最澄と空海

平安京への遷都

 桓武天皇が奈良の平城京から京都の平安京へ都を移したのは、「奈良の僧侶が介入する奈良仏教との決別」と「早良親王の祟り」から逃れるためであった。
 奈良時代は僧侶が政治に介入することが増え、特に称徳天皇の寵愛を受けた僧・道鏡が、天皇の位を切望していた頃が頂点であった。

 南都六宗は堕落し高僧がそろって政治に口を出しては朝廷内での出世を望んでいた。さらに貴族たちは脱税のために寺院を利用するなど仏教界は堕落の一途をたどっていた。そのため奈良からの遷都の際には、奈良の有力な寺院を奈良に残し、京に移ることを禁止したのである。このままでは仏教界は絶望的と痛感した桓武天皇は奈良から京都に遷都し、南都六宗に代わる新たな仏教を模索していた。仏教は人々の心に強く根付いていたので、仏教を全面的に禁止したら人々は朝廷を批判しはじめる。その意味で桓武天皇にとって新たな仏教が必要なものだった。
 そこで朝廷は中国に遣唐使や学問僧を送り込み、新しい仏教を取り入れてくることにした。ちょうどその要望に応じる様に最澄と空海という2人の僧があらわれた。最澄も空海も仏教界の堕落を嘆いており、27年ぶりに再開された遣唐使で唐に渡ると、修行したのち最澄は天台宗を、空海は真言宗を開いた。

仏教界の流れ

 日本に仏教が伝来したのは538年とされているが、仏教は大陸の進んだ文化として朝鮮半島からの渡来人を介して、それ以前から日本に伝わっていた。この仏教を巡り肯定派の蘇我氏と否定的な物部氏が対立し、蘇我氏が勝利して仏教が国教となった。645年の大化の改新から律令制度のもとで中央集権国家が形づけられ、奈良の平城京で仏教が隆盛した。

 聖武天皇の時代に全国に国分寺、国分尼寺が建てられ、数年後には奈良の大仏がたてられ、仏教は国家の庇護を受け南都六宗が成立した。国家仏教として各宗を学問的に統括する宗務所が置かれ、国家の管理体制が整えられた。国家仏教は鎮護国家を目的に成立し、寺院は官立で、仏教の研究をする場であり学派による対立はなかった。仏教は南都六宗と言われ、学僧が集まって仏教とは何ぞやと経典を読み勉強しており布教は許されていなかった。

 754年に唐から「鑑真」を招請して国立戒壇院(東大寺戒壇院、大宰府・観世音寺戒壇院、下野・薬師寺戒壇院)を設置し、官の身分を持つ僧侶を整えた。国立戒壇の受戒は「年分度者」と呼称され、南都六宗から選ばれた優秀な人物が推薦を受けたが、合格するのは毎年10数名の狭き門であった。

 官僧以外は国家から公認されず「私度僧」といわれ、私度僧は国家から禁止されながらも淘汰されることはなく、僧の大部分は私度僧であった。南都六宗は①三論宗、②法相宗、③華厳宗、④倶舎宗、⑤成実宗、⑥律宗であるが、 南都六宗は学問的な仏教研究の場であり、今日の仏教とは異なり檀家もなければ、葬式にも関与せず、布教は許されていなかった。
 しかし各寺院はしだいに権勢を競い合って学僧を囲い込み、学問の自由な姿勢が失われて排他的となり、他の寺院に出向いて教えを乞う美風が失われた。仏教は学問の場で寺院は最高学府であったが、その権勢を競うが如く自己顕示欲を示し、僧侶は次第に政治の乱れに意見する形で政治に介入するようになった。

 桓武天皇は政権内部での僧侶の暗闘が収まらず、当時の貴族の独特の感覚であった怨霊の跋扈と仏教界の堕落した奈良の都・平城京から京都(平安京)に遷都することになった。桓武天皇は仏教を否定したのではなく、新たな民衆のための新たな仏教、護国のための仏教を待望していたのである。これに応えたのが「秀才最澄と天才空海」だった。

 真面目な学者型の最澄と、天才肌で外交型な空海の登場により仏教は教理仏教から現世利益を求める仏教に衣替えすることになる。

 密教は加持祈祷が基本で、秘密の呪文のようなもので、奈良時代の仏教にはなかった分野だった。秘密の呪文を唱えれば「お金持ちになれる」「もっと出世ができる」「幸せになれる」といった現世ご利益をかなえる性格が強くあった。

最澄と空海

 最澄は近江国(滋賀)に生まれ、空海は讃岐国(香川)に生まれた。同じ時代、同じ仏教の分野に並び立つ2人であるが、2人の経歴・性格は対照的だった。桓武天皇のとき最澄は38歳、空海は31歳で同じ遣唐使で唐に渡ることになる。2人は奇しくも同じ遣唐使の一員として唐へ向かうことになるが、最澄は桓武天皇の命による公的僧侶で旅費は無料で通訳付きの特別待遇だった。いっぽの無名だった空海は、長期滞在が義務づけられた大勢の留学僧のひとりだった。

 ふたりは新しい仏教(密教)を学んで帰国する。桓武天皇は僧侶が政治に口を出することを嫌がったが、神や仏の力で国を治める鎮護国家の考えに変わりはなかった。

 平安京を左京と右京にわけ、東寺・西寺を建てたのも鎮護国家の表れであった。桓武天皇は最澄や空海の力を借りて仏教を立て直そうとし、最澄も空海も「僧侶は人々のために尽くさねばならない」との強い意思を持っていた。

 天台宗や真言宗はそれまでの仏教とは違っていた。呪術の取得や厳しい修行によって仏教の奥義を究め、加持祈祷で祟りを鎮めて怨霊を封じた。これらはブツダの奥の深い悟りを説いたことから「密教」と称されている。真言宗の密教を東密といい、天台宗の密教を台密という。

天台宗と真言宗の違い

 最澄と空海が持ち帰った仏教は、最澄(天台宗)は比叡山の延暦寺が本山で、空海(真言宗)は高野山の金剛寺が総本山あり、どちらも平安京の中に寺院を建てていないことから政治と宗教は分離していたことが分かる。これが平安時代の仏教の特徴である。
 ちなみに最澄が生きていた時の天台宗は密教を取り入れてはいない。弟子の円仁、円珍たちによって最澄の死後に密教化されたのである。真言宗は最初から密教で、空海は嵯峨天皇から教王護国寺(東寺)を賜り、高野山と一緒に布教の本拠地にした。真言宗の密教は東密とよばれていますが、これは東寺の東からきている。
 平安初期は家柄に関係なく出世できる時代であった。貴族や役人の子弟が学んだ大学には、貴族が自分たちの子弟のために建てた大学別曹という寄宿舎があった。さらに大学とは別に勉強を教えてくれる教官がいた。頑張れば出世できる時代だったので現世利益の密教がはやったのであろう。

山岳宗教
 また山中に寺院を建設して、そこで修行に励むことも、新しい仏教の特徴といえる。山に寺院を建てるため、平地の寺院の伽藍配置とは違いお堂や塔などがつくられた。比叡山、高野山、室生寺などが当てはまる。

 日本古来の山岳宗教と密教が結びついたのである。その中心的存在となったのが奈良県吉野の金峯山寺である。また仏教は日本に古くからある神道とも一体化して、いろいろな信仰のかたちが生まれてゆく。神宮寺が神社のすぐ隣に建てられたり、寺の境内に鎮守様が祀られたり、仏に見立てた神像がつくられたりした。これは神仏習合とよばれるもので、この動きは明治維新後の廃仏毀釈運動の頃まで続いた。

 仏教が大きく変化した時代だったため、仏像のつくり方も変わってゆく。奈良時代までの仏像は金属製、乾漆像、塑像がほとんどだったが、この頃は木造に代わり、特に平安初期の仏像は一本の木材を彫って作成する一木造が一般的となった。
 平安中期の国風文化の頃になると、寄木造が広まり、仏教の世界観を絵画的に表現した曼荼羅は、密教文化で特に注目され、そのなかでも東寺や神護寺の両界曼荼羅は特に世に知られています。

最澄(真言宗
 最澄は12才で大安寺の行表を師として出家し、19才の若さで東大寺の戒壇院で具足戒を受け、国家公認の僧侶となった。年間10数人しか認められない朝廷の正式な僧侶になったが、22才の時、堕落した南都仏教に嫌気がさし、比叡山に草庵を結び、法華経を中心とした経綸を学び天台教の基礎を構想した。

「仏教とはすなわち人間の魂の問題なのに、南都は論ばかりで実がなく、自分たちの栄達を考えるばかりで庶民を救済する行為がない」として、南都仏教に見切りをつけ比叡山にこもって研究に没頭した。

 それまでの仏教は南都六宗といって、六つの流派があったが、その中で最も盛んでだったのが法相宗である。法相宗では仏になれるのは家柄によると教えていた。つまり仏教は貴族や皇族のためであったが、ところが天台宗では「人間は誰でも仏になれる。この世の生とし生きるもの全てのが仏になれる」と説いた。この庶民にも通用する教えは最澄が唐で学んで日本に広めた。

 最澄はこれまでの僧が都の寺院に住み、修行をしなかったことを間違いとしていた。僧侶は厳しい修行を行い、仏教を会得すべきとし、京都の東北の比叡山を修行の場所にして「僧は人々の手本になり、人々のために尽くさねばならない」、そのためには一心に学問に励み修行を積まねばならないとして延暦寺にこもった。

 桓武天皇は最澄の噂を聞きつけるや、朝廷の重要な役職に任命し、天台宗を開くことを認めた。最澄は桓武天皇公認の特別待遇で唐に留学するが、留学は1年の短期間しか認められず、そのため密教の会得は不完全なままだった。公的任務にあったため自由に学ぶことができなかったのである。

 帰国すると最澄を信任していた桓武天皇が亡くなり、嵯峨天皇が即位すると嵯峨天皇は密教をマスターした空海に仏教で国家を護る役目を任せた。空海はまたたく間にその名を天下に広め最澄に並んだ。

 最澄は真面目な僧侶であった。中国で密教を満足に学べなかったことから、最澄は7つ年下の空海のもとを訪れ、密教を教えてほしいと空海に頭を下げたのである。努力型の秀才・最澄は教典を借りると真摯に密教を学んでいった。空海もそのような最澄の姿に感銘を受け、お互いが尊敬しあう仲になった。

 密教とは大日如来と一体化することを目指した真の仏教のことであり、それまでの仏教が教典によって広くその教えを伝えようとしたのに対し、密教では師から弟子へ口伝えで奥義が伝えられた。密教は言葉で表すのは難しいが、密教には曼荼羅があり、曼荼羅がその世界観を視覚でわかりやすく表している。

 その後、最澄と空海に決別の時が訪れる。それは密教の秘法の教えを請う最澄の申し出を空海が拒絶したためであった。さらに空海の教えに魅せられた最澄の一番弟子が、空海に弟子入りしてしまう。これを機に日本の仏教界をリードしてきたふたりはそれぞれ信じる道を歩き始める。

 最澄の仏教に対する姿勢から、天台宗から立派な僧がでた。最澄は822年に比叡山で没するが、後々までも人々に敬われ朝廷 から伝教大師という名を送られた。最澄が開いた比叡山延暦寺は、仏教の総合大学といわれ、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、日蓮宗(日蓮)、時宗(一遍)などは、もともと比叡山で学んだ天台宗から派生したものである。

空海(真言宗)
 弘法大師の名で知られる空海が生まれたのは讃岐国多度郡善通寺である。三男の空海は幼少の頃から佐伯家の跡取として育てられ、幼名を真魚(まお)といった。

 7歳の時に捨身岳に登り「私は将来、仏道で多くの人を救いたいと思う。「この願いが叶うならば命を救って下さい。もし叶わないならば命を捨ててこの身を仏に供養します」と言って、崖の上から谷底めがけて身を投げると、釈迦如来と天女が現れ真魚を受け止めてくれたとされている。

 後にその山の名を空海が我拝師山と改め、第73番札所「出釈迦寺」を建立し、本尊として空海が自ら刻んだ釈迦如来像を安置した。

 空海は官人になる道を歩み、長岡京に行き当時日本に1つしかない官吏養成の最高機関であった大学に入学すると漢籍を学んだ。しかし勉強をしている間に、官僚になることに疑問を持つ。

 その頃、ある僧から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を授かった。この法は知恵の菩薩「虚空蔵菩薩」を本尊に真言(呪文)を100万回唱えれば、一切の物事を完璧に記憶でき、経典も丸暗記できるというものであった。

 20代はじめに大学を退学して私度僧になると、各地の山林修業のため旅にでる。空海は24歳の時に土佐の室戸岬で虚空蔵求聞持法を成し遂げた。なお各地の山林はいずれも水銀や金、銀、銅などが産出する地であった。空海は修業を重ねるうちに中国で正統な密教を学びたいと思うようになる。

 804年、空海(31歳)は東大寺「戒壇院」で戒師を授戒し、桓武天皇から入唐の勅を賜り、5月12日に一般の留学僧として遣唐使として長安にはいる。空海は玄奘三蔵ゆかりの古刹「西明寺」に落着くと、学僧円照と知り合い、醴泉寺に居た印度僧からサンスクリット語を、またバラモン教を学び、青龍寺東塔院で密教の正統な後続者・恵果と会う。

 恵果は中国密教の頂点に立つ高僧であった。恵果は「そなたが来るのを待っていた。私の生命は尽き様としているのに、法を教える人物がいなかった。早く伝法の潅頂壇に入るように」と云われ、三昧耶戒・受明潅頂・胎蔵法の潅頂を空海のために行い真言密教の奥義を伝授した。

 なお恵果は空海に密教の全てを伝授し、各種の法具や曼荼羅を授け終わると、60歳で逝去した。恵果の弟子1千人中で6人の高弟に空海が選ばれ「恵果和尚の碑文」を書いている。

 また空海はその名筆を唐帝の順宗に知られ、宮殿の壁に文字を書くように命じられると、左右の手に筆を取り、左右の足にも筆を挟み、口にも筆を加え、5本の筆で王羲之の5行の詩を同時に書き、1間に墨汁をそそぎかけると巨大な「樹」の字が浮かび上った。皇帝・順宗が舌を巻き、空海に「五筆和尚」の称号を与え、純金で作った念珠を授けた。その念珠は現在高野山の「竜光院」に保管されている。

  帰国後、空海が朝廷に提出した10mにも及ぶ御請来目録(琵琶湖の竹生島・宝厳寺所蔵」によると、空海が唐から持ち帰った仏舎利80粒が現在東寺の五重塔と講堂の諸仏の頭部に納められ、経典216部461巻を始めとして、仏像、曼荼羅など、さらに国宝「紺綾地金銀泥絵両界曼陀羅図」2幅が「子嶋寺」に残されている

 なお中国で普及し始めたうどんの製法を修得し、それが今の讃岐うどんの始りである。また空海は唐からお茶を持ち帰り、大和茶の起源となった。

 空海が唐で学んだ仏教を真言宗という。真言宗は「人は生きたまま仏になれる」と教え、さらに空海は祈りやまじないによって、病気を治したり災いを除いたりすることができるとした。このように祈りやまじないを重んじる仏教を密教という。

 空海は嵯峨天皇に書状を送って、国家安泰の加持祈祷を申し出ると、嵯峨天皇はいたく感動して空海を重用するようになった。空海は嵯峨天皇の庇護のもと、国家鎮護と衆生救済を掲げ、真言密教の布教に邁進するようになった。

 空海は和歌山県の高野山に金剛峯寺を建てたが、山の中で修行をするよりも各地を歩き、人々のために尽くそうと心がけた。布教しながら全国を行脚し、空海が見つけたとされる温泉は全国各地に存在している。四国の八十八カ所巡りは、修行中の空海が八十八の寺院を遍路したことから生まれた。

 空海といえば当然のごとく宗教者のイメージが強いが、空海は科学者であり、さらに治水事業として各地に橋を掛けたり用水池をつくった。今でも讃岐平野の用水地である「万濃池」は空海が以前からの池を修理して大きくしたものである。また空海は大勢の人々に学問を広めようと京都に綜芸種智院という名の学校を建てた。綜芸種智院は貴賎の別なく、向学心を持つあらゆる人が入学できた。当時の公的教育機関は中央、地方いずれも官吏の養成を目的にしており、入学者は中央の大学が五位以上の貴族の子弟、地方の国学は郡司以上の子弟と定められていた。空海は全人教育を目指し、誰でも入学できる庶民のための民間教育機関を造ったのである。

 空海はそのカリスマ性ゆえに、自らが信仰の対象となった。初詣客で賑わう川崎大師や西新井大師、佐野厄除け大師の「大師」とは弘法大師、つまり空海のことである。また「弘法も筆の誤り」という諺を残すほどの書の達人であり、漢詩の文集や解説書などを記すなど、仏教以外にも才能を発揮した。

 空海は、最澄の死から数年後の835年に死去した。最澄と同じように人々から敬われ、朝廷から弘法大師という名を贈られた。

 曼荼羅とは密教で「仏の悟りの境地である宇宙の真理」を視覚で表している。本尊を中心に関連のある諸尊や守護などを整然と配置し、転じて浄土の姿を表した(上記)。

 空海は「密教の教えは、言葉や文字での説明は困難で、図面で大生命の世界を示す」とした。人間には見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れるの五感があるが、従来の仏教では「人心に煩悩や迷いを生む余計なもの」と言葉で教えたが、密教では「人間の理性だけでは宇宙の真理を理解できないから、全感覚でもって理を得る」としたのである。

平安仏教

 空海と最澄は平安時代の新たな仏教のために尽くしたが、天台宗や真言宗の寺はたくさんの貴族たちから祈祷を頼まれ、ますます繁盛すると同時に堕落していった。繁盛する寺は荘園も多くなり、僧もたくさん集まり、寺は自分の勢力を守るために身分の低い僧に武術を習わせ、荘園の農民を兵士にして僧兵にした。
 寺は貴族が神や仏を頼りにしているのをよいことにして、だんだん我儘を言い出すようになる。その我儘を貴族が受け入れないと、寺にある鎮守の神のみこしを僧兵たちにかつがせて京都で暴れさせた。
 貴族たちは理屈に合わないと知りながら、神のみこしと僧兵の勢いを恐れて、寺の言うことを聞き入れた。それだけでなく僧たちは、お互いに喧嘩をして戦までするようになった。特に比叡山の延暦寺と、延暦寺からわかれた大津の園城寺(三一井寺)との喧嘩はものすごく、園城寺はこの喧嘩のために何回も焼き討ちに合った。人を助け、世の中を救うはずの僧たちが、かえって人を苦しめ、世の中をおかしくした。それでも貴族たちは何もでききなかった。

 仏教の予言では釈尊の入滅後,正しい教法(正法)が衰滅し、教えのみが残り(像法),修行も悟りも得られなくなる末法に入るとされた。平安末期の1052年に末法の世を迎えるとされた。貴族や庶民は武士の台頭による乱世を末法と嘆くばかりになった。

 このように気力を失くした貴族の世の中に対し、天台宗の源信らにより死後の阿弥陀如来による救いを説く浄土教が大きな力を持つようになる。宇治平等院鳳凰堂は、当時の貴族らの浄土信仰の代表的遺構である。やがて武家勢力の台頭と併せ、平安末期に法然の専修念仏が広まり、民衆全体への広がりを見せ鎌倉新仏教のさきがけとなって行った。