村、和田義盛らの御家人を動員し、比企一族が立てこもる館(妙本寺)を急襲した。比企一族は必死に防戦したが、ついに館に火を放って全滅し、若狭局と6歳の一幡も戦火の中で命を落とし、比企一族は滅亡した。

 後ろ盾を失った頼家は伊豆の修善寺に強制出家させられ、翌年7月17日、頼家は北条氏の放った刺客によって暗殺された。頼家23歳であった。

 

公暁による源実朝殺害

  1205年、北条時政は頼家の弟である源実朝(さねとも)を第3代将軍にすると、北条時政は初代執権におさまった。つまり将軍とは名ばかりで、北条家による傀儡政治の始まりであった。源実朝の実母は頼家と同じ北条政子である。頼家の後を継いだ実朝は武士の将軍としてはふさわしくなく、将軍・政治家としての実績はほとんんどなかったが、北条家の傀儡政治にとってはそのことが都合が良かった。

 しかし公家化した源実朝はこの時代の文化に対しては確固たる足跡を残している。「古今和歌集」「新古今和歌集」や、奈良時代の「万葉集」を愛読し、当時最高の歌人であった藤原定家とも交流があった。自らの歌集「金槐和歌集」をも完成させている。歌人として未完成ではあったが、歌の随所に光るものがあり、後世の歌人や評論家も実朝を高く評価している。実朝は将軍の職務より公家の生活に憧れをもっていた。このように公家かぶれした実朝は、朝廷にとっては好都合であった。

 しかしその実朝に悲劇が待っていた。1218年、実朝は武士としては初めて右大臣に任じられ、翌年の1月27日の大雪の夜、鎌倉の鶴岡八幡宮で右大臣拝賀儀式に臨んだ。実朝は父頼朝をはるかに超える官位を得たが、鶴岡八幡宮の石段のわきの銀杏の木の陰に若い僧侶がじっと実朝を待っていた。それは2代将軍頼家の次男・公暁であった。源実朝が鶴岡八幡宮での拝賀を終えて石段を下り終えたときであった。大銀杏の陰から公暁が飛び出し実朝は殺害されてしまう。公暁は頼家の遺児であり実朝とは叔父甥の関係にあったが、叔父の実朝を父殺害の黒幕と思い込んでいたのである

 公暁は切り落とした実朝の首を抱えたまま逃走したが、その日のうちに乳母の夫である三浦義村の放った追手によって殺害された。時に公暁19歳「親の仇」と叫んだと公式の記録に残されている。北条氏によって親・頼家が実朝に殺されたと恨みにて犯行に及んだものであった。打ち落とされた首は公暁が持ち去り行方はわかっていない

 実朝がなぜ26歳の甥に暗殺されたのかを知るには、乳母(うば)とその一族に目を向ける必要がある。頼家、実朝、公暁には、それぞれ比企氏、北条氏、三浦氏という乳母一族がいた。いずれも関東に強い勢力を持つ豪族たちである。この時代の乳母は単に乳をやるだけでなく、夫や息子ともども養君に仕え、その立身出世を盛りたてる存在であった。養君の出世は乳母一族の出世に直結し、養君が没落すれば乳母一族も命運を共にする、いわば運命共同体であった。

 つまり北条氏は幕府開設当時から実権を握っていたのではなく、単に「妻・政子の実家」というだけで執権の地位にあったにすぎない。公暁に実朝を討てとそそのかしたのは、乳母の夫である三浦義村だとされている。それでいながら、三浦義村は自分を頼って屋敷に逃げ込んだ公暁を討った。

 北条義時は鶴岡八幡宮の右大臣拝賀儀式で実朝の側にいた。しかし途中で気分が悪くなったと云いその場を外し、代わりに源仲章が代役を務めた。この源仲章は実朝の暗殺時、北条義時と間違えられ公暁に殺されている。

 源実朝と北条義時が暗殺されれば三浦義村が実権を握ることになるが、北条義時は暗殺直前に逃亡したことが、三浦義村の計画に大きな狂いが生じたのである。しかも北条義時に「公暁を討て」と命じられた三浦義村は、一族の安泰をはかるため公暁を討たざるを得なかった。

 北条義時は大切な旗頭である実朝を見殺しにし、三浦義村は大事な養君を殺したが、二人は冷血漢ではなく、一族のため涙を呑んで決断せざるをえなかったのである。ちなみに実朝を暗殺したのは公暁であるが、暗殺の現場で「我こそは公暁なり」と叫んだからで、その後に討ち取られたのが公暁だったとの確証はない。

 公暁による実朝殺害は鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」に書かれているが、この吾妻鏡は北条家が編集したものである。殺害は殺害によって最も得する人物が裏で糸を引いているのが常であるが、いずれにしても源氏の直系の将軍は3代で絶えてしまう。

 つまり源氏将軍をめぐる争いは、血のつながった者同士の骨肉の争いであった。かつて源頼朝も弟の義経を奥州の地で死なせているが、ここに源氏が持つ宿命・運命を感じてしまう。

北条氏の台頭

 鎌倉幕府は不安定なバランスを保ちながらも150年も生き延びた。それは執権としての北条一族が有能な政治家が続出したからである。頼朝の妻・北条政子をはじめとした北条一族が優秀だったからである。

 幕府は頼朝の側近や有力御家人からなる13人の合議制による政治が主流であったが、その中から頭角を現したのが頼朝の舅である北条時政や頼朝の妻の北条政子を中心とする北条氏であった。北条時政は政所の別当となり、さらに時政の後を継いだ子の北条義時は、1213年に侍所の別当だった和田義盛を滅ぼし、侍所の別当も兼ねることになった。

 源氏の血が絶えてからは、幕府の侍所と政所を北条氏が代々世襲し、将軍は名ばかりの公家を迎え入れ、北条氏が源氏に代わって幕府の実権を握った。北条氏は血で血を洗う抗争の末、多くのライバルを滅ぼし最終的に勝者となった。北条氏はもともとは伊豆の小土豪にすぎなかったが、独特の政治感覚で鎌倉幕府を安定化することに成功した。

 京都の朝廷では、治天の君の後鳥羽上皇が中心になり政治の立て直しを狙っていた。上皇は分散していた広大な皇室領の荘園を手中におさめ、朝廷の武力を増強するため西面の武士を置くなど、朝廷の権威の回復を目指していた。

 政治の実権を北条氏に奪われたが、源実朝が京都の公家から妻を娶り、和歌を趣味とした公家化した日々を送っていた。これに目をつけた後鳥羽上皇は腹心を政所の別当に送り込み、幕府を朝廷の支配下にしようとした。しかし実朝が鎌倉が公暁によって暗殺されこの計画が頓挫してしまうのである。

 北条氏は征夷大将軍(将軍)の地位に就かず、自ら補佐役として「執権」にとどまり、名ばかりの将軍を皇族から迎えたのである。 源氏の血統が途絶えたが、将軍が空位のままではさすがにまずいので、北条氏は京都から皇族を将軍に迎えようとして朝廷と交渉した。1226年、頼朝の遠縁にあたる、わずか2歳の藤原頼経(よりつね)を将軍の後継に迎えた。将軍を皇族から迎え、皇族の権威によって幕府をまとめようとしたのである。

 この北条氏の政治力は狡猾といえるが、幕藩体制を維持するには正しい選択であった。執権・北条義時、泰時、時頼らは、日本史上でも稀有の名政治家である。泰時は鎌倉政権の憲法ともいうべき「御成敗式目」を発布して、政権の安定に努めた。時頼は諸国を漫遊して民の生活を視察したとされているが、その真偽はともかく、民がその善政を慕っていたことの傍証になる。

鎌倉の落日
 鎌倉政権はもともと不安定な土台に立っていた。朝廷との力関係、御家人たちとの協定関係などである。この土台を大きく揺さぶったのが蒙古襲来(元寇)であった。勝利した鎌倉政権は、勝利したゆえに不安定になった。
 幕府のために役務を果たした御家人は「御恩と奉公」の契約において相応の恩賞を貰う権利があった。この場合の恩賞とは「土地」である。しかしモンゴルとの戦いは防衛戦だったため新たに得られた土地はない。九州で奮戦した御家人たちは恩賞が貰えないことに憤った。これを契機に、一枚岩だった幕府に亀裂が生じたのである。恩賞問題をめぐって鎌倉政権内部に内紛が起こり、その過程で幕府幹部たちが訴訟事件を出鱈目に処理したり賄賂を取るというモラルハザードが頻発した。つまり鎌倉幕府は武士団が期待する本来の役割を果たさなくなった。
 さらに鎌倉時代の中ごろから、日本全体の経済社会に大変革が起きた。それは貨幣経済の発展と商業資本の伸びである。大陸から輸入した貨幣(宋銭)によって、主に九州や関西などの西国で信用経済が発達した。このことにより農業経済から商業経済に大きく移行しようとしていた。
 鎌倉政権は武士団の集合なので、商業経済には興味を持たなかった。しかし鎌倉末期になると、武士団が高利貸しから土地を担保に借金をして贅沢な遊びを行い、その結果、先祖伝来の所領や馬具武具が質流れになる事件が頻発した。鎌倉幕府は武士団の権益を守り、武士団間の利益を調整する機関なので、商人と武士団との利害調整は想定外のことだった。

 幕府は武士団を救済するために高利貸し(商業資本)を弾圧するしかなかった。それが徳政令(借金棒引き令)である。だがこのような政策が、時代の流れに逆行する一時しのぎであることは明白であった。徳政令の乱発は信用経済を混乱させ、いわゆる「貸し渋り」が起きた。そのため必要な融資を受けられずに窮乏化する武士たちが増え、当然、彼らは幕府に不満を抱いた。
 また商業資本が進んでいる西国では、幕府への反政府活動が頻発した。幕府は、西国で暴れまわる者たちを「悪党」と呼んで恐れた。このような不穏な情勢に朝廷がからむことになった。それが後醍醐天皇の登場である。