平安時代初期

長岡京遷都(784)

 桓武天皇の母は身分の低い渡来人系だったことから、天皇として即位するのに反対する者が多かった。桓武天皇が即位した翌年には、天武系皇親の氷上川継が謀叛事件を起こしている。桓武天皇は新王朝の基盤を固め、奈良時代の仏教政治の弊害を断つため平城京からの遷都を決意する。

 まず平城京から山背国長岡村に遷都しこれを長岡京とよんだ。長岡の地を選んだのは、長岡は桂川に面し、宇治川・木津川の合流点にも近くて水の便がよく、山陽道・山陰道も通っており水陸交通の要衝だったからで、長岡京は平城京、平安京に匹敵する広大なものであった。

 桓武天皇の母は百済系渡来人で、その本拠地は長岡京のすぐ近くにあった。また山背国には土木技術に長けた新羅系渡来人の秦氏が居住していたので、秦氏ら渡来人を造都に利用することを、桓武天皇は念頭に置いていたのである。

 

藤原種継の暗殺

 しかし桓武天皇の権力基盤は不安定で、遷都に反対する根強い抵抗勢力があった。さらに天皇の腹心で長岡京造営の責任者だった藤原種継(母は秦氏出身)が暗殺される事件がおきた。

 785年のある夜、新都建設の陣頭指揮にあたっていた藤原種継を、どこからか矢が飛んできて貫き刺した。犯人として大伴継人(つぐひと)らが捕まり、暗殺事件直前に病死した大伴家持が、大伴氏・佐伯氏らとはかり暗殺に及んだと証言した。この陰謀は種継暗殺にとどまらず、天皇まで倒して桓武天皇の弟の早良(さわら)親王を天皇にする計画で、早良親王がこの陰謀に加担していた。関係者は斬首や配流になるなど厳しい処罰がなされ、すでに亡くなっていた大伴家持も官籍から除名された。

 早良親王は京の乙訓寺(おとくにでら)に幽閉され、皇太子の地位を剥奪されて淡路島に護送された。その途上で早良親王は絶食して憤死、これは無実を表す抗議かもしれないが、遺体はそのまま淡路島に送られて埋葬された。

完成しない長岡京

 その後、飢饉や疫病が流行し、桓武天皇の周辺では母親や皇后らが相次いで死去するなど不幸な出来事が続いた。人びとは早良親王の怨霊によるものと噂し、長岡京の建設工事は遅々として進まなかった。

  宮城は丘陵にあって周囲が傾斜しており長岡京は低地にあり、丘陵を階段状に造ったが、その欠陥は致命的で、雨が降れば雨水が低い建物の中に流れ込んできた。水上交通の便のよさは水害と隣り合わせで、長岡京はしばしば洪水の被害に見舞われた。さらには皇太子の安殿親王が病いに倒れるという事態が起き、桓武天皇はついに長岡京から離れる決心を固めた。

 主な建物は壊され、新しい都へと移され、10年間の都の歴史は年月とともに地中で長い眠りにつき、やがて「幻の都」と呼ばれるようになった。

平安朝廷の形成まで

 桓武天皇は長岡京周辺の山野にしばしば狩猟に出かけると、新らしい京の候補地を探し、山背国・葛野郡宇太の地へ遷都を決めると、ただちに建設を開始し、翌年には自らその地に移り、新都を平安京と名づけられた。正月の踏歌節会で貴族たちは「新京楽、平安楽土、万年春」と歌い、新しい都の今後の繁栄を祝福した。永遠に平安な都であることを祈ったのである。

 桓武天皇の前の光仁天皇は律令制の再建を目指し、行財政の簡素化や公民の負担軽減につとめていた。光仁天皇には天武天皇の血統をつぐ親王がいたが、天皇を呪詛した疑いによって排除され、代わって光仁天皇と渡来系出身妃の間に生まれた山部親王が即位して桓武天皇となった。

 桓武天皇は壬申の乱以来の天智天皇の血統で、それまで政権を握ってきた天武天皇の血統が、天智天皇の血統に入れ替わったことになる。桓武天皇はこの王朝交替により政権強化につとめた。

 桓武天皇は河内国で、昊天(こうてん)祭祀の儀式を行った。昊天祭祀というのは中国の皇帝が都城で、自分が属する王朝の初代皇帝を祭る儀式で、つまり桓武天皇は「天神(あまつかみ)」であるとともに父の光仁天皇を祭ったのである。つまり昊天祭祀の儀式により、父を初代とする新王朝であることを人びとに印象づけたのである。

平安という時代

 桓武天皇に平安京への遷都の建議を持ち出したのが、あの道鏡の神託を防いだ和気清麻呂であった。桓武天皇は増大する寺社や貴族の権勢に危機感を覚えていた。特に道鏡が天皇位を譲り受けようとしたことから、堕落した仏教勢力を政治の場から遠ざけたかった。これは仏教を嫌ったのではなく、僧侶が政治にロを出すのを嫌ったのである。

 そのために京都に遷都を試み、紆余曲折を経て平安京ができ上がり、これからが平安時代になる。語呂合わせで「泣くよ(794)うぐいす平安京」とあるように、794年を機に奈良から京都に都を移すことになった。以後1000年以上にわたり、京都は日本の都となる。

 桓武天皇は皇室の威信を高めるため、東北に蝦夷討伐軍を派遣し、征夷大将軍・坂上田村麻呂の活躍により一定の成果を挙げた。天皇家の勢力は岩手県北部にまで及んだが、遷都や蝦夷討伐で国家財政が破綻しそうになったため、桓武天皇は首都警備隊と九州防衛隊(防人)を残して軍隊を廃止した。軍を廃止したのは、日本が荒波に守られた島国だったからであるが、軍は警察も兼ねていたため地方は無法地帯となった。

 荘園を持つ豪族は自衛のために武装し、京都の下層貴族は身を立てるために武芸を磨いて地方へ移住した。清和天皇の子孫は源氏となり、桓武天皇の子孫は平氏となった。これが「武士」の起こりである。

 不思議なことは支配階級の朝廷が軍事力を持たないのに、地方の豪族たちが強大な軍事力を保有していたことである。このことは世界的には極めて奇妙な現象といえる。通常、支配者は支配するための軍事力を持ち、支配される側は、軍事力で劣るために支配されるのである。

 ところが日本の朝廷や貴族たちは、軍事力を持たずに税金を集め安穏としていた。政治は地方の豪族たちに任せ、自分たちは政治に加わらず和歌を詠む毎日であった。それでいて庶民や豪族はこのような朝廷に反発せず、全国各地では国司や代官に対する訴えが頻発していても、朝廷を打倒すという発想は生じなかった。

  平安時代は世界的に寒冷期で貧しかったが、それでも諸外国に比べれば恵まれていた。庶民は貴族によって搾取されてもまだ食える飯があった。飯が食えているうちは、権力に目をつぶるのが日本の庶民の習性である。

  また天皇は神の子孫であり、朝廷は神々と人間を結ぶ重要な機関と思い込んでいたため、さらに庶民の大部分が神道を信じていたため、税が重くても貴族が和歌を詠んでいても、貴族の世界は別世界と受け止めていたのであろう。

 このおかしな実情に気づいたのが平将門であった。常陸(茨城県)で挙兵して新皇を名乗ったのは単なる野心からではなく、民衆のために国を変えようとしたのである。平将門は道半ばにして破れたが、その発想は革命的であった。

 

薬子の変
 806年に桓武天皇が崩御すると、嫡男の平城天皇(安殿親王)が即位した。しかし平城天皇と藤原薬子との関係は想像を絶するものであった。平城天皇は皇太子(安殿親王)のときに藤原の娘を妃にしたが、その娘はまだ幼かったため、付き添いとして母親(藤原薬子)が一緒についてきた。ここでなんと親王(安殿親王)と妃の母親(藤原薬子)が男女の関係になったのである。嫁いできた娘よりも、連れてきた母親と恋仲になったのである。

 母親といえども、薬子はまだ30歳である。安殿親王が娘と恋仲で結婚したわけではないのだから、妃の母親に惚れ込んでも不思議ではない。薬子は中納言・藤原縄主との間に3男2女の5人の子を産んでいた。それだけ薬子には女性的魅力があったのだろう。

 しかし桓武天皇は安殿親王と薬子の不倫関係に激怒して、薬子を朝廷から追放した。ところが桓武天皇が崩御すると、平城天皇は薬子を再び宮廷に呼び戻し、二人の関係はさらに深まった。さすがに妃には出来ないので、薬子は平城天皇の女官として迎えられた。夫の中納言・藤原縄主は大宰帥として九州へ遠ざけられた。

 薬子は天皇の寵愛を受け、傍若無人の振る舞いをおこなった。薬子の兄・藤原仲成(藤原式家)出世を重ね、朝廷では藤原仲成・薬子の兄妹による専横政治が続いた。二人の勝手な振る舞いは周囲のひんしゅくを買った。

 当時は、都の造営や蝦夷征討で国家財政は逼迫していた。平城天皇は生来病弱であったが、財政の緊縮と公民の負担減に取り組み、官司の整理統合や官僚組織の改革に着手していた。また藤原氏の内部の抗争に翻弄され、体調を崩し何度か転地療養を試みたが、その効なく在位3年という短い期間で天皇を退位し、病気のために皇位を賀美能親王(嵯峨天皇)に譲り、奈良に隠棲した。

 しかし嵯峨朝がスタートすると、平城上皇の健康はにわかに回復へ向かい、再び政治に意欲を持ちはじめた。平城上皇は30代という若さも手伝って国政への意欲を示し、上皇の命令と称して政令を乱発した。平城上皇3年の在位で辞めてしまったので、薬子にすれば平城上皇を再び天皇にしたいと願った。

 当然のことながら、薬子や藤原仲成も政治の表舞台への未練を捨てきれず、平城上皇に重祚するよう促した。平城上皇が再び天皇になるには、それなりの理由が必要であった。そのため「もう一度、都を平城京に戻すために上皇を天皇にする」という理由がつけられた。つまり都を平城京に戻したい人たちの賛同を求めたのである。しかし平城京から平安京に都を移したてから既に26年もたっており「いまさら平城京に都を戻すなんて、面倒なこと」という意見がほとんどで、賛同を得ることが出来なかった。
 平城上皇と嵯峨天皇は対立し、この兄弟喧嘩により「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態になった。嵯峨天皇は、810年3月に天皇の命令を伝える蔵人所を設置した。蔵人所は上皇へ情報が漏れないために設立され、藤原冬嗣が長官になった。

 810年9月、薬子と藤原仲成が平城上皇の天皇復位を目的に平城京への遷都を図り、強気の上皇方はひそかに兵をあげる準備を進めた。これを事前に察知した嵯峨天皇坂上田村麻呂を派遣してこれを武力で阻止した。この事変で平城上皇は失意のうちに出家したが、藤原仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害した。この事件を「薬子の変」という。
 藤原仲成と薬子は、長岡京の造営責任者で暗殺された藤原種継の子だった。この事件の背景には、藤原種継が命がけで造営した長岡京を捨てた桓武天皇に対する恨みがあった。薬子の変で藤原四兄弟の式家は没落し、藤原房前(ふささき)の子孫である藤原冬嗣の北家が力をつけることになった。また薬子の変で嵯峨天皇について勝利の祈祷をしたのが空海であった。

 はたして藤原薬子が悪女だったのか、平城天皇を心から愛し続けた一途な女性だったのか、藤原薬子が書き残したものがないので本当のことは分からないが、兄の藤原仲成と共謀したのだから権力志向の強い女性だったのだろう。

 

藤原氏の勢力
 藤原氏は中臣鎌足、藤原不比等らの子孫であるが、
藤原氏は様々な家柄に分れてゆく。上は摂関家から下は土着の武士までいるが、さらに身を落とした者もいる。平安時代は400年間続くので、その初期から末期の院政期の間に藤原氏の勢力も変わってゆく。

 平安の初期には藤原一族の南家・北家・式家・京家が権勢を維持していたが、当時は家持の出である大伴氏(伴氏)、貫之の先祖の紀氏、諸兄の子孫の橘氏などが藤原氏と覇を争う勢力として健在だった。
 
藤原氏は娘を天皇の妃にして、生まれた男の子を天皇にたて、自分たちは摂政・関白として政治の実験を握るようになった。これを摂関政治というが、この手法によって他の氏族を排除し、藤原冬嗣の息子・藤原良房の代から権力強化へ本格的に動き出した。

 藤原良房は清和天皇の外戚となり、皇族外で初めて摂政となった。さらに良房の養子・基経もまた、陽成天皇の外戚として摂政と関白を務めた。平安時代中期以後は藤原北家のみが栄え、藤原氏の地位は不動のものになった。そのきっかけになったのが承和の変である。
 823年に嵯峨天皇は弟の淳和天皇に譲位し上皇になるが、
嵯峨上皇の実質的支配は30年続き政治は安定していた。この間、藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇の信任を得て急速に台頭し、良房の妹・順子が仁明天皇の中宮になり道康親王(文徳天皇)が生まれた。

 藤原良房は道康親王(文徳天皇)の皇位継承を望んだが、もちろん父の淳和上皇や恒貞親王はそれを望まなかった。840年に淳和上皇が崩御すると、2年後に嵯峨上皇も重い病に伏すことになる。

 恒貞親王派の伴健岑と橘逸勢は、恒貞親王の身を守るため恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を平城天皇の皇子に相談した。しかし皇子はこれに同意せず、皇太后にこの策謀を密告し、皇太后は藤原良房と相談して仁明天皇へ上告した。7月15日、嵯峨上皇が崩御すると、その2日後の17日に仁明天皇は伴健岑と橘逸勢を逮捕した。

 恒貞親王には罪はないとされたが、23日に、藤原良相(良房の弟)が兵を率いて皇太子の座所を包囲し、大納言・藤原愛発、中納言・藤原吉野、参議・文室秋津を捕らえた。仁明天皇は伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じて、恒貞親王は皇太子を廃した。

 藤原愛発、藤原吉野、文室秋津、伴健岑、橘逸勢は左遷あるいは流罪となり、恒貞親王に仕えていた役人の多数処分を受けた。

 事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立った。この承和の変は藤原良房の望みどおり道康親王が皇太子になっただけでなく、伴氏(大伴氏)と橘氏に決定的打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野を失脚させた。有力勢力を退け、藤原氏の中で北家だけを台頭させることに成功したのである。その後、858年に幼少の清和天皇(道康親王)が即位すると、藤原良房は天皇の外祖父として望み通り摂政に就任する。

 

摂関政治

 平安時代は貴族文化が大いに盛り上がった。それは藤原氏が勢力を独占したからで、中でも藤原道長は栄華を極めた。当時の日本は「天皇中心の政治」であったが、実権を握るのは関白や摂政に就く貴族だった。藤原道長は右大臣、左大臣を経て、天皇の生母の勧めもあって摂政にまで上り詰めた。なお「摂関政治」とは、摂政や関白を兼ねて行う政治のことで頭文字をとって摂関政治とよばれている。

 摂政は天皇が幼かったり女性だったりした場合に政治を行う者のこと。関白は天皇が成人した後も政治を行う者のことである。具体的には聖徳太子は摂政、豊臣秀吉は関白である。摂政や関白は誰でもなれるわけではなく、もともとは天皇の血筋をもってい者が選ばれた。しかし藤原良房が天皇家以外で初めて摂政となり、以後、藤原氏の摂関政治が続いた。なお藤原道長の父親の藤原兼家も摂政であった。

 藤原道長は内覧といって、天皇よりも先に重要な書類に目を通すことが出来た。この内覧により、摂政や関白よりも政治的に強い権力を持つことになる。藤原道長はこの内覧の権利を行使して政治に関わった。

 この時期の貴族は才能があっても成り上がることは出来ない。藤原道長は政略結婚によって自分の娘4人を天皇に嫁がせ、娘に子どもが出来れば、その子どもが天皇になった。つまり自分が天皇の祖父なるわけで、摂政として強大な権力を手にした。

 藤原道長は貴族社会の頂点に登り詰め、平安時代を彩った代表的な人物となる。紫式部が書いた「源氏物語」の主人公・光源氏は藤原道長をモデルと言われている。

 摂政は藤原良房(よしふさ)が皇族以外ではじめてその役職につき、関白はその子の藤原基経(もとつね)がはじめてついた。摂関政治は11世紀前半の藤原道長とその子である頼通のときに全盛となり、道長は「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思へば」という世の中を支配した短歌を残し、頼通は京都の宇治に、寝殿造という当時の文化を代表する建築物である平等院鳳凰堂を建てた。

 約50年に渡って摂関政治を握ってきたのは藤原道長の息子の藤原頼通(よりみち) であったが、妃にした自分の娘が天皇の皇子を産めなかった。そのため1068年、藤原氏の血筋をひいていない第71代の後三条天皇が即位した。

親政政治

 外戚関係のない天皇の誕生は、第59代の宇多天皇以来、約170年ぶりのことであった。後三条天皇は35歳と働き盛りで、学問を好み、個性の強い性格で、天皇自らが政治の刷新を行った。後三条天皇は摂関家の勢いを止めるために、摂関家の荘園を押さえるのが近道と考え、1069年に延久の荘園整理令を出し、1045年以降に新たにつくられた荘園の所有を全面的に停止させた。

 私有地である荘園の持ち主は、税が免除される不輸の権や役人が荘園に立ち入ることができない不入の権があり、平安時代の中頃にはこのような私的荘園が増加し、律令体制がくずれると同時に、荘園を藤原氏に寄進するようになり、藤原氏の勢力が拡大することになった。延久の荘園整理令はこの藤原勢力を削ぐ目的があった。

 また学者の大江匡房(まさふさ)を起用して記録荘園券契所を設置して、すべての荘園の券契(権利書)を調査して、書類上の不備や国政上の妨げとなる荘園を停止処分にして国の領地とした(国衙領)。

 この荘園整理令は例外なく摂関家や寺社に適用されたので成果を挙げた。さらに枡(ます)の大きさを同じに定め、重さの単位を全国統一にして不正をなくした。その他にも、後三条天皇は物価の公定価格を定め、国司の重任を禁止して、右大臣に摂関家以外の貴族を起用するなど様々な改革を行った。

 それまで地方の政治は国司に任せきりにで、富を増やすことに専念する国司が多かった。例えば尾張の国(愛知県)の藤原元命(もとなが)は、郡司や農民にその横暴ぶりを訴えられ、国司をやめさせられている。

 白河上皇(院政)

 1073年に即位された、後三条天皇の子である第72代の白河天皇は天皇による親政を行なったが、1086年、白河天皇は8歳の実子・善仁親王に突然譲位して、即位した第73代の堀河天皇の後見役として白河上皇になり政治の実権を握った。それまでは長きに渡って藤原氏が摂政、関白という地位について(摂関政治)権力を握っていたが、その藤原氏の血筋が天皇家から途絶え、この院政とよばれる政治スタイルを確立し、天皇家による政権を完全に奪取したのである。

 上皇であれば天皇のように縛られずに、私的な身分で武士などと主従関係を結ぶことができ、武士を個人的な家臣として職や土地を与えることができた。天皇は天皇の権力を、上皇は天皇の父親として強大な権力を作り上げ、それぞれを補いながら政治権力を握ったのであった。

 このように摂関家にかわって、天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見する制度が始まった。上皇の住居をと呼ぶことから、この制度を院政という。院政は荘園の整理によって摂関家に支配されていた地方豪族、国司(受領)、開発領主らに歓迎された。白河上皇は彼らを支持勢力に取り込むと、荘園減少に不満を持つ摂関家の勢力を抑え込んだ。

 堀河天皇の父として政治の実権を握った白河上皇は、事実上の君主として「治天の君」と称せられ、自らの政務の場所として院庁を開き、実務を院司に担当させた。院政のもとで、上皇からの命令を伝える院宣(いんぜん)や、院庁から発せられる公文書・院庁下文(くだしぶみ)が国政に大きな影響を持つようになった。また白河上皇は直属の警備機関として北面の武士を組織した。

 院政時代を築いた白河上皇をはじめとする各上皇は、仏教を厚く信仰しそれぞれが出家して法皇となった。白河法皇は、1076年に建てた法勝寺などの造寺・造仏事業を行い、熊野三山への熊野詣や高野山への高野詣を繰り返した。

 白河上皇は子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、さらにひ孫の崇徳天皇と3代に渡って院政政治にたずさわり43年間もの間院政を行った。

 院政により皇族や上級貴族に知行(領地)を任せ、そこから収益を得る知行国の制度や、院自身が知行国を支配する院分国の制度が広まった。国の領地である国衙領は、次第に院や知行国主、あるいは国司の私領となり、院政を支える経済的基盤となった。またかつては摂関家に集中していた荘園が、新たに政治の実権を握った院に集中し、警察権を排除する不入の権も廃止され、それらが強化されて荘園の独立性が強まった。

  荘園の寄進が集中した大寺院では、自衛のために下級僧侶や荘園の農民を僧兵として組織した。大寺院では僧兵を用い国司と争い、また自らの要求を通すために、奈良の興福寺では春日大社の神木を、比叡山の延暦寺では日吉大社の神輿(みこし)を先頭に立てて京都へ乱入し朝廷へ強訴した。

 朝廷は自前の軍隊を持っていないので、寺院の圧力に対抗するために源氏や平氏などの武士を雇い警護や鎮圧にあたらせたが、このことが武士の中央政界への進出をもたらすことになった。

  院政によって皇室が政治の実権を握り、摂関家の荘園が減少して、院や大寺院の荘園が増加し、荘園自身の権限が強化された。土地の支配をめぐるこれらの制度は、院に経済的基盤を集中させたことから、上皇(または法皇)の権力は飛躍的に高まり、さらに「天皇の父」という立場からも院の権力に歯止めがかからずに、独裁的な色彩を見せるようになった。

 「賀茂川の水と、双六の賽(サイコロ)の目、山法師(延暦寺の僧兵)だけは自分の意にならない」という白河法皇の言葉があるが、逆に云えは、この三つ以外は自分の思いのままに動かせることができるほどだったのである。白河法皇や鳥羽法皇は、やがては皇位の継承についても意見され、結果として政治の混乱を招くことになった。またこの土地制度は一部の者の不満を高めることになり、来るべき新しい時代への大きな原動力となった。

権力闘争

 宮廷では公家が和歌を詠んだり、夜這をしているだけでなく、薄暗い権力闘争が行なわれていた。政権を独占したのは貴族の藤原一門で、彼らは娘を天皇家に輿入れすることで「外戚」となり政治を独占した。

 そのような藤原一門に挑戦した者は、菅原道真(大宰府に左遷)や伴善男(応天門の変)のように、罠に嵌められて失脚する運命にあった。天皇は飾り物で、貴族たちの都合の良いように祭り上げられ、天皇は政治の実権にはタッチしなかった。

 それでも天皇の中には覇気を持つ者がいて、平安末期に「院政」という政治手法を思いついた。すなわち早めに退位して上皇となり、藤原氏の手の及ばない隠居所を拠点にして政治を行なったのである。また藤原一門といえども、適当な女子に恵まれず、天皇家との縁戚関係を維持できない時期もあった。こうして少しずつ藤原一門の勢力は衰えていった。これらの権力闘争はいわば宮廷の話であって、日本全体にとってはさしたる問題ではなかった。公地公民制が徐々に崩壊し、民生を掌るのは荘園領主と武士団になってきた。

 平安末期になると武士団は源氏と平氏の二大勢力になった。清和天皇の後裔を自認する源氏は東国でその勢力を伸ばした。

 その契機となったのが、いわゆる「前九年後三年の役」(1051年~)である。陸奥(岩手県)の大豪族阿部頼時の反乱を鎮圧するために出陣した源氏勢力が、九年の歳月をかけてこれを滅ぼし、その後、阿部氏に代わって権勢を誇った清原氏の内部抗争を三年をかけて鎮定した。この功績を立てた源義家(八幡太郎)は源氏の守護神となる。

 いっぽう桓武天皇の後裔を自認する平氏は西国で勢力を伸ばした。その契機となったのが、大海賊・藤原純友の反乱であった(941年)。武力を持たない朝廷は、地方の戦乱を有力な武士団に委ねざるを得なかった。そのため反乱が頻発すれば、朝廷の権力が次第に武士に蚕食されていった。やがて朝廷の皇族や貴族たちは、自分たちの権力争いに源氏と平氏の武力を利用するようになる。こうして起きたのが「保元の乱」と「平治の乱」である。その結果、朝廷の実権を握ったのは平清盛であった(1167年)。朝廷内の権力争いは武士に国の実権を奪われる形で終結した。