三内丸山遺跡

 縄文時代は「未開発で文化度の低い時代」とかつて思われていたが、大きな間違いであった。このイメージを変えたのが青森県の三内丸山遺跡である。

 青森県青森市三内字丸山にある三内丸山遺跡は、縄文時代前期中期の大規模集落跡である。平成4年度から始まった県営野球場建設に先立つ発掘調査で、前例のない巨大な集落跡が発見された。遺跡の大きさは東京ドーム約7個分で、膨大な量(約40000箱)の土器、石器、土偶が出土した。

 住居は非同心円状に、機能別に配置され、竪穴住居や高床式倉庫は780軒におよんだ。祭祀用に使われた大型掘立柱建物は直径約1メートルのクリの巨木を使っていた。約5500年前に集落が造られ人口は200人前後であったが、4500年前に最盛期を迎え住居数は約100棟、人口500人の集落になった。

 500人の胃袋を満たすには、それ相応の食料を獲得しなければならない。採集・狩猟だけでは無理である。遺跡からクリ、ヒョウタン、エゴマなどが出土していることから、三内丸山の人たちは植物栽培をおこなっていたのであろう。実際に遺跡から出土した栗のDNA鑑定から、栗が栽培されていたものであることが分かった。さらにクルミ・トチなどの穀物、エゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物も出土している。三内丸山の人たちは採取だけでなく集落の周辺に堅果類の樹木を植栽していたのである。
 膨大な量の縄文土器、土偶、石器の出土に加え、遠くから運ばれたヒスイや黒曜石などが出土している。土器の文様形式が連続して変化していることから、1500年間にわたって定住生活が営まれていたとされている。
 三内丸山遺跡は縄文時代に対する既成概念を覆し、教科書をぬりかえてしまうほどの発見であった。

縄文時代の常識を覆した

 縄文人と言えば腰に獣皮を巻いて、狩猟・採集を食料に移動生活を営む野蛮なイメージがあった。この先入観を三内丸山遺跡が見事に覆したのである

1. 1500年にわたって定住していた

 三内丸山遺跡は縄文時代の前期末から中期末まで1500年にわたって継続的に営まれてきた。1500年といえば、あの京都でさえ1000年間の都である。青森の僻地にこのような集落があったとはまったくの驚きである。住みやすく食料の確保がしやすかったのだろう。遺跡からは鮭の骨が出ていないことから、当時は温暖化で住みやすかったとされている。

2.広大な栗林

 定住生活には食料が必要で、従来の狩猟・漁業・採取は行われていただろうが、摂取カロリーを考えれば、主食は栗で、栗の栽培や管理をしていたのである。

3.大型動物はいなかった

 縄文人といえば狩猟であるが、大型動物の骨の化石は殆どない。あったとしても、鹿やイノシシの骨を加工したものである。

4.多彩な埋葬方

 大人と子供の墓は分かれている。大型の掘立柱建物があるが、縄文人が天に祈りを捧げるための建物だったと思われる。祭殿や神殿などの宗教的な施設であったとすれば、縄文人の精神活動に宗教が絡んでいることがわかる。しかしその宗教は呪術的な能力を持つ人物にひれ伏すようなものではなく、生死は自然なもので、自然を神として崇め恐れ、裸で生まれ裸で死んでゆくようなものであったろう。生活と自然が一体化していたのだろう。

5.完全な形の土偶

 他の遺跡から見つかる土偶はバラバラに砕かれているが、ここでは完全な形のものが多数見つかっている。三内丸山が土偶の生産地だったのだろうか。

6.漆技術

 赤漆塗りの木製皿が見つかっているほか、赤色顔料なども見つかっており漆製品が製作されていたと考えられる。縄文時代の前期中頃(約5,500年前)のものであるが、漆(うるし)は一本の木からの樹液の採取量が少なく、精製に専門的な技術を必要とすることから、三内丸山遺跡には、高い技術を持つ人がいたことがわかる。また栗の木と同様に漆の木も栽培されており、漆を栽培するほどの技術を持っていたことがわかる。 漆は防水剤と接着剤の役割を果たしていた。 

7.布や織物

 ヒノキ科の針葉樹の樹皮を素材にして編んだ小さな袋が出土している。網代編みで作られ、織り方は平織りである。縄文のポシェットで、縄文時代前期の泥炭層から出土した。また衣服の一部と考えられる、ムシロのように縦と横に編み込まれた編み物が出土している。縄文人の高い技術をうかがい知ることができ、縄文人が編み物をしていたという発見は考古学界に重大な影響を及ぼした。

8.遠方との交易

 ヒスイ、黒曜石、琥珀、アスファルトなどが発掘され、これらは遠くから運ばれてきたものであった。集落が大きくなる約5000年前から、他地域と活発に交流して交易が行われていたのである。ヒスイは約600キロメートル離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれ、ヒスイの原石、加工途中の未完成品、完成品の珠などが見つかっている。ヒスイは非常に硬い石なので、その加工には熟練した技術と知識が必要であった。

 黒曜石はガラスとよく似た、鋭く割れる石である。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてきた。琥珀は岩手県北部の久慈周辺から琥珀の原石が運ばれてきたものである。三内丸山で加工され、他の集落へ運ばれたと考えられる。これらは舟を使って三内丸山に運ばれてきたとされている。

9.多すぎる土器

 土器の文様形式が連続して変化していることから、1500年間にわたって定住生活が営まれてきたと考えられる。縄文土器は年代的に変化するが、円筒土器が特徴で、円筒土器は北海道から東北までの文化圏をつくっていたと思われる。

10. 権力の存在

 大型掘立柱建物は直径が1m、長さが20mがある6本の巨木で建てられているが、どのように6本の巨木を建てたのかが謎である。集団全体を貫く精神的背景、共有の強い意志や目的意識があれば成し遂げられるが、中心となる指導者が必要で、縄文時代には権力は存在しないとの通説は間違いであろう。巨大建造物は祭殿や神殿、シンボルタワー、あるは灯台説など様々の説があるが、いずれにせよ建築技術、指導者なしに建てることはできないであろう。