岩宿遺跡

 【岩宿遺跡の発見】

 岩宿遺跡は群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡である。1946年(昭和21年)にこの岩宿遺跡を発見したのは、納豆の行商をしながら熱心に考古学を研究していたアマチアの相沢忠洋(ただひろ1926~89)だった。相沢青年のこの大発見は「旧石器時代の日本列島にはヒトはいなかった」とする定説を覆し「日本列島にも旧石器時代が存在し、ヒトがいた」ことを証明したのだった。相沢忠洋が日本の歴史を大きく塗り変えたのである。
 群馬県新田郡笠懸村には丘陵が並び、その間に赤土(関東ローム層)が露呈している切通しがある。関東ローム層は更新世に降り積もった火山灰土で、関東地方では俗に「赤土」と呼ばれている。

 太平洋戦争が終わってまもない昭和21年、相澤忠洋は納豆の行商をしながら、いつものように切通しの地層に注意を向けていた。大雨の翌日のことだった。山寺山に通じる細い切通しを通ると、昨日まで見なかった長菱形の石が土の中から顔を出していた。赤土の断面に、見なれないものが突きささった状態で目に入った。

 人間が作った石器のようであった。近づいて指先で石を動かしてみると、赤土が少しくずれただけで突き刺さった石はすぐに取れた。

 それを見たとき、思わず危声を発するところだった。じつにみごとだった。それは黒曜石の槍先の石器だった。長さ3センチ、幅1センチの小さな石片は手のひらで、ガラスのような透明な表面を見せていた。形はすすきの葉を切ったように両側がカミソリの刃のように鋭く黒く光っていた。これだけ小さなものを見つ出したところが相沢忠洋の素晴らしいところであった。

 赤土の層(関東ローム層)は、富士山などの関東の火山が激しく活動し、噴火した火山灰が降り積もった地層である。日本にヒトが住み着く縄文時代以前の地層で、そこから石器が出るはずがなかった。ヒトが存在しないはずの更新世の地層から、ヒトがつくった打製石器(旧石器)らしいものが出たのだから、相澤忠洋が驚いたのも無理はなかった。

 それは歴史に残る大発見があった。なんせ数年前までは、日本は神が作った国で、教科書には「縄文時代以前に先住民は存在せず、すべては神話から成り立っている」と教えられてきたからである。

 

 1926年(大正15年)6月21日 、神奈川県鎌倉に生まれた相沢忠洋は、家の近くで土器が出土したことから幼い時から考古学に興味を持っていた。しかし旅芸人だった父は不在がちで両親は離婚して一 家は離散した。相沢少年は東京浅草の履物屋へ奉公に出され、生活は楽ではなかった。読書は禁じられ好きな考古学の勉強もできなかった。この奉公人の時代を経て、太平洋戦争では海軍へ入隊し、戦争が終わると群馬県桐生市に住み、周辺の村で納豆を売りながら赤城山麓の遺跡を調査していた。

 そして1946年(昭和21年)群馬県笠 懸村岩宿(みどり巿笠懸町阿左美)で 旧石器時代のものと思われる石片を発見したのである。

 相沢忠洋は自伝「岩宿の発見」について、次のように書かれている。

 山寺山にのぼる細い道の近くまでゆき、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。
近寄って指をふれてみた。
指先で少し動かしてみた。
ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。
それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。
じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。
完全な形をもった石器なのであった。
われとわが目を疑った。
考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
「ついに見つけた! 定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に!」
私は、その石を手におどりあがった。
そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。
たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。
そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。もう間違いない。
赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活していた祖先の生きた跡があったのだ。
ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。

 

 その日から相澤忠洋は毎日のよう岩宿に通った。縄文時代の石器があれば土器が見つかるはずであったが見つからなかった。さらに約3年後、黒曜石製の完全な形をした槍先形尖頭器を再び発見した。「空にかざし太陽にすかしてみると、じつにきれいにすきとおり、中心部に白雲のようなすじが入っていて、神秘的なほどに美しかった。それはみごとな石器だった」。

 「ついに見つけた。それも槍先形をした石器を、この赤土(関東ローム層)の中に、赤城山麓に石器だけを使って生活していた日本人の祖先の生きた跡があったのだ」。

 しかしこの発見は、地元ではアマチュアだからとバカにされ「夜学の小学校しか出ていない、学歴の無い納豆売りの行商人が考古学など生意気だ、行商人のやっていることなど学問ではない」と中傷された。

 しかし相澤忠洋は「納豆の行商は朝晩の行商に出れば、日中は発掘研究が出来る。考古学がやりたいから、納豆の行商をしているのだ。サラリーマンでは、時間に拘束され遺跡の踏査が自由に出来ない。考古学の手段として行商をしている」と心で反発していた。

 相沢忠洋はひとつだけの石器の発見ではよしとせず、同じ場所から次々と数十点の石器を発掘した。そこで昭和24年のある日、彼は東大人類学教室と千葉の国府台の考古学研究所に手紙を書き、石器を東京大学に持って行いった。教授たちは石器の鑑定をしたが、発見した場所を聞いただけで、相沢の話をまともに取り上げなかった。当時の考古学の常識では「火山灰が降り注ぐ洪積世の時代には食べ物も育たない。だからヒトも生きられない」とされていた。そのため火山灰でできた関東ローム層にヒトが作った石器があるはなく、関東ローム層に到達すると発掘を打ち切っていたほどだった。

 露出していた石器の感触をもつ相沢忠洋は引き下がれず、明治大学考古学研究室に石器を持っていった。そして同年、明治大学による岩宿遺跡の学術調査がおこなわれた。

 昭和24年7月27日、東京に出た相沢忠洋は、明治大学の大学院生であった芹沢長介と出会う。2人はちょうど同じくらいの年頃で、しかもどちらも北関東の縄文土器や石器を研究していたのですっかり意気投合した。以後、相沢忠洋は群馬県桐生から東京まで120キロの道のりを、当時の重たい自転車で何度も往復した。午前3時頃に家を出て、東京に着くのがお昼。それからまた自転車で帰宅するが、最後が急な上り坂になっていた。しかしそれ以上に、相沢忠洋の考古学への情熱が強かった。

 相沢忠洋が発掘した石器類が非常に高い価値を持つと直感した芹沢長介は、相沢忠洋の発見物を、明治大学の助教授だった杉原荘介に渡した。ところが渡された石器を見た杉原助教授は「これはちょっと疑問です。調べてみるから置いて行きなさい」というので発掘した石器を置いていった。関東ローム層から出たということで、最初は信用されなかったが若き研究者たちが現地へ赴き、専門の学者が旧石器時代前期の打製石器と確定した。しばらくして、杉原助教授が文部省で岩宿遺跡での石器発見に関する新聞記者発表をおこなった。
 このことが、昭和24年9月20日の毎日新聞で二段抜きの見出しで「旧石器の握槌 群馬県で発見 十万年前と推定」とスクープ記事として報道された。新聞内容は以下のとおりであった。
「このほど明大考古学研究室によって、原始人の手で作られた旧石器が発見された。現場は群馬県桐生市外笠懸村字岩宿にある岩宿小丘といい、去る4日地元アマチュア考古学者がここで集めた石削のなかに珍しい形のものがあるのを同教室の杉原助教授が発見、10日から3日間現地試掘をしたところ関東ローム層の下部から旧石器時代特有の形をした横刃型、尖刃型石器10数個をはじめ粘板岩製グトボアン(握槌形石器)も発見した。これと同時に出土地点が関東ローム層の下部であるという事実を確認するため、東大地質学助教授多田文男氏が15日現地を再発掘し、その地点を確認して遺物包含層を岩宿地層と命名した。
 発表原稿を杉原助教授から渡された芹沢長介はびっくりした。なんと相沢忠洋の名前の名前がまったく載っていなかったのである。その記事では発見者は杉原助教授のように書かれ、新聞には「地元のアマチュア考古学者が収集した石器から、杉原助教授が旧石器を発見した」と書かれていた。

 文部省で記者会見が行われ、「3万年前の石器が発見され、その石器は旧日本人が加工して製造したもので、世界最古の磨製石器」というニュースが日本の考古学会を震撼させた。それまで日本には1万年までヒトはいなかったとされていが、急に数万年も前からヒトがいたとなったのだから、学者たちが興奮したのも無理はなかった。

 その後、相沢忠洋の人生が必ずしも好転したわけではない。1949年(昭和24年)に行われた本格的な発掘調査で岩宿が日本初の旧石器時代遺跡であることが認められ、相沢忠洋は旧石器の発見者で、日本の旧石器文化研究のパイオニアとなった。

 ところが考古学の大家と呼ばれる人たちから詐欺師呼ばわりされ迫害を受けた。迫害する側はその地位を利用して相沢忠洋の発掘のじゃまをし、遺物を盗み相沢忠洋の人格を中傷した。

 当時学会の定説は官立(国立)大学の教授たちが認めたことが定説で、私大の発表は定説にならないという不利な状況があった。明治大学の研究者にもそれがあてはまった。

 それを跳ね返すには、地道な努力と実証以外になかった。しかし彼らの頑張りの結果、全国的にも洪積世の地層からも多くの石器発見された。

 権威や権力に対抗するには科学的な物証が必要だった。経済的にも追いつめられた相沢忠洋は、畳のない床板がむき出しの家に住み、押し入れに藁(わら)を敷いて寝起きする生活だった。布団の綿はすべて抜き取り、石器の標本箱に敷いていた。相沢忠洋は迫害を受けたが、考古学への情熱は失わず、迫害している人たちにさえ「ボクは人間が好きだから」と嘘や中傷への反論もせず、黙々と発掘を続けた。アマチュア学者ゆえの冷遇にもめげす、群馬県内の発掘調査に精力を傾け続けた。相沢忠洋の研究への功績は決して小さなものではない。

 相沢忠洋が世間から認められたのは、最初に石器を発見してから21年後の昭和42年になってからである。相沢忠洋が吉川英治賞を受賞することになったからである。さらに同年、相沢忠洋は勲五等が授与された。

 勲五等をいただいた5月22日当日、晴れの舞台を前にして相沢忠洋は脳内出血によって63歳の若さで他界した。相沢忠洋の座右の銘は、「朝の来ない夜はない」だった。

旧石器文化

 1949(昭和24)年、岩宿遺跡で、更新世後期の地層である関東ローム層(赤土層)から、打製石器が発見され、これをきっかけに全国各地の更新世の地層から各種の石器が出土するようになった。相沢忠洋は土器を探したが、旧石器時代にはまだ土器は製作されていなかった。つまり旧石器文化は、先土器文化・無土器文化で、土器が発見されないのは当然のことだった。この旧石器文化=無土器文化はその後世界的に認めらることになった。