武家/平家政権

武士団の結成

 平将門の乱から約90年後の1028年、将門の遠縁にあたる平忠常が強大な武力を背景に上総国で反乱を起こした。乱は3年続いたが、清和源氏の血を引く源頼信によって倒された。この戦いを平忠常の乱という。平忠常は平将門の乱よりも大規模で長期化したが、平将門の乱ほど有名ではない。それは平将門のカリスマ性にもよるが、平将門が新皇を宣言したことが大きい。

 

清和源氏

 清和源氏は10世紀前半の武将で、藤原純友の乱の鎮圧に参加して名をあげた源経基を始祖としている。源経基の子である源満仲は摂津国多田(兵庫県川西市)に土着していたが、969年に起きた安和の変(あんなのへん)で謀反を密告し、源高明を失脚させた功績によって摂関家に接近した。

 源満仲の子の源頼光は各地の国司を歴任し、その際に蓄えた財産を利用して藤原道長の側近として仕え武家の棟梁としての地位を高めた。源頼光の弟にあたるのが、平忠常の乱を鎮圧した源頼信であった。忠常の反乱によって平氏の勢力が衰えた一方で、源氏は頼信の活躍によって東国における勢力を広げることになった。

 平安時代の後半から武士が少しずつ実力を蓄え、東国をはじめとして各地で勢力を広げていくが、これらは突然に起きたのではなく、このような様々な出来事が重なりあって自然と拡大していった。

 平安時代初期に坂上田村麻呂によって蝦夷が征服されて以来、東北地方は陸奥と呼ばれ、朝廷の支配下に置かれたが、この頃の東北地方は金や銀などの貴金属や、毛皮などの珍しい物産がとれ繁栄を極めていた。このような豊富な経済力に支えられ、東北地方では太平洋側を安倍氏、日本海側を清原氏が支配していた。

 1051年、安倍氏の棟梁・安倍頼時が反乱を起こした。朝廷では源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任じ、頼義の子である源義家とともに鎮圧を命じた。しかし朝廷側についていた藤原経清(つねきよ)の寝返りもあって朝廷側は苦戦した。

 源頼義は同じ陸奥の豪族・清原氏に協力を求め、清原氏がこれに応じると戦局は一変し、1062年に安倍氏と藤原経清が滅ぼされた。1051年から1062年まで続いた安倍氏による一連の反乱を前九年の役と呼ばれている。

 安倍氏の領地は清原氏に与えられ、清原氏が事実上の東北地方(陸奥)の覇者となった。前九年の役に朝廷に味方した清原氏は、陸奥一体の支配権を与えられ、棟梁の清原武則が鎮守府将軍に任ぜられた。前九年の役は清原氏にとって最大の利益をもたらし、また滅ぼされた藤原経清の未亡人が、清原武則の子の清原武貞の妻として迎えられた。

 清原武貞には既に嫡子(跡継ぎ)である清原真衡がいたが、未亡人と藤原経清との間の連れ子である清原清衡を養子とし、また未亡人との間に清原家衡が生まれた。武貞の子はいずれも父親もしくは母親が異なるという複雑な関係となり、兄弟同士の不仲をもたらした。

 兄弟同士の不仲が清原氏の内紛を引き起こし、ついには兄弟同士での戦乱になった。1083年から1087年まで続いたこの戦いのことを、後三年の役という。さて、この内紛に乗じて陸奥の支配を目指した源義家は、朝廷から陸奥守を拝命して後三年の役に積極的にかかわった。

 戦いは1087年に藤原経清の遺児である清原清衡が勝利しに終わるが、清原氏の私闘に参加しただけの源義家には朝廷から恩賞は与えられず、陸奥守の官職も1088年に辞めさせられた。途方に暮れた義家は、自腹を切って部下に恩賞を与えたが、皮肉にもこのことで義家は東国の武士たちの心をとらえ、源氏を棟梁と仰ぐ信頼関係が生まれた。前九年の役は11年、後三年の役は4年続いているのになぜ「九年」「三年」と名づけられているかについては、様々な説が挙げられている。

 後三年の役の勝者となった清原清衡は源義家が東北を去った後に藤原氏に復姓し、豊富な資金力で、朝廷から陸奥の支配権を認めてもらった。

 藤原清衡は奥州の平泉を本拠地として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(もとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ひでひら)の三代、約100年にわたって奥州藤原氏が全盛を極める礎を築いた。

 

桓武平氏

 平氏は平忠常による反乱以来ふるわなかったが、伊勢平氏が次第に頭角を現した。平正盛は源義家の子・源義親(よしちか)が1107年に出雲で反乱を起こした際に滅ぼし、白河法皇の厚い信頼を受けて北面の武士として登用された。平正盛の子の平忠盛も瀬戸内海の海賊を討ったことで鳥羽法皇に信頼され、武士として初めて昇殿(朝廷の内部深く入ること)を許された。

 忠盛が西国を中心に多くの武士を従えて、平氏繁栄の基礎をつくった一方で、源義親の乱が起きてからの源氏の勢力は衰えを見せ始めした。

平清盛

  平清盛は武士が「王家の犬」と呼ばれ、藤原摂関家をはじめとする貴族たちから蔑まれていた。平清盛の功績は、それまでの藤原氏が中心の政治から武士が中心の政治へと変化させたこと、武力に経済力があれば貴族などひとたまりもない。平清盛以後、天皇や貴族は形ばかりの存在となり、政治権力は武士へとうつっていく。ただ皮肉なことに平清盛は、武士でありながら貴族化し、このことが武士たちの大きな反感を買うことになる。

 平清盛は平忠盛の長男として育つが、白河院と舞子の子との噂があった。それを知った平清盛は朝廷に仕える父忠盛への軽蔑から荒れた少年期を過ごた。元服後も家を飛び出して西海で海賊退治をしていたが、都に連れ戻されて鳥羽院の北面の武士になり朝廷や貴族たちの実態を知る。武士が蔑まれる世の中であったが「面白く生き、力をつける」ことを信条とし、宋の文物など新奇なものに惹かれ、旧い権威や迷信を嫌った。
 父忠盛が死後して平氏の棟梁となると、鳥羽院に忠誠を誓う。保元の乱では後白河へ参陣し、勝利すると、信西の命に従って崇徳院方に着いた叔父・忠正の一党を処罰する立場になる。

 実権を握った信西と組んで順調に出世する清盛に対し、冷遇される義朝は不満を募らせ、遂に反信西派の誘いに乗って行動を起こす。平氏と源氏、決着の時が迫っていた。平清盛は信西と組んで財力と兵力で支えが、信西に依頼されて熊野詣ででた最中に義朝らが謀反を起こした。信西を救うために都に急行するが間に合わず、源氏との決着をつけることとになる。恭順を装って源氏方の油断を誘い、後白河院と二条帝を救出した。謀反人追討の勅を得ると直ちに行動し源氏軍を打ち破る。
 戦後は源氏の残党の根絶やしを指示するが、池禅尼の懇願や常盤の姿に実母・舞子の姿を重ねてしまったことから頼朝や常盤の子らの命を助けてしまう。
 二条帝の信頼を得て武士で初の公卿に上り、宋との交易を中心とした新しい国作りを目指すが、保守的な公卿たちの反対に遭い力を得ることを欲する。その野心に気付いた後白河院によって実権の無い太政大臣に据えられるが、在任中に一門の者達を次々に公卿に上らせ平家の権力を磐石なものとする。 

 保元の乱や平治の乱は、皇室や貴族内部の争いに武士が本格的に関わったことで、その後も武士が積極的に政治に介入するようになった。また平治の乱で後白河上皇は近臣だった信西と藤原信頼を失い院政の影響力が薄れ、平清盛の実力が高まることになる。

 1160年、清盛は正三位に昇進して武士でありながら公家の身分を得ることになった。それまで貴族から見下されていた武士が、初めて貴族の仲間入りをしたのである。12世紀終盤の政治は平氏一門に握られた。清盛は朝廷内に入り込んで、自分の娘を天皇に嫁がせる方法で政権を掌握し、平氏一門を朝廷の要職につかせた。これは従来の藤原氏と同じ方法である。

 1161年、清盛の妻の妹で後白河上皇に嫁いでいた平滋子が憲仁親王(のりひと)を産んだことで、後白河上皇との縁が近くなり朝廷での信頼を得た清盛は出世街道を歩むことになる。

 1167年には清盛は太政大臣に昇進し、翌年、憲仁親王を即位させて高倉天皇にすると、自分の娘である平徳子と結婚をさせて二人の間に言仁親王(ときひと)が誕生する、この言仁親王が3歳の時に第81代の安徳天皇として即位させ、清盛は天皇の外祖父(母方の祖父)となった。

 平氏の下には全国から500ヶ所以上の荘園が集まると同時に、平氏が支配を任された知行国も全国の半数近い30数ヶ国にまで拡大して経済的な基盤が強化された。このような政治的・経済的な背景によって、武士(平氏)が朝廷にかわって初めて政治の実権を握ることになる。 平氏政権は武士による政権であったが、平清盛が安徳天皇の外祖父となり、平家一門が次々と朝廷の要職に就き、貴族的な摂関家の性格をもつようになった。

 ただ清盛が藤原氏と違うのは、海外交易で日本の国富を増そうとしたことである。日本の外交政策は外国との窓の閉開のを繰り返すだけであった。古代は開きっ放しであったが、白村口の戦いで朝鮮半島の拠点を失ってからは朝鮮との扉は閉めたままであった。それでも奈良時代に「遣唐使」という形で中国に連絡船を派遣し、世界的先進国であった唐帝国からの文物の導入に努めた。科挙に合格して中国の官僚になった阿部仲麻呂や、密教の摂取に勤めた空海や、渡来僧の鑑真などが活躍した。

 しかし唐が「安史の乱」で混乱状態になると、朝廷は菅原道真の建議を受けて「遣唐使」を廃止した。その後はすでに受け入れていた外国文化を日本流にアレンジする日々であった。日本は四方を荒波に囲まれ、自分の都合に合わせて閉じたり開けたりすることが出来た。

 我が国と宋とは正式な外交を持っていなかったが、以前から民間の交易は盛んに行われていた。清盛は摂津国の大輪田泊(神戸港)を修築し、音戸の瀬戸(呉市)の海峡を開き、瀬戸内海の航路を整備して念願の貿易の拡大に努めた。 平清盛は海外との交流を、文化ではなく経済交流という形で開こうとしていた。宋に貿易船を送るとともに、都を京都から福原(神戸)に遷すことまで行った。清盛は日宋貿易という大きな経済的基盤を十分に活用した。日宋貿易によって巨方の富を得た凊盛は、世界遺産である安芸厳島神社を増設し、京都三十三間堂などを造営し、兵庫兵庫の港を修築するなど栄華を極める。 後白河法皇に義理の妹を嫁し、高倉天皇をもうけさせ,その高倉天皇に自分の娘を嫁がせる。最盛期の平氏は全国66ヵ所中、30以上もの知行国主となり荘園500以上を所有するにいたった。

 貿易の輸出品は金や水銀、硫黄などの鉱物、刀剣などの工芸品、あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭や陶磁器、香料や薬品、書籍などであった。特に宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大な利益は、そのまま平氏の財源となった。

 このように平氏による政治的・経済的体制の独占は周囲の反発を招いた。平氏政権に反発する勢力には後白河法皇もいた。後白河法皇は自分の院政強化のために武士を雇ったはずが、その武士に政権を奪われたことを不満に思っていた。自分の院政の強化のために警備員として武士を使ったはずが、いつの間にかその武士に政権を奪われたことを不満に思われていたのである。

 1177年、後白河法皇の近臣たちが京都の鹿ヶ谷(左京区)に集まり、平氏打倒の計略をめぐらすが、事前に発覚して失敗に終わった。(鹿ヶ谷の陰謀)

 この計略の背後に後白河法皇がいたことを知った清盛は激怒して、軍勢を率いて後白河法皇を幽閉して院政を停止しさせ、近臣たちの官職をすべて解くなどをおこなった。この事件を当時の年号から治承三年の政変といい、清盛の孫の安徳天皇が即位したのは翌年(1180年)のことである。

 清盛は後白河法皇と反対勢力を封じ込め、平家と血のつながりのある天皇を立て、官職を一門で固めた。清盛にすれば平氏政権を危うくした後白河法皇なので、法皇のかわりに平家と血のつながりのある天皇を立て、反対勢力を封じ込めて一門で官職を固めるのは当然の防衛手段といえた。しかしその専横政治と法皇を幽閉する横暴な手段は周囲の更なる反発を招いた。後の世で足利尊氏や織田信長が同じように武士の身分でありながら皇室と対決状態にあっても、非難の声が平氏ほどなかったことを考えれば、まさに開拓者ゆえの辛さともいえた。

 さらに平氏政権には清盛自身が気づいていない重大な欠陥があり、それが後の平氏滅亡へとつながっていった。それは武士たちの不満であった。

 平安時代の初期に桓武天皇によって軍隊が廃止され、特に地方では無法状態といえる状態になり治安は極端に悪化した。人々は自分や家族の生命、あるいは財産を守るために武装化するようになり、やがて武士という階級が誕生しました。 そのような武士たちにとって、深刻な問題となったのが土地制度の大きな矛盾であった。公地公民制の原則が崩れ、墾田永年私財法によって新たに開墾した土地の私有が認められたが、その権利があったのは有力貴族や寺社などの限られた勢力のみであった。

 実際に汗水たらして開墾したのは武士たちであった。耕した土地を一所懸命に守り抜くために武士となった人々であった。しかし法律では武士たちには土地の所有が認められず、仕方なく摂関家などに土地の名義を移して、自らは「管理人」の立場をとるしかなかった。つまり武士は実質的には自分たちの土地であっても、正式な所有者にはなり得なかった。こんな不安定な、人を馬鹿にした話はない。「開墾した土地は、自らの手で所有したい」。これが武士たちの切実な願いであった。

 全国の武士は平清盛をはじめとする平氏政権の誕生によって、同じ武士の平氏ならば、自分たちの期待に応じてくれると固く信じていた。ところが平清盛の父である忠盛は、白河法皇や鳥羽法皇の護衛として長年仕え、皇室や貴族と接することの多かった平氏には、「武士のための政治」がどのようなものかが理解できなかった。さらに清盛が、自分の娘を高倉天皇の嫁にして、生まれた皇子を安徳天皇として即位させ、自らは天皇の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)として政治の実権を握るという、摂関家と同じ方法をとったが、これが大失敗だった。

 平清盛の政策は朝廷と貴族側に偏り、武士団を軽視していた。しかしこの時代は「各地の荘園の実質的権力者である武士団が、法的には貴族の奴隷に過ぎない」という武士の軽視の傾向にあった。

 しかし武士たちの不満は、武士のリーダーである清盛がこの問題を解決せずに、自らが貴族社会の一員となっていることにあった。平氏が摂関家の真似をしても、武士たちには全く変化がなかった。平氏は武士たちの不満や望みを叶えるようとしなかった。

 もともと藤原氏の摂関政治の頃は、武士たちの多くが「貴族たちには武士の気持ちなど分かるまい」とあきらめていた。しかし自分たちの代表平氏が政治の実権を握ったことから、それだけ期待が大きかった。それだけに裏切られた思いも強かった。平氏に対して「同じ武士なのに、俺たちの思いが分からないのか」と余計に不満を持つようになった。

 それまで政治を行っていた貴族たちは、武士の身分は低いものとしていた。しかも血を流す「ケガレた」仕事をしている平氏が、自分たちの真似をしたことに激しく反発した。このように平氏の政治は武士からも貴族からも拒否された。武士としての初めての政権ゆえに確固たるビジョンを持てなかったのである。

 政治の実権を握った平氏は、武士たちの共感を得ることができず、武力で世の中を支配しても民衆の理解を得られなかった。そのため「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われると、平氏の天下はたちまち崩れ去ってしまった。

 平氏にかわって政治の実権を握った源頼朝は「武士のための政治」を理解していた。

 平清盛は熱病に倒れ、平氏一門に「墓前に頼朝の首を供えよ」と命じて亡くなった。

 平清盛は悪虐、非道、非情の暴君とされ、良いイメージを持たれていない。しかしそれは平家物語に描かれた清盛の影響で、清盛の人物像は、温厚で情け深い物だったともされている。

源平合戦

 「平治の乱」で敗北して以来、平家の下に置かれた源氏の残党は、源頼朝を中心に東国で蜂起した。平氏の政治に不満を持っていた全国の武士団はこの動きに同調した。頼朝を迎え撃つべき平氏は西国が大飢饉に見舞われ、さらに大黒柱の平清盛が病没するという大波乱が続いた。その間、源氏には天才的な名将・源義経(九郎判官)が登場し「一の谷」「屋島」で平家の拠点を覆滅し、関門海峡の「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅亡させた(1185年)。武 士として初めて太政大臣になり、孫を天皇に即位させ、福原遷都まで行った平清盛が没してわずか4年後のの滅亡であった。おごる平家は久しからず、一期の夢は波の谷間に沈んでいった。代わって頭角を顕わした源頼朝が縑倉幕府を開くことになる

武士の誕生

 桓武天皇が平安を願って名付けた平安京(京都)であったが、その実態は「平安」とは名ばかりで治安は乱れに荒れていた。庶民にとっては地獄とも云える悲惨な状況にあった。桓武天皇が遷都や蝦夷の征討で国家財源を使いはたし、滅多に起こらない戦争に備えて軍隊を持つことを不経済として軍隊を廃止したからである。

 軍隊を廃止する替わりに京都には検非違使が置かれ、朝廷周辺ではある程度の治安は保たれていが、それでも流血は避けられなかった。死と隣り合わせの武士は「ケガレ者」として嫌われ、また嵯峨天皇が死刑を廃止したことからも治安はさらに悪化した。

 検非違使がいる京都でさえ治安は荒れていたが、警察力のない地方ではそれ以上に治安は悪化した。地方の行政官として置かれた国司の関心ごとは、私腹を肥やすことばかりで、地方には警察力は存在しなかった。警察のいない世の中では、力の強い者が弱者を制することになる。強盗や殺人事件が頻発し、弱者は強者によって地獄のような日々を送ることになった。

 国司はもともと刀や弓矢を持つことは許されていなかったが、世の中が物騒になり強盗に殺される者がいるので国司も武器を持たずにはいられず、また農民から租税を取るためには強い手下がいたほうが便利だった。そこで国司たちは刀を持ち、兵士を従えることを許して欲しいと朝廷に願いでて許可された。
 そのため国司が任務先の土地へ行くときには、郎等を連れて行くようになり、また各地の国司をつとめる人々の中にも武士になる者が出てきた。こうして出来た武士の内でも、特に力の強いものはカの弱い農民たちから頼りにされ、頭と仰がれるようになり、これを武士の棟梁よんだ。

 また地主の内でも特に、たくさんの田畑を持ち、大勢の農民を使い、豪族と呼ばれる勢いの強い者もあらわれた。豪族は下に幾人もの名主を従えていた。このように治安の乱れた世の中では、自分の身は自分で守らなければならなかった。豪族は泥棒の用心を常にしなければならず、また隣の豪族がいつ攻め込んできてもおかしくはなかった。

 自分の生命や財産を守るためには、自分自身が立ち上がって戦わなければならない。平安時代の中頃から、律令制に基づく土地制度が崩壊するなかで、貴族の子孫や地方の豪族たちは、その勢力を維持するため、あるいは拡大するために武装するようになった。

 有力農民たちも外からの侵略に対抗するために武装し、自衛のために武装集団を作った。彼らは兵(つわもの)と呼ばれ、一族や郎党を率いて互いに争い、ときに国司を襲撃し、国家に対して公然と反逆するようになった。国司に雇われる者もいれば、上京して皇室や貴族に雇われる者もいた。これが武士団の起こりである。

 たとえば天皇の身辺を守るため護衛係とし「滝口の武者」がいた。「滝口の武者」の名前の由来は、天皇の御所の滝の近くに詰所があったからで、滝口の武者は身辺の警護だけでなく、邪気払いの呪術的儀式、さらには教養や見た目が採用時に重視された。
 このようにして武士が誕生したが、任期制の国司も問題を引き起こした。任期制の国司は一定の年数が過ぎると都へ戻らなければならない。任期中に土地を開墾して巨利を得ても、任期が終われば開墾した土地を手放すことになる。そのことから任期が終わっても地方に居残って土着する者が現れた。やがて土着した中下流貴族たちが、自ら武装しあるいは武士を雇って勢力を高めた。

 武士の棟梁には藤原秀郷のような藤原氏からでた人もあれば、橘遠安のように橘氏からでう者もいた。武士の中でも特に有名だったのが、桓武平氏清和源氏の血統につながる者だった。源氏も平氏も皇族の子孫で、天皇の子は親王、親王の子は王と言い、それ以後五代目か六代目になると姓を与えられて皇族を出る決まりがあった。これが平安時代になると一代目で姓をもらって皇族から離れるものが多くなり、源氏も平氏もその1つである。大豪族や任期を終えた国司と結びつき、強大な武士団を形成することになる。数多くの武士の棟梁がでているが、勢いが強くなったのは源氏と平氏だった。
 東国の武士団は弓矢だけでなく、広大な領地を駆け巡ることから騎馬術を身につけていた。いっぽう西国の武士団は、船による戦闘術を身につける者たちが誕生した。東国の広大な平地に比べ、西国では川や瀬尾内海を通じてすぐ海に出られる場所から、この地理的条件が船を駆使しての戦闘という形態をつくった。

 桓武平氏の一族は東国に土着していたが、平将門は下総国を根拠地としていた。平将門は同族と争いを繰り返し、さらには国府を攻め落として反乱を起こした。同じ頃、伊予国(愛媛県)の国司・藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、国府や大宰府を攻め落とした。この戦いは「藤原純友の乱」と呼ばれて、同時期に起きたこの二つの反乱は、朝廷の軍事力低下をが明らかにし、この二つの乱は年号から承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう)と呼ばれている。
 武士の実力を知った朝廷は、彼らを侍(さむらい)として奉仕させ宮中の警備にあたらせた。つまり武士たちをガードマンとして雇うようになった。「さむらい」という言葉は「さぶらふ」が語源で、身分の高い人のそばで仕えることを意味している。また地方の国司も盗賊などを追捕するための追捕使や、内乱が起きた際に兵士を統率する押領使として武士を利用するようになった。平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は押領使として、藤原純友の乱を鎮圧した小野好古は追捕使として戦っている。
 朝廷や国司は治安の維持のために武士を利用するようになる。武士の役目は朝廷の求めに応じて反乱を鎮圧することで、まだ朝廷を脅かすまでには至っていない。承平・天慶の乱から約100年後、藤原道長や藤原頼通らが朝廷貴族の栄華の頂点を極めたことが、まだ貴族の時代であった。武士の更なる成長は、藤原氏の栄華の時代の後にやってくる。

 余談であるが、平将門は若い頃に藤原忠平に仕え、その縁で滝口の武士として雇われている。朝廷に仕える武士であった将門が、やがては朝廷に対して反乱を起こしたわけで、何とも皮肉な話である。「滝口の武士」と紛らわしい言葉に、11世紀の北面の武士、13世紀の西面の武士があるが、その役割はほぼ同じである。


権力闘争

 宮廷では公家が和歌を詠んだり、夜這だけでなく、薄暗い権力闘争が常に行なわれていた。天皇は飾り物で、貴族たちに都合良く祭り上げられ、天皇は政治の実権を持たなかった。いわゆる象徴天皇である。

 政権を独占したのは藤原一門で、彼らは娘を天皇家に輿入れすることで「外戚」として政治を独占した。そのような藤原一門に挑戦した者は、菅原道真(大宰府に左遷)や伴善男(応天門の変)が示すように罠に嵌められ失脚した。

 それでも天皇の中には覇気を持つ者がいて「院政」という新たな政治手法を思いついた。すなわち、天皇を早めに退位すると上皇になり、藤原氏の手のとどかない隠居所で政治を行なうことになった。また藤原一門といえども、女子に恵まれずに天皇家との縁戚関係を維持できない時期もあった。このようにして少しずつ藤原一門の勢力は衰えていった。しかしこの権力闘争はいわば宮廷という「象牙の塔」の話であって、日本全体にとってはさしたる問題ではなかった。