邪馬台国

邪馬台国の謎

 古代史の中で最も興味深いのは邪馬台国と女王卑弥呼のことであろう。興味をそそるのは、邪馬台国がどこにあるのかわからず、すべてが謎に包まれているからで、謎ゆえのロマンである。邪馬台国の遺跡が見つからないため、九州説、近畿説などその所在地を巡って100年以上も論争が絶えない。

 邪馬台国については3世紀に、中国の正史「三国志」の魏志東夷伝倭人項(魏志倭人伝)に書かれている。中国では220年に後漢が滅びると、魏・呉・蜀 の戦乱の三国時代になるが、この三国のうちの中国大陸北部を支配していたに、239年に使者を送ったのが邪馬台国である。この邪馬台国の女王卑弥呼が、弥生時代の2~3世紀の倭国の王として日本を治めていたとされている。

 「三国志」には魏・呉・蜀 の三国の歴史が書かれていて、魏について書かれた部分を魏志と呼び,その中で魏の周辺の諸国について書かれたのが「東夷伝」で、東夷伝とは中国から見て東側の高句麗,馬韓,弁韓,辰韓などの諸部族について書かれていている。その列伝の最後に「倭」についての記載があり、この短い項を「魏志倭人伝」と呼んでいる。

 東夷伝の東夷とは「東にすむ賤しい未開人の国」との意味が含まれている。これは中華思想から出た言葉で、中国は異民族を軽蔑して周囲の国々を、東夷、西戎、北狄、南蛮などと蔑称していた。

 確かに中国からすれば日本は文化的にも社会制度的にも大幅に遅れをとっていた。日本で農耕社会が成立したのは紀元前3世紀頃であり、300年後の1世紀になっても統一国家は成立せず100近くの小国が争っていた。

 三国志は中国周辺の国々の様子を書いたついでに倭国についても書き加えた程度で、「三国志」の記載が全体では37万字であるが、魏志倭人伝は2千字にすぎない。この2千の部分に邪馬台国と卑弥呼の文字が現れる。邪馬台国と卑弥呼についての記録はこの魏志倭人伝だけなので、その記載を信じる他はない。

 しかし「三国志」の筆者である陳寿は、邪馬台国に関する記述は「張政からのまた聞き」であり、その内容に信憑性がないと本文に書いている。当時の日本には文字がなく邪馬台国や卑弥呼などの固有名詞は、中国人が聞いた倭人の言葉を漢字に当てはめただけなので問題はさらに複雑になる。

 魏志倭人伝の名前は日本人の多くが知っているように有名であるが、魏志倭人伝という書籍は存在しない。三国志」の一部を日本人がそのように言っているだけで、中国では通用しない言葉である。いずれにせよ魏志倭人伝は中国からはるか東方に出向いた人からの伝え聞き、あるいは又聞で書かれているため、必ずしも正確な情報ではない。太古の時代である。書いた人の思いこみ、誇張や思い違いがあったと思われる。

 考古学の発掘調査から、邪馬台国や卑弥呼の証拠は発見されていない。そのため魏志倭人伝を精読して邪馬台国の所在地を探す作業は大きな間違いを犯している可能性が大である。しかもやっかいな事に「三国志」の原本は存在していない。あるのは三国志の写本のみで、しかも残された数種の写本は、それぞれ用いられている文字が異なっているのである。

 なお三国志は「邪馬壹国」で別名「女王国」ともかかれ、後漢書には「邪馬臺国」と記されている。何せ「白髪三千丈の国のまた聞き」である。ロマンはロマンであって、邪馬台国の存在すら危ういのである。

シャーマン的女王

 邪馬台国の真実は別にしても「三国志」の記載は参考になる。日本では弥生時代の1世紀中頃から2世紀初頭の70~80年にわたり騒乱があり、多くの国が群雄割拠していて互いに戦乱を繰り広げていた。この記述は弥生時代後期、つまり3世紀の日本の状況を示している。倭に内乱が続いたのは、ちょうど石器の使用から鉄器がさかんに使われるようになった時期に一致する。鉄器はそれまでの木製の農具から鉄器の農機具に造り変えられた。そのため農作業が盛んになると、汗水を流しながら稲作を行うより、他の集団が植えた稲を奪う方が楽であることがわかってきた。そのため鉄は武器として使用され、この武器としての鉄の使用が、国々の戦いを常に生じさせた、鉄器の使用が力による階級を産み、内乱を激化させ、各部落が国を形成し、連合政権を生み出したのである。

 その中で邪馬台国が鬼道・祈祷士(シャーマン)の卑弥呼を女王にして30余りの小国が服属して連合体をつくった。まさに邪馬台国は連合国家であった。

 魏志倭人伝には「鬼道を事とし、能く衆を惑はした」とあるが、これは呪術を行いて多くの人びとが卑弥呼の鬼道(占い)を信じたという意味になる。このような宗教的権威者をシャーマンと呼ぶことから、卑弥呼はシャーマン的女王で、その呪術的な才能ゆえに連合体の指導者になったのである。

 この卑弥呼が日本の歴史上名前が明確になる最初の人物である。なお卑弥呼は個人名ではなく首長の称号とする説もある。

 卑弥呼は独身で、弟が国の政治を補佐した。王位に就いてからの卑弥呼は弟以外に顔を見せず、側近ですら卑弥呼を見た者はほとんどいなかった。俗的な社会と遮断された屋敷の奥場で政治を行っていた。1000人に及ぶ侍女に囲まれていたが、食事を給するのも、卑弥呼の言葉を伝達するのも、居所に出入りを許されのは、ただ一人の弟を通じてのみであった。卑弥呼が神事を司り、宗教的な権威によって国を治めたが、実際の統治は弟が行う二元政治だった。

 邪馬台国は人口は7万余戸で、大人、下戸、生口という身分制度があり、妻子・門戸・宗族といった親族による組織があった。また統治組織があり租税や刑罰の制度も整っていた。市場の管理をする大倭(だいわ)などの役人がいて、国々には市があったと記載されている。

 

中国との外交

 当時の中国は、後漢が滅んで魏・蜀・呉が対立する激動の三国時代を迎えていた。魏は司馬懿を派遣し朝鮮半島の遼東地域を支配していた公孫淵(こうそんえん)を滅ぼすと、楽浪・帯方の二郡を占領した。卑弥呼はこの情勢に対応するため使者を送ったのである。

 238年、邪馬台国の卑弥呼は、使者として大夫の難升米(なめし)らを魏の都である洛陽派遣し、4人の男の生口(奴婢)と6人の女性の生口を、さらに布を持たせて献上した。

 魏の皇帝は海を越えて朝貢に来た倭人を悦び、卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)の称号と金印紫綬(きんいんしじゅ、紫の組紐をつまみに通した金印)を授けた。さらに金印や100枚の銅鏡、真珠、高級な絹織物などを授けている。魏からの宝物は質量ともに他の朝貢国を上回り、日本(倭国)との友好関係を持ちたい魏の思惑が伺える。

 魏が卑弥呼を厚遇したのは、対立していた呉を牽制し、台頭しつつあった高句麗に対して朝鮮半島の背後を固めるためで、邪馬台国の朝貢は魏にとって都合が良かったのである。しかも公孫淵が滅びた直後であり時期が良かった。

 三国志の魏・蜀・呉の中で魏は北方に位置し人口も多かったが、邪馬台国が呉と同盟を結べば南北から挟まれる形になり、魏は邪馬台国を優遇せざるを得なかった。当時の地図を見ると日本は呉に近く、しかも広大な土地を持っていた。つまり魏の過大評価による「近攻遠交策」に基づく対応だった。

 いっぽう卑弥呼は、魏の権威を後ろ盾に邪馬台国の立場を有利にしたかったのである。当時、邪馬台国は九州の狗奴国(くなこく)と対立していたが、抗争の際に魏の権威を背後に持てば、それだけで邪馬台国の優位性を保つことができた。実際、248年の狗奴国との紛争に際し、邪馬台国は魏に援軍を求め、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。

 

卑弥呼の死

  卑弥呼は晩年、狗奴国の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争いを続け、戦いの最中に死亡している。卑弥呼の死因については魏志倭人伝に書かれていないので、卑弥呼が戦いで亡くなったのか、戦いの最中に病死したのか、あるいは鬼道の力が衰え民衆に突き上げられての死去なのかわからない。

 卑弥呼が死去した248年には、九州で皆既日食がおきており、卑弥呼の死をより神秘的にしたか、あるいは皆既日食が民衆の不安を生み「女王の呪力が失われた」として殺されたのかもしれない。いずれにしても卑弥呼が死んだ後に、大きな塚(土を盛った墓)を築き、奴隷100以上が殉死している。

壱与

 卑弥呼が死去すると、後継者として男性の王が立ったが、男王を擁立すると内乱となり1,000人以上が死に、国は再び乱れ戦乱が続いた。そこで卑弥呼の親族である13歳の壱与(いよ)を新たに女王に立てる争いは治まり平和になった。

 邪馬台国ではまだシャーマン的な女王が必要だったのである。ここで注目すべきはふたりの女王が邪馬台国を治めていたことである。古代史において女性が国を治めたのは世界では邪馬台国だけである。また鬼道を行うため二人とも生涯独身であった。

 女王に就いた壱与は卑弥呼の後を受け、魏の皇帝、さらには魏の次に誕生した西晋王朝の首都・洛陽にも使者を送っている。しかし266年を最後に、邪馬台国は中国の歴史から突然消えてしまう。中国の王朝政治が混乱を極め、歴史書を書く余裕がなくなったのか、あるいは王朝衰退のため、威厳を後ろ盾にする朝貢の意味がなくなったのか不明である。

 壱与の晋への朝貢を最後に、倭王(倭の五王)らが朝貢するまでの150年近く、中国の史書から倭国(日本)に関する記録はなくなる。このため日本の歴史の中で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれている。

 

3世紀の日本

 3世紀の日本では中国の威厳が薄れ、まさに実力主義になり、豪族間の熾烈な闘争が繰り返された。縄文時代末期から寒冷になり人口が激減し、弥生時代の稲作の普及によって人口が一時的に増加したが、3世紀の「倭国の大乱」はこの激動期における集落(国)どうしの対立を意味している。さらに大乱に拍車をかけたのが鉄製の武器である。稲作の普及によって人々が土地に定住すると、集団を統制する指導者が現れ、階級格差が生まれ、力による政治的秩序と混乱が生じたのである。

 集団にとって重要なのは食料の確保である。人口が増えれば食料不足が生じ、食料を左右するのが気候の変動である。気候の変動は自然の意志であり、気候の変動を神の意志として占いを行うのが祈祷士である。軍事的指導者がいても、争いの勝敗を決するのは神の意志であり、神の意志を伝える祈祷師が集団のトップを兼ねる場合が多い。邪馬台国においてトップは宗教的指導者の卑弥呼であるが、軍事的決定者をかねていたのであろう。

 佐賀県の吉野ケ里遺跡を見ると、当時の環濠集落の形態が分かる。周囲を堀で巡らし、四方に物見櫓を建て、厳重な防備を施している。この集落防備形態は攻めてくる他集団から守るためであり、この時代の物騒な世相を表している。農業は共同で行うため、共同作業には集団を指導する者が必要で、富を共有する集団はムラになり、隣のムラと食料を得るための水利の対立があれば争になる。ムラは協力しあってムラ連合をつくり、同じ連合体は共通の祭りをおこない、隣の共同体とは半目して戦争になる。さらにムラが連合すれば国になる。

     栄永大治良画伯作「女王卑弥呼」
     栄永大治良画伯作「女王卑弥呼」

 稲作によって食糧不足が解消しても、豊作のときもあれば不作の時もある。飢饉による飢餓になれば生き残りをかけた戦いが起きた。また飢饉でなくても勢力争いは日常的で、弱肉強食による淘汰が進み、生き残った集落はその規模と統治範囲を広げていった。

 卑弥呼が治めていた邪馬台国は、この過程で誕生した王国のひとつだった。天下統一には程遠く、周囲にはいくつもの敵対国があった。卑弥呼は政治的威信を 高め、経済的な実利を得るために中国に使者を遣わしたのである。

 邪馬台国のバックに中国が控えているだけで周辺国には脅威となった。卑弥呼は権威を示すため、中国を利用して朝貢を行なったのである。朝貢を行なったため邪馬台国と卑弥呼の名前が中国の正史に残ることになった。日本に邪馬台国以上の大国があったとしても、朝貢を行なわなければ中国の正史には記載されないため歴史には残らないのである。

 

 邪馬台国は日本に数ある国のひとつにすぎないのであって、邪馬台国の歴史的役割を過大評価してはいけない。邪馬台国は、中国人にとっては玄界灘を超えて朝貢に来た健気な蛮族に過 ぎないのである。実際の邪馬台国は、日本列島に何十何百もあった地方勢力のひとつに過ぎいたとするのが妥当であろう。

 中国側にすれば邪馬台国が日本の地方勢力のひとつかどうかは分からず、自分たちの威信を示すために、邪馬台国の国力と距離を誇大に記述した可能性がある。わたしたちは歴史の中で一瞬輝いたロマンを追い求めているのかもしれない。邪馬台国は当時の人々の記憶から忘れられた儚い存在かもしれない。それゆえに「記紀」にも記載されていないのだろう。しかしロマンはロマンであり、真実よりもロマンの夢の中で生きているのが喜ばしいのである。

 

倭人の風俗

 魏志倭人伝は、奴国を訪れた張政の話を元にしている。邪馬台国の存在の真意は別として、当時の倭人の風習や動植物の様子を知る上で興味ぶかい。張政は20年間奴国に住んだとされ、その記載にはまた聞きや聞き違いがあったとしても、わざわざ捏造する必要はなかったはずである。3世紀の日本人の生活を知る上で参考になる。その内容を以下に示す。

  梁代の史料職貢図より
  梁代の史料職貢図より

 1) 倭人の風俗には淫らな所がない。男子は冠を被らず、木綿の布(はちまき)を頭に巻いている。衣服は広い布を体に巻いているだけで縫っていない。婦人は額に髪を垂らし、折り曲げて結っている。単衣のような服を着て、真ん中に穴をあけて頭を通している。みな裸足である。

 (私的解釈)「倭人は淫らではない」このことは倫理観が高かったと解釈するよりも、草食人種のように性的欲求が低かったのか、性行為を女性が男性を誘導していたのか、あるいは性行為は動物的な自然な行為だったのだろう。少なくても当時の中国人より、性行為は淫らでなかったことは確かである。

 木綿の布の記載から、着物は木の繊維で織られた布で、毛皮でないことがわかる。梁の史料に職貢図という絵画が描かれており、朝貢してきた倭人の姿を描いている。それを見ると、倭人は裸足で脚絆と腕貫を付け、上下とも広幅の布地をゆったりと結んで丸首の下着を着ている。頭にハチマキ状のものが巻かれているが、これが倭人の服装と考えられる。女性の前髪はいわゆる「おかっぱ」で折り曲げて結うは、島田風の髪型を想像すればよい。後ろに伸ばした髪を折り曲げ、頭頂でまとめていたのだろう。また倭人の男子は、身分の高低に関係なく体や顔に入れ墨をしていた。これは海にもぐる時、大きな魚などから身を守るためとされているが、しだいに入れ墨は飾りとして定着したのであろう。朱や丹を身体に塗っているが、白粉で化粧するようなものであろう。

 

2)気候は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べていた。稲や麻を栽培し、蚕を飼い桑を植ている。意外なことに、牛、馬、虎、豹、羊がいない。飲食には高杯(たかつき:皿ではない器)を用い、手掴みで食べ箸を用いていない。 家屋は父母と息子夫婦は同居しているが寝室は別棟であった。

(私的解釈)倭人が裸足だったことから気候は温暖だったのだろう。日本に存在しない朝鮮半島との動物の違いが書かれているが、豚や鶏に気付かないはずがないので、豚や鶏は当時からいたのだろう。牛、馬、羊がいないことは意外である。手づかみによる食事は、現在でも東南アジアでは手づかみの地域が多くあり、中国・韓国でも地方によっては手づかみで食べる所があるので不思議なことではない。

 ところで邪馬台国の所在地が、九州か近畿かで議論が続いているが、それは魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の方向と距離を正確にたどれば、はるか九州の海上の台湾近くになるからである。もし台湾が邪馬台国だったとして、台湾の原住民を倭人と書いたとしも矛盾はない。

 

 3)死ねば棺に入れて埋葬するが、棺を入れる槨(石室のようなもの)は造らず、土の中に埋めて塚を造る。死んでから10日程は喪に服し肉類は一切食べない。喪主は大声で泣き、他の人は歌ったり酒を飲んだりする。埋葬が終わると、家の者は川へ行って禊ぎをする。

 (私的解釈)道具が貴重だった当時は、木棺を作るのに労力を要したはずで、すぐれた技術力があったのだろう。肉食を避け、泣いて喪に服する期間は死後十余日で、残された者は酒盛りをして歌い踊る。これは現在の仏教葬式と異なるが、現在の葬式でも一族で会食したり酒盛りする風俗は受け継がれている。

 埋葬が済むと、家族一同で「みそぎ」するが、これは死の穢れをはらい、身を清める儀式である。まさに「身削ぎ」を終えてから日常生活へ戻ることで、現在でも葬式から帰った後に玄関で清めの塩を撒く風習は残されている。なお相撲の際に力士が塩をまくのも土俵を清めるためで、みそぎに由来している。また神前に供え物をする際には、器に塩を盛る風習がある。日本では古くからこの「みそぎ」が行なわれてきたが、このような風習は欧米にはない。みそぎは日本特有の風習である。

 

4)倭人は男も女も酒を好み、会合での座の順序や振る舞いに父子や男女の区別はない。年輩者(有力者)に敬意を表すときは、手をたたくのみで、跪いて拝む代わりにしていた。倭人は長命で100歳、90歳、80歳の人が居る。

(私的解釈)なにしろ日本は女王卑弥呼の国なのだから男女平等だったのだろう。女性の地位は男性と同程度、あるいは高かったかもしれない。この記載は酒宴を伴う何らかの会合に参加した情景であるが、年輩者(有力者)の登場に人々は手を打って迎えるのみで、中国の様に跪いて伏し拝んだりはしない。これは神社で柏手を打のと似ている(神に敬意を表している)。台湾や香港での寺社参りでは、神像に跪いて平伏する人が多いことから、柏手は古代からの慣習なのだろう。倭人が長命だとしても、それほど長生きだったとは思えない。暦や紀年を持たない倭人に、正確な年齢が解るはずはないが、話半分にしても長寿である。また我が国では長寿を祝っていたことがうかがえる。

 

5)国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗もしないので訴訟も少ない。法を犯すと軽いものは妻子を没し奴隷となる。罪の重い者はその門戸や宗族を没する。尊卑にはそれぞれ差があるが、序列は上の者に臣服することで保たれる。つまり身分には差はあるが上下の秩序が保たれていることを示している。租税や賦役を徴収し、それを貯蔵する倉庫があった。

 

6)邪馬台国では行事や旅行を行う前に骨を焼いてその吉凶を占う。まず占う事柄を唱え、骨を焼いて裂けた割れ目を見て吉凶を占う。このやり方は中国の令亀法と似ている。中国では亀の甲羅であるが、奴国では鹿の骨で占っていた。焼いた火箸か何かを鹿の肩胛骨に刺し、ひび割れの具合で判断したのである。鹿は神聖な動物とされ、現在でも鹿を神使とする神社が数多く見られることからも理解できる。

 

 日本人の習性や習慣がゆるやかに変わったのは明治維新以降のことである。テレビが登場したのは戦後であり、インターネットは平成10年以降のことである。平成生まれの人にはこの感覚はつかめないであろうが、人間の習性や習慣というものは2,000年前も100年前も変わってはいないと思われる。

 なお昭和30年の「もし病気になったら、あなたはどうしますか」という朝日新聞のアンケート調査では、祈祷師のとこに行くが第1位で、次に病院に行くであった。これほど穏やかだった時代の流れが、私たちの時代に激流のごとく変わるのである。

邪馬台国の宗教観

 魏志倭人伝は、弥生時代後期の3世紀のことであるが邪馬台国(倭国)は元々男王が治めていた。しかし長期にわたって戦乱が続いたので女王の卑弥呼に変えると、卑弥呼の鬼道(シャーマニズム)により30余の小国家が統治され混乱が収まったのである。

 神がかり(神が乗り移る)の卑弥呼は、天にいる神と交流して、神の言葉を伝えるシャーマンであり、弟が補佐をして国を治めていた。

 邪馬台国で重要なのは、この原始的宗教アミニズムに基づくシャーマンが、鬼道(占い)を用いて人々を支配した政治形態である。鬼道(シャマニズム)は東アジアの諸民族によくみられ、神が人に乗り移り、神の言葉を代弁するものである。日本では恐山のイタコが有名であるが、中部地方でも伊勢のミコや御嶽の行者などがいる。

 自然の美しさと、その恐ろしい厳しさを知っている日本人が最も大切にしたのが自然との調和である。神が自然との調和を担っていれば、神と会話ができる巫女が最も偉いことになる。人々が常に重視していたのが神(自然)の意志を知ること、さらに願いを神に届けることであった。自然現象による豊作や不作は生命に直結するため、作物の豊作不作を決める天候に神の意志を認め、呪術によって神(災難)の怒りを避け、神(自然)の恩恵を祈る風習があった。特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占っていたのである。

 そのため祭祀者が統治者になることは特別なことではない。原始のケルト民族やゲルマン民族でも、キリスト教が浸透する以前はシャーマニズムであった。日本ではそれがそのまま生きつづけ、古来から「八百万の神」として崇めている。日本は神道に見られる独特の宗教観を持ち、釈迦もイエス・キリストも日本にくれば神々の一人としての扱われることになる。

 人間は死ねば神になると考えられ、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、軍人や権力者が「神」として神社に祭られている。多くの人々はその神々を何の違和感もなく崇敬している。つまりは卑弥呼のような神道が日本各地にあり、その中で最も権力が持っていた天皇家に多くの神道のルーツが吸収され、天皇家が神々の子孫となったとするのが素直な考えであろう

 また当時、航海時に乗船させる持衰(じさい)という者がいた。航海が成功すれば財物が与えられ、航海に失敗するとその責任を取らされて処刑された。宗教の力で自然現象を変えられるという考えが持衰であり人柱である。江戸時代までこの考えは続くのである。

邪馬台国論争

 邪馬台国は大和の音訳(ヤマト)としてかつてはヤマト政権と無条件に受け容れられていた。邪馬台国論争が始まったのは江戸時代後期からである。 新井白石が大和国説と九州説をのべ、 本居宣長は「卑弥呼は神功皇后で、邪馬台国は大和国であるが、日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」として、「邪馬台国は九州にあった小国で、卑弥呼は神功皇后の名をかたった熊襲の女酋長である」と述べた。これ以降、邪馬台国の謎解き論争が続くことになる。

 この邪馬台国論争は、明治時代に著名な歴史家が真っ向から対立し、国民的関心を呼んだ。東京大学の白鳥庫吉教授が九州説を主張し、京都大学の内藤湖南教授が畿内説を唱え、この論争は対立したまま学閥論争となった。

 論争の焦点は「邪馬台国は、日本のどこにあったのか」である。中国から邪馬台国までの道程が魏志倭人伝に詳細に記載されているが、邪馬台国がどこにあったのかが今なお謎なのである。

 九州説と畿内説ともに、奴国(福岡市)までの道のりは一致しているが、奴国から「倭人伝」の記している距離・方角どうりに進めば日本国外の遥か海の彼方に飛び出てしまうのである。魏志倭人伝そのものが古い時代なので、記載の間違いと考えやすいが、魏志倭人伝が書かれたのは諸葛孔明の時代で、いかに辺境の国と軽視していたとしても、記載の間違いではなく解釈の違いであろう。

 魏の直轄地である朝鮮半島から奴国(福岡市)までの道のりは正確に分かっている。朝鮮半島の帯方郡より倭国に至るのは船で朝鮮半島を経て7,000余里で、倭国の北岸の狗邪韓国に着く。海を1,000余里渡り対海国に着く。瀚海と呼ばれる海を南に1,000余里渡ると国に至る。また海を1,000余里渡ると末廬国に至る。東南へ500里陸行すると伊都国に到着。東南へ100里進むと奴国に至る。

 ここまでの道のりは誰も異論はない。問題はそこから先である。南に船で20日かけると投馬国につき、さらに船で10日かけ、歩いて1ヶ月で邪馬台国に着くと書かれている。この記載どうおりであれば、九州をはるかに離れた沖縄か台湾付近の海上になる。このことから多くの推論が出ている。

 九州説は「魏志倭人伝には、出発からの全走行距離が1300里」と記載されているので、逆算すれば邪馬台国は福岡市から200キロの距離にある。このことから近畿説は成り立たず、水行20日は2日の間違いか、あるいは実際に進んだ日数ではなく旅にかかった日数とすれば1日の行程を7キロにすれば九州になる。

 近畿説は「南に船で20日ではなく、東に20日とすればよい」、つまり南と東の方向の違いである。当時、日本列島を北南と考えず東西と捉えていれば近畿になる。羅針盤(磁気コンパス)のない時代なので南と東の方向を違うことは十分にありうるとしている。

 このように九州説は距離の誇張畿内説は方角に誤ちとしている。なぜこれほどまでに、邪馬台国が九州説・近畿説にこだわるのか。それは近畿説に立てば、邪馬台国は九州のクニを従えているのだから西日本の統一者で、この段階で狗奴国と戦っているので狗奴国を倒せば全国統一となる。つまり全国支配者であるヤマト政権と継続していると考えられるからである。

 北九州説に立てば、邪馬台国は北九州の連合国家の小規模な長に過ぎない。これは全国統一選手権の九州地域の代表に過ぎず、畿内にも邪馬台国クラスのクニがあって、 その後に全国大会がおこなわれたことになる。したがって邪馬台国がヤマト政権に継続するかどうかは不明になる。つまり日本の統一時期と、統一経過が違ってくるのである。

年代測定法

 邪馬台国は近畿説や九州説が有力であるが、北は岩手説から南はジャワ説まで、邪馬台国説は日本各地にある。しかし最近、最も話題になっているのは、纒向遺跡(まきむく、奈良県桜井市)説である。

 年代測定法として年輸測定法がある。年輸測定法は出土した古代の木材の一番外側の年輪(最外年輪)まで残っていることが必要である。そのため弥生時代の年代を決めるのは無理とされてきた。年輪のパターンは紀元前1000年ごろまで分かっているが、弥生時代の木材が出土しないからである。
 しかし1995年、滋賀県の二の畦・横枕(にのあぜ・よこまくら)遺跡から弥生中期の井戸が発見され、そこに井戸材が残っていて、年輪年代法の測定の結果は、考古学者が考えていた年代よりも100年以上古かったのである。二の畦・横枕遺跡は紀元後1世紀ごろの遺跡とされていたが、年輪年代法では紀元前1世紀の前半とされた。

 さらに近畿を代表する弥生時代の遺跡上曽根遺跡の大型建物跡の柱根は、吉野ケ里遺跡の建物よりも200年ほど古い時代のもので、紀元前52年と出たのである。
 近畿と九州の弥生時代が同じ年表に並び、古墳時代の始まりと卑弥呼の死亡時期が重なったのである。卑弥呼が死亡はの247年か、248年とわかっているが、古墳時代の初期とは関係ないと思われていた。ところが池上曽根遺跡で年輪年代法の結果が出て以来、、古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのが大勢となり、邪馬台国と古墳時代が時間的につながり、卑弥呼の死亡時期と重なったのである。卑弥呼が死んで葬られた墓は、日本で最初に造られた巨大な前方後円墳ではないかという見方がでて、日本で最初の巨大な前方後円墳である奈良県纏向(まきむく)遺跡にを卑弥呼の墓とする見方がだされ始めたのである。

 

 纒向遺跡説

 纒向遺跡は3世紀初頭につくられた、宮城を思わせる1キロ四方の遺跡で、前方後円墳の原型である。前方後円墳は纒向遺跡から日本各地に広まったとされ、この埋葬文化がゆるやかに日本全国に広まったことを示唆している。また日本各地からの土器が発掘され、日本各地と人的交流があったとされている。さらに纒向遺跡には女性が葬られたとの伝説が残されている。
 日本書紀によると箸墓古墳に葬られたのは孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼?)で、三輪山のご祭神である大物主神の妻であった。夫の大物主神は昼間は姿を見せず夜にだけ訪れてきた。姫は夫に姿を見せてほしいと頼むと、翌日、櫛笥(くしの箱)が置かれていて、櫛笥には小さな蛇がはいっていた。それを見て姫が驚いて思わず尻餅をついたら、運悪く箸が陰部に突き刺さって亡くなってしまった。
 大物主神の正体は蛇だったのである。そのため人々は姫をこの墓に埋め箸墓と呼ぶようになった。
 纒向遺跡はヤマト政権の初期とされ、時代検証からも3世紀の遺跡であることから纒向の前方後円墳を卑弥呼の墓とする説が登場した。もちろん反対意見もある。
 卑弥呼が魏に使いを送ったとき、魏から鏡(三角縁神獣鏡)100枚が贈られているが、この鏡が出土すれば可能は高くなるが、その出土はまだない。三角縁神獣鏡は日本各地から500面以上出土しているが、それらは4世紀以降の古墳からである。奈良県天理市の黒塚古墳からも33面出土しているが作りが稚拙で魏の贈呈品とは考えにくい。
 そのため邪馬台国畿内説の論拠としては弱く「纒向遺跡が邪馬台国であったとしても矛盾しない」だけである。魏から卑弥呼が下賜された金印「親魏倭王」が発見されれば確実であるが、金印はまだ発見されず、日本のどこかに眠ているのである。

 

箸墓古墳 

 奈良県桜井市にある箸墓古墳は、宮内庁は倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓としているが、卑弥呼の墓とする説がある。築造期は3世紀中期で、全長約272mの前方後円墳である。

邪馬台国とヤマト政権
 3世紀後半から4世紀にかけて日本は小国家の統一が進み、最大勢力が現在の皇室の祖先となる大和地方の豪族連合とされている。3世紀後半から大和地方を中心に巨大な古墳がつくられ、その後も大和地方と同じ形の前方後円墳が各地に順次つくられていることから、ヤマト政権の支配が次第に拡大したとされている。そして4世紀半には関東地方から九州北部までヤマト政権の支配下に入った。
 ヤマト政権と邪馬台国との関係はどうだったのか。邪馬台国では3世紀に卑弥呼と壱与の二人の女王が立ったが、皇室の系譜では3世紀の頃に女帝が即位した例はない。ヤマト政権と邪馬台国は別なのか。日本最初の史書「日本書紀」や「古事記」に邪馬台国の記載がないので謎は深まるばかりである。
 3世紀末に邪馬台国が消滅し、5世紀までにヤマト政権が誕生したことは確かである。このように4世紀に巨大な歴史上の動きがあったのに、宋書による五王の記載まで(5世紀)中国の歴史書に日本が登場していない。4世紀の激動の謎を解くカギが見当たらず、謎の4世紀という言葉があるように、肝心の部分が抜けているのである。
 年輪測定法により、古墳時代の始まりと卑弥呼の死亡時期が重なっているとしても、時期の重なりにはまだ異論はあるし、時期が重なっていたとしても場所は特定されていない。
 魏志倭人伝の邪馬台国には、倭には馬や牛はいないと書いてあるが、邪馬台国の消滅を境に、馬具や馬の骨が大量に埋没され出土している。大陸から馬がやって来たのだろうが、少数の騎馬集団が馬をつれて来たのか、それとも組織化された巨大騎馬軍団が海を渡って来たのか分からない。可能性としては、巨大騎馬軍団が対馬海峡を渡る手段がなかったので、少数の騎馬集団説が正しいとされている。騎馬民族説では大陸の騎馬民族が大挙して日本に侵入して邪馬台国などの倭の国々を征服したのがヤマト政権としているが、大挙して日本にくる船がないので、騎馬民族征服説はほぼ否定されている。
 また墓の形態が、それまでは丘にすぎなかった墳墓から100mを超える前方後円墳へ変化し、弥生時代の祭祀用具の銅鐸が突然消え、青銅から鉄器が使われるようになった。前方後円墳の玄室には壁画が描かれ、副葬品も剣、鏡、玉などから馬具や王冠など朝鮮半島や大陸の文化に近くなる。さらに彫りが深くがっしりした縄文人のような体型が、彫りが浅い大陸系の体型に変化し入れ墨の習慣が消滅している。
 4世紀に何があったのか、大陸の騎馬民族がヤマト政権を造った説は否定されているが、では馬と騎馬民族の文化だけが来日したのだろうか。最も合理的なのは、「朝鮮から渡来してきた騎馬民族が倭人と同化して、日本化した騎馬民族によって大和朝廷が作られた」という中間の説である。