国風文化

弘仁・貞観文化
 平安京への遷都から9世紀末までの文化は、当時の嵯峨天皇・清和天皇の時代の年号から弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがん)と呼ばれている。平安京における貴族中心の文化が発展し、唐風文化を取り入れた学芸中心の国家の隆盛をめざした最盛期を迎えた。

 貴族の教養として漢詩文を作ることが重視され漢文学が盛んになった。この時代には大陸の文化にも負けないほどの文人が輩出して、嵯峨天皇空海小野篁(たかむら)、菅原道真らが知られている。嵯峨天皇は漢詩文にすぐれ、最古の勅撰(天皇の命令で歌集を編纂)である、漢詩集・凌雲集 (りょううんしゅう)や文華秀麗集には、嵯峨天皇の漢詩が多く収められている。
 空海は唐風の書道の達人として知られており、詩文集である性霊集を著すなど優れた文才を発揮した。嵯峨天皇橘逸勢(はやなり)とともに三筆と称されている。
 官吏の養成機関である大学では、文章力の優劣が採用試験で重視され、それまでの儒教中心の内容から次第に歴史や文学を学ぶ紀伝道が盛んになった。このため有力貴族は大学で学ぶ子弟のための寄宿舎と勉学の施設としての大学別曹(べっそう)を設けた。主な大学別曹としては、藤原氏の勧学院、和気氏の弘文院、在原氏の奨学院、橘氏の学館院などが知られている。空海は庶民への教育を目指した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設けている。
 桓武天皇は奈良仏教との決別をはかるために、平城京から長岡京、平安京へと遷都されたが、新都においては「早良親王のタタリ」から逃れるために新たな仏教が必要となった。その要望に応えたのが、最澄がもたらした天台宗と空海が樹立した真言宗であった。
 天台宗や真言宗は呪術の取得や厳しい修行によって仏教の奥義を究めた密教で、加持祈祷を中心とする儀式が、タタリを鎮め怨霊を封じるとされた。真言宗の密教を東密、天台宗の密教を台密という。
 最澄と空海は804年に遣唐使に従って同じ遣唐使で入唐した。先に帰国した最澄は、都からほど近い近江国(滋賀県)の比叡山に延暦寺をひらき、大陸の流れをくみなが ら我が国独特の天台宗を広めた。延暦寺は平安京の東北に位置し、災いが起きやすいとされる京都の鬼門にあたった。この場所に延暦寺を建てたことが、桓武天皇 の最澄に対する「タタリ封じ」への期待がうかがえる。
 奈良時代の初期に、我が国の歴史書として「古事記と日本書紀」が編纂されたが、日本書紀の続編として漢文による国史の編纂が相次いで行われ、古い順に続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録が編纂されている。日本書紀と合わせたこれらの歴史書は六国史と呼ばれ、古き我が国の律令国家が編纂した正史(国家による正式の歴史書)として扱わた。
 奈良時代に鑑真(唐の僧侶)が来日し、日本に戒律を伝えて以来、僧は戒壇と呼ばれる寺院で戒律を授けるようになった。当初は奈良の東大寺に戒壇があったが、最澄は既存の仏教から独立させ、延暦寺で僧を養成するために独自の大乗戒壇の設置を目指した。最澄の動きは南都の宗派から激しい攻撃を受けたが、最澄は「顕戒論」(けんかいろん)を著して反論した。大乗戒壇は最澄の死後に設立が公認され、延暦寺はやがて仏教学の中心となる。
 平安後期に浄土教を広めた源信や浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元といった鎌倉新仏教の開祖たちは若い頃に延暦寺で学び独自の道を歩むことになる。
 最澄は866年に死去するが、清和天皇によって伝教大師(でんぎょうだいし)の名が贈られている。最澄の天台宗の教えは弟子の円珍(えんちん)や円仁(えんにん)によって広められた。弟子たちにより本格的に密教が取り入れられた。後に教理上の争いから分裂し円珍派は園城寺(おんじょうじ、別名三井寺)に下って寺門派(じもんは)と呼ばれ、延暦寺に残って山門派(さんもんは)と呼ばれた円仁派と対立した。

 

院政期の文化

  藤原氏の院政期に入ると、朝廷を中心に栄えた貴族文化が地方へと広がっていった。その背景には新たに勢力を伸ばした武士の存在があった。地方の武士と競うように寺院を建てた。奥州藤原氏による平泉の中尊寺金色堂、陸奥(いわき市)の白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)、豊後(大分県豊後高田市)の富貴寺大堂(ふきじおおどう)などが有名であるが、地方文化の高さを示している。これらの建築物は浄土教の思想の広まりを示していて、寺院に所属せずに僧の位を持たない聖(ひじり)や上人たちが民間への布教をしていた。

 院政期には一般の庶民も「現代風な歌謡」の今様(いまよう)や、古代の歌謡である催馬楽(さいばら)、芸能の一種である田楽猿楽などを楽しんだ。今様は後白河法皇も愛誦され、民衆の間に広まった歌謡を集めた梁塵秘抄(りょうじんひしょう)がまとめられている。

 文学作品としては日本やインド・中国に伝わる1,000余りの説話を集めた今昔物語集があり、当時の武士や庶民の生活などが表現されている。なお「弘法にも筆の誤り」「受領は倒れたところの土をつかむ」などは、今昔物語集が由来になっている。また芥川龍之介の小説・羅生門や鼻、芋粥なども今昔物語集を題材にしている。軍記物としては平将門の乱を記した将門記や、前九年の役を記した陸奥話記などがあり、地方武士の戦いぶりが伝わってくる。歴史物語では栄華物語や大鏡が仮名で書かれ、摂関政治の頃を懐かしむ貴族の様子がうかがえる。

 絵画は、時間の経過を、絵や詞書を織り交ぜながら描く絵巻物が発達し、源氏物語絵巻伴大納言絵巻信貴山縁起絵巻鳥獣戯画などの作品が生まれている。ちなみに伴大納言絵巻は応天門の変を描き、鳥獣戯画は動物の擬人化で当時の世相を描いている。

 その他、安芸(広島)の厳島神社は平氏の厚い信仰を受けて、豪華な平家納経が奉納され、世界遺産にも登録されている。厳島神社が現代のような建築様式になったのは、平清盛が造営したことによる。

 

国風文化
 日本と中国・朝鮮の外交関係が途絶えたが、これまでに取り入れてきた大陸文化を巧みに消化し、日本の風土や生活や人情、嗜好などに合った洗練された文化が生み出された。平安時代の中期から後期にかけ、日本独自の文学や美術が数多く生まれ、この新たな文化は国風文化と呼ばれている。
 国風文化の特徴は仮名文字の発達である。仮名は奈良時代の万葉仮名の草書体の平仮名(ひらがな)と、漢字の扁(へん)や旁(つくり)の一 部からとった片仮名(かたかな)に分けられ10世紀頃に一定になった。平仮名と片仮名の使用によって、日本人特有の感情や感覚の表現が可能になり、和歌や物語の隆盛をうながし、文学の飛躍的な発展をもたらした。
 万葉集などで盛んになった和歌は、平安時代には公式の場でも広まり、905年には醍醐天皇の命によって、紀貫之らが日本初の勅撰和歌集である古今和歌集を完成さた。古今和歌集に見られる歌風は繊細かつ技巧的で、古今調と呼ばれ和歌の模範とされている。優れた歌人が次々と登場し、在原業平僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、小野小町文屋康秀(ふんやのやすひで)、大伴黒主(おおとものくろぬし)、喜撰法師(きせんほうし)らは後世に六歌仙と称えられている。
 和歌は貴族の教養や社交に不可欠とされ、和歌そのものに人智を超える力があると信じられた。言葉に霊魂(れいこん)が宿るという、いわゆる「言霊」(ことだま)を信じていた古来からの日本独自の感覚であった。
 朝廷政権が武士に奪われると、和歌は貴族たちの数少ない心の支えになり、政治の世界から離れた和歌の神秘性がむしろ高まった。和歌は日本の伝統文化として広まり、古今和歌集から鎌倉時代の初期に完成した新古今和歌集まで、計8回にわたって勅撰和歌集が編集され、これらを総称 して八代集という。
 文学の世界でも優れた物語が次々と現れた。平安時代の前期には、大陸南部の民間説話が由来とされる竹取物語や、六歌仙の一人である在原業平を主人公とした伊勢物語などが現れた。竹取物語は我が国最古の物語で「かぐや姫」の童話として有名である。平安時代の中期には、紫式部によっ て源氏物語が生み出され、また清少納言によって枕草子が書かれた。
 源氏物語は紫式部が、藤原道長の娘で一条天皇の皇后・藤原彰子に仕えた体験を元にして、紫式部の豊かな教養をもとで、宮廷貴族の生活を見事に描いた世界最大級の長編小説である。
 いっぽうの枕草子は、清少納言藤原定子(藤原道隆の娘で一条天皇の皇后)に仕えた体験を随筆風に記しており、簡潔かつ軽妙な表現の中に鋭い観察力が見られる。この枕草子は鎌倉時代の随筆である方丈記徒然草とともに日本三大随筆と称されている。
 ところで源氏物語には私たちが気づかない「大きな謎」がある。源氏物語は世の常識では「あり得ない作品」なのである。源氏物語は皇子から一般貴族になった光源氏を主人公に、光源氏が様々な恋愛をへて出世を重ね、准太上天皇にまでの物語である。この源氏物語が書かれた当時、実際に政権を握っていたのは藤原氏であった。藤原氏の時代に、源氏出身の貴族が大出世をする物語を書くことは現実にはあり得ない。普通ならば、自分の権威を否定する藤原氏が無理に中断させて作品を処分するはずである。しかし実際には、藤原道長は源氏物語に註文をするどころか、紫式部に貴重品の紙や硯(すずり)を与えている。面白くないはずの藤原道長が紫式部にこのような賞賛を送ったのは、それ以降の藤原氏の摂政や関白を独占するきっかけとなった。969年に源高明を追放した安和の変は「皇族から臣籍降下した源氏」が首謀者で、 光源氏と条件が全く同じである。

 また同じく菅原道真は謀略によって北九州の大宰府に追放され、亡くなってから怨霊となり朝廷にタタリをもたらし、後に天神様 として祀られている。

 この藤原氏が摂政や関白を独占するきっかけになったのは、追放されて亡くなった後に神様として祀られた人物がいたからである。

 栄華の頂点を極めた藤原氏ではあった、藤原氏の祖先が蹴落とした源高明や菅原道真の怨霊としのタタリか心配べならなかった。そこで光源氏を架空の物語で大活躍をさせ、怨霊を敬い穏やかに振舞ってもらおうとしたのが源氏物語である。菅原道真は神様として丁重に祀られ、太政大臣の地位を贈られている。没後に子孫が繁栄できなかった在原業平も、伊勢物語の主人公として活躍した。

 源氏物語には源高明らの「藤原氏によって没落させられた貴族たち」が怨霊としてタタらないように鎮魂する目的があった。

 そのように考えれば「藤原氏が栄華の頂点と同じ時期に、藤原氏のライバルが出世をする物語」がこの世に残されたことが説明できる。

 その他の国風文化の文学としては、紀貫之古今和歌集を編纂したことで有名であるが、国司としての任期を終えて京へ戻るまでを日記に綴った土佐日記がある。土佐日記は紀行文の名作で、宮廷における女性の仮名日記文学に大きな影響を与えた。土佐日記の後に藤原道綱の母による蜻蛉日記や、菅原孝標女(すたかすえのむすめ)による更級日記などが生まれた。

 このように仮名文学は、紀貫之の例外を除けば、貴族たちは娘たちに競って学ばせた。娘たちを天皇の后にするために教育係をつけ、細やかな感情や優れた才能が磨き上げられ、国風文化の隆盛を迎えることになる。
 一方、貴族による公式文書としては従来どおり漢文が使用された。この頃の漢文学としては、藤原明衡(あきひら)が編纂した漢詩文集である本朝文粋(ほんちょうもんずい)や、源順(したごう)が編纂した辞書である和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)などがある。
 この他にも藤原公任(きんとう)によって和歌と漢詩文が同時に収められた和漢朗詠集が編纂された。ちなみに藤原公任は刀伊の入寇(といのにゅうこう)の際に、海賊を撃退した藤原隆家に褒賞を与えず、叱責した当時の官僚のであ る。

神仏習合
 神仏習合は国風文化でさらに進化し、我が国の八百万の神々は、様々な仏が化身して現れるとする考えが広まった。これを本地垂迹説 (ほんじすいじゃくせつ)といい、神の化身の姿のことを権現(ごんげん)という。
 また天台宗や真言宗の厳しい山岳での修行が、我が国古来の山岳信仰とが融合して、山林での修行の際に密教的な儀礼を行い霊験を得ようとする修験道が生ま れた。名高い修験道の道場としては、和歌山の熊野三山がある。熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社の総称で、真言宗の聖地である高野山とともに、平成16年(2004年)に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている。
 この頃までに盛んになった怨霊を祀ることでタタリを鎮めようとする考えは、疫病や飢饉などの災厄から逃れようとする御霊信仰をもたらし、儀礼としての御霊会が定着した。

  また仏教勢力を政治の場から遠ざけたことは後の国風文化の機運の高まりとも無関係ではありません。中国から伝来した宗教を排除したことで、日本独自の文化を改めて見直すことができたからである。

 

末法思想

 しかし平安時代中期には阿弥陀仏を信仰し、念仏を唱えて来世の極楽浄土に往生することを願うとする浄土教が流行した。浄土教は10世紀半ばに空也が諸国をめぐっ て念仏をすすめ、さらに源信が往生要集を書いて浄土教の教義を説くと、貴族から庶民に至るまで幅広く支持を得た。浄土教が広まった背景には末法思想がある。末法思想とは釈迦の死後に正しい仏法の行われる正法の時代がくるが、次に仏法や修行者はいても悟りを開く者がいない像法の時代を経て、釈迦の教えは あっても通用しない末法の世が1052年にやってくるという考えである。
 末法思想が広まったのは、治安の悪化や災厄が多発していたからで、貴族たちは災厄を自身たちの政治によるとは思わず、末法の世に向かう世情にあると信じ、競って寺院を建て仏像を造立した。
 当時の代表的な寺院としては、藤原道長による法成寺(ほうじょうじ)や、藤原頼通による平等院などがある。このうち平等院の一部である鳳凰堂は10円玉に描かれ有名である。
 弘仁・貞観文化の頃の仏像は、一本の木から一体の仏像を彫りおこす一木造が主流だったが、国風文化の頃には仏師によって、仏像の身体を別々に分担して製作して寄せ集めて仕上げる能率的な寄木造が創案され、大量の造仏が可能となった。
 定朝による仏像は女性的な柔和をもち、円満な和様彫刻が大きな特徴で、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像などの多くの名作を残した。またこの頃には浄土に往生しようとする人々を迎えるために仏が来臨する阿弥陀来迎図が盛んに描かれた。
 国風文化によって、貴族の生活も日本的な特徴が次第に広まった。貴族の住まいは白木造で檜皮葺(ひわだぶき)の寝殿造と呼ばれる建物と池のある庭園とを組み合わせた優雅な雰囲気をもつようになった。

 建物内部の襖(ふすま)や屏風(びょうぶ)にも、我が国の風物や物語を題材にしたなだらかな線と上品な彩色による大和絵が描かれた。屋内の調度品にも漆(うるし)や金銀の粉を利用した蒔絵(まきえ)の手法が用いられた。
 書道の世界も漢文中心の唐風から、流麗な和風の書である和様が発達し、小野道風藤原佐理(すけまさ)・藤原行成の三人は特に名人で 三蹟(さんせき)と称えられた。三蹟は、弘仁・貞観文化の頃の嵯峨天皇空海橘逸勢(はやなり)の三筆と混同しやすいので間違えないでほしい。
 平安時代の貴族の男性の正装は束帯か、それを簡略にした衣冠で、女性は衣装を重ねた女房装束が主流だった。これらは奈良時代の唐風の衣装を日本人向きに改良したものであった。一般的に知られている十二単(じゅうにひとえ)は後世の俗称であり、女房装束が正式な名称である。また貴族の食事は仏教の影響で獣肉が禁止されたため意外に質素で、回数も一日に2回が基本であった。
 貴族の息子は10~15歳くらいで元服、娘は裳着(もぎ)の式を挙げて成人とみなされ、男子は朝廷に出仕した。また結婚は男が女の家に迎えられて同居する婿入婚が行われ、やがて庶民に広まった。また生まれた子は妻の家で育てられた。
 朝廷の官職は世襲化が進み、先例や儀式が重んじられるようになり年中行事が発達した。貴族たちは自然災害を恐れ、自らの運命や吉凶を気にかけ、日常の生活にも吉凶に基づく多くの制約を設けていた。この背景には陰陽道(おんみょうどう)や怨霊信仰(おんりょうしんこう)があった。

西行法師(1118-1190)

 宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、生死を深く見つめ、花や月をこよなく愛した歌人である。漂泊の歌人とされ、孤独な山里の庵で歌を詠み生涯を旅の中で送った。自然と宗教の融合の中で自由な歌を詠み「新古今和歌集」には最多の94首が入選している。西行の生きた時代は平安から鎌倉への動乱の時代で、まさに平家の台頭から源平の争乱期に重なる。世の無常を感じ、自然と仏法に心を寄せ、自由な心で研ぎ澄まされた歌風をつくった。俗名佐藤義清(のりきよ)である。

 西行法師は関東で活躍した武将・藤原秀郷の子孫として生まれ、幼い頃に父・佐藤康清を亡くし、17歳で後を継ぐと皇室の警護兵となる。名佐藤義清(のりきよ)である。佐藤義清は裕福な武士の家系に生まれ、御所の北側を警護する「北面の武士」に選ばれ、同年同僚には平清盛がいた。

 この「北面の武士」は白河院の時代の制度で、下級官人の子弟から厳選され、弓・馬術に優れ容姿端麗で詩文・和歌・管弦・歌舞の心得が必須であった。官位は五、六位と低かったが宮廷の花形として注目を集めていた。鳥羽上皇の親衛隊である「北面の武士」の生活は歌会が頻繁に催され、そこで佐藤義清の歌は高く評価された。

 西行は武士としての実力も優秀で、疾走する馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)の達人で、さらには蹴鞠(けまり)の名手でもあった。また徳大寺家・藤原実能の家人として仕え、鳥羽院にも愛され待賢門院璋子に心を寄せていた。

 文武両道で美形の佐藤義清の名は、政界の中央まで聞こえ、華やかな未来を約束されていた。文武を極め前途洋々であったが、22歳の若さで突然、世の栄達を捨て出家した。出家そのものは珍しくないが、官位があり20歳過ぎての出家であった。内大臣・藤原頼長は日記に「西行は家が富み、年も若いのに、何不自由ない生活を捨て仏道に入り遁世した。わたしたちはこの志を嘆美しあった」と記している。

 西行法師は延暦寺などの大寺院に出家したのではなく、どの宗派にも属さずに、地位や名声を求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い和歌を通して悟りを得ようとした。

 出家の理由については誰にも分からないが、(1)仏に救済を求める心の強まり(2)急死した友人から人生の無常を悟った(3)皇位継承をめぐる政争への失望(4)自身の性格のもろさを克服するためとされている。しかし鳥羽院の妃・待賢門院璋子(崇徳天皇の母)に恋をして、その死にそうな苦悩に女院が情けをかけ、一度だけ逢い一夜の契りを交わしたが「逢い続ければ人の噂にのぼります」といわれたことによると噂されている。

 このような感情が絡み合った結果、妻子と別れて仏道の世界に入った。

 阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから「西行」を法号とした。末世戦乱の世の中で、同時代の人々に感銘を与え憧憬の的となった。歌道における名声とも相俟って、後世に伝説が広まり、虚実取り混ぜた様々な逸話が伝えられている。

 西行法師は嵯峨に草庵を結び、仏法修業と和歌に励みながら、陸奥、四国、中国、九州などへ漂泊の旅を繰り返した。西行法師は平清盛の全盛期、その主催の法会にも参加して、平家一門とも親しく付き合っている。讃岐に流された崇徳上皇の元を訪ねてもいる。 1180年に伊勢に居を移し、平家滅亡後に平重衡が焼失させた東大寺復興にも携わり、晩年、奥州・平泉に藤原秀衡を訪ねる途中の鎌倉で源頼朝と語り明かしている。後世に大きな影響を与え、松尾芭蕉や幕末に活躍した高杉晋作も西行を尊敬していた。

 

 「願はくは 花の下にて 春死なむ、そのきさらぎの 望月のころ」

 西行法師はこの歌の通りに、往生を遂げたことで有名である。この歌は西行が63歳のころに詠んだもであるが、後世、その辞世の歌と喧伝された。きさらぎ(陰暦2月)の望月(満月)のころ、「釈迦の命日に満開の桜の下で死にたい」の意味である。現在で言えば3月中旬以降の満月の日にあたり、ちょうど桜が花盛りを迎える時期になる。

 若くして世を捨てながら本当の自分をつかみ生涯を遂げた。西行の情熱の断片は多くの歌に残されている。なかでも桜の歌人といわれるほど、西行は桜の歌を残している。

 1190年2月16日、南河内の弘川寺において、享年73で西行法師はその数奇に富んだ生涯を閉じた。冒頭の歌の通り、10年後に自ら望んだ日のわずか1日遅れで死んでいった。当時の人々は驚嘆したと伝わっています。

 

  西行は出家を前に次の歌を詠んでいる。

「世を捨つる人は まことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」

 出家して身を捨てた人は、本当に人生を捨てたのだろうか。悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言えない。俗世のしがらみに囚われた己を捨てられない出家しない人こそが、己の人生を捨てているという意味である。佐藤義清の出家への並々ならぬ決意が伝わってくる。世を捨てて初めて名を残す西行の功績は、この歌をなぞるかのようである。ちなみにこの歌は、勅撰集である「詩花和歌集」に収録されているが、作者は「よみ人しらず」になっている。勅撰集の作者は身分の高い人だけが記録され、北面の武士に過ぎなかった佐藤義清は対象外だった。

 

 「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
 西行法師の遺した秀歌は数多いが、これは伊勢参宮の際の歌である。この歌は日本人の自然観、宗教観を歌った名歌である。五十鈴川の清冽な流れを見て、聳え立つ杉並木の参道を歩む時に、恐らく万人が感じるであろう敬虔な気持ちをそのまま表している。

 

嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
 嘆けと言って月が私を物思いに耽らせるのだろうか。いや、本当はそうではないのに月のせいだとかこつけてこぼれる私の涙よ、という意味である。月前の恋を詠んだ恋歌なので、涙の正体は愛しい人を思う心だった。この恋歌の根底にあるのは、出家してなお人の世を愛し続けた西行の孤独感ではないかと言われている。

 

小野小町

 小野小町(809年~901年)は平安前期を代表する女流歌人で六歌仙・三十六歌仙のひとりである。詳しい系譜は不明だが、文献上では出羽郡司小野良真の娘とされているが、生まれには多数の説があり、秋田県湯沢市小野説、福井県越前市説、福島県小野町説、茨城県新治郡新治村大字小野説など、生誕伝説の地域は全国に点在している。米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車の愛称「こまち」は小野小町の名前に由来している。

 さらに滋賀県大津市大谷の月心寺には小野小町の百歳像があり、栃木県下都賀郡岩舟町小野寺には小野小町の墓がある。また福島県喜多方市高郷町には小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる。いずれにしても京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町小町は晩年この地で過ごしたとされている。

 小町小町は本名ではなく通称で、「町」とはもともと仕切られた区画という意味なので、後宮に仕える女性だったことは間違いない。仁明天皇の更衣で、また文徳天皇や清和天皇にも仕えていた。このことは小野小町が、その時代の在原業平や文屋康秀と和歌のやり取りをしていることから明らかであるが詳細は分からない。

 小野小町は絶世の美人として誰もが知っている。だが確かな証拠はなく、伝説なのか真実なのかは不明であるが、あまりにも有名な話がある。

 小野小町に深草少将という貴族が惚れて「おれの女になれ」と迫った。すると小野小町は「百日百夜、私のもとに通って来てください。それができましたら、いうことを聞きましょう」と答え、深草少将は毎日毎晩、風の日も嵐の日も通い、99日目に疲労のあまり死去した話が残されている。この伝説は小野小町は、男に従うような素振りを見せて、結局は死ぬほどひどい目に遭わせた女性とも解釈できるが、逆に男に99晩も通わせるほど魅力的な女性だったのだろう。

 小野小町の歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され繊麗・哀婉・柔軟艶麗をおびている。「古今和歌集」の序文において、紀貫之は小野小町の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、はなやかなでなよなかの王朝的な浪漫を漂わせているとして絶賛している。

 

 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを

 花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に

などの歌はよく知られているところだ。

 

紫式部

 紫式部は世界的に有名な大作「源氏物語」を書き上げだ。この源氏物語は世界中で翻訳され、その高い世界観や人間観察は後世の文学に大きな影響を与えている。本居宣長は源氏物語を古今東西に並びなき「もののあわれ」の文学として激賞し、折口信夫はこれを怨霊鎮魂の小説と称した。

 紫式部の父・藤原為時は学者として有名で、紫式部も子どものころから勉強が好きで、父が紫式部の兄に漢文を教えていると、紫式部のほうがすぐに覚えてしまい、「この子が男の子だったら、立派な学者になるのに」と残念がった。その一方で紫式部はとてもシャイな性格で、漢文の知識があることを周囲には見せずに漢字を書けないふりをしていた。

 22~23歳の時に山城守藤原宣孝と結婚した。夫の宣孝は40代で妻妾の多い人だったが、紫式部が父とともに越前に下るときに情を受け、家格、学識の高い男性だったため、20歳年以上も離れた宣孝を受け入れた。翌年には賢子(歌人・大弐三位)を生むが、夫の宣孝が死んでしまい、幸せな結婚生活は3年と続かなかった。その頃から性格が変わり、それまでは優しい面もあったが、物思いにふけり、他人を突き放すようになってしまう。

 夫の死後に道長の娘で一条天皇の妃である彰子に身の回りの世話人として仕えることになる。源氏物語はこの頃から書き始められたとされ、宮中内で見聞したり体験したものを「源氏物語」の作品に散りばめている。宮中では一条天皇をはじめ多く人々が執筆途中の源氏物語を読んでいて、藤原道長も紫式部の部屋を訪ねては「続きを早く読みたい」と述べていた。

 源氏物語は約10年の歳月をかけ、宮仕えをしている最中に完成した。源氏物語はとても長い小説で400字詰原稿用紙で約2400枚との分量がある。全部で54の章に分かれ章ごとに「桐壷」「若紫」といった名前が付けられている。

主人公は天皇の皇子として生まれた光源氏で、母が低い身分だったため宮中での跡継ぎ争いにはとても耐えられないという天皇の配慮から皇族の地位を離れる。さまざまな女性との恋愛模様、友人たちとの語らいや出世競争が描かれ、物語は光源氏と孫の代まで70年間という長い時間におよび、登場人物は約500人で、約800首の和歌が紹介されている。

 紫式部は彰子に仕える前から源氏物語を書き始め、すでに貴族の間で評判になっていた。藤原道長は一条天皇を自分の娘・彰子にひきつけるために、この物語は仕えると思ったのか、紫式部を娘の世話係&家庭教師にしている。

道長のねらいどおり、歌や漢文、物語を読むのが好きな一条天皇は、源氏物語を読むために彰子の部屋に来ることが多くなり、また紫式部が彰子の家庭教師になったことで、彰子も一条天皇の相手としてふさわしい教養を身に着けることができた。宮中で仕事をするようになり、紫式部の創作意欲は高まったり、自分が実際に見たり聞いたりしたことを物語に生かした。また藤原道長は執筆のための紙や筆をたくさん与えた。当時、紙はとても貴重品だったので、道長からの援助がなければ、原稿用紙2400枚という大作を完成させるのは難しかったのである。

 完成から2年後に紫式部は宮中を去る。式部のその後の足取りはよくわかっていませんが、恋多き女として有名な大弐三位が、紫式部のあとを継いで彰子に仕えている。生まれた年も亡くなった年もわからないのですが、40代で亡くなったようである。平安時代は天皇の妃や子どものような女性でなければ、本名も生まれた年や亡くなった年もわからないことが多いのである。また「紫式部」という名前は本名ではない。源氏物語の登場人物である「紫の上」にちなんで、この名前で呼ばれるようになったのである。

 

清少納言

 日本最古の随筆として知られる「枕草子」の筆者。生没年は965年頃~1025年頃で村上天皇の勅撰和歌集『後撰和歌集』の撰者の一人である。清原基輔の娘として生まれる。清原氏は代々文化人として政治、学問に貢献した家柄である。「枕草子」に「史記」「論語」などの引用がみられることから分かるように、清少納言は娘時代から漢学を学ぶび、女性としては水準をはるかに超える教養を身につけていた。
 10代後半に橘則光と結婚し長男・則長という子が生まれているがまもなく離婚した。当時は妻問婚で、夫が通って来なくなれば婚姻は解消されることになるので、清少納言の場合もそのようなものだったと思われる。正式な離婚ではないが、清少納言が漢学の素養など教養面で則光より優れていたことからの、性格上の破綻が原因とみられる。しかし憎み合って別れたのではないことは「枕草子」に、則光と親しく話を交わす場面がいくつも出てくることから分かる。
 一条天皇の中宮(後の皇后)定子のもとに出仕し、「清少納言」と呼ばれた。少納言といっても正式な官でない。定子の明るく機知を尊ぶ気分は、鋭い芸術感覚と社交感覚を持つ清少納言にとって才能を発揮するにふさわしい舞台だった。
 出仕して2年後、定子の父の関白・藤原道隆は死に、代わって道隆の弟、藤原道長が最高権力者となり、道隆の子の内大臣・伊周(これちか)および中納言隆家は道長と対立し、罪を着せられ流罪になる。やがてふたりは許されて都に戻るが、道隆一家にはかつての勢いはなくなった。不幸にも藤原道長の全盛時代だったので、道長に連なる道長派の勢力が大手を振って通る時代で、それ以外の人たちは一歩下がって見守るほかなかった。
 宮仕えは数年続いたが定子の実家の没落と、後に乗り込んできた中宮彰子との確執などがあって、定子の25歳の死で終止符を打つ。その後、藤原棟世(むねよ)と再婚し、小馬命婦(みょうぶ)と呼ばれる女の子をもうけている。しかし、この二人目の夫は、その少し後に死んでしまう。結局、清少納言は最初の夫とは離婚、再婚した相手とは死別し、結婚という点では恵まれなかった。
 清少納言は宮仕えで、藤原氏の内部抗争の犠牲となった中宮定子の苦悶、そして25歳という若さでの死まで、その一部始終を目の前にしながらも「枕草子」ではそのことには一切触れず定子を賛美し続けた。そのような清少納言の意地とゆかしさも好もしい。
 紫式部より4~7歳ほど年上の清少納言は、紫式部を意識したふしはみられない。この点、中宮彰子に仕えた紫式部が何かにつけて清少納言を意識し、とくに『紫式部日記』の中で辛辣な清少納言批判の文章がみられるのと対照的である。清少納言の晩年はかなり零落していたとの説があるが、不明である。

 

和泉式部 

 和泉式部は意外にも、情熱的で奔放で恋多き女性であったことはあまり知られていない。紫式部は「紫式部日記」で和泉式部について「歌は面白いが、他人の歌への批評は、歌人としても評価できない」と批判している。和泉式部が紫式部にない能力を持っていたことは確かであるが、それは恋に関した、さらに云えば好色の能力だった。紫式部は「源氏物語」を書いたが好色の実践者ではなかった。その点、和泉式部は見事なまでに好色の実践者だった。女性として美しい肉体を持ち、恋に夢中になり、男を夢中にさせた。

 「和泉式部日記」には、帥宮敦道(そちのみや あつみち)親王が自分に夢中になった経過が克明に記録されている。敦道親王は冷泉天皇の第四皇子だが、母は関白・藤原兼家の長女で、優雅な風貌を持ち、時の権力者・藤原道長が密かに皇位継承者として期待を懸けていた親王だった。

 「和泉式部日記」では、この敦道親王が童子を使い和泉式部に手紙を届けるところから始まる。和泉式部は敦道親王の兄・為尊親王の恋人だったが、為尊親王は式部への「夜歩き」がたたって疫病にかかり死んでしまう。

 敦道親王は亡き兄の恋人であった和泉式部に恋心を抱き、二人の間に男女の関係ができ、やがて天性のものと思われる和泉式部の絶妙な手練手管によって、親王は遂に彼女の恋の虜となる。敦道親王は、男なくして夜を過ごせぬ多情な和泉式部が心配で、和泉式部を自分の邸に引き取るが、このことでプライドを大きく傷つけられた親王の正室(本妻)が家出してしまう。

 当時は一夫多妻制だったので、男性が何人の女性と恋愛関係を持っても非難されることはなかったが、女性の立場からみれば複雑である。夫が外で恋愛関係を持った女性を自分の邸に引き取ることは、正室の女性には耐え難いことで、それが家柄のいい正室の場合にはより耐えられなかったのであろう。

 「和泉式部日記」は親王の正室が親王のつれない仕打ちに耐え切れず、親王の邸を出るところで終わる。和泉式部は完全な恋の勝利者であった。「栄華物語」では世間をはばからない二人の恋のありさまを綴っている。しかし衆知となった二人の恋も長く続かず敦道親王は27歳で死去した。和泉式部30歳前後のことだったと思われる。

 当時、和歌に秀でていることは男性の出世に大きく関わることであった。天皇や高級官僚が主催する歌合では、その和歌の優劣が評価につながり、出世に結びついた。女性の場合も、和歌への素養、表現、内容で男性の心をつかむことができた。和歌の世界に身分の差はなく、男女は和歌の才能で価値を判断していた。

 和泉式部は越前守・大江雅致の娘とされ、19歳で高齢の和泉守・橘道貞と結婚した。夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の名をつけられたが、道貞との婚姻は為尊親王との熱愛から、親から勘当され破綻した。しかし為尊親王との間にもうけた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。

 和泉式部は一条天皇の中宮である藤原彰子に出仕し、40歳を過ぎた頃に彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚して夫に従い丹後に下った。恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評されたが、その作風は恋歌・哀傷歌などに真意が表現され恋歌には情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され、トップクラスの王朝歌人であった。

 1025年、娘の小式部内侍が死去したが、和泉式部の晩年については分からない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれている。

 

蜻蛉日記

 蜻蛉日記を書いたのは藤原倫寧の娘で右大将道綱の母であるが、名前は不明である。平安時代中期に書かれた女流作家の日記文学の代表作に数えられている。
 この藤原倫寧の娘は王朝の三大美人といわれているが、本当かどうかはわからない。蜻蛉日記は当時の最高権力者・藤原兼家との20余年にわたる不満、恨み、憎しみを延々と書き綴っている。藤原兼家の私生活を暴露した回想録といえる。
 954年、藤原倫寧の娘は藤原兼家の度々の求婚を承諾し、19歳で妻となる。兼家には時姫という正妻があり、時姫との間に長男道隆もすでに生まれていた。
 側室となった娘は道綱を産むが、道綱が生まれると兼家の足は自然に遠のき、さらに次々に愛人が現れる。この間、嫉妬に悩み満たされぬ愛を嘆き続けた。また期待を懸けた自分の息子・道綱は、時姫の子、道隆、道兼、道長らに比べたいした出世をしていない。
 「私は身分違いの相手に想われ、いわゆる玉の輿に乗ったおんなである。そういう結婚を選び取ったものが、どのような運命をたどったか、その点に興味を持つ読者にも、この日記体の文章は一つの答えを提供するかも知れない」と文中に書いてある。
 道綱の母は、藤原兼家をきれいごとの王朝貴族ではなく、図々しくて不誠実で、浮気性と暴いている。暴かれた兼家の立場にたてば、まったくたまったものではないだろうが、書き続けた彼女のすさまじい執念には恐れ入る。
 現代風に言えば、有名人と別れた女性が、その有名人の素顔を手記を書きマスコミで取り上げられことに似ているが、彼女が書いたのは、いかにひどい男だったかを世間に知らしめるただった。
「蜻蛉日記」は、約20年間の一人の女の愛情の記録で、36歳の頃から4年かけて書いたとされている。
 冒頭に「そらごとではなく、自らの身の上を後世に伝えよう」という意図が語られている。
 二人の交際は、兼家がラブレター(和歌)を寄こすところから始まる。身分の違いは雲泥の差があり、それだけに周りは大騒ぎするが、彼女は「使ってある紙も、たいしたこともないし、それにあきれるほどの悪筆だった」と冷然と書いている。
 これでは未来の王者も全く形無しだ。いかにあなたに恋い焦がれているかと兼家はせっせと和歌を送り続けが、どうせ本気じゃなんいでしょうという返歌を書くことを繰り返して、やがて二人が結ばれる。
 兼家は彼女を手に入れると少しずつ足が遠のき始め、やがて彼女が身ごもり、男の子を産むが、その直後、彼女は夫がほかの女に宛てた恋文を発見。勝ち気でプライドの高い彼女は、この日から激しい嫉妬にさいなまる。
 その後も兼家と顔を合わせれば、わざと冷たくしたり、彼女の気持ちはこじれるばかり。兼家はもともと移り気で浮気症だったらしく、次から次と女の噂が伝わってきて、彼女の心は休まるひまがない。
 蜻蛉日記にはこうした心境、屈折感を余すところなく書き連ねている。立場を変えてみると、言い訳を言ったり、ご機嫌を取ったり、汗だくの奮戦に努める兼家が気の毒になるほどである。これだけ書けば妻といえども夫に嫌われるだろう。
 これにひきかえ、兼家の正妻、時姫は優秀な子の母として、押しも押されもせぬ足場を確立していた。兼家はその時姫の産んだ娘や息子を政略に使い、政敵を打倒していった。時姫は、結局はそれが子らの幸福につながると信じ、権力闘争の苛酷さを知りながら黙々と夫の後についていく。家庭内に波風は立たず、子供らは存分にそれぞれの個性を伸ばせたのではないだろうか。だが時姫は兼家がこれから頂点(摂政)に登り詰めようとする直前に世を去った。そして時姫の他界から10年後に兼家も永眠した。通綱の母は、さらにそれから5年後に亡くなり、三人の中では最も長生きしたことになる。

 

蜻蛉日記書き出し現代語訳
 半生を虚しく過ごしてきた女がいた。容貌も人並み以下で、分別も無く、世の中から必用とされないと思いながら、ただ毎日起きて寝て暮らしていた。
 世の中に昔物語を読んでみると、ありきたりな作り話ですら人の注文を集めなどしている。私のように人並みでない経験を持った者が日記を書いたら重宝され注目されるかもしれない。
 最上級の身分の男性と結婚したら、その結婚生活はどんなものなのか、その例となればいいと思う。過去のことはだいぶ忘れているが、不完全でも書かないよりはいいだろうと書いた。

蜻蛉日記の3部構成。

第一部では兼家からの求婚、結婚、息子道綱を出産し、夫に愛人があらわれ嫉妬に狂うまでの15年間。
第二部ではますます兼家の足は遠ざかり、作者は出家すると言って騒ぎ、息子に泣き言をいわれ出家はやめるまでの3年間。
第三部では兼家からの愛をすっかりあきらめ、息子道綱の将来に望みをたくす3年間。

 

 言霊(ことだま)の世界

 言霊から現代語まで
 言霊(ことだま)とは「言葉に宿る神秘的な力」で、かつての日本人は言霊を信じていた。すなわち「心をこめて言葉を念じれば、その願いが叶えられ」、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされていて、古来から「言」と「事」は同じ概念で用いられ、日本は言魂の力による国であった。
 日本の神道では「言霊で念じれば、怨念を鎮魂できる」とし、怨霊以外にも、気候不順、天災や疫病も克服できると信じられてきた。さらに「言葉には命が宿っていて、使い方次第で人生まで左右する」としてきた。 このことは現在でも、結婚式のスピーチに生きていて、結婚式では忌み言葉を避ける習わしが残されている。良いことを言えば良いことが、悪い事を言えば悪い事が起きるとされてきた。
 しかし現社会では逆である。ひとつの悪を100倍に悪く言う評論家が、ひとつの恐怖を100倍に膨らませて書く文筆家がもてはやされ、そのため世の中はいっそう暗いお化け屋敷になっている。
 平安時代は世界最古の長編小説「源氏物語」や「竹取物語」「古今和歌集」などの名作が数多く創作されたが、それらは我が国独特の「言霊」の世界観による。紫式部は藤原氏絶頂期の藤原道長に仕えていたが、その紫式部が「藤原物語」ではなく、なぜか「源氏物語」を書き、それを藤原道長が絶賛しているのである。最高権力者なら絶賛ではなく懲罰であろうが、それは書いた目的が違うからである。源氏物語は政敵たちの怨霊を鎮魂するために書かれたものなので、物語の中で不幸な生い立ちの「光源氏」を美化することで、皇位につけずに高い官職にも就けなかった幾多の「負け組」たちの怨念を鎮魂するために書かれた物語だからである。藤原氏を中心とした平安貴族たちは、陰謀による蹴落とし陰謀政争にうしろめたさがあった。「負け組」の怨念から逃れるために、彼らの恐怖心が世界最高峰の文学を生んだのである。
 「竹取物語」も同じである。竹取は賤民の総称で、かぐや姫は賤民の代表であった。その賤民のかぐや姫が貴族や天皇を袖にする有様を描き、朝廷に虐げられた人々の怨念を鎮めたのである。古今和歌集も同じで、小野小町を初めとした六歌仙は政争に負けた人たちで、古今和歌集の紀貫之らの撰者たちは、彼らを美化して怨念を鎮めようとしたのである。さらに言えば、比叡山延暦寺や南都興福寺といった仏教寺院は、学府としての機能も果たしてはいたが、最も期待された役割は「怨霊鎮魂」であった。このように霊と怨霊は、平安文化を語る上で欠かせぬキーワードである。
 ちなみに神社も鎮魂のためで、出雲大社は大国主尊(おおくにぬしのみこと)の霊を慰め、太宰府天満宮は菅原道真の霊を慰めるためである。これが英雄賞賛に変えたのが豊臣秀吉で、秀吉は豊国神社の豊国大明神に、徳川家康は日光東照宮の東照大権現になっている。
  言霊だけでない、言霊以上に重みがあるのが日本語である。ありがとうは「有難たい」、つまり滅多にないことへの感謝の気持ちである。ごめんなさいは「御免」で、どうかあなたの寛大さで許して下さいである。このように本来意味深い言葉が軽く頻繁に使われている。
 さらに言霊以上に重要なことは、無言の重みである。たとえば英語のアイに相当するのは、私、僕、自分、俺、小生など多数あることが指摘され、西洋人は「I Love You」というが、これは日常の挨拶語で、もともと日本には同じ語句はない。Love の表現は、恋しい、いとしいで、いつくすむなど20種類以上あるが、日本人は言わなくてもわかる」という「察する文化」があるので、大切な人ほど愛という言葉は使わない。 「男は黙ってサッポロビール」の名句のように、言葉以上に無言の言葉には力がある。
 現代において、昭和の歌がまだ歌われている。それは哀愁を帯びた歌詞が心を震わすからである。時代が変われば歌も変わるが、今の若者たちの歌はどうだろうか。英語混じりの意味不明の歌詞である。これを表現するならば統合失調症(分裂病)の歌詞である。言霊などあるはずがない。4649(よろしく)と言えば、931(くさい)と答える語呂合わせ以下である。 このような歌詞が心に響くはずがない。

 

かな文字

 国文学の発達に大きく寄与したのは「かな文字」の登場である。かな文字は国文学の発達に大きく寄与し、かな文字が女性の進出を促した。かな文字は主に女性が使用する文字で、藤原氏が娘の后妃たちを教育するため、侍女に才媛を求めた。

 日本には独自の文字がなく、中国の漢字の音訓を1字1音にあて、楷書や行書の漢字で書いたものを「万葉がな」というが、「万葉がな」をさらに崩れて草書体にしたのが「草がな」である。さらに「草がな」をさらに簡略化したのが平がなである。


 また仏教経典の難しい「漢字の一部を省略してルビを振るようにしたのがが片かな」である。これらの「平がなや片かな」は、11世紀には広く使用されるようになった。
 

 字画の多い漢字を書くのは、骨が折れ、書くのに時間がかかり、漢字を覚えることがたいへんであった。たとえば「大漢和辞典」には5万字もの漢字が収録されているが、平がなならば覚える数は50字もない。漢字の千分の一の量を覚えれば自由自在に日本語を表現できるのである。
片かなや平がなの発明は膨大な労力から解放し、1字1音の表音文字は、わが国の文化発展に大きく寄与した。
かな文字が生まれた結果、日本人特有の感情や感覚が生き生きと表現できるようになった。和歌や物語・随筆・日記など、かなで書かれた国文学がおおいに発達したのがこの時代の特徴である。

 かな文字は国風文化の代表的なもので、かな文字によって女房文学が登場した。元々、日本は文字を持たない民族で、中国から輸入された漢字を使って硬い文章を書いていた。しかし紫式部と清少納言という二人の女流作家の登場により、平仮名・カタカナという日本語を表現しやすくした文字が一般的に使われるようになった。

 それまでの文書は公的なものや漢詩や和歌といったものしかなかった。しかし紫式部は恋愛小説の決定版とも言える「源氏物語」を、清少納言は名随筆として名高い「枕草子」を世に送り出した。両作品ともに当時のベストセラーとして貴族の間で親しまれ、現代においても古文の授業だけでなく、趣味の愛読書の一つとして読まれている。平安時代の想いが今の時代でも感じることができる。当時の体験を現代人に届けてくれた二人の女流作家は、平安時代を代表する人物としてとりあげるにふさわしいと言える。