古墳時代

 卑弥呼の時代が終わった3世紀中ごろから7世紀にかけて、日本各地で古墳がつくられた。古墳がつくられ時代を古墳時代というが、古墳時代は弥生時代と飛鳥時代の間にあって、日本列島がはじめて国家としてのまとまりを形成しつつあった激動の時代である。

 古墳は古代権力者(豪族、大王)が自らの権威を誇示すためにつくられ、支配階級の権力者は墓の周囲に濠をめぐらし、土や石を重ね土を盛り上げ、巨大な権力を示した。

 弥生時代にも土盛りをした小さな古墳が各地にあったが、これは古墳と呼ばず墳丘墓(ふんきゅうぼ)という。古墳は墳丘墓と違い、土を盛り上げただけでなく、その巨大な古墳を造るため地盤を調べ、設計図を書き、模型を作ることが必要で、すぐれた土木技術を持ち、多くの労働者を動員できる権力を必要とした。大古墳となるとのべ100万人、あるいはそれ以上の人々が動員された。

 このように巨大な古墳を造れたのは地域を支配した豪族たちで、古墳は九州・出雲(島根県)・瀬戸内・近畿・関東・東北地方などに広く分布している。古墳が最も多い都道府県は兵庫県で16,577基になる。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、古墳がないのは、北海道、青森県、沖縄県だけである。全国合計では古墳は161,560基になり、全国の全国コンビニの店舗数が6万件なので、その2倍以上なのは驚異的である。

 

古墳の種類

  古墳は上から見ると円形に土を盛り上る円墳が一般的であるさらに前方後円墳・前方後方墳・上円下方墳・双方中円墳・円墳・方墳など様々な形状が見られる。数が多いのは円墳と四角形に盛り上げる方墳であるが、大規模な古墳はこれを組み合わせた前方後円墳で、規模の大きなものから順に並べると44位までが前方後円墳で占められている。前方後円墳が最も重視されたことがわかる。

 前方後方墳は遺体をほうむる部分を円形につくり,その前方に長方形をつぎたしたものである。この前方後円墳は大和(奈良)から各地に広がったもので,なかでも大山仙古墳(仁徳天皇陵)は世界最大の墳墓である。

 古墳の墳丘上には埴輪(はにわ)が並べられ、斜面は葺石(ふきいし)でふかれている。また墳丘のまわりには濠(ほり)をめぐらしたものが多い。古墳の内部には石で固かためた石室がある。石室には棺(ひつぎ)が置かれ、その棺に死者がおさめられた。

 石室には縦に穴を掘ほった縦穴式石室と横穴式があり、石室には棺ひつぎや副葬品が置かれた奥の部屋(玄室),玄室と入り口を結むすぶ道羨道がある。横穴式は5世紀半ばからつくられ6世紀に広まった。高松塚古墳のように石室の壁かべに壁画などを描いた装飾古墳もある。

 石室には副葬品がおさめられ、副葬品は古墳時代のはじめ頃は銅鏡・勾玉(まがたま)・管玉(くだだま)など呪術的な副葬品であったが、やがて鉄製の武具や馬具、農具などがおさめられるようになった。

 出現期の古墳はその内部の埋葬施設や呪術的な副葬品などに共通性があり、当時、大和地方(奈良県)を中心に政治連合が形成され、その勢力が全国に広がったとされている。

 古墳の年代変化

 出現期の古墳は、3世紀中頃の女王卑弥呼が亡くなった頃から、近畿地方の大和(奈良)、次に畿内から瀬戸内海沿岸にかけての西日本を中心に出現するようになる。最初は丘陵や山地などの自然を利用した古墳で、次に小山のように巨大な古墳が築かれるようになる。

 最古の古墳の中で最大のものは、220年頃に築かれた奈良県桜井市の纒向石塚古墳(まきむく)で墳丘の長さが280mに及ぶ前方後円墳で、他の地域の前方後円墳と比較してもその大きさは群を抜いている。したがってこの時期の政治連合は大和地方を中心とする勢力によって形成されたと考えられ、この政治連合をヤマト政権とよび、大王と呼ばれた天皇の祖先の墓とされている。

 大規模の古墳を築くには多くの労力と日数がかかるので、古墳を作る地域に大きな権力者がいたことがわかる。さらに人力だけでなく、測量などの高度な技術を持っていたこともうかがえる。

 古墳は畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃に突然終わる。古墳時代は軽視されがちであるが400年以上続いたのである。400年といえは関ヶ原の戦いから今日までである。

 古墳時代は、古墳の分布・様式・副葬品などから、前期中期後期(6世紀~7世紀)に分けられる。

 

前期古墳時代(3世紀後半~4世紀中頃)
 古墳時代の始めは、まだ日本の統一は進んでおらず、日本各地には権力を持つ豪族がいた。3世紀後半頃から「かぎ穴」に似た形をもつ前方後円墳が、奈良や西日本を中心に造られ、やがて地方に広がってゆく。前方後円墳のような独特の形をした古墳は、真似ができないもので、設計図があって、測量技術があって、それがヤマト政権から各地の首長たちに配布されたため、各地の豪族たちの古墳は前方後円墳に共通化していったのである。

 後円墳の部分の竪穴式石室に木棺を置き、木棺の周りを粘土でつつんだ粘土槨(ねんどかく)で遺体をおさめていた。前の台形の部分は祭壇とされている。古墳の墳丘には埴輪が並べられ、埴輪は素焼でバケツ状の円筒埴輪が用いられた。

 埋葬された人と一緒に埋められた副葬品は、鏡、玉のような祭器や宝器で使用されるものが多い。三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう、直径24㎝、重量約1.3㎏)など縁の断面図が三角形をしている銅鏡が西日本を中心にみられる。三角縁神獣鏡は魏が卑弥呼に送った100枚の銅鏡ではないかとされ、鏡には長寿、子孫繁栄などの吉祥句の銘文が刻まれている。また碧玉製の腕輪などが見られ、呪術的な性格を持つことから、古墳の被葬者は宗教的司祭者、つまり神主や巫女だったとされている。

箸墓古墳
 3世紀後半といえば邪馬台国の卑弥呼が亡くなった前後である。魏志倭人伝によると卑弥呼は鬼道(呪術)で国を治めていたが、このことは前期の古墳の特徴と辻褄が合う。3世紀後半に造られた奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)は全長280mで、それ以前の墳墓は大きくても70~80mだったので急に3倍の大きさになっている。天皇の中で確実に実在したのは10代目の崇神(すじん)天皇からとされているが、崇神天皇の墓は箸墓古墳の近くにあり、周辺には複数の巨大な前方後円墳がある。出土する土器の様式の違いから、これらの墓は時期が少しずつずれていることが分かっている。

 箸墓古墳は日本最古の前方後円墳で、その状況から卑弥呼の墓との説がある。卑弥呼と後継者の女王・台与(とよ)、その数代後が崇神天皇だとすれば、卑弥呼から大和政権の最初の天皇まで、近畿を中心に権力を維持したと考えることが可能になる。つまり天皇の子孫が卑弥呼になりヤマト朝廷が邪馬台国になる。

「日本書紀」によると箸墓は倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされ、百襲姫は大和朝廷の初代崇神天皇に仕える巫女されている。三輪山の蛇神と結婚して、箸で女陰(ほと)を突いて死んだことから箸墓という名がついた。この女性が「魏志倭人伝」の卑弥呼あるいは台与の姿と重なるのである。

前方後円墳

 鍵のような形の古墳を「前方後円墳」と呼ぶ。丸い形の丘と四角い形の丘がつながった形をしていて、前方が四角く、後ろが丸いので前方後円墳と名付けられた。前方後円墳の由来については謎であるが、最も有力な説は次のとおりである。
 弥生時代には、土を盛り上げて周囲に堀をめぐらせた墳丘墓があり、墳丘墓のなかで堀の一部がとぎれて陸の橋となっているものがある。この陸の橋の部分を発掘すると、まつりに使った土器が発見されることが多い。つまり四角の陸の橋の部分で死者を送るまつりが行われていた。弥生時代の墳丘墓には、丸い形のものや四角い形のものがあるが、丸い形の墓でまつりを行う陸の橋の部分が大きく発達したものが前方後円墳とされている。つまり弥生時代の丸い形で堀をめぐらせた墳丘墓の、堀がとぎれた陸の橋の部分が発達して「鍵穴」になったのである。

 

中期古墳時代(4世紀末~5世紀)

 前期に大和地方に営まれた大規模古墳は、中期になると河内地方(大阪)に移り、さらに大規模化する。古墳時代を通じて最大規模の古墳が、この時期に集中している。その一方、ヤマト政権の中心の一つである河内(大阪府)には、墳丘長400mを超す巨大な前方後円墳が造られ、ヤマト政権の王である大王はその力を強めたと考えられる。5世紀になると鹿児島県から岩手県まで、全国各地に前方後円墳が造られるようになる。

 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)

 古墳の分布は、大和朝廷の勢力拡大とともに全国に広がりを見せ、4世紀後半頃には九州南部から東北南部まで及ぶようになった。5世紀前半には大阪府羽曳野市にある応神天皇陵や、大阪府堺市堺区にある仁徳天皇陵などの巨大な前方後円墳がつくられた。これらの古墳は、平野のなかに墳丘を盛り上げて周囲に濠(ほり)をめぐらせた構造をしており、仁徳天皇陵は全長486メートルで墓の面積ではピラミッドを抜いて世界最大である。前方部の幅は305m、後円部の直径245m、高さ35mで3重の濠がある。1000人の人が毎日働いて4年以上かかる。積み上げた土の量は280万トンで5トントラックで56万2347台分である。おかれた埴輪の数は2万個以上で、これらをアリの行列のように列をなして、人々が運んだのである。

 権力の強さを印象づけるため仁徳天皇陵は海岸線にそってつくられ、その巨大さを海上から見えるように、つまり中国からの使節に見せつけるようにつくられている。

 最近の教科書では応神天皇陵のことを「誉田御廟山古墳」(こんだごびょうやまこふん)、仁徳天皇陵のことを「大仙陵古墳」(だいせんりょうこふん)と記載されている。宮内庁が発掘調査を禁じているので、地名を用いた用語である。しかし学術的に正しくても、かつて習った親しみやすい一般名称を用いるべきである。このような押し付けは歴史への興味を削ぐことになり、日の当たらない考古学者の横暴といえる。そのうち私たちと云わず「霊長目ヒト科ヒト属たち」と言い換えるようになるかもしれない。

 巨大な仁徳天皇陵が作られたことについて次のようなエピソードがある。

 「ある日、仁徳天皇が宮殿から人家を眺めると、かまどから煙が立ち上っていないの気づかれた。食事時には、炊事のためのかまどから煙が見られるのが普通である。つまり「人民は食事も出来ないほど貧しい」と天皇は嘆かれ、3年間税を免除することを決意した。税を免除すれば、朝廷の収入がなくなるので、仁徳天皇は倹約に励まれ、宮殿の屋根が傷んでもそのままにした。やがて3年が経ち、あらためて外を眺めると、人家のかまどから煙が立ち上っていた。「国民が食事を出来るようになった」と仁徳天皇は満足した。

 このようなエピソードから「仁徳天皇は仁愛に満ちた天皇」として知られ、それだけ慈愛に満ちた天皇だったので、人々は崩御を惜しんで、大きな仁徳天皇陵をつくった」とされている。

仁徳天皇陵(大仙陵古墳)大阪府堺市堺区大仙町
仁徳天皇陵(大仙陵古墳)大阪府堺市堺区大仙町

 古墳時代前期の副葬品は鏡・剣・玉など支配者の権威を象徴するものが多いが,後期になると鉄製の武器・馬具・農具などの実用品がふえてくる。これは支配者の権力が宗教的なものから政治的なものに移り、当時の被葬者に政治的・軍事的支配者としての性格が強まったためとされている。

地方豪族の巨大古墳

 中期になると、巨大な前方後円墳は近畿だけでなく、筑紫(福岡)、吉備(岡山)、毛野(群馬)、日向(宮崎)など全国各地で見られるようになった。たとえば岡山県の造山古墳は墳丘の長さが360mもあり、わが国の古墳の中では第4位の規模である。

 この事実はこれら巨大な地方勢力が大和朝廷と深いかかわりを持ちながら、大和朝廷の文化が全国各地に及んだことを示している。ヤマト政権の中で、これら地域の豪族が重要な位置を占めていたことも教えてくれる。

埴輪 

 埴輪は古墳にならべるために作られた素焼きの土器のことで、数cmの小型のものから大きなものでは高さ2メートルを超え遠くからもよく見えた。

 埴輪には円筒の形をした円筒埴輪と人や物などの形につくった形象埴輪に大別されるが、初期の埴輪に多いのが円筒埴輪である。古墳の盛り土のまわりに並べられ、土どめをかねた円筒の埴輪がある。そのほか人物・動物・道具などをかたちどった形象埴輪がある。

 弥生時代の墳丘墓に壺が置かれていたことがあったことから、酒などを入れて死者をとむらっていたのであろう。円筒埴輪はそのを乗せる筒型の飾り台が原型とされている。円筒埴輪の役目は土の流出防止るが、ひとつの古墳で数万の円筒埴輪が使われている。これだけの数があるのだから、埴輪造りの工房があり職人が働いていたはずである。

 その後、埴輪は形象埴輪に代わってゆく。形象埴輪は住居や倉庫などの家形埴輪、大刀やよろい・貴い人の日傘などの器財埴輪、馬・鶏・鳥・猿などの動物埴輪、巫女・貴人・武人などの人物埴輪などがある。
  4世紀ごろは古墳の頂上の埋葬施設やその周辺に、家や器財の埴輪がならべられたが、5世紀以降は人物埴輪や動物埴輪が多くなった。埴輪は古墳に葬られる人物の生前の様子やその権威を示すもので、死者の霊に対しての捧げるものである。しかし5世紀以降は葬儀の様子などを表すものへと変化していく。

 埴輪の目的は王の魂を悪霊から守るため、王の権威を示すため、添え物としてなどが考えられている。

後期古墳(6世紀~7世紀)

 古墳時代後期の6世紀の後半になると古墳に大きな変化が見られるようになる。古墳は大きなものは消失し、直径10m程度の小型古墳が爆発的に増加したのである。山の麓や谷間に集まって造られ(群集墳)山の斜面に彫り込む横穴石室が各地に出現するようになる。このような小型古墳が日本の古墳の8〜9割を占めることになる。

 横穴式石室は家族を後から葬ることができ、横穴式石室が集まったのが群集墳であるたとえば吉見百穴(埼玉)は凝灰岩の岩山の斜面に掘られた横穴墓群で219個の横穴式石室が確認されている。新沢千塚古墳群(奈良)・岩橋千塚古墳群(和歌山)など「千塚」という地名の由来になっている。

 小型古墳の増加は、有力者のあかしであった古墳が、地方権力者が少なくなり、より身分の低い人にも古墳が許されからである。ヤマト政権の力が地方階層にまで及ぶようになり、近畿地方の大王を中心とした勢力に各地豪族が服属するという形に変わったのである。各地の豪族が連合して政権をつくる形から、ヤマト政権の勢力が地方にまで及んだことがわかる。

 後期には埴輪は減り、副葬品は須恵器や日常品になってゆく。多量の土器・金属製の武器や馬具・日用品が副葬された。埴輪もそれまでの円筒埴輪・器財埴輪等に加え、形象埴輪(人物埴輪・動物埴輪)が増加する。古墳の周囲や墳丘上に並べられた人物埴輪や動物埴輪は葬送儀礼、または生前の首長が儀式をとりおこなう様子であるとされている。
古墳時代後期になると、古墳の地域色が強まった。
 九州北部の古墳には、石人・石馬などの石製造形物が建てられた。
九州最大級の前方後円墳の岩戸山古墳(福岡)は全長135mで、その周囲からは100点以上の石人・石馬・石製造形物が出土している。また九州や茨城県・福島県などの古墳や横穴の墓室には彩色された壁画をもつ古墳が見られる。これを装飾古墳というが、虎塚古墳(茨城)には白色粘土で下塗りされた石室の壁面に、赤色のベンガラ(酸化第二鉄)で三角文・環状文などの幾何学文様と大刀や盾などの武器・武具類が描かれている。

 

古墳時代の終わり

 聖徳太子が推古天皇の摂政となる7世紀になると、古墳は造られたが前方後円墳は造られなくなる。蘇我氏や聖徳太子によって飛鳥寺や法隆寺が造られたように、古墳のかわりに寺が建立され、死後のまつりごとは古墳から仏教に変わったのである。

ヤマト政権と古墳文化

 大きな古墳が、大和(奈良県)や河内(大阪府)に造られたことから、近畿地方に有力な豪族たちがいたことがわかる。この近畿地方の有力な豪族たちによる連合政権をヤマト政権という。この前方後円墳が大和地方だけでなく次第に各地に広がっていくが、このことは地方との交流があったことを示している。古墳の大きさから、5世紀の後半には、ヤマト王権が九州から関東までを支配したとされている。大和にいた有力な豪族たちの連合体が日本を支配し、ヤマト政権から飛鳥朝廷になっていく。

 記紀(古事記、日本書紀)の記述を鵜呑みに出来ないが、最初に日本を統一した王朝の都がヤマト(奈良県)に置かれたことは確実でありこれをヤマト政権と呼ぶ。

 大和の有力な豪族たちの連合体であるヤマト王権が日本を支配し、飛鳥時代の朝廷になってゆく。
 埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル大王の名が刻まれていて、ワカタケル大王に使えていたことがわかる。
 熊本県の 江田船山古墳にもおなじ名前が刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域が関東地方から九州までの広い範囲におよんでいたことが分かる。
 当時はまだ漢字しか文字がなく、鉄剣には115字の漢字が刻まれており「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)という名が刻まれている。
 日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述がありワカタケル大王とは雄略天皇のこととされている。
 ヤマト政権が後に飛鳥朝廷になるが、ヤマト政権は古墳時代の中頃までは、各地の豪族のひとつにしかすぎなかったが、次第に勢力を強め、天皇の先祖は大和地方にいた有力豪族だったのであろうだろう。

 初期のヤマト政権は強大な権力を持っていたが、まだ日本を統一する中央集権国家ではなかった。このことは祭器である銅鐸が出雲地方でのみ出土していること。さらに王の墳墓である古墳が、地方ごとにその形状や規模を異にしていることからわかる。

 各地の古墳は時代とともに次第に大和様式に変化してゆくが、その変化は極めてゆるやかで、この変化は平和的な文化交流の結果とされている。日本各地に地方ごとの文化や特徴が残されていることから、ヤマト政権は複数の王国が連立の形をとりながら成立した一種の連邦国家とされている。

 発掘調査や「記紀」の記述を頼りに見ていくと、最初は「大和と出雲」の二大王朝が連立し、次第に周辺の諸王朝が連帯したと思われる。出雲王朝が戦争に敗れ、あるいは平和的にヤマト王朝と連立したのだろう。その後に関東地方と九州北部がヤマト政権に吸収され、最後まで敵対したのが南九州(熊襲)と東北(蝦夷)であった。

 ヤマトタケルの神話は、九州と関東を平定した英雄物語であるが、ヤマトタケルが大軍を率いて攻め入った記載はない。日本統一のため攻め入った記録がないことは、この神話から推測すればヤマト政権が比較的平和的に日本統一を行なったことになる。

 ヤマト政権は連邦制国家で、日本各地にはヤマト政権以外にも有力な豪族や王が割拠していた。ヤマト政権が自らの威信を高めるために築いた巨大な墳墓が「古墳」であるが、この古墳には規模や形状など様々な種類がある。

 日本の各地には古墳が残されているが、小高い山の中腹に横穴を穿ち、その中に玄室を設けるという同じ造りのものが多い。自然の山々をそのまま墳墓にしたのである。この同じ造りの共通性が、文化的統一、平和的権力の統一を意味している。

 実力のある豪族は大勢の人夫を動員して山を造りその中に玄室を設けた。人夫が多ければ墳墓の形を自由に造成でき、いわゆる円墳、方墳、前方後円墳などが形成された。さらに動員できる人夫の数に比例して古墳の規模が大きくなる。中国にも朝鮮半島にも古墳があるが、古墳は大陸や朝鮮半島から渡来した、あるは大陸から伝わった可能性がある。

 ただし鍵穴のような形の前方後円墳は日本独特で日本独自のものである。よく云われることであるが「日本人の基礎研究の能力は低いが、応用研究に抜群の実力を発揮する」、この国民性は太古からだったと思われる。

 

河内平野の巨大古墳

 天皇家の墓とされる初期の前方後円墳は奈良盆地の中心にある。このことから奈良盆地の豪族(ヤマト政権)は古墳を残すほどの財産と権力を持っていたことがわかる。その後、大阪の河内平野に次々に巨大な前方後円墳が造られ、仁徳天皇陵(大山古墳)は世界最大の面積を誇る前方後円墳となっている。

 ここで奈良盆地特有の前方後円墳が、大阪の河内平野に移った経緯が謎である。ヤマト政権の拠点が奈良盆地から河内に移った拠点移転説、河内平野に豪族が生まれてヤマト政権を滅ぼした王朝交代説、あるいは大陸との人的交流が活発となったため、ヤマト政権の玄関口の河内平野に巨大な前方後円墳を造ってヤマト政権の強大さを見せつけようとしたなどが考えられる。

 このように古墳を造る時代が長く続いたが、その流れは6世紀に急に終わりを告げる。仏教伝来に基づく大寺院の建造が古墳の代わりになったからである。さらに464年の大化の薄葬礼(火葬)では、地方豪族の古墳造成を禁止した。天皇中心国家を作るには、地方の豪族が権威を持つことは不都合だったからで、ヤマト政権は地方豪族が権力を誇示する古墳の造成を禁止したのである。

 現在「○×天皇陵」と名前のついた古墳が多くあるが、そのほとんどは発掘調査がなされていない。そのため誰が埋葬されているのか分からず、天皇陵の名前は、宮内庁が独断で付けているのを信じるしかない。こうした独断と偏見を投げ捨てて発掘調査を進めれば、通説を覆す意外な結果が出るかもしれないが、天皇の墓を発掘することは恐れ多いことである。事実を知りたいが、事実を知ることが日本人の幸福度を上げるとは限らない。知らぬが仏という言葉があるように、知れば感情に振り回されるが、知らなければ平静な気持ちでいられるからである。