源平の戦い

源頼朝

 1147年4月8日、源頼朝は尾張の熱田神宮にある大宮司の別邸(誓願寺)で生まれた。源頼朝は3男であったが、2人の兄とは違い正室(大宮司・藤原季範の娘の由良御前)の子であったことから後継者とされた。

 1156年、父・源義朝は「保元の乱」で平清盛らと共に後白河天皇に従い勝利し、源頼朝は源氏の御曹司として幼い頃から都で何不自由なく暮らしていた。しかし3年後の「平治の乱」で後白河院政派に味方した父の源義朝と源頼朝は、二条天皇親政派の平清盛に敗れ、源義朝は逃亡途中の尾張で家来の長田忠致から入浴中に襲撃を受け謀殺された。最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と、無念を叫んだとされている。

 父と共にいた頼朝は捕らえられ、平清盛の前に引きずり出された。本来ならば処刑されるはずだったが、清盛の乳母・池禅尼の異常なほどの嘆願により奇跡的に命を救われた。清盛が頼朝を斬首しなかったことが、平氏滅亡につながることになる。このことは清盛最大の失敗であった。

 頼朝は伊豆(静岡)に流罪となり、頼朝の暮らしは馬の世話や水汲み、米づくりなどをひとりでこなす辛い日々であった。しかし成長とともに庶民や武士の気持ちを理解するようになり、武士の考えや不満を身近に知り、特に土地制度の矛盾に苦しんでいる武士たちの「自ら耕した土地は自らの手で所有したい」という熱望を手にとるように理解した。

 以仁王の平家打倒の令旨を受けたとき、源頼朝は伊豆に流されてから20年が経っていた。頼朝は令旨を受け入れるかどうか態度を決めかねていた。平家の圧倒的な軍事力を前に、流人である自分に従う兵力があまりに少なかったからである。

 いっぽうの清盛は、味方と思っていた源頼政の裏切りに激怒し、全国に散らばる源氏の残党に追討令を出した。平清盛は自分に反対する勢力を皆殺しにすると宣言し、そのため頼朝の身にも危険が迫ってきた。追いつめられた頼朝は「座して死を待つよりは、戦うべし」と覚悟を決めたが、まさにそれは窮鼠猫を噛む思いだった。

  1180年8月17日、伊豆三島大社祭礼の日、源頼朝は妻の北条政子の父・北条時政らとともに挙兵し、わずか300の兵で平家の伊豆国の目代である山木兼隆(かねたか)を襲撃して戦死させた。源頼朝の挙兵に従ったのは北条時政、北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木盛綱、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであった。

 初戦こそは勝利し、三浦半島の三浦氏らと合流しようとするが、三浦義澄、和田義盛らとの合流が遅れ、続く8月23日の石橋山の戦いでは大庭景親ら3000人の兵と交戦して大敗北をきたし追いつめられた。
 石橋山の戦いでは、平家側の武将は大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、山内首藤経俊、伊東祐親らであった。大敗後の大庭景親の残党狩りは厳しかったが、この絶体絶命の頼朝を助けたのが敵の梶原景時であった。

 頼朝が数人の家来と山中に逃げ、大きな木の洞窟に隠れたが、追ってきた梶原景時は、洞窟に頼朝が隠れているのを知りながら、蜘蛛の巣があるから洞窟に隠れているはずがないと嘘をつき、故意に頼朝を逃したのである。後に梶原景時は頼朝の片腕として活躍する。

 石橋山の戦いに大敗し、危機を脱した源頼朝は湯河原や箱根の山中を逃亡したあと、8月28日に真鶴岬から船で安房(房総)へ脱出し仁右衛門島に隠れた。さらに房総半島(千葉)に逃れ、千葉常胤の元に逃げ込んだ。石橋山の戦いで敗れた頼朝は千葉常胤に援助を求めると、源氏の棟梁が挙兵したことが瞬く間に広がり、初めは小さな勢力だったが、頼朝の元には関東一円の武士団が次々と集まり、次第に一大勢力へ成長した。

 反平家の豪族たちが続々と集まり、甲斐の武田信義・一条忠頼を味方につけ、上総広常、葛西清重、足立遠元、小山朝政、下河辺行平らも源頼朝に従った。また一度は敵対した畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも加わるなどして、東国の武士たちはたちまち源頼朝の元に参じ数万騎の大軍に膨れ上がった。

 千葉常胤は頼朝に「安房国は源氏のゆかりの地ではなく、守りも期待できない。関東でその条件を満たすのは相模国の鎌倉だけ」と助言した。鎌倉は北・東・西の三方が山に囲まれ、南は海である。確かに鎌倉は敵の侵略を防ぎやすく、関東武士たちの利益を保護しやすかった。頼朝は集まった大軍勢を率いて本拠地・鎌倉を目指して進軍し、鎌倉に入り大倉御所に居を構えた。

 平清盛は石橋山の戦いの結果を聞くと、安心したのかそれ以上頼朝を追討することをしなかった。この平家の油断が頼朝の再起を可能にした。

 関東といっても当初はほとんどが平氏の流れを組む豪族達であった。頼朝を討とうとしたのは大庭景親、江戸重長、河越重頼たちであったが、大庭景親をのぞいて後に頼朝軍に参加している。図に書かれた豪族達のなかで、滅びたのは大庭景親と頼朝に従わなかった佐竹氏で、後に源平の争乱の最中に頼朝軍と戦った木曽義仲は反頼朝となり、あとは全て頼朝の御家人になった。

富士川の戦い

 源頼朝は鎌倉を本拠地と定めた。鎌倉は父の源義朝が本拠地したゆかりの地で、東西北の3方は山に、南は相模湾に囲まれたまさに天然の要塞であった。

 しかしこの動きを知ったら平家政権の朝廷は、源頼朝追討の宣旨を発し、平維盛を総大将に約2万の平家軍が鎌倉をめざした。大軍ではあったが京の六波羅に到着した平家軍は、縁起の良い日を選んで出発しようとして侍大将の伊藤忠清と平維盛の間で意見がぶつかり、そうこうしているうちに1周間ほどの時間が過ぎた。これが命取りとなった。

 平家方が時間を空費している間に、頼朝の元には続々と諸国の兵が集まり、数万騎の大軍に膨れ上がった。さらに甲斐では甲斐源氏の武田信義が、信濃では頼朝の従兄弟にあたる木曾義仲が挙兵した。

 平家の追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集め7万騎の大軍になっていたが、所詮は寄せ集めの武士であり、駆武者のなかには平家軍に入れば食えることを期待した者もかなりいた。しかし折からの西国の大飢饉で兵糧が乏しかったため調達に苦しみ兵は逃亡し戦意は低かった。

 討伐軍が駿河に到着する頃には、すでに平家方の先発隊や合流するはずだった在地の平家勢力は甲斐源氏の武田信義に滅ぼされており、頼朝軍の優勢が出来上がっていた。

 平家側は7万騎の大軍であったが、先発隊の敗北を聞いて恐れおののき、兵士たちは続々と源氏方に寝返ってしまった。実際に戦える兵力は平家方3千騎に対して源氏方は4万騎とされ、勝負は戦う前から決していた。いっぽう頼朝は石橋山の戦いで敗走した際には、兵はわずか6名になっていたが、わずか2ヶ月足らずで4万騎という厖大な数に膨れ上がっていた。この状況をみて老練の侍大将の伊藤忠清は撤退を進言したが、総大将の維盛は頑としてこれを聞き入れなかった。

 平維盛らが駿河へ到着すると、源氏と平家の両軍が駿河国(静岡県)の富士川を挟んで対峙した。源氏軍は数の上でも、意気込みの上でも平家軍を圧倒していた。平家軍士気は低く脱走する者が続出していた。

 10月20日、富士川の戦いの前日、戦闘は小競り合い程度で終わったが、決戦前夜、甲斐で挙兵した武田信義の部隊が平家の背後に回ろうとして、富士川の浅瀬に馬を乗り入れると、その動きに水鳥の大群が驚いて一斉に飛び立った。

 不安に駆られていた平家は、水鳥の羽ばたく音を源氏の夜襲と驚き、取るものも取らずに我先に逃げてしまった。

 兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れたまま、他人の馬にまたがり、酒盛りのため集めていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰された。平家方は総崩れになって逃げ出し、遠江国まで退却したが軍勢を立て直すことができず全軍散り散りになり、その様は敗残兵のごとくとなり、五騎・十騎とばらばらに京に戻ってきた。

 総大将の平維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていた。これを知った祖父の平清盛は激怒し、維盛の入京を許さなかった。しかし戦経験のない孫の維盛を大将に任じたのは清盛で、軽く勝てると見ていたからである。まさにこの富士川の戦いは「おごる平家は久しからず」のはじまりとなった。

 源頼朝はこのまま平家方を追撃して上洛しようとするが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄がこれを諌め東国を固めるよう主張した。頼朝は東国武士たちの意志に逆らうことができず、頼朝は敗走した平家を追いかけず、鎌倉で勢力を固めることにした。石橋山の戦いの敗北から、関東で実力を蓄えることを優先したのである。

 この「富士川の戦い」で戦わずに勝利した源頼朝は、合戦の翌日、黄瀬川(きせがわ)で奥州平泉から駆けつけた腹違いの弟・源義経と何十年ぶりに感動の再会となった。義経は頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から20余騎を率いて駆けつけたのである。

 その後、捕えた大庭景親を処刑し、佐竹秀義、志田義広、足利忠綱ら反対勢力を駆逐して東国を固め、伊豆から船を出して維盛と合流しようとした伊東祐親・祐清父子を捕えて鎌倉に戻った。

 頼朝は合戦の翌月には鎌倉に軍事や警察組織を統率する侍所を設置し、初代別当(長官)に和田義盛を任命して多数の武士が従った。

 頼朝は身分に関係なく「開拓した土地を所有する」という武士の願いのための政治を目指した。そのため鎌倉を本拠地として関東の体制を固める必要があった。一方、頼朝との戦いに大敗した平家には過酷な運命が待ち受けていた。

福原遷都

 源氏の挙兵に危機感を持った平清盛は、平安京遷都から約400年後の1180年6月に平家の本拠地である福原(神戸)に都を移したが、急な遷都だったため皇族や貴族、寺社からの反対が強く、結局は半年後の11月に都を京に戻すことになった。

 強引な福原への遷都は奈良・京都の寺社勢力の政治干渉を避けたいという思いと、中国(宋)との貿易の陣頭指揮をとるためであったが、急すぎる遷都で都市整備は進んでおらず、全国各地で反平氏の反乱が起きており、まずは反乱を鎮圧する方が先決として清盛は京へ再び都を戻したのである。強引な手法で体制を固めてきた平家政権も、この頃には陰りを見せていた。福原遷都は平氏が壇ノ浦で滅亡するわずか5年前のことだった。

 大きな勢力であっても、人材が育たなければいつかは衰える。また不可抗力による事態が起きても、人の恨みは時の政権に向けられる。このことは平家政権も例外ではなかった。平安末期になると立て続けに不運が襲ってきた。まず人材不足が平家を悩ました。清盛の嫡男で平家の将来を期待されていた平重盛が父・清盛に先立ち42歳で亡くなり、院政を行うはずの娘婿の高倉上皇も崩御した。源氏は徐々に勢力を拡大すると、延暦寺や東大寺の僧兵も平家追討に立ち上がり、源氏に味方した。

 

南都焼き討ち

 近江源氏は北陸と平安京を結ぶ物流拠点である琵琶湖を占拠していた。近江源氏は1180年11月に北陸から都へ上る年貢を差し押さえ、園城寺の僧兵達は近江源氏と手を結び、その連合軍は一時平安京を占拠する勢いを見せた。これに平家に所領を圧迫されていた興福寺が参加した。

 これらの大寺院は平家にとって無視できない存在となった。このことは以仁王が挙兵した時、園城寺や興福寺が以仁王に協力的だったことからもわかる。平家と園城寺・興福寺の関係は元々微妙であったが、近江の反乱によって両者の関係は完全に決裂した。

 同年12月、清盛息子の平重衡(しげひら)を総大将として興福寺に兵を送った。それは平家に歯向かう奈良の東大寺や興福寺の寺社勢力を鎮圧するためであった。しかし鎮圧はしたものの、強風の日に攻めたため、火が燃え広がり興福寺、東大寺の建物や仏像を焼きつくしてしまった。そもそも平重衡は寺院に火を放つつもりはなかったが、日本の文化財保護の観点からすればこれほど愚かなことはない。南都焼討の張本人となった平家は、後世の人々から多くの非難を受けることになる。

 実際に奈良の東大寺に行ってみるとわかるが、東大寺には鎌倉時代以前の建築物はほとんどない。戦火から免れたのは外れの建物だけで、主要な建物は全て焼失している。

 東大寺は奈良時代に聖武天皇が建立した皇族ゆかりの大寺院で、興福寺は藤原氏の氏寺であった。当時の貴族は仏教を信仰しており、東大寺や興福寺を燃やせば仏教を信仰する皇族や藤原氏などが平家の敵になるのは当然であった。

 その日以降、平家は仏敵とされ、貴族のみならず庶民の多くは源氏を支持するようになった。南都焼き討ちによって平家の勢力は大きく衰退することになる。

 平清盛は法皇の権力を利用して有利に勢力を復活しようとして、幽閉していた後白河法皇に再度政務を願いでた。

 

清盛の死

 富士川の戦いでの敗北を知った平清盛は激怒したが、その数ヶ月後の1181年2月、突然、高熱を発して倒れた。比叡山から汲んできた水を入れた風呂に入ると水が沸騰し、体に水をかけると水が飛び散り黒煙が部屋中に渦巻いた。清盛は壮絶な死に際に「頼朝の首を墓前に供えることを無二の供養と思え」と悶絶しながら言い残して、発熱から5日後に64歳で絶命した。清盛は東大寺や興福寺を焼いたことから、清盛の死は仏罰とされた。

 次に平家を待ち受けていたのが大飢饉であった。異常気象により雨は降らず農作物は不作となり、西日本を中心に餓死者が相次ぎ、この大飢饉は数年続いた。これを当時の年号から養和の大飢饉という。

 清盛の死後、三男の平宗盛(むねもり)が平家の棟梁となったが、清盛ほどの器量はなく、また白河法皇が院政を再開したことから、平家政権の将来に暗い陰が立ち込めた。

 もちろん大飢饉は平家のせいではない。東大寺の延焼も強風のために火の勢いが強くなったせいである。しかし南都焼き討ちから少し経った1181年1月、病に倒れた高倉天皇が亡くなり、さらにその1ヶ月後には平清盛までもが亡くなってしまう。

 「これは仏の罰に違いない」と朝廷内では多くの人々が慌てふためき、人々は恐怖に包まれた。「飢饉は大仏を焼いたタタリで、すべての災いは平家にある」と人々は信じ込み、平家への恨みが高まった。寺院の僧兵の勢力を抑えるためとはいえ、平家の南都への派兵は完全な失敗になった。

 しかしながら、全国に拠点を持つ平家の勢力はまだ健在であった。しばらくは平家の天下が続くと思われていた。しかし彗星のように現れた源氏の若武者によって、1183年、平家はついに都落ちを余儀なくされた。平家を京から追い出したのは木曾義仲(源義仲)であった。

木曽義仲

 木曽義仲は1歳の時に父の義賢が、義朝(頼朝の父)と対立して、頼朝の兄義平に殺されている。そのことから源義仲と頼朝は従兄弟でありながら仲はよくなかった。

 頼朝は義仲の7歳年上で、義経は義仲の5歳年下である。木曽義仲は幼少のことから木曽の豪族・中原兼遠の元に隠れ住んでいたが、以仁王の令旨を受け取り挙兵すると、その勢力は信濃から越前へと急速に拡大した。

 木曽義仲は京に攻める前に、父の弟・源義広が頼朝に対し挙兵するが負けてしまい義仲を頼ってきた。義仲が源義広を保護したため義仲と頼朝は対立し、義仲は西に平家軍、東に頼朝軍と両面から挟まれる形になった。

 頼朝は10万の兵で信濃に侵攻したが、義仲は長男・義高を頼朝のもとに人質として送り和議を求めた。頼朝はこの和睦に応じたため、義仲は平家との戦いに集中できるようになった。

 

倶利伽羅峠の戦い

 木曽義仲の勢力は信濃から越前へと急速に拡大した。義仲は政治家向きの頼朝とは違い戦上手であった。

 木曽義仲の勢力に危機感を持った平家は、北陸の反乱を討つために平維盛・平通盛を大将に10万の大軍を派遣した。

 1183年5月、富山と石川の境にある倶利伽羅峠で、平維盛率いる征伐軍と義仲軍が激突した。義仲軍5万に対し平家軍は10万の大軍であった。義仲は平家軍を狭い倶利伽藍峠に誘い込むため、昼間は矢合せなどで時間を稼ぎ、義仲は本隊4万と分隊1万に分けると、分隊を暗闇にまぎれて平家軍の背後に回らせ、静まりかえった夜の倶利伽羅峠に、突然、太鼓やホラ貝の音が鳴り響き、これを合図に義仲方は一斉に平家軍に襲いかかった。

 義仲は百頭の牛の角にたいまつをくくりつけ、断崖の近くの平家の陣中へ乱入させた。牛は暴れまわり平家軍を襲った。暗闇で大混乱に陥った平家の軍勢は、義仲軍に責め立てられ、倶利伽羅峠の深い谷に雪崩を打って落ちていった。7万騎が谷底に落ち、谷底では馬には兵が、兵には馬が重なった。おびただしい数の死体から出た血や膿が流れ込んだ小川は「膿川」と今日まで呼ばれ、長きにわたって大量の白骨が散らばった谷を地元の人々は「地獄谷」と呼んだ。

 地の利を生かした戦法で源義仲は圧勝し、平家軍は一夜にして10万の兵が2万にまで激減する空前の大敗北をきした。この火牛の計を用いた戦いは倶利伽羅峠の戦いと呼ばれている。

 義仲は倶梨伽羅峠の戦いで捕虜にした平家の猛将・瀬尾太郎兼康を「失うには惜しい武士」と命を救ったが、瀬尾太郎兼康が再び敵にまわり多くの被害を与えたため、義仲は「今度は許さん」と大攻勢をかけて瀬尾を自害に追い込んだ。最期まで瀬尾が奮戦したことを聞くと「さすがは瀬尾、やはり殺すには惜しい男だった」と悔いたとされている。例え裏切られても忠義心を高く評価したのだった。

 源義仲は倶利伽羅峠の戦いに勝った勢いに乗り比叡山に迫った。比叡山では平家勢力が集まり、僧侶たちは義仲に協力した。都に乱入する体制が整うと、身の危険を感じた平家安徳天皇を奉じて西国をめざした。

 この際、平家は院政を行っていた後白河法皇を連れ出さなかった。このことが後々まで尾を引くことになる。後白河法皇は比叡山に身を隠していたのである。平家後白河法皇を探すも、同行を諦め京を去った。これが平家の都落ちである。

 その2週間後、義仲は比叡山にいた後白河法皇を保護して京都に入った。都の人々は傲慢な平家を追い出した英雄として義仲軍を喝采で迎え、日の出の勢いで上洛した義仲を「朝日将軍」と呼んだ。

 この義仲軍を後白河上皇や都の貴族たちは歓迎した。しかし義仲軍は京で傍若無人の振る舞いを始めた。木曽仲軍は大軍勢による遠征で食料が乏しく、京も養和の大飢饉で食糧が著しく欠乏していた。人口約15万人のうち、餓死者が4万人もでるほどの飢饉で、道には死者が連なっていた。

 義仲軍は京で兵糧を補給することが出来ず、腹を空かせた兵たちが民家へ押し入り略奪を始めた。食糧不足から兵が暴徒化するのは無理のないことであった。収穫前の青田を馬のエサにして、他人の家の蔵を開け、兵の中には追い剥ぎをして着物を奪う者もいた。このような略奪行為、乱暴狼藉は「平家の方がまだよかった」と云われるほどで、義仲の評判は地に落ちた。

 義仲は略奪を止めたくても、略奪の代わりに与えるものがなかった。ここが関東に残ってじっくりと足固めをしていた頼朝との違いであった。また後白河法皇を始めとする公家たちは、義仲が牛車の乗り方を知らず、食事の作法も知らなかったため「木曽の野生児」と馬鹿にした。義仲にとっては武勇こそが大切で、政治的な駆け引きなどは思いもつかないことだった。義仲の軍勢は寄せ集めだったため統制がとれず、その日の食糧にもこと欠いていた。準備をせずに京に入ったことから、義仲の軍勢の乱暴狼藉は住民から嫌われ義仲の評判は地に落ちた。

 

平家追討

 木曾義仲は安徳天皇が都落ちしたことから、皇位継承を巡って後白河法皇と対立した。そのため法皇や貴族からも疎まれ、10月、後白河法皇は義仲軍を都から遠ざける為に「平家追討」を命じて西へ下らせた。木曾義仲には後白河法皇や貴族らの権謀術数を耐え抜く頭脳と忍耐が必要だったが、短気だった木曾義仲は平家追討を受けてしまう。

 しかし平家追討は名目であって、半ば強制的に木曾義仲を京から追放することが目的だった。平家追討を願い出たのは木曽義仲であるが、後白河法皇らによる「この役立たずが、とっとと京から消えされ」との無言の策略があった。

 しかし義仲軍にはかつての連戦連勝を続けた覇気はなく、規律も乱れており「水島(倉敷)の戦い」で平家に完敗し、しだいに義仲から離反する兵が増えて、義仲は追いつめられ孤立した。

 義仲に不満を持つ後白河法皇は、義仲の留守の間に密かに犬猿の仲であった頼朝と連絡をとり、頼朝に流罪前の官位を復活させ、頼朝に義仲を討つように命じた。頼朝は東国の支配権と引き換えに後白河法皇の申し出を承諾し、それまでは「反乱軍扱い」だった頼朝の軍勢が、ここで初めて朝廷から正式に認められた。これを寿永二年十月宣旨という。源頼朝はこれを受けて、食糧難で苦しむ京に食料を運ぶという名目で源義経と源範頼の兄弟を派遣した。

 

法住寺合戦

  木曽義仲ここで後白河法皇の寿永二年十月宣旨を知ることになる。源頼朝が派遣した義経らが京に入れば、自らが戻る場所を失うことになる。窮地に立たされた木曽義仲は、急遽、京へ帰還することになる。

 この時点で木曽義仲が倒すべき敵は平家ではなく源頼朝になった。京の軍隊としての地位を源頼朝に奪われれば、それは木曽義仲の失脚どころか命さえも奪われる危険性があった。また裏で義仲外しに暗躍し、喧嘩を売るかのような後白河法皇も気にくわなかった。
 木曽義仲の軍勢は、かつては数万騎だったが千騎あまりに激減していた。これは兵の激減は水島の戦いの敗北よりも、後白河法皇に逆らったことから離脱者が多く出たのである。一方、木曽義仲と一触触発の状態になった後白河法皇は御所だった法住寺の武装化を始めていた。後白河法皇は「木曽義仲よ、平家追討のためすぐに西国は向かえ、逆らって京に残った場合、法皇の命令に逆らったものとして謀反とみなす」と最後通牒を言い渡した。
 木曽義仲はこの後白河法皇のこの命令を受け入れなかった。後白河法皇の命令に従えば、源義経の京入りを認めることになるからで、後白河法皇の命令に逆らえば反逆者扱いになるが、万策尽きて窮地に追い込まれた木曽義仲の決断は「後白河法皇を武力で屈服させ、自分の言うことを聞くようにする」というものであった。窮地の中、限られた選択肢しかなかった木曽義仲は
後白河法皇の法住寺を攻めた。それは治天の君に刃を向けるという前代未聞の大事件であった。

 義仲軍の軍勢は少ないながらも強かった。義仲軍は後白河法皇の味方となった2万の僧兵や武士たちを討ち取り、後白河法皇の館を襲撃して近臣たちを殺害した。危機を感じた後白河法皇は法住寺から脱出するが、木曽義仲軍に捕まり幽閉されてしまう。

 木曽義仲は後白河法皇を北陸へ連れ去り、そこで再起を図ろうとした。しかし北陸へ戻るには延暦寺の比叡山を通る必要があった。木曽義仲は法住寺合戦で延暦寺の代表だった明雲を殺していたため、延暦寺と敵対関係にあった。木曽義仲は延暦寺に対抗する兵力を持っていなかった。

 木曽義仲は武力で幽閉した後白河法皇に自らの要求を強引に押しつけ、征夷大将軍の役職に就く。武力で脅された後白河法皇は木曽義仲を征夷大将軍にする気はなかったが逆らうことはできなかった。
 征夷大将軍は東国の総指揮官的な役割で、征夷大将軍になれば官軍として関東の源頼朝を攻めることができ、寿永二年十月の宣旨によって源頼朝に奪われた立場を奪還できた。
木曽義仲後白河法皇を幽閉し、無理やり約370年ぶりに征夷大将軍に任じさせたのである。

 義仲は「この義仲、帝との戦に勝利した以上、私が天皇、法皇になるべき」と宴を開き上機嫌であった。義仲には義経の軍勢が関東の飢饉によって動員できないという情報が入っていたため安心していたのである。しかしこの情報は間違いであった。

 源義仲を倒すため、源頼朝は源義経を大将に5万5千の軍勢を派遣した。義仲は平家に対し「過去を水に流し、力を合わせて頼朝を倒そう」と同盟を呼びかけるが、平家はこれを拒否した。平家は窮地に追い込まれていたが、後白河法皇を襲うという暴挙を犯した木曽義仲と手を結ぶことをしなかった。このことから日本は三国志の世界の如く、西に平家、都に義仲、東に頼朝と三者が対峙しあう一触即発の状況になった。

 

宇治川の合戦

 1184年1月20日、頼朝が派兵した源義経・源範頼の率いる義仲討伐軍が京都に迫った。京の防衛ラインは宇治川と瀬田川とされ、木曽義仲軍と源義経・源範頼軍は宇治川・瀬田川で衝突することになる。

 源義経・源範頼は二手に軍を分け京を目指した。源義経は宇治川を渡り南から北へ、源範頼は瀬田川を渡り東から西へ平安京へ進軍した。主力は源範頼で源義経は敵の背後を付く搦手(からめて)だった。これを受けて木曽義仲も宇治川・瀬田川に兵を送り込んだ。主力の源範頼軍に対して500騎、搦手の源義経軍には300騎を向かわせ、木曽義仲は幽閉している後白河法皇の不穏な動きを監視するため京に残った。木曽義仲は源義経、源範頼軍の兵力が少ないという誤った情報を手にしていたので、このような少ない兵で無謀な戦をしたのである。

 木曽義仲軍は京の入口となる宇治川に布陣して義経隊と向かい合った。源氏の一族どうしが宇治川で戦うことになった。

 この戦いで源義経軍の佐々木高綱と梶原景季(かげすえ)が、先陣争いをしたことは有名である。佐々木高綱、梶原景季が馬で宇治川を渡りきったことをきっかけにして、一斉に全軍が渡河を開始した。ここに「宇治川の合戦」の火蓋が切って落とされた。

宇治川の先陣争い

 後白河法皇から木曽義仲追討を命じられた源頼朝が、源義経軍を先発隊として出兵させ、義経軍が宇治川に到着すると、宇治橋は義仲軍により破壊され渡ることが出来なかった。川を渡るにも対岸には義仲軍が待ち構えて矢を放ってくる。そこで「我こそが先陣を切って川を渡る」と梶原景季と佐々木高綱が名乗り出た

 白馬に乗った武士が佐々木高綱、黒い馬に乗った武士が梶原景季である。梶原景季は石橋山の戦いで絶体絶命の源頼朝を救った梶原景時の息子である。この二人はかつて頼朝の白い名馬「生月」を欲しがり、結局この白馬は佐々木高綱に与えられ、梶原には黒い名馬「磨墨(するすみ)」が与えられたが、それ以来二人は並々ならぬ競争心を持っていた。 

 佐々木と梶原は宇治川に飛び込むと、先に対岸へ渡ろうと意気込み、磨墨に乗った梶原が先を行った。そこで佐々木が梶原に「梶原どの、馬の腹帯が緩んでいるぞ」と声をかけた。それを聞いた梶原が腹帯を確認している隙に、佐々木は宇治川を渡りきり見事に先陣を果した。

 合戦では6万の義経軍に対し義仲軍は7千の兵で激しく抗戦した。しかし多勢に無勢である。宇治川の先陣争いからわかるように源義経軍は血気盛んな武将が数多く揃っていた。義仲軍の敗北は時間と共に決定的になっていく。木曽義仲は義経の軍勢に大敗をきたした。

 宇治川は平安京の最終防衛ラインである。ここを破られることは源義経の京入りを許したのと同義になる。「宇治川防衛ライン破れる」の報告を受けた京の木曽義仲は、まだ辛うじて踏ん張っている瀬田川防衛部隊へと合流しようとした。しかしその瀬田川も源範頼により突破されようとしていた。自らの敗北、そして自らの死を覚悟した木曽義仲は、こうして最後の死地へ赴いてゆく。

宇治川の先陣争い。 白馬「生月」に乗った武士が佐々木高綱、黒い馬「磨墨」に乗った武士が梶原景季である。
宇治川の先陣争い。 白馬「生月」に乗った武士が佐々木高綱、黒い馬「磨墨」に乗った武士が梶原景季である。

粟津の戦い

 1184年1月、義仲北陸へ脱出をはかった。戦場の混乱の中、義経軍の間では「義仲は丹波へ逃げた」「いや北陸へ向かった」と情報が錯綜したが、義仲はまだ瀬田近辺にいた。

 源範頼軍に瀬田川を突破された木曽義仲は、そこから逃れんと必死に逃げまわる。木曽義仲の兵は次々と命を落として兵数はわずかばかりとなった。木曽義仲は今井兼平を探していた。今井兼平は木曽義仲が1歳の時に預けられた乳母の子で2人は子どもの頃から兄弟のように育ち「死ぬ時は一緒」と誓い合っていた。

 義仲の視界に琵琶湖が見えてきたとき、遠くから約50騎の武士が近づいてきた。それが今井兼平だった。今井兼平も義仲と死を共にする覚悟でいた。馬の足を速めて駆け寄り義仲は兼平の手をとった。この姿を見て散り散りになっていた味方の兵が集まり出した。その数、約300騎。彼らは皆、死ぬことを承知の上で自分の意思で集結した。

 「この浜で最期の戦いを始めるか」と覚悟していると、6千騎を率いた甲斐・一条次郎の隊が見えてきた。「良い相手が見つかった。同じ死ぬなら大軍の中で散ろうぞ」義仲は先頭に立ち「義仲はここにあり、この首をとって頼朝に見せい」と叫び突っ込んで行った。

 突撃した300騎は大いに暴れ、敵陣を突破して50騎が残った。義仲も兼平もまだ生きていた。続いて土肥実平が200騎の特攻をかけ、さらに別の500騎が突撃を繰り返して、義仲軍は最後には5騎になった。上洛前に5万人いた義仲軍は最後は5人になったが、その中に一人の女武者がいた。それは巴御前であった。

 

巴御前

 巴御前は27歳で今井兼平の妹である。幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の相手をしていた。「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」と美しさを賛美され、義仲の妾あるいは正妻であった。大力に長じて戦にも召し使われ「強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と称されていた。大刀や弓を駆使して戦い、荒馬「春風」に乗って風を切る巴御前は、人一倍派手な鎧を着て、大型の弓と大太刀を自在に扱った。

 倶利伽羅峠の戦いや横田河原の戦いでも多くの敵兵を倒し活躍している。宇治川の戦いでは、前方に立ち塞がる敵将・畠山重忠は「かの者は女に非ず、鬼神にも勝る」と言わしめ、追討を諦めさせた女勇将であった。

 義仲は巴御前に生き延びて欲しかった。もはや5騎しか残されていない。ここから先は確実に死が待っていた。「巴、よく聞け。今から別行動とする。早く逃げよ」「いやです。最後までお供いたします」。

 巴御前は死ぬまで義仲に寄り添うと云ってきかなかった。御前に「命を大切に」と説得しても通用しなかった。

 そこで義仲は心を鬼にして云った。「巴、私の最後の戦に女を連れていた、と世の笑い者にしたいのか。武士の名誉を守れ」と言われ、巴御前は返す言葉がなかった。

 しばらく義仲から離れるのをためらっていたが、義仲が「さらばじゃ」と云って馬で駆け出すと、30余の騎が追撃してきた。巴御前は泣きながら、その敵のど真ん中へ出ると「最後の奉公。私と戦え」と愛馬を突入させた。巴御前は真っ先に敵将の体を掴んで馬から引きずり落とし、鞍に首を押し付け首を斬って投げ捨て、巴御前はその後東国へ落ち延びて行った。

 近江国粟津(大津市)で義仲は新たに追撃を受けた。琵琶湖南岸は敵だらけで、矢は少なく、いよいよ最後となった。兼平は腹をくくり「ここまで戦えば悔いはない。殿、残りの矢は7、8本です。私が時間稼ぎをしている間に、あそこに見える粟津の松原で静かに御自害なされ」、「何を言う。私は共に戦って散るぞ」。

 兼平の頬を涙がつたった「日本に名を馳せた殿が、無名の雑兵に討たれてはあまりに無念ゆえ、早く松原へお入り下され」。これ以上、義仲は何も云えなかった。そこで義仲は「兼平さらば」と単騎で松原を目指した。

 今井兼平は素早く矢を放って瞬時に7、8騎を射落とし、矢が尽きると太刀を振り回した。敵は「早く奴を射れ」と次々と射掛けたが、気迫に圧倒されて命中しない。義仲が「もうすぐ松林だ」と思ったその時、馬の足がぬかるみに捕らわれて身動きがとれなくなった。「不覚、兼平はどうなったのか」と背後を振り返った瞬間、義仲の額を矢が貫いた。即死だった。享年30。

 敵は義仲の首を掻き切ると、太刀の先に刺し掲げ「鬼神と聞こえし木曽殿をこの石田次郎が召し取ったり」と名乗りを挙げた。今井兼平はこれを聞いて「殿を失ってはもはや戦う意味などない。東国の武士たちよ、しかと見よ。これこそが日本一の豪傑による自害の見本ぞ」。兼平は馬上で太刀の先端を口から刺し込み、頭から飛び降りて自害した。

 戦後、源範頼・義経・安田義定らは戦勝を鎌倉へ報告したが、いずれも「勝ちました」程度の簡単なものであったが、梶原景時の報告書だけが義仲の討ち取られた場所、様子、おもだった敵方の武将の死者と討ち取った者の名前などを詳細に記しており、頼朝は梶原景時の事務能力・実務能力の高さを喜んだ。

 

義仲寺

 木曽義仲の墓は義仲を憐れんだ近隣の村人たちが造った。その数年後、尼僧が墓の側に草庵を結び、朝夕に菩提を弔い始めた。人が尼僧の名を尋ねると「名は捨てました」と答えた。後に村人はその女性が巴御前と知り、没後に草庵を「無名庵(むみょうあん)」と呼んた。草庵の名は巴寺、木曾塚、木曾寺と変わり、100年後には「義仲(ぎちゅう)寺」となった。

 義仲の他界から510年後の1694年、松尾芭蕉が遺言を弟子に言い残す。「私の亡骸は、義仲公の側に葬って欲しい」。芭蕉は木曾義仲を愛し、奥の細道の完成後は、京都・嵯峨の住居「落姉舎(らくししゃ)」と義仲寺を交互に住んだ。芭蕉は無骨で一本気な義仲を、さらに敵に後ろをみせない哀れな末路を愛おしく受け止めていたのである。

 芭蕉の亡骸は遺言に従って弟子の去来、基角らが舟に乗せ、淀川を上がって義仲寺・無名庵の前に埋葬された。境内には弟子によって句碑が刻まれている。それが「木曾殿と背中合せの寒さかな」である。

       義仲寺の左から、木曾義仲の墓、巴御前の墓、松尾芭蕉の墓

平家の都落ち

 平家が安徳天皇とともに都落ちしたことから、京には天皇が不在となった。院政を行っていた後白河法皇は新たな天皇を立てることを決意され、源義仲は以仁王の子である北陸宮を推挙していたが、結局、高倉上皇の子の尊成親王(たかひらしんのう)が、第82代の後鳥羽天皇として4歳で即位した。

 後白河法皇は治天の君の権威で後鳥羽天皇を即位させたが、後白河法皇には大きな問題が待っていた。それは天皇であることを証明する三種の神器平家によって持ち去られていたことである。

 後鳥羽天皇が即位され、安徳天皇と二人の天皇が同時期に存在することになった。すなわち南北朝時代と同じ状態になり、南北ではなく東西朝時代という状態になった。

 平家は西国に都落ちしたが、西国では平家まだ力を持っていた。追ってきた源義仲に大勝し、復権を虎視眈々と狙っていた。瀬戸内海では海戦が多いため、強力な水軍を持っている平家にとって、そのことが大きな強みであった。いっぽうの源氏は東国の山育ちが多く水軍を持たなかったため、平家と源氏の戦いは一進一退を繰り返すと思われた。ところが平家は都落ちしてから2年足らずで滅亡することになる。

 源頼朝は平家追討を決意するが鎌倉を動かず、代わりに弟の源範頼(のりより)と源義経に戦わせた。範頼は頼朝の指示に忠実な武将であったが、戦は強くなく、いつしか義経が戦いの指揮をとるようになった。

一ノ谷の合戦(鵯越の逆落とし)

 平家は1183年5月の倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗れ、兵力の大半を失い、同年7月に安徳天皇三種の神器を奉じて都を落ちて九州の大宰府まで逃れた。

 木曾義仲が京に入ったが、後白河法王はあまりに荒っぽい義仲の言動を嫌い、義仲に西海に逃れた平家と戦うように命じると同時に「打倒義仲の院宣」を源頼朝に出した。

 木曾義仲はいったんは京に戻って後白河法王を幽閉し、征夷大将軍に就任するが、源範頼・義経の連合軍に破れ、義仲は戦死、巴御前は北陸へと落ちて行った。

 都落ちした平家は勢力を盛り返すと、源義仲の軍を水島の戦い破り、平家は四国・屋島に本拠地を移した。1184年の正月には、平家源氏の内輪もめを好機に、京都を奪回すべく東上して、念願の都奪還のために摂津・福原(神戸)まで戻り、神戸の生田神社周辺の一ノ谷に陣を整え、都を伺うまでになった。平家都落ちからの失地回復を目指していた。

  ここで後白河法皇による停戦命令があった。一ノ谷の合戦前日、後白河法皇の近臣が平家に送られ、持参した手紙には「源平の和平の件でそちらに使者向かうので、交渉が終わるまで一切戦闘行為をしないように。このことは関東武士(源氏)にも伝えてあるので、平氏方も徹底すること」とあった。平家は後白河院の仲裁和平案を信じ、源氏と戦うことを予想していなかった。しかし後白河院の話し合いの和平案は真っ赤な偽物で、範頼・義経の軍は平家の一の谷を強襲したのである。

 平宗盛は福原に本陣をおき、東の生田口には知盛、西の一ノ谷口には忠度、山の手の鵯越口に平盛俊を配備して強固な防御陣を築いた。福原は北に山が迫り南には海が広がる天然の要害で、東西の守備を固めれば難攻不落と思われた。2月5日、三草山の戦いで資盛が敗退すると、宗盛は山の手に平通盛・教経を向かわせて北の守備を固めた。

 源氏は京都を出陣すると、範頼の軍勢6万が山陽道から福原に進軍し、義経軍1万は裏側の丹波方面から進軍した。平家軍は正面の山陽道からの攻撃に必死で防戦し、一の谷は血で血を洗う激戦地となった。範頼軍は突撃するが、矢を浴びて撤退するなど戦局はこう着状態に陥った。

 義経勢は途中で土肥実平に主力の兵を預け、土肥実平を一の谷の東の生田に向かわせ、平氏を両面から攻撃しようとした。範頼の軍が東から、義経の軍が西から攻めて挟み撃ちにする予定だった。しかし熊谷直実たちの無茶な先陣争いから戦闘の発端を開いてしまい、義経たちが六甲の山の中を進軍しているうちに、眼下では死闘が繰り広げられた。

 義経は、平家が東西両面に気をとられている間に、地元の猟師・鷲尾三郎義久の道案内で「70騎の別働隊」を率いて迷路のような山道を切り抜け、眼下に一の谷を見下ろす鵯越の絶壁に到着した。ここで義経はその崖を駆け下りて戦闘に参加することを思い立つ。

 義経がこの絶壁に着くと「馬は下りれるか」と鷲尾義久に尋ねると「鹿が下りるのは見たことがあるが、馬で下りたことは聞いたことがない、無理です」と答えた。義経は「鹿も四つ足、馬も四つ足。これくらいの崖、馬で下りれないことはない」と、10頭の馬を落としてみると、そのうちの何頭かは転げ落ちたが残りは無事に下までたどりつた。

 それを見た義経は「乗る者さえしっかりしていれば大丈夫」と、義経を先頭に崖を下り、残りの軍勢も一斉に続いた。義経は山の頂上から、降りれるはずのない急斜面を騎馬ごと一気に下り、平家の背後から奇襲をかけた。

 断崖絶壁を鬨(とき)の声とともに馬で降り、村上康国の軍勢が火を放ち、一の谷の館は炎に包まれた。平家はまさか断崖絶壁の一の谷の本陣背後の崖から攻めてくるとは思ってもいなかった。背後は切り立つ崖で、まさか源氏の軍勢が降りるとは思っていなかったのである。

 平家は正面から攻めてくる源氏を迎え撃とうとしていたので、思いがけない背後からの攻撃に不意をつかれ大混乱となり西へ敗走せざるを得なかった。海には平家の兵船が数多く並んでいた。家は焼かれ、火に追われた平家の人々は我先に海岸へと急ぎ、船へ乗り込もうとするが、皆が一斉に船に乗ったため何隻は沈んでしまった。まさに一の谷の海岸は修羅場となった。

 この戦は一ノ谷の戦いと呼ばれ、この奇襲は後の世に「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」と称された。

 「馬が崖に弱いこと。戦いは武士と武士の1対1であること」、義経はこのような常識にとらわれない発想と瞬時の判断力を持っていた。義経という戦争の天才を得た源氏と、人材不足に悩む平家。この大きな差が戦いの勝敗を分けた。この戦いで平家は平通盛、忠度、敦盛を失った。

平敦盛と熊谷直実

 平敦盛は清盛の弟経盛の末っ子で、まれにみる笛の名手で美男であった。平家一門が官職につく中、平敦盛はただ一人無官で、それゆえ無官大夫と呼ばれていた。平敦盛は平家一門と苦楽をともにし、平家が再起をかける一の谷に出陣していた。

  一ノ谷の合戦で敗れた平家一門は海上へと敗走したが、味方の船は混乱に襲われ多くの平家軍が取り残された。平家の残党狩りが始まり、源氏の武将は功名を立てようとして、死に物狂いで名だたる平家の武将を探した。平家の武将たちは岸から沖の船へと向かい、平敦盛もただ一騎のみで馬を海に入れて沖の船を目指していた。

 その時、敵将を探していた熊谷直実が背後から敦盛を呼び止めた。熊谷は「敵に後ろを見せるのは卑怯である、お戻りなされ」と呼び止めた。熊谷直実は歴戦の猛将で、平敦盛は16歳の公達である。勝敗の行方は最初からわかっていたが、敦盛は勇敢にも取って返すと、あっという間に熊谷は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと兜を上げた。

 兜のあげると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者に熊谷直実は動揺してしまい、その美しさから首をとることができなかった。熊谷はこの若者を逃しても、戦局には関係ない。この公達の父の悲しさもわかるので逃がそうとした。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答えた。まさにその時、土肥・梶原の軍勢がやってきた。

 もはやこれまでと熊谷直実は涙ながらに敦盛の首を切った。敦盛は死を受け入れる天晴れな武将であった。だからこそ熊谷も心動かされたのである。首をとった熊谷だがこの公達が誰なのかわからなかった。首を包もうとしたとき一本の笛を見つけた。

 平家軍は戦場にあっても風流を忘れず、決戦前日の夜も平家の陣屋から管絃の音色が聞こえていた。戦いで血眼になっている源氏の卑しい面々と違い、平家は心にゆとりを持ちつづけていた。熊谷はそのことを思い出し、昨夜の笛の音はこの公達であったかと感心した。

 熊谷は本陣に戻ってこの首を見せると、居合わせた人々はこれは平敦盛であるとその笛から判明して涙ぐんだ。平敦盛は悲劇の公達として平家物語で最も有名な人物である。その敦盛の最期を歌った「敦盛最期」は涙を誘う曲であった。おそらく平敦盛は戦場よりも色恋の似合う花の公達であったのだろう。敦盛は満開の桜の花の元、花が散るように死んでいった。熊谷直実は自分の息子と同じ年頃の敦盛を討ったことから、世の無常を感じて出家し法然の仏門に入り敦盛を弔った。
 平家物語はこの場面を哀切に描いている。織田信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は幸若舞「敦盛」の一節である。

一ノ谷の合戦後

 1184年2月、源義経の活躍で、一ノ谷の戦いで大敗を喫した平家は屋島へ避難した。一ノ谷の戦いは平氏軍の一方的敗戦に終わり、源氏は平家の主だった武将の8割近くの武将を討ち取り大戦果を挙げた。源氏は大勝利をえたが、その勢いで屋島に攻め入ることはしなかった。

 屋島(四国高松市)に攻め入るは、船とそれを動かす水夫が必要だった。ところが源氏軍はこれらを持ち合わせていなかった。平家軍が瀬戸内海を挟んで目と鼻の先にいるのに、源氏軍は平家軍に手も足も出せなかった。源氏軍として派遣されていた源範頼・源義経は一度撤退することになる。
 源範頼は鎌倉へ
凱旋し、源義経は不測の事態に備え京に残った。源頼朝は総大将2人を引き上げさせ、西国には土肥実平・梶原景時を配置した。

 頼朝は義経の縁談をまとめて「郷(さと)御前」(河越重頼の娘)と結婚させた。この時が頼朝・義経の蜜月の頂点だった。これ以降はボタンの掛け違いの連続になる。

 頼朝は朝廷から支配を受けない武家政権を目指していた。つまり頼朝の許可がなければ朝廷から官位を貰わないように命じ、無許可で朝廷から官位を得ることを禁じていた。しかし義経は自分が官位を授かれば源氏全体の名声に繋がるとして、兄の許可を受けずに任官したのである。しかも役職は検非違使(判官)であった。

 検非違使になることは鎌倉の政治に反することを意味していた。頼朝の構想を身内の義経が壊したのである。頼朝は弟の官位習得を売名行為と見なし、武家政権を目指している矢先に、朝廷から官位を貰った義経の振る舞いに腹を立て、義経を平氏討伐軍から外すと総大将を範頼にして指揮を取らせた。

 1184年6月、屋島の平家が山陽道を攻め入り、源氏軍は劣勢に立たされた。海での戦いでは平家軍の方が一枚上手だった。さらに同年7月、伊勢・伊賀国に潜んでいた平家軍が突如として反乱を起こした。
 源範頼に与えられた任務は、山陽道での平家軍追討と水軍の確保、さらに平家軍の最後の逃亡経路を塞ぐための九州平定であった。この極めて困難な任務は難航した。まず源氏側に寝返る水軍は少なく、平家軍は瀬戸内海から神出鬼没で源氏を襲ってきた。範頼は兵站不足と兵の士気低下に苦しみ、鎌倉の源頼朝に助けを求めた。
範頼が率いる武士たちの士気の低下は大きく、有力武士の中にも勝手に関東へ戻る者がいた。平家軍が源範頼の九州攻めに立ちはだかった。


藤戸の戦い
 藤戸(倉敷)は、源範頼が山陽道から九州へ向かうには必ず通過しなければならない要所で、軍事的に重要な拠点で、平家軍も藤戸で源範頼の九州進軍を阻止しようとした。こうして九州へ向かう源氏軍とそれを阻止したい平家軍の間で戦闘が
起きた。
 藤戸は島で、
藤戸を攻め入るには船が必要だった。源氏軍は船を持っておらず藤戸の攻略は難航した。しかし源氏軍の武将の佐々木盛綱(もりつな)が活路を開いた。佐々木盛綱は地元の漁師から藤戸へ渡れる浅瀬を聞き出すと、そこから馬に乗ったまま平家軍に攻め入った。佐々木盛綱の活躍で源氏軍は藤戸の平家軍に勝利したが、藤戸の戦いに勝利しても源氏軍の状況は好転しなかった。藤戸の戦い以前から問題となっていた兵糧の確保や水軍の整備は相変わらず源範頼を苦しめた。

 関東より遠征してきた源氏軍は食料も乏しく、軍勢が崩壊寸前になった。瀬戸内海の制海権も依然として平氏にあり、また範頼では士気が上がらなかった。頼朝はやむ終えず義経に平家追討の総大将を命じることになる。

(下図:佐々木盛綱に浅瀬を教え、他に漏れる事を恐れ殺された漁夫の説明と、藤戸寺

屋島の合戦

 一ノ谷を放棄した平家は讃岐屋島(高松市)に本拠をかまえて四国に勢力を確保した。その間、源氏は中国地方を抑え九州へ乗り込み、四国の河野水軍を味方にすると屋島を攻める準備をしていた。

 

梶原景時との対立

 屋島への攻撃に義経は張り切ったが、頼朝の重臣・梶原景時と次の2点で喧嘩になった。東国源氏軍が集まり「そもそも、われらは船のいくさには慣れていない。どうしたものか」と協議した。すると梶原景時が進み出て「今度の船には、逆櫓(さかろ)をつけたい」と進言した。義経が「逆櫓とは何だ」と問うと、景時は「馬は駆けると思えば駆けさせ、引こうと思えば引かせ、右にも左にも回しやすいが、同じように船では推し回すことが困難なので、船の先にも櫓をつけ、側面にも舵を入れ、どの方向へも動きやすいようにしたい」と答えた。

 しかし義経は「縁起でもない。いくさは一歩も引かない心意気が大切。不利になれば引くことは常の習いだが、そのような逃げ支度のために逆櫓をつけることなどできない。梶原の船には逆櫓でも、逃げ櫓でもつけよ。義経はこのままの櫓で進む」。義経は逆櫓をつければ時間もかかれば、何よりも兵が臆病風にふかれて退いてしまうと反対した。
 梶原景時は重ねて進言した。「よき将軍というものは、駆けるべきときに駆け、引くべきときに引くもの。そのうえで、身をかけて敵を滅ぼしてこそ大将といえる。そのように融通の利かぬことを言うのは、猪武者といって良将とはいえない」と言い放った。
 源義経は「猪や、鹿のことは知らぬが、戦はただ正面から攻めて、それで勝ってこそ心地よい
逃げることを考える臆病者め」と一蹴した。居並ぶ東国の大名・小名は梶原景時を恐れて高笑いこそしなかったが、目鼻で申し合わせ景時をあざけりあった。義経と景時は、刀を抜き合いそうになったが、さすがにそこまではいかなかった。

 義経は船に兵糧米、武具を積み込み、馬を乗せ「すぐに船を出せ」と命じた。しかし船頭水夫が「風は強く、沖はもっと強い風が吹いている」と渋った。暴風雨を理由に「嵐が去ってから出航すべき」と景時が言うと「平家はこの天候の中を攻撃して来るとは思うまい。その油断をつくのだ」と義経は譲らなかった。弁慶は船頭たちに「早く船を出さないと、おのれら残らず殺すぞ」と駆けまわったので、船頭たちも「ここで殺されるも、沖で死ぬのも同じこと」とばかりに、200艘あった船の中から5艘が出発した。残りの船は梶原景時を恐れ、あるいは風におじけて船を出さなかった。

 義経は食糧が不足し、兵士たちが自分たちの鎧を売るほど窮しており、これ以上戦を先延ばしにできぬとしていたが、それ以上に、前進することしか頭にない義経の性格が表れていた。

 

屋島の合戦

 屋島と五剣山半島の間は深い入り江になっていて、屋島の北側には瀬戸内海が広がっていた。平家は源氏が海を渡ってやって来ると思い、待ち伏せをして全滅させようとしていた。平家は入り江の入り口に兵船を停泊させて、源氏の海からの攻撃に備えていた。陸からの攻撃があったとしても五剣山の東から上陸すると思い込んでいた。
 1185年2月、義経は嵐の中を5隻の船で150騎の騎馬武者とともに馬ごと大阪の摂津から船出すると、通常なら難破してもおかしくない荒海に乗り出した。義経は「どの船にも、かがり火をつけるな。火がたくさん見えれば敵が用心してしまう。義経の船を本船として、本船の船先のかがり火に従え」と命じた。ここでも歴史の神は義経に味方する。嵐を追い風にして、通常3日かかる行程をわずか4時間で瀬戸内海を渡りきると四国徳島の小松島に上陸した。

 義経は地元の武士を味方にすると、阿波の住人の先導で香川・高松に進撃し、僅か150騎を率いて海岸ぞいに馬を進め、最短距離で屋島裏の対岸に到着した。大軍に見せかけるため小隊にわけ農家を焼き払い、屋島の背後から浅瀬を渡って奇襲攻撃をかけ、安徳天皇がいる御所を急襲した。平家方はまたしても不意をつかれ、源氏の大軍が攻めてきたと思い込んだ。

 平家は安徳天皇を守るため、軍船で逃げる以外に選択肢がなくなり屋島を放棄して海に出た。海上で我に返った平家は、敵が意外に少数だと分かり引き返そうとしたが、梶原景時の主力部隊が近づいてくるのが見えたため西の海へ退却した(2月19日)。

 この屋島の合戦で梶原景時が大船団とともに屋島に着いたときには、平家は逃げ去った後であった。義経の兵は梶原景時らを「今ごろ来ても遅いわ」と嘲笑し、景時のメンツを潰した。この戦を屋島の戦いと呼ぶ。

 佐藤継信の死

 平教経は平家一の猛将で強弓で知られ、平教経の矢先で射落とされない者はいないとされていた。その平教経の弓が源氏の大将・義経を捕らえ、うなりをあげて矢が放たれた。義経は矢をかわすことができず、万事休すかと思われた。しかしその瞬間、義経の前に一人の武将が真っ先に進み楯になった。それは佐藤継信(つぐのぶ)であった。佐藤嗣信は義経の矢面に立ち、盾となって倒れたのである。

 佐藤継信は肩から馬手の脇へと射抜かれて落馬し、義経は佐藤継信を陣の後ろにかつぎこませ、急いで馬から飛び下りて手を取り「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。佐藤継信は「別に何事も思い置くべきことはない。しかし、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが心に懸かる。武士は敵の矢に当たって死ぬのは元より期するところで、奥州の佐藤三継信という者が、屋島の磯で主君の身代わりになって討たれたと末代まで語られてこそ武士の名誉である」と答えて亡くなった。

 佐藤継信は源義経と奥州の平泉から出発し、源平合戦の初期から義経と供に行動してきた盟友であった。その死に源義経は悲嘆にくれ涙を流し、これを見た他の家来たちは、義経のためなら命を失うことは露塵ほどにも惜しくないと感激して泣いた。佐藤継信の遺体は州崎寺に運ばれ屋島の地に葬られた。

 扇の的

 当時の戦いは、戦の時間が決まっていて、夕刻になると「今日の戦はこれまで」と双方が休戦に入った。

 日が暮れ、両軍が兵を引きかけている時、沖の平家軍から年若い着物を着た美女を乗せた小舟が一艘漕ぎ寄せてきた。美女は紅地に金の日輪が描かれた扇を竿の先にはさんで船べりに立て、陸の源氏に向かって手招きをした。それは「竿の先の、日の丸の扇を射てみよ」との挑発であった。外せば源氏の名折れになる。これを見た義経は最も弓に長けた人物を探し、弓の名手・那須与一に扇を射抜くよう命じた。

 那須与一は海に馬を海に乗り入れたが、扇の的までは、70メートルもあり、しかも北風が激しく吹いて扇の的は小舟と共に揺れている。

 弓を構え「南無八幡大菩薩、願わくばあの扇を射させよ」と神仏の加護を念じ、もし射損じれば腹を切って自害する覚悟で渾身の力で鏑矢を放った。矢は見事に日輪を描いた扇の柄を射抜き、扇は夕日を背景に空を舞い上がり、ヒラヒラと海に落ちた。

 この様子を固唾を飲んで見守っていた源平の両軍からどっと歓声が上がり、与一を褒め讃え平家の兵は船の腹を叩いて敵の与一を称賛した。

 また平家軍はこれは凄い、めでたきことやと言わんばかりに突然船上で舞を始めた。那須与一は再び弓を構えると、次は船上の兵を矢で射抜いた。これに平家軍はひるんでしまった。

 戦の中にも武士としての誇りがあり、馬を射るなどの卑怯な手は恥とされ、正面から打ち勝ってこそが真の勝利であった。平家は本拠地の屋島を守るための戦いなのに、着物を着た女性がいたり、敵が弓を持っているのにそれを無視して船上で踊り続けたりと平家軍の行動は、武士ではなく貴族になっていた。

 なお弱冠17才の那須与一は、扇の的を見事一矢で射落とし、軍功により備中荏原荘など5ヵ所の領地を賜った。那須与一の墓(下右)は古くから扇の的一射必中の故事にあやかって願い事がかなうとされ、近頃では、合格祈願の受験生や親たちのお参りが絶えない。

壇ノ浦の戦い

 屋島から敗走した氏は、山陽道も九州の大宰府も源氏に押さえられていたことから、本州と九州とを結ぶ関門海峡ぞいの壇ノ浦(下関市)に追いつめられた。しかし壇ノ浦の戦いは完全な海戦で、平家は無敵といえる艦隊を持っており、平家には勝利の希望が残されていた。平家は、海戦経験の少ない源氏を潮流の変化の激しい長門沖におびき寄せたのである。

 源氏側には元々水軍がなかったため海戦は苦手だった。しかし勝利の気運に乗って一気に平氏を殲滅すべく、平家の独壇場とされる海戦にあえて挑んでいった。平家打倒の挙兵から5年、屋島合戦から1カ月後、平家最期の本拠地である下関(彦島)の「壇ノ浦」で源平が雌雄を決することになった。

 周防灘と玄海灘を結ぶ水路は670メートルと狭く、潮の干満による内海と外洋との潮位の差は最大で1.6メートルになる。1日2回の潮流の速さは最大時速15キロになった。
 1185年3月24日未明、平家と源氏の両水軍は、その距離500メートルまで接近した。平家は瀬戸内、四国、九州の豪族を集結させ1000余艘、源氏は伊予・河野氏、さらに紀伊・熊野の水軍を合わせて3000余艘であった。数の上では源氏の軍勢が優っていたが、追い詰められていた平家の士気は高かった。まさに背水の陣、窮鼠猫を噛む勢いがあった。源氏は山育ちで本格的な海戦の経験がなかったことから義経も苦戦すると思われた。

 開戦直前、またしても義経と梶原景時が衝突した。ことの起こりは梶原景時が義経の前に進み出て「先陣は私が引き受けます。義経殿は大将なので後方に控えて下さい」と申し出たことである。義経は「義経がいなければそうするが」と答えると、景時は「それはとんでもない。殿は大将軍でありますぞ」と告げた。義経は「それは思ってもいないこと、頼朝殿こそが大将軍。義経はいくさ奉行を承っている身なので、格は貴殿たちと同じだ。私が先陣を切る」と返答した。

 そう言われれば、重ねて先陣を所望するわけにはいかず、梶原景時は聞こえよがしに「生れつき、この殿は侍を率いる器ではないわ」と独り言を呟いた。それを聞いて、頭に血が昇った義経が「そなたこそ日本一の愚か者よ」と太刀の柄に手を掛けた。景時も「鎌倉殿より外に主を持たぬ」と、景時も同じく太刀の柄に手を掛けた。この景時の態度を見た従人が鞘を解き、義経の様子を見いた武蔵坊弁慶などの一騎当千の強者どもは景時を討ち取ろうとした。

 しかし三浦義澄が義経に取りすがり、土肥実平が景時に組み付き「これほどの大事を前にこれ以上争えば、平家につけ入る隙を与えますぞ、鎌倉公(頼朝)がこの騒ぎを聞いたら何と嘆きになるか」。頼朝の名を聞いて両者とも我に返り、義経は鉾を収め、景時もそれ以上には及ばなかった。このことがあって梶原景時は源義経を憎しみ、やがて讒言して義経を死に至らしめることになる。義経は望み通りに先陣を切ったが「部下に手柄を与えないリーダー」として東国武士の気持が離れていった。

 潮流の早い壇ノ浦に源平の大船団が姿をあらわし、紅白の旗が入り乱れ、大海戦が始まろうとしていた。1185年3月24日、平知盛は扇を海中に投げ込んで、この時の潮流が外洋から内海に流れているのを有利な潮流として、午前6時(卯刻)に平家の大将・平時盛が大号令かけて壇ノ浦の戦いが始まった。

「戦は今日限り、者ども少しも退く心あるべからず。東国の者どもに弱気見せるな」

 壇ノ浦は潮の流れが凄まじく、潮の流れは複雑に変化した。この潮の流れを熟知していた平家は、その流れを利用して有利に戦いを展開した。戦力は平氏軍800隻、源氏軍300隻で圧倒的に平氏が有利であった。しかし義経の政治工作が効いて紀伊・熊野水軍、伊予・河野水軍、阿波・田口水軍が源氏に寝返り、船数はほぼ互角になった。

 とはいえ、戦闘が始まると海戦に手馴れた平家が巧みに潮流を利用して戦いを有利に進めていった。平家軍は潮に乗ると猛攻撃をかけ、源氏軍は追い立てられた。戦いは海戦に慣れた平家が押していたが、昼頃になり潮が遅くなると、平家と源氏の船がいたるところで接触戦になった。

 壇ノ浦の複雑な潮流が安定する正午頃、それまで劣勢だった義経は、挽回の為に弓部隊に平家の船の漕ぎ手を徹底して狙うように命じた。当時の船の操縦者はまったく防御整備のない船外で舵を操作していた。この漕ぎ手に矢を浴びることは、馬を狙うのと同じで武士にとってあるまじき卑劣な行為とされていた。非戦闘員は殺してはいけないという不文律があったが、義経はそのタブーを破り、この禁じ手により平家は漕ぎ手を失い船の自由を失った。

 午後になると潮の流れが変わり、戦局は1時間ほどで逆転して義経軍が優位になった。潮の流れが逆になり平氏の船は押し流され、漕ぎ手を失った平氏軍は身動きがとれなくなった。九州へ逃げようにも既に源範頼の大軍が制圧しており、この状況を受けて平氏軍から裏切り者が続出し、夕刻には勝敗が決定的になった。

 平家の武将は奮戦し義経を追いつめた。鬼武者と呼ばれた平教経(のりつね)と知盛が最後まで奮戦し、教経は手持ちの矢が尽きると、両手に刀を握りしめて源氏の船に乗り込み、四方八方で斬りまくった。これを見た平知盛は使者を教経に送り「もう勝敗は期したのだから、あまり罪作りな事をなさるな。それとも良い敵でも見つけられたか」と伝えた。

 平教経は「狙うは大将・義経のみ」と、血まなこになって義経を探し回った。その時、運良く義経を見つけると鬼神の形相で迫ったが、教経が義経を討とうとすると、腕力では勝てないと知った源義経は、卑怯にも船の間を飛んで逃げてしまった(義経の八艘跳び)。一騎打ちが主流の戦いの中で逃げた義経、追いつけないと悟った教経は大声で叫び、自分と組もうという人物を求めた。三人の武将が教経にかかっていくと、最初の一人は海へ蹴落とし、残った二人を教経は両脇にはさんで締め上げ「死での旅の供をせよ」といって海に飛び込んだ。

 あれほどの栄華を誇った平家も、朝の6時頃から始まった合戦で夕方には海の藻屑と消えていった。義経は世界の海戦史上例を見ない完勝で戦いを終えた。

 夕方になると平家の者たちは敗戦を認め、源氏の手にとらえられる前に死を選んだ。負けを悟った平家一門は次々に入水し自決した。

 教経は武器も兜も全部海へ捨て「見ての通り武器はない、勇気のある者は俺を生け捕りにしてみろ」、するとみな怖気ついてしばらく近づかなかったが、力自慢の3人組が刀を振り上げて襲い掛かった。教経は一人目を海へ蹴落とし、あとの2人を両脇に挟んで締め上げ「いざ汝等、死出の旅路の供をせよ」と海中へ道連れにした(享年25)。
 平教盛・経盛兄弟は互いの手をとり、鎧の上に碇を背負い、腕を組み合って海中に身を投じた。資盛、有盛、行盛の3人も手と手を組み碇を背負って海に跳び込んだ。
 智勇兼備の平知盛は、舟の舳先に立ってその一部始終を見届けた後、「もはや、見るべきものは全て見た」と呟くと、鎧を二重に着込んで波頭に消えた(享年33)。重石を付けたのは浮き上がって捕虜になることを恥じとしたからである。

 平家一門が自決しているのに、総大将の平宗盛は入水する気配もなく、船から四方を見渡し右往左往するばかりだった。これを見た家来たちはあまりに情けなく思い、宗盛のそばを走り抜ける振りをして背中を押して海へ突き落とした。しかし手ぶらの宗盛は沈まず、泳ぎも達者なので結局は源氏の熊手にかかり生け捕りにされた。平宗盛父子は源義経に嘆願するが、頼朝の命で殺害さ父子の願いは叶えられなかった。父平宗盛は39歳、息子平清宗は17歳で、その首は京都で晒された。

 至る所で平家一門が沈んでいった。御座船では二位尼(平清盛の妻、安徳天皇の祖母・時子)が神璽と宝剣を持ち、涙をおさえて「君は天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ御運はもはや尽きてしまいました。この世はつらく、いとわしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申します」というと、8歳の安徳天皇は自ら手を合わせ、東(伊勢神宮)を拝し、続けて西に向かって念仏を唱えた。

 二位尼は「波の下にも都がございます」と安徳天皇を抱いて中に身を投じた神鏡は大納言の局(平重衡の妾)が抱いて海に身を投げようとしたが、袴の裾を船げたに射られて倒れ、神鏡は無事取り上げられた。しかし三種の神器の1つ宝剣は安徳天皇と共に浮かび上がることはなかった。

 建礼門院(安徳天皇の母、清盛と時子の娘、徳子)もわが子の最期を見届けてから自らも海に身を投じたが、源氏の武将が徳子の黒髪に熊手をかけて引き上げた。徳子は「子の菩提を誰が弔う」とさとされ、徳子(31)は京都大原の寂光院で余生を過ごすことになる。

 義経は「女性は救うべし」と命令を出していたので、数人が入水後に引き上げられた。平宗盛や平時忠などは捕えられたが、この戦いで平家は滅亡した。

 この戦いの目的であった三種神器の返還は、二種だけとなり、残りの一種は見つからなかった。源氏は安徳天皇がいるにも関わらず、後白河法王との合議により京都で擁立させた新天皇(後鳥羽天皇)の地位の正統化すため、三種の神器の捜索を必死でおこなった。しかし勾玉と鏡は見つかったが、草薙剣は発見できなかった。そのため以後草薙剣は清涼殿昼御座の剣で代用することになった。

 壇ノ浦ではその後、漁師は正座して釣りをするようになった。それは、その海下に安徳天皇が眠っているからである。 

建礼門院徳子

 建礼門院徳子は波瀾万丈の人生を送った。父の清盛は保元の乱、平治の乱で勝利すると朝廷内で大きな力を持ち、藤原氏と同様に天皇の外戚となるため、16歳の徳子を11歳の高倉天皇に嫁がせた。清盛は徳子のほかに8人の娘がいたが、いずれも権門勢家に嫁がせて勢力を強めていった。結婚から7年後、24歳になった徳子は安徳天皇を産み国母と称された。

 清盛は皇子の誕生を心待ちにして、誕生すると早く即位させようと躍起になった。後白河院は退位後、二条天皇、六条天皇を立て強大な院政を敷いていたが、この院政も次第に平家の台頭により制約を受けることになる。

 1179年、清盛は高倉天皇の父・後白河法皇の院政を抑え込むと、高倉天皇を上皇にして、わずか3歳の安徳天皇を即位させた。高倉上皇は実父の後白河法皇と清盛との確執、福原への遷都、平家による東大寺焼き討ちなどが続き、心労から病床に伏し21歳の若さでこの世を去った。病弱な夫の高倉天皇はわずか21歳にして崩御し世は源平争乱の時代へと進んでいった。

 母の二位の尼は壇ノ浦で8歳の安徳天皇ともに入水したが、徳子は生き残り京へ送還された。

 平家滅亡後、建礼門院徳子は捕われの身となり、29歳の若さだったが髪を落として尼になり、京都の北にある大原の寂光院に隠棲した。それまでの波乱万丈の生涯とはうって変わって、話し相手もなくひたすら安徳天皇の冥福と平家一門の菩提を弔う静かな生活を続けていた。

 1186年、後白河法皇の大原御幸があり、法皇はその侘びしい住まいに暮らす建礼門院の姿を見て涙を流した。再会を果たしたふたりは、つまでも懐かしく語り合った。これが「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」で始まる平家物語の大原御幸(おおはらごこう)のくだりである。

 2000(平成12)年5月9日未明、寂光院の本堂が心ない者に放火され全焼し、重要文化財の本尊「六万体地蔵尊」と「建礼門院坐像」、そして平家一門の手紙で造られた「阿波ノ内侍(あわのないし)張り子坐像」が焼失した。樹齢千年の松の名木「千年の姫小松」も火災で傷み、2004(平成16)年に枯死し、松の上部は伐採され御神木として現在祀られている。

 後白河法皇が訪れたときに「池水に 汀(みぎわ)の桜散りしきて 波の花こそさかりなりけり」と詠まれた本堂前の西側にある庭園は当時のままの姿を残している。

 徳子は悲劇のヒロインとして人気があるが、清盛の野望の犠牲者でもあった。ひとりではほとんど何もできず、自分の意思があったのかどうかも分からない。結婚生活でも高倉天皇は他の女性に子供をつくり、高倉天皇の最初の相手は30歳の乳母で、次が小督局であった。この小督を天皇に薦めたのは徳子だとされている。

 自分の夫が他の女性と結ばれ、子供をつくっても平気だったとは考えにくいが、それは現代人の感覚であり、徳子は徳子なりに正直に生きたのであろう。高倉天皇が亡くなったときも、徳子は嘆き悲しんだ様子がうかがわれない。

 建礼門院は平家一門と安徳天皇の冥福を祈り続け、再び歴史の表舞台に登場することなく、1213年に59歳でその波乱の生涯を閉じた。

治承・寿永の乱

 義経は大勝利を収めたが、皮肉なことに「平家を滅亡させる」という役目を終えた義経には、既に破滅の兆しが見えていた。

 その後、頼朝は弟である義経を討ち、奥州を平定していき、このようにして源平の歴史は終わり、源頼朝による鎌倉時代が始まっていく。

 1180年の以仁王の挙兵から5年後の平家滅亡までの大規模な戦いは、一般には「源平合戦」あるいは「源平の戦い」と呼ばれるが、学問的には当時の年号から治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)と呼ばれている。源頼朝に味方したのは源氏だけではなく、また平家政権側につく源氏もいたからである。源平の戦いには後白河上皇をはじめとする貴族たちも絡み、このことからこの内乱を単に「源平」、つまり源氏対平家とするのは、学問的に適当でないとする意見が大勢を占めたからである。しかしこれは権威的歴史学者の、歴史をつまらなくする屁理屈で「源平の戦い」の言葉は永遠に消えることはないであろう。

 

源平の戦い、義経の終末

 平家政権は清盛一代の政権であった。平家政権が短命で終わったのは、平清盛は武士という階級でありながら貴族と変わらない政治手法をとったからである。平安時代からすでに400年近く経っていたのに、平家一族は政権の中枢を占め、清盛は天皇の祖父となったが、そのような平安貴族の政治システムは新しい武士の時代に合わなかった。 

 源義経は周知の通り天性の戦上手で、平家との合戦に連戦連勝し、壇ノ浦の戦いで平家を討ち滅ぼし、源氏の中でも最大級の戦功を挙げた。義経の類まれな戦術による勝利の功績は大きいが、義経は天皇の証明となる三種の神器を取り戻せなかった。このことに頼朝は激怒した。頼朝にとって父の仇を滅亡させた義経の功績を評価しないはずはないが、頼朝は自分の感情よりも武士全体の利益を考えていた。

 義経は生け捕りにした平家の残党を引き連れて京へ凱旋し、平家の没落を間近に見た民衆から喝采を浴びた。このように義経は平家を滅亡させたが、それは戦いの結果であり「武士のための政治」を実現させるものではなかった。頼朝は朝廷を動かして「武士のための政治」を実現させるための切り札として三種の神器を考えていたのである。

 後鳥羽天皇を即位させた「治天の君」の後白河法皇も、三種の神器がないことに後ろめたさがあった。頼朝は三種の神器を自らの手で取り返し、後白河法皇に引き取らせ、それを条件に武士の要求を認めさせようとしていた。そのため頼朝は義経に対し「平家滅亡よりも三種の神器の奪回を優先させ、どんなことがあっても取り戻せ」と厳命していた。しかし義経は軍事的には優れていたが、頼朝の政治的考えを理解していなかった。平家滅亡に気をとられ三種の神器の重要性に気づいていなかった。三種の神器は清盛の未亡人が抱え、安徳天皇とともに海の底に消えたのである。

 頼朝は全国の海女を動員して三種の神器を探させ、勾玉(まがたま)とは取り戻したが、草薙の剣は海の底に沈んだままであった。これでは後白河法皇への切り札にならない。失態を問われれば、頼朝の地位さえも危うくなりかねなかった。

 頼朝は義経ならば三種の神器を取り戻せると期待していたので、義経に対してより一層激怒した。いっぽうの義経は平家を滅亡させることが重要と信じ、頼朝の激怒の意味が分からずにいた。

 さらに義経は致命的なミスを犯してしまう。頼朝の許可なく後白河法皇から京都の治安維持担当する検非違使の官職を勝手に受けてしまったのである。任官後の義経は「九郎判官」と呼ばれ、これが後に「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉を生むことになる。この義経の「頼朝の許可なく朝廷からの任官を受ける」ことは、頼朝のそれまでの努力を逆なでにすることだった。

 頼朝が目指す「武士のための政治」は、朝廷から独立した武士政権を確立することだったので、武士政権の独立性を確保するには、武士の人事権が頼朝になければいけなかった。頼朝の承認もなく、朝廷から官位を授かることは、頼朝の権威をつぶすだけでなく「武士のための政治」を壊す行為だった。それを義経があっさりと朝廷から官位を受けたのだから、頼朝の怒りは当然であった。

 武士が仕えるのは、肩書きを与える主人のためである。義経が検非違使という肩書きを後白河法皇から授かったことは、頼朝の家来であるが、また同時に後白河の家来であることを意味していた。頼朝は「官位には必ず私の許可を得よ」と厳命していたが、義経はその意味を理解していなかったのである。後白河法皇から官位を受けたことは後白河法皇の源氏同士の仲間割れの策略であった。

 その後、多くの頼朝の家臣が「弟の義経様が受け取るのであれば」と朝廷から次々と任官を受けた。このことに対する頼朝の怒りは凄まじいものであった。しかし義経は三種の神器と同様、この大きなミスに気づいていなかった。

 頼朝に許しを乞うた「腰越状」においても、官立は名誉として受けたと記し、謝罪の意思を示していない。後白河法皇が義経を任官したのは、兄弟の不和をあおることで、頼朝の独占を排するためだった。後白河法皇の政治的謀略であったが、義経は法皇の意図を理解していなかった。頼朝に送った手紙のなかで「自分が朝廷の任官を受けることは、源氏一族にとって名誉なことではないか」と書いているくらいである。

 「政治家」の頼朝と「軍人」の義経では考えが異なっていた。この二人の間を取り持つ人材がいなかったことが、お互いの意思の疎通を欠かせて兄弟の対立を生むことになった。さらに義経は平家の一族である平時忠の娘・夕花を本妻(静御前は妾)にしたことが源頼朝をいっそう怒らせた。

 平家との戦いに勝つには、天才的で強引な作戦が必要だった。しかし源義経は戦上手であるが、独断的専行が目立ち功績をひとりじめにしすぎた。功績をひとりじめにすれば、他の武士たちの功績が少なくなってしまう。武士は功績のために戦うのである。そのため他の武士たちは源義経に反感を抱いていた。

 武士たちは、源頼朝を自分たちの棟梁として厳しい目で見ていた。そのため義経を特別扱いにするわけにはいかなった。特別な扱いをすれば、平家一族だけを大切にした平家と同じになってしまう。武士たちの心が源氏から離反させないためには、身内により厳しくしなければいけなかった。

 朝廷が武士に官職や領地を与えれば、武士のための政治ではなく、朝廷のための政治に逆戻りしてしまう。怒りが収まらない頼朝は義経に「二度と鎌倉には入るな」と一方的に突き放した。

 それだけでなく、頼朝は義経の領地をすべて取り上げ、土佐坊昌俊を義経暗殺に送り込むが返り討ちにあってしまい、義経は頼朝との全面対決を決意するようになる。義経は後白河法皇から「頼朝追討」の院宣(法皇の命令書)をもらうが「頼朝追討」に応じる武士は少なく、京での挙兵を諦めた義経は管轄権を与えられた四国・九州へ向かい都を出ることになる。義経は軍事に関しては天才的な才能に恵まれ、数々の戦略で敵を打ち破ってきたが、政治的な才能は皆無で、東国武士たちの関係についてもその重要性を理解していなかった。

 九州で再起を図ろうとして精鋭とともに船出をするが、不運にも嵐にあい難破してしまう屋島の戦いで嵐の中を短時間で四国に上陸を果たした義経に比べると何という違いだろうか。義経はこれ以降、それまでの幸運から見放され苦難の道を歩むことになる。

 忘れてはいけないことは、義経は後白河法皇に「頼朝追討」の院宣を発布させ、兄・頼朝を討とうとしたことである。嵐で船が難破しなければ、義経は兵を集め鎌倉を攻めたに違いない。私たちが判官贔屓でいかに義経をかばっているかがわかる。

 義経は船が難破すると、家来は散り散りになり、残った数名の従者とともに吉野山へ逃走した。頼朝は義経追討に1000騎の軍勢を上洛させたが、搜索は難航して本人を哺らえることはできなかった。義経は近畿周辺に潜伏したが次第に包囲網が狭まり、理不尽にも朝敵とされるに至った。そのためわずかの手勢を率いて、かつて自分をかくまってくれた奥州の藤原秀衡の庇護を求め落ちのびることにした。この逃亡の際、北陸の安宅(あたか)の関における「勧進帳」の伝説が残されていて、現在でも歌舞伎で有名である。

兵どどもが夢のあと

 頼朝に追われしばらく近畿周辺に潜伏していた源義経は、包囲網が狭まったことを悟り奥州へと逃亡した。義経を受け入れたのは奥州藤原氏の秀衡である。秀衡は平泉にたどり着いた義経を歓迎し、義経たちを衣川の河畔に建つ藤原基成の邸宅に住まわせた。

 藤原秀衡にはしたたかな作戦があった。藤原秀衡は清衡、基衡と続いた奥州藤原氏の権力を強固なものにして、奥州の支配体制を確立させていた。源平の争いにおいても、独立勢力として巧妙な外交を展開していた。

 平宗盛が富士川の合戦の時、奥州藤原氏を関東に進出させ、源氏を挟み撃ちにしようとするが、藤原秀衡は「頼朝討伐のため、今、立つところ」「もう白河を越えた」と京に伝え、実は一歩も平泉を出ていなかった。鎌倉に対しては中立の立場を主張して、頼朝を牽制することで義理をはたす作戦だった。

 義経が平泉に逃げたことは頼朝にも知らされた。天才の戦略家・義経が平泉を拠点に鎌倉を攻めてきたらどうなるかわからない。そう考えた頼朝は平泉を攻めずにいた。秀衡が義経をかくまったのは、奥州藤原氏は鎌倉政権から独立した勢力で、また頼朝と対峙した平家がことごとく潰されているのを知っていたからである。秀衡は遅かれ早かれ、鎌倉が奥州に進出してくることを予想していた。

 奥州藤原氏が義経という当代きっての戦略家を抱えていることは、頼朝の奥州進出の決断をためらわせる効果があった。たとえ頼朝が攻めてきても、義経が味方なら逆に鎌倉を攻めることもできるからである。

 秀衡は頼朝の使者の追及をのらりくらりとかわしながら、義経と極秘の鎌倉侵攻作戦を計かっていた。その計画とは、まず秀衡が大将軍として第1軍を率いて下野国に入り、那須野に布陣して野戦に挑む。これは鎌倉の主力部隊を那須野に集結させる作戦であった。その間、第2軍は越後に入り、信濃から甲斐に進み相模国南部に鎌倉攻撃の陣を敷く。さらに義経を大将とする第3軍が浜通りから常陸国に入り、主力は迂回して南から那須野に迫り、義経が率いる兵は密かに久慈湊(くじみなと)から船で南下して夷隅湊 (いすみみなと)に上陸して房総半島を横切り鎌倉に向かう。そして少数部隊が守る鎌倉の御所を襲い頼朝を討つというものであった。

 この綿密な計画は実行されるはずだった。だが計画から間もなく秀衡は病に倒れ、息子の国衡と泰衡に「義経を主君として、協力して頼朝を攻撃しろ」と言い残して亡くなってしまう。このようにして鎌倉侵攻計画は頓挫し、奥州藤原氏は座して滅亡を待つことになる。

  頼朝は再三にわたって泰衡に圧力をかけた。義経さえ除けば全てが解決するような圧力をかけた。父・秀衡に比べ政治家としての経験に乏しかった泰衡は、まんまとこれに乘ってしまう。藤原秀衡が死去すると藤原泰衡、藤原基成に源義経追討の宣旨が下り、 藤原泰衡は源義経を衣川館に襲い自害させたのである。

 藤原泰衡は奥州藤原氏を守るべく、衣川の合戦で義経を討ったが、頼朝にとってこれは奥州制圧の格好の機会を与えることになった。これまで奥州侵攻をためらっていたのは義経がいたからである。頼朝の父祖も奥州を支配しようとして、野望を果たせなかった。奥州制圧は源氏にとって宿願だった。源氏の全国支配を確立するためにも、絶対に制圧しなければならなかった。

 源頼朝は義経が死ぬと、藤原泰衡に対し罪人をかくまったとあげつらい、勅命を得ないまま藤原泰衡追討のために鎌倉を立った。 平泉に入ると藤原泰衡が降伏するのを拒否して、藤原泰衡は従田次郎に討たれ死去し、奥州藤原氏は滅亡した。

軽視された平家追討の悲運の大将

 源平の戦いというと義経の武功と悲劇性が際立ち、源範頼は目立たないが、源範頼は頼朝の代理として木曽義仲と闘い、さらに平家追討の軍を率いて九州で戦果をあげている。またその後も地味ながらそれなりの活躍をしている。

 源範頼は源義朝の六男で、母は違っているが源範頼は源頼朝の弟で、源義経の兄である。源範頼は源義朝の子であるが、母は遠江国の池田宿の遊女だった。そのため平治の乱で父・義朝が死去した後も生き延びて、右大臣・九条兼実の家来の養子となっている。

 1180年、頼朝は伊豆で挙兵し、破れて安房に逃れたが、勢力を巻き返して鎌倉に入った時に頼朝のもとに源範頼が馳せ参じて武将となった。1183年、志田三郎義広が木曽義仲に合流して鎌倉を攻撃する野木宮合戦では、範頼は鎌倉方の小山朝政の傘下で戦っている。

 1184年、木曽義仲の討伐のため、義経とともに数万騎を率いて京へ向かうが、この途路、尾張墨俣渡で先陣争いをして、御家人らと乱闘となり頼朝の怒りを買い、以後、行動を慎むようになる。

 範頼は木曽義仲の討伐の大将として琵琶湖岸沿から勢多に至るが、木曽義仲との戦いは膠着状態となる。その隙をついて搦め手の義経軍が義仲軍を横から突き、範義も少し遅れて防御線を突破した。

 義経はこの木曽義仲との戦いで一躍名を轟かせたが、それは範頼が義仲の主力軍を引きつけたからである。木曽義仲を討滅した源氏軍は、そのまま平家追討軍となり攝津に向かう。範頼は総大将として、義経は搦め手の大将として軍を率いた。

 義経の「鵯越攻め」で有名なあの一の谷の合戦が行われた。義経の活躍で範頼は注目を浴びないが、範頼は福原を攻め落として平忠度、平通盛、平経俊などを討ちとっている。鵯越の奇襲作戦も範頼の正面攻撃があってこそ功を奏したといえる。

 鎌倉に戻った源範頼は、西国への出陣に際して、頼朝から酒宴に招かれ、秘蔵の馬・甲一領を賜っている。9月、源範頼は3万騎の騎馬軍団を率いて再度西国に発った。

 その頃、一の谷で敗れた平家は讃岐の屋島に本拠地を置いていた。平家は源範頼軍を迎え討つため、平資盛は500艘の兵船を率いて瀬戸内の対岸の児島(倉敷)に軍をおいていた。児島は現在は地続きであるが、当時は島だった。範頼はこの備前児島の合戦で平家に勝つと、中国地方を制圧し九州を攻略するため出陣したが、瀬戸内海は平家の水軍に押さえられ兵糧と船が不足していた。

 範頼は鎌倉へ窮状を訴える書状を送り、頼朝は義経を出陣させた。一方、範頼は周防で臼杵惟隆らの助力を得て兵糧と兵船を調達して九州・豊後に渡った。

 葦屋浦(福岡)において九州最大の平家方・太宰少弐種直らと戦い、範頼軍は九州を押さえた。義経は2月19日から21日にかけての屋島の戦いで勝利し、平家軍は赤間関まで後退するが、九州は範頼が押さえていて退路は絶たれていた。義経軍と範頼軍に挟まれ、次の戦いは必然的に運命を決する戦いとなり、同年3月23日、義経軍は壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた。

 源平合戦後、範頼は九州豊後に留まり、残党狩りと戦後処理に努めて、翌年鎌倉に凱旋した。源氏一族として鎌倉幕府で重きをなしたが、つまらぬことから範頼の運命は暗転する。

 あの有名な曽我兄弟の仇討ちのとき、鎌倉には頼朝が討たれたという誤報が入った。すると範頼は「後にはそれがしが控えております」と北条政子を励ますが、このことにを知った源頼朝が範頼に謀反の疑いをかけたのである。

 あわてた範頼は頼朝公への忠誠を誓う起請文を送るが、そのとき「源範頼」と源姓を名乗ったことが「遊女の息子が源姓を名乗るとは図々しい」と、源頼朝の怒りの火に油を注いでしまった。それをみかねた家人が源頼朝の寝所の床下に潜入して探りをいれたが、それが見つかってしまう。

 「源範頼は暗殺を企てた」と謀反の疑いをかけられ伊豆修善寺に幽閉される。間もなくして頼朝の命を受けた結城朝光・梶原景時・仁田忠常らに火攻めにされ修善寺で自害する。伊豆修善寺といえば源頼家であるが、範頼もまた修善寺で殺されているのである。あわれな人生であった。

  範頼が可愛がっていた馬が範頼の首をくわえ、範頼の別荘のあった稲荷山龍泉寺(浜松)まで走り続け、池のまわりを三回まわって倒れたと言い伝えられている。稲荷山龍泉寺には、江戸時代のものと思われる「蒲御曹司源範頼公碑」という大きな五輪の塔があり範頼の墓と伝えられている。さらにそのすぐ南方には、範頼の愛馬を弔った駒塚(こまづか)があり爲範頼公愛馬供養塔の碑が建っている。

連戦連敗の源行家

 平家を減ぼし、天下を取った源氏だが、歴史の裏側では源氏一族は厄介者に悩まされていた。それは源行家である。平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍し、戦闘に敗れると戦線を離脱して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に潜伏する。

 以仁王の平家追討の令旨が出ると、源行家は山伏に扮して令旨を各地の源氏に伝達し、源頼朝に決起を促した。しかし頼朝の麾下には入らず三河国、尾張国で勢力圏を築き、甥の源義円らと共に尾張国の墨俣川の戦い、三河国矢作川の戦いで二回にわたり平重衡らと交戦して壊滅的な敗北を喫してしまう。

 源行家は頼朝のもとに逃げ所領を求めたが、墨俣川の合戦で弟・義円を戦死させたことに頼朝は冷たく「自力で国を取れ」と源行家を突き放してしまう。所領を拒否されたため、以降、甥の木曽義仲の下に走った。

 しかしここでも行家は木曽義仲と対立する。義仲を助けるというよりも、義仲の上に立とうとしたのである。義仲の本隊から離れ、別働隊として伊賀から大和へ進撃し、義仲とともに入京すると、後白河院の前では義仲と序列を争い相並んで拝謁した。

 朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、行家は義仲と差がある事を不服として二人の関係は悪化した。京で木曽義仲の評判が落ちると、行家は義仲から離反して頼朝の代官として木曽義仲追討のために義経に接近する。

 壇ノ浦の戦いで源平の戦いが終わり、義経と頼朝は対立するが、源行家は義経と結び、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受ける。しかし行家に賛同する武士は少なく、義経とともに都を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受けてこれを撃退するが、次第に追い込まれ、追捕された北条時定の手勢によつて首を切られ鎌倉に送られた。

 源氏の諸勢力を渡り歩いた源行家は、源平の戦いを巡り連戦連敗の無能ぶりを発揮し、最後は自らの命を落とすことになる。節操のない武士として同情の声はない。