鎌倉時代

 鎌倉時代は1192年~1333年の約140年間をいう。源平の戦いで武家政権の先駆けとなった平家が滅び、源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。源氏は3代で途絶えたが、承久の変で北条氏が武士社会を継続し、鎌倉幕府の執権となって政治を動かした。承久の変で武家の時代は確実になり鎌倉幕府は長く続いた。途中で2度の元寇があったが8代目執権・北条時宗がこれを退けた。しかし後に鎌倉幕府は腐敗し、後醍醐天皇が幕府に不満を持つ御家人を集め鎌倉幕府を滅ぼした。

 この鎌倉時代から「政治の権力が天皇の朝廷から武家の幕府へと移り」武家の時代がおよそ700年続くことになる。文化においては、武家の時代らしく簡素で力強い作品や大衆向けの仏教の宗派が生まれた。


鎌倉政権の誕生
 源頼朝は平清盛の失政を反面教師に、自らが宮廷貴族に同化されることなく武士の利権を確保する方法を探った。ここで後白河法皇が最大の間違いを犯してしまう。たとえ義経の要求とはいえ「頼朝追討の院宣」を出したことである。源頼朝と義経を戦わせて、源氏の自滅を狙ったのだが、源頼朝を裏切る院宣は頼朝の怒りを爆発させた。しかも朝廷は頼朝に攻められたらひとたまりもなかった。

 2年前の義仲追討の際には、10月宣旨で東国を支配する権利を朝廷に認めさせている。10月宣旨とは「東国の荘園・国衙領からの年貢が内乱よって貴族に届けられない時、年貢を納めない現地の武士に対し、頼朝の命令で年貢を差し出す」ことであった。頼朝は朝廷にこの勅令を出すように提案した。もちろん貴族たちは大歓迎して、1183年の10月宣旨「年貢を差し出せ。命に従わない者は頼朝に成敗させる」との宣旨が天皇から出されたのである。これは年貢を出さない者は頼朝が成敗できること、つまり武士の親分は頼朝で、武士の支配権を頼朝が持つことを朝廷が正式に認めることだった。それまでの「武家の棟梁と家人の関係」はあくまでも私的なものであったが、それを武家の支配圏を公的の認めさせるものであった。法皇は頼朝の上京を促したが、奥州藤原氏の脅威を理由に拒否している。

 1185年11月、源頼朝は舅(妻の父)の北条時政を筆頭に大軍を京へ送り、後白河法皇に「法皇の命令によって平氏滅亡に尽した頼朝を討て」とはどういうことかと迫った。頼朝はさすがに政治家である。
 後白河法皇は恐怖に震え、頼朝をなだめるために二つの要求を認めてしまった。それが「守護・地頭の設置」であった。後白河法皇に「義経追討」の院宣を出させた頼朝は、行方のわからない義経を捕まえる名目で、全国に守護(追捕使)を置くことを要求した。

 守護とは軍事、警察、建設を担当する武官のことで、御家人と呼ばれる源頼朝に服従している武士の中から選ばれた。後白河法皇は頼朝の真の狙いに気づいていたが、頼朝の巨大な軍事力に威圧され、やむなくその要求に屈した。
 地頭とは、土地・荘園を管理して年貢を徴収する武官のことで、地頭は御家人の中から選ばれた。公的な土地の管理人であるが、その任命権は守護とともに頼朝にあった。この地頭の設置で「武士が初めて自分の土地を公的に所有できるようになった」。全国各地に守護・武官を配置して武力支配を強め、日本が本格的に武力の支配下に置かれることになった。なお上下関係では守護の方が上で、地頭は守護に仕えることになる。

 さらに全国の土地から収穫量の5%を兵糧米として徴収できる権利を獲得し、これにより公領や荘園にも武士の手が伸びることになった。守護は各国に1人、地頭は各荘園に置かれ、その任命権を頼朝が得ていたのだから、事実上の全国支配であった。この「守護・地頭の設置」をもって鎌倉幕府の始まりとする考えがある。

 守護と地頭の制度ができたため、各地の武士団は荘園内において一定の警察権と裁判権を確保し、やがて経済的権益を拡大して名実ともに武士たちが日本を牛耳ることになった。守護や地頭によって「武士のための政治」が大きく前進した。

 頼朝は平氏なき後の残党勢力の一掃に取りかかった。奥州平泉の藤原秀衡は、自分を頼ってきた義経を頼朝との決戦に活かそうとしていた。しかし保護から一年も経たないうちに藤原秀衡が亡くなってしまい、この秀衡の死は義経にとっても大きな誤算であった。秀衡の後を継いだ藤原泰衡(やすひら)は、頼朝から「義経を殺せば藤原氏の安泰を保証する」という言葉を真に受けて、1189年に義経を自害に追い込んだ。しかしこの行為は頼朝への切り札を失ったことを意味していた。事実、頼朝は同年7月、大軍を率いて泰衡を攻め、100年続いた奥州藤原氏を滅亡させている。
 自分に対抗する勢力をすべて滅ぼした頼朝は、1190年11月に上洛を果たすと、後白河法皇と二人で会談を行った。この場で何が話されたかの記録は残されていないが、事後の展開から、頼朝は自らを征夷大将軍に任命するように後白河法皇に迫ったのであろう。

 征夷大将軍は、平安時代の坂上田村麻呂のように東北地方の蝦夷を征服するための将軍という意味だけでなく、また武士の中での最高権力者という意味でもなく、頼朝が征夷大将軍を要求したのは「鎌倉幕府の誕生」と密接にかかわっていた。

 幕府とは中国の言葉で「軍司令官の本陣」、つまり前線本部のテントを意味していた。皇帝に代わって指揮を取る将軍の臨時基地のことで、中国の皇帝は戦争を円滑に進めるため、皇帝の権限である徴税権や徴兵権を将軍に委任した。頼朝は自らを「幕府の将軍」になぞらえ、朝廷から独立した軍事政権を確立したのである。

 頼朝の思惑に気づいた後白河法皇は、征夷大将軍の代わりに頼朝を右近衛大将に任じた。右近衛府の大将は朝廷の警護役で、征夷大将軍より格段に位が高かったが、右近衛府の大将は朝廷の命令で動く高級官僚で、遠征のできない右近衛大将では幕府は開けない。位は低くても征夷大将軍は白紙の委任状を預けられるものであった。そこで頼朝は喜んで任官を受けたふりをしてすぐに辞任して鎌倉に帰ったのである。
 会談から2年後の1192年3月に後白河法皇が66歳で崩御すると、頼朝が改めて朝廷に征夷大将軍を迫り、同年7月、朝廷は頼朝を征夷大将軍に任じてしまった。この段階で初めて鎌倉幕府が名実ともに成立し、これ以降を鎌倉時代と呼んでいる。

 鎌倉時代がいつ成立したかについて様々な説が出されている。鎌倉幕府の成立時期が話題になっている。1192年の頼朝の征夷大将軍の時、1190年の頼朝の右大将の時、1184年の公文所、問注所の設置の時。さらには1180年に鎌倉を本拠とした時。1185年に守護・地頭の設置した時。1183年の10月の宣旨で東国支配権をえた時などである。しかし鎌倉幕府は徐々に支配権を拡大したのであり、いつからというのは意味がない。歴史を試験産業と捉える学者の悪い癖である。朝廷が頼朝を征夷大将軍に任命して、鎌倉の軍事政権が初めて公認されたとき、やはり「いい国つくろう鎌倉幕府」の1192年が幕府成立の年にふさわしいと思う。なお歴史教科書でも一般に1192年説が採用されている。

 日本に「朝廷と幕府という二つの権力中枢」ができ、建前は京都の天皇と貴族が日本の主権者であるが、実質は鎌倉幕府が国政を牛耳ることになる。征夷大将軍は天皇の代理を意味しており、この奇妙な二重構造は明治維新まで700年以上も続いた。ただ鎌倉幕府は武士政権としては中途半端で、天皇と貴族がいつ権勢を巻き返してもおかしくない状況にあった。幕府は出来たが「征夷大将軍になる資格」については合意がなかった。そのため征夷大将軍の地位を巡って内乱が起きてもおかしくなかった。これらのバランスが大きく崩れた結果、南北朝・室町の戦乱が起きた。

 1180年、頼朝は鎌倉を拠点とした。鎌倉は南は海に面し、三方を丘陵に囲まれ攻めにくい土地であった。頼朝は鎌倉に新たに作らせた屋敷に入り、この屋敷が大倉御所つまり幕府と呼ばれた。

 

鎌倉幕府の組織

 鎌倉幕府は簡素で実務を重視していた。鎌倉には中央機関として、幕府と主従関係を結んだ御家人の統轄や軍事・警察にあたる侍所があり、一般政務や財政事務を行う政所(まんどころ)、裁判事務を担当する問注所(もんちゅうじょ)が置かれた。

 侍所の初代別当(長官)には和田義盛が、次官には梶原景時が就任した。問注所の初代執事(長官)には三善康信が任命された。三善康信は下級貴族で、頼朝の乳母の妹の子であった。頼朝が貴族を用いても武士から非難されることはなかったのは、三善康信は貴族を好ましいと思わず、貴族の間違いを示す姿勢があったからである。

 一般政務や財政事務を行う「政所」には貴族の出である大江広元が任命されたが、大江広元は早くから京を離れて頼朝に従っていた。初期の鎌倉政権は荒くれの坂東武者ばかりで、行政・外交の能力は全くなかった。大江広元は貴族の出であったが、長官に任命されたのは、当時の武士は字が読めなかったからである。承久の乱で鎌倉幕府が京都を攻めたとき、降参した公家から講和文書が届けられたが、正式文書の漢文を読めたのは5000人の武士のうちで藤田三郎だけだった。このように武士の大半は仮名もわからない状況だったため、大江広元は頼朝の知恵袋となり、行政や朝廷との交渉で活躍したのである。吾妻鏡は大江広元を高く評価している。 

 また幕府の出先機関として京都の治安維持や西国の御家人の統轄を職務とする京都守護が置かれ、九州には鎮西奉行(ちんぜい)が、奥州には奥州総奉行が置かれた。なお京都守護は後に朝廷や西国を監視するため「六波羅探題」に名を変えた。

 地方には守護や地頭が置かれ。守護は各国に一人ずつ配置され、主に東国出身の有力御家人が任命された。守護は京都大番役(皇居の警備を担当)をかね、謀叛人や殺害人の追捕(ついぶ)という大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)を行い、御家人を統率して治安の維持、あるいは警察権の行使し、戦時には軍を指揮した。また守護は国の役所である国衙の在庁官人(地方の役人)を支配し、地方行政官の役割をも果たした。

 地頭は御家人の中から任命され、国衙領(国の領地)や荘園の年貢の徴収や納入、土地の管理や治安維持にあたった。それまで下司(げし)と呼ばれた荘官の多くが、頼朝から新たに地頭に任命された。御家人の権利が広く保障され、武士たちの悲願が達成された。しかし新たな地頭の設置は平家没後の所領地に限られており、鎌倉幕府が日本中を完全に支配したわけではなかった。

 鎌倉幕府の経済基盤としては、朝廷から頼朝に与えられた知行国(関東御分国)や、頼朝が持つ平家領である多数の荘園・関東御領(ごりょう)があった。

源氏の暗転

 源頼朝は征夷大将軍となって鎌倉幕府を開き「武士のための政治」を始めたが、朝廷の公認を受けても、天皇や朝廷を差し置いての政治に「後ろめたさ」があった。また頼朝が自分の没後も将軍として政治を行うための「後ろ盾」が欲しかった。頼朝もやはり人の親であり、家系の繁栄を望んでいた。

 1195年、源頼朝は東大寺の再建供養に出席した際に京へ向かい、娘・大姫を後鳥羽天皇の妃にしようとした。頼朝と政子の長女・大姫は、木曽義仲の子・義高(11歳)と婚約していたが、義仲を討った頼朝は密かに義高を暗殺していた。これを知った大姫は10数年間、心を閉ざしていたのである。

 頼朝は大姫が後鳥羽天皇に嫁げば、自分が朝廷と縁続きになる。大姫に皇子が生まれて天皇になれば、源氏政権の強力な後ろ盾になると考えた。しかしこれは絶対にやってはいけない「禁じ手」であった。

 「娘を天皇の妃として、生まれた皇子が天皇に即位して自分が外戚となる」、これは平氏と同じやり方で、源氏が貴族化する道を開くことになり、武士の権利が再び朝廷に奪われる懸念があった。結局、大姫が死去したため、頼朝の思惑は失敗に終わるが、鎌倉の武士団からすれば、頼朝の行為は重大な裏切りで許すことのできないことであった。

 その後、1199年12月27日、源頼朝は御家人の稲毛重成の亡妻(政子の妹)の供養のために相模川にかけた橋が完成したため、その完成祝いに出掛け、その帰りに稲村ガ崎で落馬した。頼朝は落馬事故が原因で翌年の1月13日に53歳で死去するが、武家の棟梁である頼朝が生命に関わる落馬事故を起こすだろうか。しかも落馬から死去まで鎌倉幕府の正史・吾妻鏡にはその前後3年の記載がない。しかも吾妻鏡に源頼朝の死が書かれたのは死後13年後であった。頼朝の詳しい死因は現在も分かっていないが、吾妻鏡は北条氏が編纂したものなので、頼朝の死因が落馬だとしても北条氏に都合よく書かれていると想像される。

 頼朝は関東武士団の利益代表であったが、京都生まれの頼朝は娘の大姫を入内させたいと言い出したように、関東武士団にとって裏切り行為を行っている。せっかく鎌倉政権を作ったのに、頼朝が京で貴族の仲間に入ったら意味がないことであった。

 もともとは関東武士団が「頼朝を将軍にしてやった」のであり、頼朝が「関東の王」の自覚を忘れかければ、御家人全員が「落馬で事故死」と口を揃えても不思議ではない。もし頼朝の死が北条氏による単独犯ならば、他の御家人が黙っているはずはない。頼朝の死が仕組まれたものならば、鎌倉御家人全部が「自分たちの関東政権を守るために行った」としか思えない。
 頼朝の息子たちは武士の代表としての力量はないが、それは北条政子が「関東武士団の立場」を教えなかったからである。源氏の将軍はもともとは御神輿なので、御神輿は誰でのよかったのである。京都から扱いやすい御神輿をもってくればいいだけだった。

 頼朝の死後、源氏の運命が一気に暗転したが、これは平氏の滅亡とほぼ同時に源義経が歴史から退場したように、幕府を開いた頼朝の役割は終わりを告げたのである。鎌倉政権とは最初からそうだったのであろう。

源氏の終焉

 初代将軍の源頼朝は猜疑心の強い性質で、自分の権威を脅かす可能性を次々と排除した。源頼朝は従兄弟の義仲、叔父の行家、弟の義経と範頼を抹殺し、そのため有能な源氏一族は壊滅した。頼朝の死後、頼朝には嫡男の頼家、次男の実朝がいたが頼朝のカイスマ的血脈は絶えたといってよい。

 嫡男の頼家、次男の実朝は二人ともまだ若く、武士政権の中心にはなれなかった。幕府の実権を握るための熾烈な内部抗争が始まり、いつしか幕府は頼朝の側近や有力御家人からなる13人の合議制による政治が主流となった。

 

第2代将軍・源頼家

 頼朝の死後、嫡男の源頼家(よりいえ)が頼朝の後を継いで第2代将軍となるが、父・頼朝並みの器量は望むべくもなかった。

 源頼家の乳母は有力御家人の比企氏で、頼朝の乳母をしていた比企尼は頼朝が14歳の時に伊豆国に流されて以来、長年に渡って援助を続けてきた。その功をねぎらうため、頼朝は比企尼の娘を嫡男の乳母に任じたのである。比企尼の甥の比企能員(ひきよしかず)の妻も乳母となり比企能員は乳母父となった。

 1202年、頼家が第2代将軍になると比企一族が重用され、源頼家は比企能員の娘を妻とし、後ろ盾として比企氏を頼りにした。比企能員の娘の若狭局が頼家の嫡男・一幡を生んことから比企能員は外戚として権勢を誇るようになった。疎外された北条氏は政権が奪われる事を危惧し強い危機感を抱いた。

 源頼朝が落馬をきっかけに重病に陥ったため、北条時政は後継を頼家に決定し、さらに先手を打って1203年に無警戒であった比企能員を謀殺した。若狭局と6歳の一幡も戦火の中で命を落とし比企一族は滅亡した。後ろ盾を失った頼家は伊豆の修善寺に幽閉され暗殺された。

 

第3代将軍・源実朝

  1205年、北条時政は頼家の弟である源実朝(さねとも)を第3代将軍にした。第2代将軍・源頼家、第3代将軍・源実朝の実母は北条政子である。

 1218年、実朝は「源氏の正統は自分で終わるので、せめて高い官位に付き家名をあげたい」と次々に官位昇進を望んだ。朝廷は権大納言、左近衛大将、内大臣とし、同年12月2日、武士としては初めて右大臣に任じた。

 翌年1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席した実朝は、太刀持ちを務めていた源仲章とともに、甥の公暁によって暗殺された。公暁は源実朝の首を抱え逃走し、乳母の夫である三浦義村邸へ向かうが、三浦義村が差し向けた家来によって殺害された。時に公暁19歳であった。実朝暗殺時、公暁が「親の仇」と叫んだと記録に残されているが、殺された実朝は26歳で、打ち落とされた首は公暁が持ち去り行方はわかっていない。この実朝の死によって源頼朝から始まった源氏の政権は三代で滅んだ。

 

乳母とその一族

 源実朝がなぜ甥の公暁に暗殺されたのか、それを知るには乳母とその一族に目を向ける必要がある。頼家、実朝、公暁には、それぞれ比企氏、北条氏、三浦氏という乳母一族がいた。いずれも関東に強い勢力を持つ豪族たちである。

 この時代、乳母は単に乳をやるだけでなく、夫や息子ともども養君に仕え、その立身出世を盛りたてる存在であった。養君の出世は乳母一族の出世に直結し、養君が没落すれば乳母一族も没落する、いわば運命共同体で、乳母は育ての母親という認識は間違っている。乳母は現代でいうベビーシッターのような存在ではなかった。
 乳母というのは、乳を与え養君の子守をする母親代わりではない。養君と家族ぐるみで主従関係を築き、いざという時は主君に身を賭す「家臣」であった。また圧倒的な男性社会の中で、女性が金銭や出世を掴める役職であった。

 現在の感覚で言えば、三歳児神話のように「母親は産みの親でなくては子供の発育に悪影響がある」という考えであるが、日本中世で「偉人」と呼ばれる人たちは、大体が乳母の乳を吸い、乳母に教えを受けて育っているのである。

 当時は実母に兄弟がいる場合、実母が自分の味方になってくれるとは限らないが、養君にとっては乳母は自分一人の乳母であり、乳母にとって養君はかけがえのない存在だった。産みの母親よりも、育ての母親の方が強い絆で結ばれていた。

 つまり北条氏は幕府開設当時から実権を握っていたと思われがちであるが、それは単に「頼朝の妻・政子の実家」というだけで執権の座にあったにすぎない。公暁に実朝を討てとそそのかしたのは、乳母の夫である三浦義村だったとされている。それでいながら、三浦義村は自分を頼って屋敷を訪ねた公暁を討った。

 北条義時はしたたかにも暗殺現場からその直前に逃亡したため、三浦義村の作戦に大きな狂いが生じたのである。三浦義村は北条義時に「公暁を討て」と命じられ、一族の安泰をはかるため養君を討たざるを得なかったのである。

 大切な旗頭である実朝を見殺しにした北条義時、大切な養君を殺させた三浦義村。二人は冷血漢ではなく、一族のため涙を呑んで決断せざるをえなかったのである。ちなみに実朝を暗殺したのは公暁であるが、それは暗殺の現場で「我こそは公暁なり」と叫んだからで、その後にすぐ討ち取られているので本物に公暁だったとの確証はない。

 殺害は殺害によって最も得する人物が糸を引いているものである。いずれにしても源氏の直系の将軍は3代で絶えてしまう。

執権政治

 鎌倉幕府の本質は「関東武士の独立政府」である。政治の主体は関東武士であったが、関東武士は京の朝廷に対しての反乱勢力ではなく自治組織である。その体裁を整えるために、自分たちの中から「王」を選ぶのではなく、天皇との血筋のつながりのある源頼朝に「王」の役をやらせていたにすぎない。

 つまり将軍は最初から「雇われ社長」にすぎず、初代将軍の源頼朝は、挙兵のときから自分は「御神輿(おみこし)」に過ぎないことを自覚し、「御神輿」の役を上手くこなしてきた。自分や源氏が天下を取ったわけではなく、自分は関東武士団の利益の代表であるとした。
 そのため頼朝は決して関東を動かず、関東武士の「象徴君主」の立場を堅持し、そのため関東武士団は頼朝に権力を預け主君として敬ったのである。ところが頼朝が死ぬと、その息子たちは将軍とは何か、本当のところを分かっていなかった。そのため北条時政が執権として将軍を補佐することになる。つまり北条時政は家来のなかでの第一有力者で、主人のかわりにすべてを行うことができ、執事による政治を執権政治とよぶことになる。鎌倉幕府にでは鎌倉殿(将軍)が主人で、御家人たちが家来であるが、この家来たちの代表という意味で執権という言葉を用いたのである。
 執権の「権」という意味は「仮」という意味で、つまり「代理」となる。本来の執権は「鎌倉殿のまつりごとを代行する者」となるが、あくまで家来の代表であり合議制の座長であった。鎌倉幕府は武家政治で北条氏の世襲による政権であるが、北条氏は代理といて政治を行ったのである。
 初代「執権」の北条時政は「将軍実朝の祖父であり後見人」という立場から御家人の代表となったが、あくまで将軍の家来で北条氏が権力を握ったわけではない。ところが頼家も実朝も、政治の実権は最初からないのに、自分は関東武士団の代表として「好き勝手に命令できる立場」と勘違いをしてしまった。そのため二人とも殺されたのである。これは北条氏だけの陰謀ではなく、鎌倉御家人全体の意志である。勘違いをした源氏将軍を関東武士全体で葬り消したのである。
 「頼朝は権力を持っていたが、北条氏が頼朝の子孫から権力を奪った」あるいは「源氏が三代で滅びたので代わりに北条氏が権力を握った」という認識は間違いである。三代将軍・実朝のあとは源氏の血筋が途絶えてしまうが、北条氏にとっては源氏にこだわる必要はなかった。

 ただ形の上で将軍が必要なため、四代目からは公家から幼い子どもを連れてきて将軍につけた。もちろん幼い子どもには政治ができないので、北条氏は実権を握り政治を行ったのである。子どもの将軍が成人になるとすぐに放り出し、また新しい子どもを公家から連れてくる。こうして北条氏は名目上は地方派遣軍司令官よりも下の地位でありながら、1世紀半にわたって実権を握り続けた。京都から地位ある幼児を将軍に迎え、その家来という体裁を整えて政治を行ったのである。
 鎌倉幕府を運営する関東武士たちは、あくまで「自分たちは、京都から派遣されてきた将軍の家来」という看板を掲げていたが、それが「執権政治」である。京都からきた将軍は単なる象徴だから要らないといえば要らないが、われわれは「京都の朝廷とは縁を切って、武士による武士のための武士の政治をする」という宣言はしないのある。「曖昧な存在のしかた」のほうがなにかと上手くゆく。これが「日本人の知恵」である。

 日本の歴史を振り返ると、最も偉いのは天皇である。しかし実際に力を持っていたのは藤原氏や鎌倉幕府、江戸幕府、日本政府である。このように天皇は象徴であり実権は何もないというのが、日本では約二千年続いているのである。

 

北条氏の台頭

 鎌倉幕府は不安定なバランスを保ちながらも150年も生き続けた。それは頼朝の妻・北条政子らの北条一族が優秀で、有能な政治家を続出したからである。

 幕府は頼朝の死後、側近だった有力御家人からなる13人の合議制による政治が主流になったが、その中から頭角を現したのが頼朝の舅である北条時政や頼朝の妻・北条政子を中心とする北条氏であった。北条時政は政所の別当となり、さらに時政の後を継いだ嫡男の北条義時は、1213年に侍所の別当だった和田義盛を滅ぼし、侍所の別当も兼ねることになった。

 源氏が途絶え北条政子が執権になるが幕府は混乱し、その混乱につけ込み、朝廷に権力を取り戻そうとしたのが後鳥羽上皇である。

 京の朝廷では後鳥羽上皇が中心となり政治の立て直しが行われていた。後鳥羽上皇は分散していた広大な皇室領の荘園を手中におさめ、朝廷の武力増強の一環として新たに西面の武士を置くなどして、朝廷の権威の回復を目指していた。政治の実権を北条氏に奪われたが、第3代将軍・源実朝京都の公家から妻をもらい、実朝は和歌を趣味として日々を送っていた。これに目をつけた後鳥羽上皇は腹心を政所の別当に送り込み、幕府を朝廷の支配下にしようとした。

 この実朝が公暁によって暗殺されたため計画に支障をきたすが、それでも後鳥羽上皇は源氏・北条氏の政治の実権を朝廷主導に戻そうとした。後鳥羽上皇は倒幕に立ち上がるが、御家人たちは鎌倉幕府側についた。かつての院政時代のように朝廷のために働くのを御家人は嫌ったのである。結局、幕府が勝って1ヶ月で乱は鎮圧され、後鳥羽上皇は隠岐へ流刑となる。

 源氏の直系が絶えてから、幕府の主要機関である侍所と政所の別当を北条氏が代々世襲し、源氏に代わって北条氏が幕府の実権を握るようになった。北条氏は血で血を洗う抗争の末、多くのライバルを滅ぼし最終的な勝者となった。北条氏はもともとは伊豆の小土豪にすぎなかったが、独特の政治感覚で鎌倉政権を安定に導くことに成功した。

 北条氏は征夷大将軍(将軍)の地位を望まず、自らは補佐役としての「執権」にとどまり、実権のない将軍を皇族から迎えた。このようにして北条氏は皇族の権威によって幕府をまとめようとした。北条氏の政治力は狡猾といえるが、幕藩体制を維持するには正しい選択であった。

 執権・北条義時、北条泰時、北条時頼らは、日本史上でも稀有の政治家である。泰時は「御成敗式目」という鎌倉政権内での憲法を発布して政権の安定に努め、時頼は諸国を漫遊して民の生活を視察した。視察の真偽のほどはともかく、民がその善政を慕っていたことの傍証になる。

  源氏の血統が途絶えたが、将軍が空位のままではさすがにまずいので、北条氏は京都から皇族を将軍に迎えようとして朝廷と交渉した。1226年、頼朝の遠縁にあたる、わずか2歳の藤原頼経(よりつね)を将軍の後継として迎えた。

後鳥羽上皇の北条征伐
 後白河法皇の死後、再び院政を始めた後鳥羽上皇は、様々な強権を発動して専制体制を始めた。鎌倉幕府の成立後、幕府と朝廷の対立が徐々に深まってゆき、ついに後鳥羽上皇は倒幕活動、つまり北条氏の征伐に動き出した。

 後鳥羽が北条氏を滅ぼそうとしたのは3代将軍・源実朝の暗殺事件が切っ掛けであった。実朝は公家に理解を示していたが、2代将軍・源義家の子の公暁に殺害され、その公暁も後に殺害された。実朝には子がいなかった為、北条氏は後鳥羽上皇の子を将軍職に就任させる密約を結んでいた。しかし後鳥羽上皇はこの約束を反故にして、北条氏討伐の院宣を出したのである。

 幕府の御家人たちは北条征伐の院宣が出された事に動揺し、朝廷側に付く御家人が大勢出ることが予想された。当時の社会において、日本全土を統治する天皇・上皇は絶対的な権威を持っており、その朝廷と対立する事は、武士たちにとっては大変な恐怖であった。

 ここで北条政子は御家人たちを集め歴史に残る名演説を行った。「後鳥羽上皇は逆臣たちの讒言に惑わされている。その逆臣たちを討つ」として御家人を団結させ京へ攻め上がったのである。
  1221年5月、鎌倉幕府軍は「承久の乱」が勃発すると北条義時の子である北条泰時(やすとき)や、義時の弟である時房(ときふさ)らが京を攻め、僅か1ヶ月ほどで幕府軍は圧勝するのである。 

 北条義時は後鳥羽上皇に近い、後堀川天皇を即位させ、朝廷軍を率いた後鳥羽上皇や順徳天皇は配流される事となり、乱に関わった貴族たちは処刑された。
  この「承久の乱」は日本史上稀に見る出来事である。上皇らの領地は没収され、幕府の御家人たちに功績として与えられた。この時、朝廷が奪われた領地は3000ヵ所ほどで、膨大な領地が幕府のものとなり、朝廷の権威は急速に低下する事になった。承久の乱の後、京都守護は六波羅探題に格上げされ、朝廷の監視や西国の御家人の統括が強化された。

 北条義時が亡くなると、泰時が三代目執権として就任し、北条氏の権力基盤を固める為に、連署と評定衆などの新たな役職を定め、北条氏と有力御家人たちが意見を出し合える集団指導体制を築いた。また幕府の全国支配が進むにつれて、各地の土地などの問題が生じたため御成敗式目が定められた。御成敗式目とは道理と呼ばれた武家社会の慣習や道徳をもとに制定された法典である。

 三代将軍の源実朝が殺害され、源頼朝直系の血筋は途絶えたが、鎌倉幕府の将軍は三代目で途絶えたわけではなく四代目以降も存在していた。四代将軍に就任したのは藤原頼経で、摂家から迎えられ将軍となった。五代目将軍も同じく摂家より迎えられた藤原頼嗣である。しかし四代・五代目将軍は幼く、ともに執権略奪を画策する勢力と結ぶ付いたため、結局は将軍職を廃されてしまう。この時、北条氏が求めていた将軍とは現代における天皇陛下のように象徴としての将軍であった。
  朝廷と幕府、両方から受け入れらえる将軍として、六代目の将軍に就任したのが後嵯峨天皇の子である宗尊親王(むなたかしんのう)である。皇族で初めて征夷大将軍となったことで将軍職の安定に成功し、これ以降は親王将軍が定着する事となった。

 御恩と奉公
 御恩とは「将軍が御家人の土地の権利を認めて保証し、手柄のあった御家人に新しい領地を与えること」である。奉公とは「将軍や幕府のために仕事をすること」で、具体的には戦いの時に将軍のために馳せ参じることである。

 鎌倉政権は武士団の寄り合い所帯で、鎌倉には将軍や執権がいたが、彼らに期待されたのは武士団相互の利害調整であった。そのため鎌倉政権の最も重要な機関は問注所(裁判所)であった。

 鎌倉幕府に参加した武士たちは「御家人」と呼ばれ、御家人と幕府は「御恩と奉公」による緩い契約によって結ばれていた。すなわち幕府は御家人の権益を護持し、働きに応じて恩賞を与え、あるいは他の御家人や寺社との間の利害を調整することであり、その一方、御家人は幕府の危難に際して軍事力や政治力を提供するという契約であった。

 頼朝は武士たちが命がけで「土地」を守っていることを知っていた。平氏全盛の頃、多くの武士は先祖代々の土地を脅かされていた。頼朝は東国の武士たちに「東国の支配は、私に任されている。おまえたちの土地の所有権利は私が守る」と伝えた。この頼朝の言葉に東国の武士たちはひきつけられ味方をしたのである。

 御家人は先祖伝来の所領を保障され、新たに所領を持つ権利が与えられた。御家人はこの御恩に対する奉公として、平時には自費で京都大番役、幕府の警護である鎌倉番役につき、戦時には「いざ鎌倉」として戦場におもむき命を懸けて軍役についた。

 各地に領主として勢力を拡大した武士は、特に東国を中心とする東国武士たちは、自己の所領を保障してくれる幕府の配下として組織され、東国は幕府の直接支配地となり、行政権や裁判権を鎌倉幕府が握った。

 このように「土地の給与による御恩と奉公の主従関係」を封建制度という。また当時の武士のように「所領(=土地)のために命懸けで働く」ことを 「一所懸命」と云うようになった。

 封建制度は支配者が領地を分け与え、代わりに軍役を負担させる制度であるが、この封建制度はヨーロッパの封建制度とは若干違っている。ヨーロッパでは誰に仕えるかを仕える側が選択できた。また「御恩と奉公」の意識は薄く、しかも教会との二重支配があった。農民にとっては日本もヨーロッパも奴隷として扱われることは同じであった。

 こうした契約は、双方の利害関係が一致することで初めて実効を持つ。この鎌倉政権の末路が呆気なかったのはこの利害関係が崩れたからである。

 

いざ鎌倉

 1246年3月23日、鎌倉幕府執権・北条経時が重病となり、弟の北条時頼が5代執権に就いた。その直後、北条時頼は北条執権体制に反発する鎌倉幕府第4代将軍の藤原頼経を京に強制送還すると、不満をつのらせていた三浦泰村の一族を滅ぼした。時頼が執権についた11年間で、もめ事はこのだけで比較的安定していた。

 それまでの社会は弱肉強食の世界で、強い者が弱い者を押さえつけ、上からの略奪や不法行為に庶民は泣き寝入りしかなかった。しかし北条時頼は「武士たるもの、民衆を上から押さえつけるのではなく、民衆とともに生き、ともに豊かになっていくべき」との信念を持っており、配下の武士たちにこのことを徹底させた。
 貴族に代わり、初めての武士政権を開いた鎌倉幕府は、この民衆を擁護する形で、その政権を揺るぎないものにした。この北条時頼の政策は、民衆を撫でるような政策から撫民(ぶみん)政策と呼ばれる。撫民(ぶみん)政策は日本の歴史上大きな転換であった。
 北条時頼の時代に生まれた謡曲に「鉢木(はちのき)」がある。「万が一の時、今動くべき時」を言い表す言葉に「いざ鎌倉」という言葉があるが、鉢木は「いざ鎌倉」を誕生させた謡曲である。もちろんこれは後世の創作であるが、このような逸話が生まれ、後世に語られたのである。
 ある大雪の日のことである。旅の僧が行脚の途中で上野国(群馬)の佐野に立ち寄った。ちょうど日が暮れてしまい、やむなく僧は近くにあった貧しげな家に一夜の宿を求めた。そこには貧しい夫婦が住んでいたが、主人は嫌な顔一つせずに粟の飯を出してもてなした。しかも冬空にくべる薪(たきぎ)がないため、大事にしていた盆栽の梅・松・桜の木を切って暖をとらせたのである。そのもてなしに感動した僧が、主人に尋ねると「私は佐野常世という武士で、一族の者に所領を奪われ、今はこうして落ちぶれてしまったが、甲冑や長刀や馬は、いつでも使えるように備えている。いざ、という時は、鎌倉殿の家来として、いの一番に鎌倉に馳せ参じ、敵陣に突っ込む覚悟でいる」と熱く語った。それからまもなくの事、鎌倉から諸国の武将に緊急の動員令がかかった。佐野常世は、かつての言葉通りに鎌倉へと向かった。坂道で2度も倒れるような痩せ馬にまたがって駆けつけたが、鎌倉で彼を迎えてくれたのは、あの時の僧であった。あの僧が北条時頼だったのである。

 北条時頼は常世の忠義を褒め、奪われていた旧領を与えただけでなく、火にくべた梅・松・桜の木にちなんで、加賀(石川県)の梅田庄、上野の松井田庄、越中(富山県)の桜井庄の3ヶ所の土地を与えた。これは完全な美談であるが、その他にも、次のような話がある。
 北条時頼が摂津難波(大阪)で、偶然知り合った貧しそうな尼と話すと、その尼の夫が治めていた土地が、夫の死後奪われ、どこへも訴える事ができずにいることを知った。急いで鎌倉に戻り、真相を究明して尼の領地を回復したのである。これは水戸黄門の「大日本史」に書かれているので事実であろう。

 鎌倉時代に武士が新たなる統治者(政治家)として目覚めたのは、北条時頼の功績があったからである。

御成敗式目
 承久の乱のあとの1232年に、執権の北条泰時(やすとき)と有力な御家人らによって、それまで公家の法律だった律令を、武士の習慣や実態にあわせて作ったものが「御成敗式目」である。御成敗式目は初めは35条までが作られ、そのあと付け加えられ全部で全51か条からなる。

 日本には「和をもって尊しとなす」と聖徳太子が作られた十七条の憲法をはじめとして、古くから律令(法律)が国の政治や人々の生活のよりどころとなっていた。しかし律令の言葉は難しく貴族や役人にしか分からないものだった。御成敗式目の特徴は武士の生活にあわせた分かりやすいものであった。

 御成敗式目は、律令とは別の「武家に対する初めての法律」で、御家人の権利や義務が定められ、武士の生活や裁判のよりどころになった。御成敗式目は各国の守護を通して全ての地頭に配布されたため、全ての地頭がその内容を知っていた。御成敗式目は室町時代・戦国時代・江戸時代の武士の法律の手本とされている。
 御成敗式目(抜粋)

 第1条

 神社を修理して祭りを大切にすること。そうすることによって人々が幸せになるからである。供物(くもつ)は絶やさず、昔からの祭りや慣習をおろそかにしてはならない。

 第2条

 僧侶は寺や塔の管理を正しく行い、日々のおつとめに励むこと。寺も神社も人々が敬うべきものであり、建物の修理とおつとめをおろそかにせずに、また寺のものを勝手に使ったり、おつとめをはたさない僧侶は直ちに寺から追放すること。
    第3条       

 守護の仕事は京都の警備や謀叛や殺人を取り締まること。さらに夜討ち(ようち)、強盗、山賊、海賊の取り締まりである。それ以外の仕事をしてはいけない。この取り決めにそむく守護が国司や領家に訴えられ、あるいは地頭や庶民に対してその非法が明らかになり次第辞めさせて適切な者を守護に任命する。

 第4条
 重い犯罪はていねいに取り調べた上で幕府に報告し、幕府の指示に従わなくてはならない。これを怠る守護が勝手に罪人の財産を自分のものにするは許さない。従わない者は解任する。また重罪人であってもその妻子の住む屋敷や家具を没収してはならない。
    第5条
    集めた年貢を本所に渡さない地頭は、本所の要求があればすぐそれに従い不足分を補うこと。不足分が多く返しきれない場合は3年のうちに本所に返すこと。これに従わない場合は地頭を解任する。

 第6条
  国司や領家の裁判、また荘園の神社や寺が起こす裁判に幕府は介入しないこと。

 第7条

 頼朝公や政子様から御家人に与えられた領地はその権利を奪われることはない。所領は戦の勲功や役人としての働きによって御家人に拝領されたものであり、きちんとした理由があるものである。にもかかわらず領主が御家人に配せられた領地を「先祖の土地」と言い訴えることは、御家人にとってははなはだ不満なことである。したがってこのような訴訟は取りあげない。ただしその御家人が罪を犯した場合には領主が訴えることは認める。しかし判決が出た後に再び訴訟することは禁止する。以前の判決を無視することは許さない。
    第8条
     20年以上その土地を支配していれば、その土地は御家人のもになる。

 

 ここに抜粋したのは第8条までであるが、御成敗式目は全51条まで詳細に書かれている。

 領地は武士にとっての命であり、先祖から受け継いだ土地を認めてもらうこと、新しい領地をもらうことの二つが最も重要で、御成敗式目の中で最も大切なのが第8条の「20年間実効支配すれば誰からも奪われない」という部分になる。さらに御家人同士の裁判はできるだけ公平に行い、有力者の口ぞえやニセの証拠を排除し、一族に関係者のいる裁判官は退席が決められている。またいったん相続した土地でも、親が返せと言えば返せることや、子供のいない女性が養子をもらって土地を相続できることなど、親や女性の権利が認められていることは注目すべきである。

鎌倉の落日
 承久の乱以降、平和な世が続いていくが、鎌倉時代の中期に入ると、その平和が武士たちの生活を追い詰める事になっていく。当時の武士社会では、惣領と呼ばれる家長が子弟に土地を与える分割相続が行われていた。しかしこの所領は元々、戦で戦功をあげた功績として獲得した土地である。つまり戦のない平和な世では、世代を重ねる毎に、徐々に領地が減っていく事とになる。そのため領地を多く持たない貧しい御家人たちが増えていくという負の連鎖が起きていった。鎌倉政権は朝廷との力関係、御家人たちとの協定関係など不安定な土台に立っていた。

 この土台を大きく揺さぶったのが蒙古襲来(元寇)であった。二度に及ぶ元寇に勝利した鎌倉政権は、勝利したゆえに不安定になった。武士の生活が苦しくなる中、幕府にとって危機的な状況が発生する。
 当時の執権であった北条時宗は、二度に及ぶ元寇の国書に返答を送らず、モンゴル帝国の属国となる事を拒否した。これにより激怒したクビライが軍隊を派遣し、一度目の戦いが文永の役(1274年)であった。この戦いは日本が初めて外国から攻め込まれる戦いであり、幕府は一切の外交政策や情報集などを行っていなかった。日本軍は多大な苦戦を強いられるが、辛うじて元軍を撤退させた。二度目の襲来の弘安の役(1281年)では、事前に日本側が大きな石塁を築くことで戦いを優位に進める事が出来た。さらに「神風」といわれる暴風雨によって元軍は壊滅するのである。
 幕府のために役務を果たした御家人は「御恩と奉公」の契約において相応の恩賞を貰う権利があった。この場合の恩賞とは「土地」であるが、モンゴルとの戦いは防衛戦だったので得られた土地はなかった。九州で奮戦した御家人たちは恩賞が貰えないことに憤った。これを契機に一枚岩だった幕府に亀裂が生じたのである。

 恩賞問題をめぐって鎌倉政権内部に内紛が起こり、その過程で幕府幹部たちが訴訟事件を出鱈目に処理し、賄賂を取っるモラルハザードが頻発した。つまり幕府は武士団が期待する仕事を果たさなくなった。
 さらに鎌倉時代の中ごろから、日本の経済社会に大変革が起きた。すなわち貨幣経済の発展と商業資本の伸長である。大陸から輸入した貨幣(宋銭)が流通し、主に九州や関西などの西国で信用経済が成長した。それまでの農業経済から商業経済に大きく移行しようとした。
 鎌倉政権は武士団の集合体なので、商業経済には興味はなかった。しかし鎌倉末期になると、武士団が高利貸しから土地を担保に借金をして贅沢な遊びをして、その結果、先祖伝来の所領や馬具武具が質流れになる事件が頻発した。

 鎌倉幕府は武士団の権益を守り、武士団間の利益調整を本務とする機関なので、商人と武士団との利害調整は想定外の事項だった。幕府は武士団を救済するために高利貸し(商業資本)を弾圧するしかなかった。それが徳政令(借金棒引き令)である。しかしこのような政策が、時代の流れに逆行する一時しのぎであることは明白であった。徳政令の乱発は信用経済を混乱させ、いわゆる「貸し渋り」が起きた。そのために、必要な融資を受けられずに窮乏化する武士たちが増え、当然、彼らの不満は幕府に向いた。
 商業資本が進んでいる西国では、幕府への反政府活動が頻発した。幕府は、西国で暴れまわる者たちを「悪党」と呼んで恐れた。そして、このような不穏な情勢に朝廷がからむことになった。それが後醍醐天皇の登場である。