旧石器時代

 ヒトが他の動物と違うのは第1に直立歩行、第2に火の使用、第3に言語の使用、そして第4に道具の製作である。つまり「ヒトは道具を作る動物で、道具を作る文化を持つのがヒトである」。この道具の変化によってヒトの時代は世界的に旧石器新石器青銅器、鉄器時代へと変化してゆく。

 ヒトの骨は溶けやすいので、古い人骨が残っているとは限らないが、人骨が見つからなくても、直立歩行をしていたのか、あるいは言語を使用するほど脳が発達していたのか分からないと、嘆く必要はない。

 日本列島にヒトが住みつくようになったのは、今から2万年前と云われている。それはある地層を発掘した場合、人骨が見つからなくても、ヒトが作った道具が出土すれば、その時代にヒトがいた証拠になるからである。このことから、考古学では遺物や遺跡からヒトが使った道具を見つける事が重要になり、使用された道具の材質より人類の時代を区分できる。

 同じ石器時代でも打製石器のみを使用した旧石器時代と、石器を磨いた磨製石器が出現した新石器時代(縄文時代)とに区分することができる。

 日本では縄文時代までが石器時代であるが、弥生時代には青銅器と鉄器が大陸からほぼ同時にもたらされので、青銅器時代という区分はなく鉄器時代になる。つまり我が国は旧石器時代、新石器時代(縄文時代)、鉄器時代(弥生時代)の順になる。青銅器時代がないのは世界で日本だけである。

 

旧石器時代

 今からおよそ2万年前の私たちの祖先は、ナウマン象や大角鹿を捕らえる狩猟生活をしていた。獲物を捕るための武器として「打製石器」をもちいていた。打製石器は石を打ち砕き、断面が鋭利な刃物のようになった石を棒に固定すれば矢や槍になり、あるいは斧や包丁のような使い方もできた。この器を使いて狩猟で生活した時代を「旧石器時代」と呼ぶ。

 石器時代は打製石器を使っていた時代で、土器はまだ登場しない。つまり旧石器時代と無土器時代は同じである。打製石器の原料として主に黒曜石(こくようせき)が用いられているが、黒曜石は鋭利な断面を作ることができたからである。

 約1万年前になると石を割るだけでなく、石を磨いて刃物をつくることを覚えた。石を割るだけの打製石器を使っていた時代が旧石器時代石を磨いて石器を使用した時代が新石器時代(縄文時代)である。

 日本列島にヒトが住み始めると共に旧石器時代が始まるが、旧石器とは「石を割って武器にした石器」のことであるが、ガラス質の石を割って作ることが多く、ナイフとして優れていた。切開手術に黒曜石を使うことも可能とされているが、黒曜石はもろいのが欠点である。しかしナウマンゾウなどを解体する際には重宝したであろう。ひとつの石からひとつの石器しか作れないのではなく、連続して石の剥片をナイフ状に加工したものが登場しこれを剥片石器という。

 磨製石器を用いたのが新石器時代であるが、単にこの道具を使っただけでは文化とはいわない。文化は生活様式の総体なので、新石器文化とは磨製石器以外に土器を使い農耕や牧畜をおこなったことを称している。

 新石器時代=磨製石器+土器+農耕・牧畜 と単純化すると分かりやすい。

 さらに時代が経つと、打ち欠いたときに出るクズ石を石器として利用するようになる。これを細石刃といい、長さ数センチ、幅数ミリ。アスファルトなどで木に取り付けて使用した。これで石器の刃渡りは飛躍的に増大した。

 細石刃文化はバイカル湖周辺が発祥で、このことからバイカル湖周辺が日本人起源説の裏付けのひとつとなっている。細石刃文化は1万5000年ほど前にシベリアから北海道に伝わり東日本に拡大した。細石刃は西日本にも広まるが作り方が違っていて、ナイフ型石器と併用されている。つまり二つの文化が日本列島東西に存在していたのである。

 細石器が登場した時代は磨製石器も併用されているため中石器時代とも呼ばれている。

この「打製石器」はアマチアの考古学者・相沢忠洋が、1949年に岩宿遺跡で発見した。それは独学で考古学を研究していた彼の画期的発見だった。相沢忠洋が宮宿遺跡を発見するまでは、旧石器時代(縄文時代より以前の時代)は「日本にヒトは存在しない」が考古学の常識であった。

 この常識は戦前の教育の思い込みがあった。日本は天皇の祖先が創った神の国と信じられていたので、神話以前の旧石器時代にヒトがいるはずがないと信じられていたのである。戦前は縄文時代の遺物を掘って、関東ロームに突き当たると発掘は中止となった。旧石器時代がないと信じていたので、縄文時代より以前の日本にヒトが住んでいるはずがなかった」からである。

 これは1949年までの常識だったが、岩宿遺跡を皮切りに旧石器時代の調査が活発に行われ、30,000年前から12,000年前の後期旧石器時代の遺跡が日本で4,000箇所も次々に発見された。

 石器の発達は技術の進歩を示しており、簡単な石器から精巧な石器へと発達し、動物を捕獲する際の殺傷力が強化されていった。

 

さまざまな旧石器

石斧(せきふ)

 直接手に持ち、あるいは短い棒の先にくくりつけて使用した。木の伐採や加工、土掘りなど多様な目的で使用された。楕円形石器は敲(たた)いたり打ったりする石器で敲打器(こうだき)と呼ばれ、直接手に持ったり柄をつけて使用する槌(つち)や斧(おの)などで握り槌・握り斧とも呼ばれている。英語のハンド=アックスの訳語である。

ナイフ型石器

 直接手に持つか、柄をつけてナイフのように使用した。切断するのに用いられ、別名を石刃(せきじん)という。英語のブレイドの訳語である。

尖頭器

  木の葉のような形をしているが、長い棒の先にくくりつけ、槍や投げ槍として使用した。刺突が目的で、先が尖(とが)っている石器という意味である。英語のポイントの訳語である。

 旧石器時代の終りごろに細石器とよばれる小型の石器が出現する。細石器とは小石器(細石刃)を木や骨などの側縁の溝に何本か並べて埋めこんで用いるものである。細石器を使用した文化は中国東北部からシベリアにかけて著しく発達し、日本列島におよんでいる。細石器は旧石器時代から新石器両時代へ移行する時期に登場することから、この時代を「中石器時代」とよぶこともある。

 

無土器時代

 旧石器時代の人々は洞穴に住み、食糧は主に狩猟・植物採取・魚であった。無土器時代と云われているが、その名の通り土器はなく、土器が使われていなかったので前土器時代、先土器文化ともいう。旧石器時代の人々は獲物や植物を求めて移動する生活を送っていた。日本列島にヒトが存在したのは20~30万年前とする説があるが、確実に言えるのは約35,000年前からである。

 

旧石器時代の暮らしぶり
 生活の拠点となる場所や、獲ってきた獲物の解体場、石器製作場などの遺跡が見つかっている。旧石器時代の遺跡は見晴らしの良い台地や丘陵、高原などに多いが、定住する住居の遺跡が少ないことから、一定の場所に定住せず、移動しながら猟をしていたと考えられる。

 旧石器時代の人びとが調理した跡と見られる礫群(れきぐん)が発見されているが、その遺跡の数はきわめて少ない。それは一カ所での定住期間が短く、食料を求めて、小集団で絶えず移動を繰り返していたからである。

 旧石器時代の住居の多くは、洞窟や大きな岩の陰などを利用した横穴式住居であったが、竪穴式住居も見つかっている。20,000年以上前に木を組み合わせ、皮や草で覆い、囲炉裏で火を使用していたことも分かっている。住居の他にも土坑墓も見つかっていて、身につけていた装飾品や石器や玉なども発見されている。
 後期旧石器時代にはナイフ型石器(石を連続的に打ち剥がす技法で作られた石器)が数多く出土している。木にくくりつけた獲物を、切るのに使われていたのであろう。旧石器時代の食料は狩猟が主で、石器時代の遺跡から牛、ナウマンゾウ、鹿、イノシシ、ウサギなどの骨が発見されている。また火を利用していたので、獲物を焼いて食べていたのであろう。猟は一人ではなく数人の集団で行っていた。


骨が少ないわけ
 旧石器時代の遺物は石器ばかりで人骨は少ない。それは日本の土壌が火山灰で、酸性の土壌のためアルカリ性の人骨が酸性の土壌で分解され溶けてしまうからある。人骨を保存するにはアルカリ性の土壌で覆ってやる必要がある。

 意外なことであるが、縄文時代の人骨は多く発掘され、弥生時代以降のものは少ない。この理由は縄文時代の人骨は貝塚に捨てられ、貝塚の石灰分が人骨が守られていたからある。人骨はセメントが掘れるような石灰岩地帯からしか出てこない。

 岩宿遺跡での旧石器の発見をきっかけに、日本各地で旧石器の人骨も発見されている。数少ない旧石器時代の人骨として、1957年(昭和32年)静岡県豊橋市牛川町で人間の上腕骨が発見され「牛川人」と呼ばれている。さらに1959年(昭和34年)浜名湖の北から三ヶ日人が発見され、さらに1970年(昭和45年)には沖縄県の港川で、日本で初めての頭蓋骨の化石が発掘された(港川人)。イノシシやシカの骨も一緒に発掘され、この肉を食べていたとされている。港川人の頭蓋骨は約1万8千年前とされている。

 

前期・中期旧石器の捏造
 後期旧石器の遺跡は数多く発見されたが、それ以前の前期・中期旧石器時代の遺跡は見つかっていない。

 1979年頃から、東北地方を中心に次々と前期・中期旧石器が発見され、日本にヒトが住んでいた証明とされた。これは常識を覆す大発見であったが、発見者の藤村新一が発掘現場に縄文時代の石器を埋めている現場が撮影され、旧石器発掘(前期・中期)が捏造だったことが発覚した。つまり前期・中期旧石器時代の遺跡は捏造されたもので、いまだに前期・中期旧石器時代の遺跡は見つかっていない

 確実に言えるのは、日本の石器時代は相沢忠洋が発見した後期石器時代の遺跡からである。

 

旧石器時代の遺跡と遺骨(幻の原人たち)

 これまで発掘された原人は、教科書に掲載されたことがあった。しかし残念なことに現在ではすべて疑問視されている。人類は猿人・原人旧人新人の順に進化したが、浜北や港川の人骨は新人とするのが現時点での研究結果である。

 

 明石原人: 1931年(昭和8年)に直良信夫が明石市西八木海岸でヒトの腰骨を発見した。東大で鑑定するが、この腰骨は東京の空襲で焼失してしまう。戦後、残された石膏模型を長谷部言人(ことんど)東京大学教授が鑑定して、北京原人と同等の進化の段階にあるとして「明石原人」と命名し、歴史の教科書に記載された。

 しかしその後、西八木海岸から人骨は発掘されず、周囲の化石のほとんどはトラや熊などの動物で、トラや熊の放射性炭素年代測定から、ヒトがいたとしても原人ではなく縄文人以降とされ、論争は二転三転している。原人であれば北京原人と同じ時期になるが幻のままである。

 

土井ヶ浜人金関丈夫(かなせきたけお)九州大学教授が山口県土井ヶ浜の砂浜に埋もれていた弥生時代の人骨総計207体を発掘した。弥生人の平均身長は約163cmと高く、顔は扁平で長い(高顔)ことが明らかになり、弥生人は朝鮮半島からの渡来人と土着の縄文人の混血とされている。

 

牛川人1957年(昭和32年)、愛知県と静岡県の境の豊橋市牛川町の石灰岩採石場より発掘された。発掘したのは鈴木尚で、旧石器時代の女性の左上腕骨と報告された。この人骨の推定身長は135cmと小柄で、動物の骨とともに女性の上腕骨の一部10センと、子供の大腿骨の破片が発見された。10万年前のものとされ、ネアンデルタール人の上腕骨と類似していた。しかしこの骨は後に、動物の骨であることが確定している。

 

三ヶ日人:1959年に発掘。放射性炭素年代測定の結果、縄文早期とされている。葛生人、聖嶽人も出たが、捏造造あるいは中世の骨という説が強い。

 

浜北人静岡県引佐いさな郡三ケ日町の石灰岩採石場より出土した頭骨片や骨盤はホモ・サピエンスに属し、身長150cm前後で縄文人の前頭骨の強い隆起線とよく似た特徴があった。鈴木尚が発見報告した浜北人であるが、絶滅したトラやヒョウの骨と一緒に出土していることから1万8千年前くらいと推定されている。現在では日本で最も古い時期のものとされているが、それでも放射性炭素法による年代測定では約7500~9500年前(縄文時代早期) との結果が出ている。

 

山下町洞人:那覇市の山下町の洞穴から7歳くらいの子供の大腿骨と脛骨の破片が発見された。日本で発見された人骨で最古のものとされている。

 

夜見ケ浜人:鳥取県境港市外江とのえの砂浜で、錦織文英氏が下顎骨の左半分の破片を発見した。中国地方で唯一の旧石器人化石である。

 

港川人:沖縄はサンゴの島なので石灰岩地帯が多い。那覇市の実業家・大山盛保は、沖縄本島南部具志頭村の港川採石場の石灰岩の割れ目から9体の人骨化石を発見した。そのうち4体は全身の骨がよく整っていて、日本で唯一といえるほど保存の良いの旧石器時代の人骨で1万8千年前とされている。身長は男性155センチ、女性144センチで縄文時代の身長に比較すると小さい。脳の容積は現代人よりやや小さい程度であるが、頭の骨は8mmと厚く、現代人の1.5倍の厚さである。顔面は広く奥行きがあり、眼窩は上下に狭く、眉間は出ている。歯はすり減っているが、歯槽骨は厚いため噛む力は動物並みとされている。

 港川人の上半身は華奢で、全身の筋肉が発達している縄文人とは違っている。鎖骨と上腕骨は細く短いので肩や腕の力は弱かったと想像される。いっぽう下半身は、脛の骨は太いことから、ふくらはぎの筋肉は強力だったと推定されている。狩猟採集生活をするのに適した身体である。サハリン経由で北海道や東北に南下した人たちとは別系統とされ、当時の中国南部の柳江人に似ていいる。縄文人との連続性については不明である。沖縄は古くから本土との間に海が形成されていたので、行き来していたとは考えにくい。

時代検証

 地層を調べれば、どっちが古く新しいかが判断できるが、実際に今から何万年前にできたものかはわからない。今から何万年前かを表すものを「絶対年代」というが、その求め方として様々な方法がある。下記年代の測定のうち、もっとも信頼のおけるのが年輪測定法で、次いで放射性同位元素の測定となる。古い時代のものを明らかにしようとすれば、それだけ誤差が大きくなる。

 

(1) 放射性同位元素の測定(炭素14年代法)

 放射性炭素14Cはニ酸化炭素としてつねに空気中に存在している。動植物はこれを体内に吸収し、生きている間はこの吸収と分解が平衡しているが,死ぬと分解だけが一定の割合で減少する。つまり死んだ生物の体内にある放射性炭素の量を測定すれば、生きていた時期がわかるのである。放射性炭素の半減期は5700年である。

 しかし過去から現代にいたる大気中の14Cの濃度は常に一定とは限らないので、この測定法はどうしても誤差を生じてしまう。現在では年輪年代測定法などによって補正する研究が進んでいる。

 放射性同位元素の測定法は、戦後リビー(W.F. Libby)によって発明され、開発者リビー(米)はノーベル賞を受賞している。なお○○年前というのは、1950年を起点としてB.P.(Before Present)という記号を用いている。

(2) 熱ルミネッセンス法

 鉱物中の放射性元素が電子を追いやることに着目し、熱すると鉱物は蛍光を発して電子が元に戻るので発光量を調べる。一度加熱されると発光力は0になる。それから放射線を浴びると発光力がついてくる。熱せられて以降の年代がわかり、年代は百万年~数千年前までである。

(3) フィッション・トラック法

 石器や土器などに含まれるジルコン中のウランの崩壊を利用する。鉱物に付いた傷を電子顕微鏡で数える。熱せられると傷が消える ので、それ以降のウラン崩壊による傷を調べるのである。10億~数万年前の測定によい。

(4) 年輪測定法

 年輸年代法は、1920年代にアメリカの天文学者、A・E・ダグラスによって創始され、欧米ではすでに建築史や美術史など、さまさまな分野で実用化されている。その原理は簡単で、樹木の年輪が毎年一層ずつ形成されることを利用している。樹木の年輪と気象条件に左右され、生育のよい年と悪い年、つまり年輪の幅が広い年と狭い年がある。その変化を何十年という期間で追っていくと、年輪幅の変化がパターンとなって現れてくる。木材の種類によって、共通するパターンが見えてくる。 そのパターンを過去へ過去へと延ばしていくと、古代までの年輪のパターンができあがる。樹木の年輪によって、過去何百年、何干年というモノサシができるわけで、長期の年輪パターンと遺跡などから出土した木材の年輪パターンを照合することで、古代の木材が切り出された年が1年単位で判明するのである。画期的な年代測定法であるが、年輪年代法で測定するには、出土した古代の木材の一番外側の年輪(最外年輪)まで残っていることが必要で、また古代の木材は残されていないので弥生時代からの時代を知ることができる。

 

その他

 ある地層から化石がでれば、その地層の古さから化石の年代がわかる。アンモナイトが出れば中生代である。そのようなものを示準化石と呼んでいる。日本を覆う地層が見つかり、その年代を確定できればば、それより古いか新しいかで年代を知ることができる。

 1970年に、野川遺跡の4メートル下の関東ローム層の中に薄い火山灰層があることが判明した。これは火山ガラスの特徴から鹿児島の姶良カルデラの噴出物とされ、炭 素14法で2万2000~2万1000年前とされた。つまり鹿児島の姶良火山の爆発によるもので、爆発により日本中に火山灰を降らせ、南九州で50センチ、中部で 20 センチ、東北南部でも10センチ堆積していたことが分かった。つまりこの層があれば2万年前の前後ということになる。この物差しは、それ以前の時代には使用できないので、どうしても放射線分析になる。古い時代のものを明らかにしようとすれば、それだけ誤差が大きくなるのは仕方ないことである。


時間の壁