大化の改新

乙巳の変前

 641年に舒明天皇が崩御されると、また後継ぎが問題となった。皇位の継承者は山背大兄皇子(聖徳太子の子)、古人大兄皇子舒明天皇の子)、中大兄皇子舒明天皇の子)、軽皇子 (皇極天皇の弟)の4人であった。古人大兄は蘇我蝦夷の娘の子で甥に当たるため、蝦夷蝦夷は古人大兄を支持したが、4人の力は拮抗していた。

 そこで混乱を避けるため、舒明天皇の皇后を次期天皇に即位させることになった。その皇后とは史上2人目の女帝・皇極天皇である。蘇我蝦夷はこの皇極天皇に対し横暴に振舞った。皇極天皇にしかできない農耕儀礼に口を出し、天皇に替わって雨乞いを行い、天皇に無断で息子の入鹿に大臣の位を譲った。

 政治の実権は蝦夷から子の蘇我入鹿に移り、蘇我氏の勢力は皇室をしのぐほどになった。もともと皇極天皇を舒明天皇の後継にしたのは蘇我入鹿の権力によるもので、蘇我入鹿は自分の意のままになる皇極天皇を利用して政治の実権を強めようとした。蘇我入鹿は新しく建てた自分の家を「宮門」(みかど)と名づけ、自分の息子を「皇子」と呼ばせ、まるで自分が天皇であるかのようにふるまった。この蘇我入鹿のやりたい放題に豪族たちは反発を覚えるようになった。

 当時の税は地方の豪族 が税(米)を徴集し、その一部を朝廷に納めていた。しかし豪族にすぎない蘇我入鹿は朝廷をしのぐ米の収入を誇り、そのため天皇家は危機感をつのらせていた。その蘇我入鹿にとって、優秀な山背大兄王(聖徳太子の子)の存在そのものが邪魔だった。山背大兄王は諸豪族から厚い信頼を寄せられ、最も有力な皇位継承候補者だった。

 643年、蘇我入鹿は父の蘇我蝦夷から大臣の地位を天皇に無断で譲り受けると、それから1ヶ月後に、邪魔な山背大兄王を斑鳩に攻め、追いつめられた山背大兄王は、妃や子供たち一族とともに首をつっている。山背大兄王の死によって聖徳太子の血は途絶えたが、このことが大化の改新のきっかけになった。

 蘇我入鹿は天皇の外交特権を独占し、巨大な墳墓を作らせ、さまざまな横暴が強まった。かつてのヤマト朝廷の指導者は持ち回り制で、指導者はは有力な豪族から選ばれていた。その指導者を蘇我入鹿が独占したのである。そのため独裁力を持つ蘇我氏が、天皇を変えることも、あるいは蘇我氏が自らが天皇に即位することも不思議ではなかった。 

 かつて蘇我氏を軽視した崇俊天皇を暗殺し、次期天皇の有力候補の山背大兄王を殺害したことも、実質的に「蘇我天皇」として彼らの反乱を未然に鎮圧したに過ぎなかった。

  その頃、中大兄皇子の元に、聖徳太子らが中国に派遣した留学生たちが続々と帰国した。隋や唐の政治制度を学んだ留学生たちは「豪族や皇族が土地や人民を支配している今の制度では日本はダメになる。天皇を中心にした国家を作るべき」と動き出した。この天皇中心の政治は聖徳太子が理想とした政治体制で、 そのためには蘇我氏を倒さねばならなかった。

 まず「蘇我氏を何とかしなければ」と中臣鎌足が立ち上がった。
 ある日のこと、飛鳥の法興寺の広場で蹴鞠の会が行われた。その大会で一人の若い皇子が鞠を蹴り上げたとき、勢いあまって履が脱げて宙に舞った。履は鎌足の目の前に落ちると、鎌足はすぐに履を拾い上げて、ささげるように両手で皇子に履を差し出すと、皇子も鎌足の前にひざまずき互いに目を見合わせた。これが歴史の大転換点となった「大化の改新」を成しとげた中大兄皇子と中臣鎌足との出会いであった。

 中大兄皇子(後の天智天皇)は第34代・舒明天皇を父に、第 35代・皇極天皇を母に持ち、次期天皇の有力候補とされていたが、蘇我入鹿は次期天皇に古人大兄皇子を立てるつもりでいた。幼少時から優秀で果敢な性格だった中大兄皇子は、いずれ自分も山背大兄王のように殺害される危機感を持っていた。さらに蘇我氏の専横をこれ以上黙っていられなかった。
 中臣鎌足は神事を代々担当する中臣氏の一族であったが、神仏論争で物部氏側につき蘇我氏に負けたことから中臣氏の勢力そのものは弱まっていた。若き日の鎌足は秀才でよく学問に励み、家業を継ぐはずだったが、なぜかそれを拒否しすると摂津三島に引きこもっていた。中臣鎌足もまた蘇我氏の横暴を見過ごせない使命感に燃えていたのである。中臣鎌足は蘇我氏討伐を心に秘め中大兄皇子に打ち明けた。

  蹴鞠の会で出会った二人は、唐から帰国した留学生南淵請安(みなぶちのしょうあん)のところに通って儒学を勉強する事にした。その通学の往復を一緒に歩きながら、路上で蘇我氏打倒の作戦を練り続けた。

 二人は蘇我氏の一族でありながら、入鹿の専横を憎んでいた蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れ、彼の娘を中大兄皇子の妃とした。蘇我倉山田石川麻呂は蘇我馬子の孫で、入鹿とは従兄弟同士であったが、羽振りの良い入鹿を憎んでいたのである。

 

乙巳の変

 乙巳の変については、「日本書紀」では横暴な蘇我入鹿を征伐したかのように書いてあるが、蘇我入鹿を悪く書かないと万世一系の天皇が成立しない事情があった。まずそのために蘇我氏悪玉説のイメージを差し引いて考察しなければいけない

  中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏打倒の機会を虎視眈々とうかがっていた。そこに絶好の機会が訪れた。朝鮮半島からの三韓(百済・高句麗・新羅)の使者が貢物を届けるために来日し、天皇に面会する儀式が行われることになったのである。朝廷にとって重要な行事なので、大臣の蘇我入鹿も必ず出席するはずであった。これを好機と見た二人は、儀式の最中に入鹿を暗殺することを計画した。若い刺客を二人用意して、儀式が行われる大極殿の物陰に隠れさせた。

 645年6月12日、大雨が降る中で儀式が始まった。朝鮮からの使者はすでに朝廷に来ており、予定通りに蘇我入鹿が現れた。普段から警戒心の強い入鹿は、腰につけた刀をはずそうとしなかったが、鎌足は「天皇の前で刀は禁止されてます」と言いくるめて入鹿から刀をはずさせた。入鹿の剣を宮中の外に置くと宮中の門を閉じ、蘇我石川麻呂が上表文を読むのを合図に2人の刺客が斬りかかる手はずになっていた。中大兄皇子は長槍をとり、鎌足は弓矢を持って隠れ潜んだ。

 蘇我石川麻呂が上表文を読み始めた。計画では上表文の途中で刺客が飛び出して入鹿を暗殺する手はずだった。しかし2人の若者は極度に緊張し、入鹿の威に恐れをなして動けなかった

 上表文はあと数行しか残されていない。「あと少しで読み終わってしまう」、焦った蘇我石川麻呂の読み上げる声が乱れ、両手がガタガタ震え出して動揺していまった。その様子を不審に思った蘇我入鹿が 「なぜ震えているのか」と訊くと、石川麻呂はしどろもどろに「天皇のおん前なので、不覚にも緊張してしまい」と答えるのが精一杯だった。

 「だめだ。もはやこれまでか」、中臣鎌足が観念したその瞬間、中大兄皇子凄まじい気合とともに飛び出し、入鹿に向かって突進すると、隠れていた2人の刺客も駆け出した。蘇我入鹿は3人がかりで攻められ、激しく斬りつけられた。入鹿は頭と肩を切られその場に倒れこんだ。「なぜ俺がこんな目に、何の罪があるのだ」瀕死の重傷を負いながら入鹿は皇極天皇に命乞をした。皇極天皇は目の前の惨事に「何事か、これは」、思わず声を上げられた。

 天皇の息子である中大兄皇子は、母の皇極天皇の前へ進み出るときっぱりと述べた。「蘇我入鹿は皇族を滅ぼし、自分が皇位につこうとしている大悪人です。そのため誅殺したまでのこと」。これを聞いた皇極天皇は黙って席を立たれた。その間に刺客たちが入鹿に止めを刺し、ついに入鹿は暗殺された。外は土砂降りの雨である。入鹿の亡骸は、その雨の降る外に放置された。

 鎌足と中大兄皇子らは、入鹿の父・蘇我蝦夷を討つために兵を集めた。入鹿の死は直ちに蘇我蝦夷に伝えられ、おどろいた蝦夷は一族を集め武装させ、抵抗する腹づもりだった。しかし劣勢はいかんともしがたく、部下は逆賊になるのを恐れて次々に朝廷側に投降した。蝦夷の屋敷は包囲され、抵抗をあきらめた蝦夷は、翌日、「もはや、これまで」と屋敷に火を放ち自害した。栄華を極めた蘇我氏の本家はわずか一昼夜で滅亡した。この時、蘇我氏が持っていた「天皇記」や「国記」が消失した。古事記や日本書紀のできる80年前のことであり、極めて重要な文献が焼失したのである。

 これがいわゆる蘇我氏打倒のクーデター乙巳の変である(645年)。間違いやすいのは蘇我氏を滅ぼした乙巳の変を、かつては大化の改新と教えられたことである。

 現在では「大化の改新は、蘇我氏を滅ぼしたあとに行った政策を指し、蘇我氏を滅ぼした事件は「乙巳の変」と学校では教えられている。歴史の間違いを正すことはよいことだが、言葉尻を捉え名前を変えるのは学術的には正しくても、混乱を招くだけである。

大化の改新

 乙巳の変の翌日、皇極天皇は皇位を兄の軽皇子に譲り、軽皇子が第36代天皇・孝徳天皇になった。天皇に即位した軽皇子は50歳になる皇族の長老で、天皇が生前に皇位を譲位するのは初めてのことであった。

 まもなく日本初の公式元号とされる「大化」が定められた。中大兄皇子は天皇候補であったが、儀礼の多い天皇よりもの皇子の方が動きやすいため、さらに20歳の中大兄皇子が天皇になれば、皇位を狙ってのクーデターと言われることを嫌い天皇の座を望まなかった。これは推古天皇の時、聖徳太子が皇太子でありながら政治の実権を握っていたことに習おうとしたと推定されている。いずれにせよ孝徳天皇は中大兄皇子の伯父であり、中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子になり、政治の全般を担当することになった。

  実権をにぎった中大兄皇子は計画どうり、次々に新しい政策を実行していった。この改革を「大化の改新」とよぶ。朝廷内の改革に着手した中大兄皇子は、従来の「大臣・大連の制度を廃止し、代わりに左大臣・右大臣・内臣」を設け、左大臣には阿部内麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂、 内臣には中臣鎌足を任じた。これは百済の政治制度を真似たもので、内臣の鎌足は天皇・皇太子の補佐役になった。乙巳の変で蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子は死んだがいとこの蘇我倉山田石川麻呂は右大臣になっており、蘇我氏は大化政権にとっても未だ無視できない勢力を保っていた。この石川麻呂も後に冤罪で自殺に追い込まれている。

  また隋や唐の留学生として新知識を身につけて帰国した高向玄理(たかむこのくろまろ)と僧旻(みん)を政治顧問の国博士に任じた。彼らの任務は唐の政治制度を紹介するためのであるが、同じ留学生で中大兄皇子と中臣鎌足に教えを授けた南淵請安は国博士になっていない。南淵請安はすでに亡くなっていたと思われる。

改新の詔

 646年正月に中大兄皇子は「改新の詔」を公布し、新政府としての方針を明らかにした。これが律令国家の基礎となる古代政治史上の大改革と教科書にある。しかし律令国家建設と天皇への中央集権化は、乙巳の変以前の推古天皇、聖徳太子・蘇我馬子からの功績であり、また律令制度が完成したのは大宝律令からで、これは藤原不比等が、父親である藤原鎌足の功績を高く評価させるためとも考えられる。日本書紀に書かれていることは大宝律令と重ね合わせて自画自賛の傾向にあることに注意を要する。

年号を定めた
 新しい政治を始めるため、初めて年号を定めた。年号とは現在でいう平成、昭和、大正のことで、大化が日本初の年号になる。この年号には法的根拠はなく、実際には干支がまだ使われていて、年号が制度として確立するのは大宝律令からである。

公地公民の制
 すべての土地は天皇に帰属するとして、私有地の所持を禁止し、豪族が所有していた土地や民衆をすべて国家の所有とした。これによって日本は「天皇が中心の国家」であることを世の中に知らしめた。豪族には食封(給与)が与えられ、ここに聖徳太子以降の天皇が中心の国家の悲願が達成された。

班田収授の法

 公地公民の制で集めた土地を農民に均等に貸し出した。農民はタダで土地を貸してもらえたが、土地の広さに応じて年貢を治めなければならなかった。農民に与えられた土地は口分田といい6歳以上の男子には二反、女子にはその3分の2が貸し与えられた。

 戸籍作成後に6歳になった者は、次の戸籍作成を待ち、14歳にならないと班田を持たせられなかった。また土地には痩せた土地もあれば、肥えた土地もあり不公平が生じるが、痩せた土地は2倍支給し、あまった土地があれば貸し出して租をとった。この農民が年貢を治める制度は江戸時代まで続くことになる。

 班田収授の台帳(戸籍)は国司が郡司に命じて作らせた。戸籍には戸主名、続柄、姓名、年齢などが書かれている。郡司は6年間の郡内の出生、死亡を確認して下書きを3枚書き、1つを国元に残し2部を中央に送った。つまり戸籍は6年ごとに全国から中央に集まった。戸籍は保存され30年を過ぎると廃棄されるが、紙は貴重品なので東大寺に払い下げられ、後に正倉院で保存されるようになる。そのため当時の戸籍や計帳は正倉院に残されている。

租庸調制
 戸籍や計帳をつくり、民衆の状態を把握して税を課した。租(米)とは別に、庸(労働)、調(地方の特産品)を税とした。

租(米):収穫の3%を税として収めさせた。当時の収穫は、農民1人が1年間に食べる米の量の2倍であったので、税としては軽い負担でああった。しかし律令制の負担は以下の労役が中心で、国有の奴隷として農民を使役することであった。

庸(労働):都で10日働くことである。都の近くの農民ならよいが、遠方からの農民は往復の旅費も自前持ちであった。そのため労力負担の代わりに布を納めてもよかった。しかし布は麻布で、1反分の糸を作るのに40~100日かかり、織るのに40日かかった。年間の3分の1は庸布を納めるために費やすことになった。

調(地方の特産品):地方特産物を運ぶことであるが、往復の食料を持参し、陸奥からだと往復3ヶ月の大旅行になる。途中で食糧が尽き、山賊などに襲われることもあった。

雑徭と出挙年間60日、国司・郡司の元で道路や堤防の修理などにかり出され負担が重かった(雑徭)。さらに凶作に備えて穀物供出(義倉)、食糧、種子用の稲の貸付(出挙)もあった。出挙は返済が3~5割と高く、返せない農民が多かった。

兵役:3人につき1人が兵役にとられた。各地で毎年1カ月間訓練(軍団制)して、宮城の警固には1年間、大宰府が管理する防人は3年間であった。装備や食料は自腹で、防人は東海、関東の諸国から徴集し壱岐、対馬、九州北部に配属された。定員は2000人前後で、防人を東国出身の農民にしたのは、東国出身者は九州の方言が分からないため、言葉は通じないことから逃げ出せず、地元民と示し合わせて反乱も起こせなかった。

国郡里制

 地方を国、群、里にわけ、それぞれを管理をする役人を任命して朝廷が派遣した。まさに中央集権型国家の誕生である。中央並びに地方の行政区画を明確にし、地方の行政組織や交通制度を整えた。

  上記にのように中大兄皇子は戸籍調査を行い、法治国家に大改造し、さらに取り立てた税を全て朝廷に納めさせ、朝廷が豪族へ再分配するようにした。このことにより朝廷の支配力は確固たるものになり「改新の詔」はそれまでに実現しなかった中央集権の国家を作り上げた。以後、これらの実現に向けて政治を行うことになる。この一連の国政大改革を「大化の改新」というが「改新の詔」に記された内容が完全に達成されるまでには、50年以上後の701年の「大宝律令」の制定を待つことになる。

その他

薄葬令

    これまで陵墓は自由に作ることができたが、陵墓を身分に合わせて規定した。殉死の禁止や、天皇陵の造営に費やす時間を7日以内に制限するなど、さまざまな合理化・簡素化が進められた。この薄葬令によって事実上、古墳時代は終わりを告げることになる。しかし薄葬令により天皇が初めて火葬され、夫であった天武陵に合葬されたのは持統天皇が最初である。詔を発した孝徳天皇は薄葬されていない。

冠位・位階制度

 聖徳太子の制定した冠位十二階を改定し二十六階へと改めた。これは従来冠位十二階に含まれなかった地方の有力豪族を冠位制度へ組み込み、天皇を頂点とした中央集権的な序列をつける為の改革だった。職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を制定し、冠位により身につけることの出来る衣服や礼法が決められた。冠位のない一般の良民は白い衣を身につけ、これを白丁とよんだ。

後記

  中大兄皇子の改革は必ずしも順調にいったわけではない。理想に燃えたが性急な改革は現実とかけ離れることが多く、伝統を重んじる他の豪族たちとの間にすきま 風が吹き始めていたのである。例えば中大兄皇子が新たな冠位制度を導入した左大臣の阿部内麻呂と右大臣の蘇我倉山田石川麻呂は冠の着用を拒否している。また649年に阿部内麻呂が病死すると、その直後に蘇我倉山田石川麻呂が朝廷への謀反を疑われて自害している。

 663年に百済を支援するために朝鮮半島へ2万人の大軍を派遣している。これは13万人の唐・新羅の連合軍が百済に侵攻したためであるが、この白村江の戦いで日本は大敗をきし、中大兄皇子は始めて挫折することになる。

 「日 本書紀」を読む上で注意すべきは、日本書紀は大化の改新を行った側の視点で書かれているということである。それゆえに大化の改新の記述をそのまま信じるのは危険である。例えば大化の改新が日本を中央集権の法治国家にしたとしているが、日本はそれ以前から法治国家への改造が進んでいて、中大兄皇子はその成果に便乗したといえる。また大化の改新に対する民衆の評判が頗る悪く各地で反乱が起きている。

 「日本書記」に登場する蘇我氏の実力者は、馬子、入鹿、蝦夷など酷い名前がついている。これは中大兄皇子がわざと汚い名前をつけて冒涜した可能性がある。当時の日本人は「言霊」を強く信じていたので、犯罪者に汚い名前をつける習慣があった。政敵を貶め、本名ではなく蔑称を記述した可能性が高い。

 大化の改新は宮廷クーデターで、中大兄皇子は蘇我氏を打倒する以外に皇位を望めなかった。そのこともあり乙巳の変以降もなかなか即位せず、また中大兄皇子の重臣・藤原鎌足の子孫が「日本書紀」を編集しているので中大兄皇子を悪く書くはずはなかった。

  大化改新の後、政治の中心は中大兄皇子であった。その中大兄皇子が都を飛鳥に戻すことを孝徳天皇に申し出るが、飾りにすぎなかった孝徳天皇は遷都に反対した。そこで中大兄皇子は母の皇極上皇、大海人皇子、さらには有力な家臣を連れて飛鳥に戻ってしまう。ここで注目すべきは、孝徳天皇の間人皇后までもが孝徳天皇を残して中大兄皇子に付いて飛鳥に行くのである。このことは孝徳天皇と中大兄皇子は仲違いをしていた、あるいは孝徳天皇を軽視していたことがわかる。孝徳天皇は難波の都に残され、翌年、妃の小足媛(おたらしひめ)とその間に生まれた有間皇子を残して、難波でひとり寂しく崩御された。

 間人皇后は舒明天皇を父に、皇極(斉明)天皇を母にしていた。兄は天智天皇(中大兄皇子)、弟は天武天皇(大海人皇子)である。孝徳天皇は皇后より30歳年上で、しかもお飾りの天皇だったので、中大兄皇子のような行動力や政治力はなかったのである。

 このことから中大兄皇子と間人皇后との不倫説がある。現在ではタブーである近親相姦説であるが、当時は近親相姦は当たり前のことでタブーではなかった。その後ろめたさから中大兄皇子は天皇にならなかたとされているが、それは現代人の感覚である。中大兄皇子の即位が遅れた理由は不明であるが、中大兄皇子が即位し天智天皇になったのは間人皇后が死去してから3年近く経ってからである。

 

大化改新の後

  舒明天皇の死後、655年、中大兄皇子(天智天皇)は母親の皇極天皇を再び皇位につけた。第37代の斉明天皇である。一度退位された天皇が再び即位されることを重祚(ちょうそ)といい、皇極天皇と斉明天皇は同じ人物である。

 斉明天皇時代は阿倍比羅夫を東北地方へ派遣して蝦夷を討ち朝廷の支配権を拡大させた。さらに都の整備を行い、溝造りに3万人、石垣造りに7万人を使い、659年に石と水の都を建設した。しかしこの土木工事は豪族たちの反感を招き、斉明天皇の次期天皇の有力候補・有間皇子のもとに政治の不信・不満を持った豪族たちが集まった。

有間皇子の変

 中大兄皇子は依然として皇太子にとどまっていた。有間皇子は幼いとはいえ皇子だったので、当然、中大兄皇子と並ぶ皇位継承の有力者だった。有間皇子に悲劇が及ぶのは時間の問題だった。
 658年10 月、斉明天皇は中大兄皇子と温泉に出かけると、蘇我馬子の孫にあたる蘇我赤兄(そがのあかえ)が留守を預かった。この時、蘇我赤兄は有間皇子に斉明天皇の悪政を語り謀反をそそのかした。
 有間皇子は赤兄の言葉を信じ心を許したのであろう。11月5日、 今度は有間皇子が赤兄宅を訪問して謀反の相談をする。するとその夜、赤兄は有間皇子を捕られ、行幸先の温泉に連行した。11月9日の夕べ牟婁の温湯に到着した有間皇子を待っていたのは中大兄皇子の厳しい尋問だった。「なぜ謀反を企てたのか」との問いに、有間皇子は「天と赤兄に聞いてくれ、私は何も知らない」と答え、有間皇子は謀反の企てにより処刑された。19歳の若い命を、あたかも赤い椿の花を手で折るように散らしたのである。

天智天皇

 660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅びた。中大兄皇子は己の威信を高めるために、百済の遺臣の要請に応じて外交戦略を強行した。まず唐と新羅の連合軍に攻められている同盟国・百済を助けるために大軍を派兵した。

 しかし唐・新羅と正面からぶつかった日本軍は白村江の 戦いで壊滅的な大敗を喫し(663年)、百済と任那(みまな)は新羅に滅ぼされた。さらに日本は朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に大国である唐の脅威にさらされることとなった。

 中大兄皇子は筑前や対馬など各地に水城を築いて防人や烽を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて東の大津宮に遷都する一方、部曲を復活させて地方豪族との融和を図るなど、国土防衛を中心とした国内制度の整備に注力することになる。

 しかし中大兄皇子の政治的威信は地に落ち、豪族たちが朝廷から離反しそうになった。豪族たちは国土防衛に駆り出され、戦いに参加しても、何も得るものはなく、犠牲ばかりを強いらせられた。そのため不満を持つのも当然であった。ここで豪族の権利を認めないと収拾がつかない状態になった。

 そのため公地公民制を取り崩し、私有民を復活させるのである。このとき大海人皇子が奔走して豪族たちを説得している。

 中大兄皇子は数年間称制を続けた後に、668年5月に即位し天智天皇となる。天智天皇となるのは大化改新から20年以上も後のことで、天智天皇は即位すると都を琵琶湖のほとりの大津に移し、天皇の権力を確固たるものにするために唐から様々な制度を導入した。

 天智天皇が即位してしばらくたつと、中臣鎌足が病に倒れた。床に伏している鎌足を、天智天皇は自ら見舞ったが、間もなく鎌足は亡くなった。

 天皇は鎌足が死ぬ前日、それまで誰にも与えられなかった最高位である大織冠を授けさらに藤原の姓を与えた。この藤原の名は鎌足の子孫へと受け継がれ、平安時代にその絶頂期を迎える藤原氏の1000年に渡る系譜につながってゆく。

 藤原鎌足を祀ったのは、藤原鎌足が祭神である談山神社(たんざんじんじゃ)で、彼の息子たちが678年に建立した。談山神社は十三重塔で、現存している塔は1532年に再建されたもので世界唯一の木造十三重塔である。

 天智天皇は670年、日本は初めて戸籍を導入し、盗賊と浮浪者の取り締まりをおこなった。大津は琵琶湖を渡り、東方へ逃げることができて地理的に有利であった。また大津一帯は、渡来人・大友氏の地盤であった。天智天皇は自分の長男(大友皇子)を大友氏に預け、その庇護を受けさせた。長男の大友皇子の名前は大友氏の名から付けられている。大友皇子が成長すると、天智天皇は次期天皇を息子の大友皇子に継がせようとした。

 それまでの天皇は一族の皇子のなかから経験や実績を考慮して決められていた。しかし天智天皇は皇位継承の条件を従来の実績ではなく、唐にならった嫡子相続制、すなわち血統を優先しようとした。それまでの慣例だった「兄弟の皇位継承から父子直系相続」に変えようとしたが、もちろん自分の息子が可愛かったからである。太政大臣の職を新たに作り、左大臣に蘇我赤兄、右大臣に中臣金を任命して嫡男大友皇子を優遇するための準備を始めた。

 天智天皇の弟・大海人皇子はこの人事に不満だった。自分こそが次期天皇を自負していたからである。大海人皇子はそれまで次期天皇としての役割を担い、天智天皇を補佐して政治の中心にいた。しかも当時の皇位継承は母親の血統や后妃の位が重視されていたが、大友皇子は身分の低い側室の子であった。絶大な権力を誇った天智天皇への反動から、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成されていた。