エリザベス1世

 イギリスはかつて世界の覇権を手にしていた。大航海時代から産業革命を経たときのイギリスの力は凄まじく、まさに世界を左右する国家であった。そのようなイギリスの基礎を築いたのがエリザベス1世である。「よき女王」として今もイギリス人に愛されるエリザベス1世の生涯を追ってみる。

       エリザベス1世(13歳時)
       エリザベス1世(13歳時)

恵まれぬ少女時代

 エリザベス1世はザ・ヴァージン・クイーン「処女女王」、グロリアーナ「栄光ある女人」、グッド・クイーン・ベス「善き女王ベス」とよばれ、それぞれの呼称がエリザベス女王を象徴する言葉になる。エリザベス1 世といえばイングランドの繁栄をきずいた輝かしい女王と思いがちであるが、その生い立ちや女王までの道のりは恵まれたものではなかった。

 エリザベス1世は父ヘンリー8世と2番目の王妃アン・ブーリンとの間に生まれた。生まれて2年半後、母親アン・ブーリンは反逆、姦通、近親姦および魔術という無実の罪で死刑判決を受け、ロンドン塔で斬首刑に処せられている。そのためエリザベスは王女の身分から一転して庶子となり王位継承権を否定された。庶子とは婚姻関係のない両親から生まれ た子供で、父親が認知している場合をいう。認知がない場合は私生児といった。

 父ヘンリー8世(1491~1547)はイングランド王室史上最高のインテリとされ、ラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏、馬上槍試合などスポーツにおいても優れた才能を発揮した。音楽でもヘンリー8世が作曲とされる楽譜が現存している。しかし自分勝手な苛烈な暴君でもあり、エリザベスとその兄弟の不幸は、すべて父ヘンリー8世の女癖の悪さによるものである。ヘンリー8世は王妃を次々に変え、生涯のあいだに6人の王妃をもった後の王女になるメアリー1世は異母姉で、次期王となるエドワード6世も異母弟であった。

 父ヘンリー8世の最初の王妃はスペインのアラゴン家出身のキャサリンであった。キャサリン王妃は6人の子供を生んだが5人が死産で、生き残ったのは後に女王になるメアリーだけであった。ヘンリー8世は王位継承のある男子の誕生を熱望していたが、王子を産まない王妃キャサリンに嫌気がさし、王妃の侍女で、後のエリザベス1世の母親になアン・ブーリンにうつつを抜かした。

 しかしアン・ブーリンと結婚するには王妃と離婚しなければならない。そのためには教皇の許可が必要だったが、今も昔もカトリック教が離婚を禁じていることに加え、神聖ローマ皇帝はキャサリン王妃の甥になるため離婚は不可能だった。しかしヘンリー8世は自分の希望を満たすため教皇と断絶し、新たにイングランド国教会を樹立し、自らをイングランド国教会のトップとした。さらに国王至上法を設定し「国内においては、国王こそが政治的・宗教的に絶対の存在」とした。

 ヘンリー8世は自らの離婚を成立させるため、ローマ教会からイギリスのキリスト教会を離脱させ、自らをそのトップに位置づけた。こうしてローマの権力と縁を切ったヘンリー8世は第一の王妃と離婚し、第二の王妃と結婚、この第二の妻との間に誕生したのがエリザベス1世であった。
 ヘンリー8世は国家を巻き込んで
イングランドをカトリックの国からイングランド国教会の国に変えた。この宗教改革により800以上の修道院が解散させられ、その財産は王室に没収された。イングランドの土地の5分の1が王室に移動したとされている。カトリック信者たちは静かに身をひそめるしかなかった。

 このことに怒ったローマ教皇はヘンリー8世を破門にしたが、ヘンリーにしてみれば離婚ができれば満足であった。こうして王妃キャサリンと離婚したヘンリーは侍女のアン・ボレインと結婚することになる。やがてグリニッジ宮殿で生まれたのがエリザベスであった。王子を欲しがっていたヘンリーは女王の誕生は期待はずれで、その後アンは懐妊するが二度とも流産してしまった。エリザベスはヘンリー8世にとって2人目の嫡出子であり、誕生と同時に彼女はイングランド王位の相続人となった。前王妃キャサリンの娘である姉のメアリーの相続権は離婚によって失われていた。

 ヘンリー8世は浮気な性格で母親アン・ブーリンにも飽きてしまい、結婚の数年後には、今度は侍女のジェーン・シーモアに夢中になった。ヘンリー8世は不義密通の罪状を捏造しアン・ブーリンに有罪を宣告しロンドン塔で処刑した。処刑したのはエリザベスが2歳半の時で、処刑によってエリザベスの王女の称号を剥奪された。エリザベスは成長とともに母を死に追いやった父ヘンリーを憎むことになる。

 ヘンリー8世は侍女のジェーン・シーモアと結婚して、念願の王子エドワードを生むが、エドワードは病弱で15才で死んでしまう。またエドワードの母ジェーンも出産直後に産褥熱で死んでしまう。 

(エリザベスが幼女時代から女王即位まで過ごしたハットフィールドハウス)
(エリザベスが幼女時代から女王即位まで過ごしたハットフィールドハウス)

 ヘンリーは8世はその後3人もの王妃を変え、一人は半年で離婚され、一人は愛人問題の容疑で処刑され、6人目の王妃キャサリン・パーだけが、離婚も処刑もされずに一生を終えたが、これはヘンリーの方が早く死去したからでああった。最後の王妃キャサリン・パーは教養があり信仰心が強かった。愛情深い彼女はヘンリーは8世に願い出て、庶子の身分だったエイザベスとメアリーの女王相続権を復権してくれた。

  王妃キャサリン・パーは理想的な継母であった。10歳のエリザベスとエドワード王子に対し、王族にふさわしい教育環境を整えてくれた。エリザベスもこの優しい教養豊かな王妃のことを心から慕っていた。エリザベスは幼い時から学問に熱心で、学問を楽しみながら秀才ぶりを発揮した。

 物覚えが良く、英語、ラテン語、イタリア語を書き、さらにフランス語とギリシャ語を学び、同時代で最も教養のある女性になっていた。女王になってからのエリザベスは通訳なしで外国の大使と議論できたが、これも子供の時の教養のたまものだった。

 ヘンリー8世は2人の王妃をロンドン塔に送って処刑しているが、王妃だけでなく都合の悪い人物も数多くロンドン塔に送くって処刑している。

 エリザベスは14歳の時、ヘンリー8世が死ぬと3番目の王妃の異母弟エドワードが王位につく。エドワードは、わずか9歳でエドワード6世と改名して王位につくが、元来の病弱さゆえに統治する能力はなく15歳で死んでしまう。

メアリーの暗黒時代

 1553年にエドワード6世が死去すると、次に王位についたのは最初の王妃キャサリンとのあいだで生まれたメアリー1世(1516~1558)であった。メアリー1世はチューダー王朝の4代目になるが、彼女はカトリックの国の王妃の娘だけあって狂信的なカトリック信者であった。

 当時のイングランドはプロテスタントとカトリックが激しく対立していた。ヘンリー8世の離婚問題に端を発したローマ教皇との対立は、イングランドにカトリックとの決別という結果をもたらしていた。以降、イングランドは、国王を首長とするプロテスタントの国となっていた。エドワード6世もプロテスタントでイングランドはプロテスタントの色を濃くしていた。

 しかし女王となったメアリー1世イングランドを再びカトリック教に変えようと、プロテスタントの弾圧を決意する。まず全ての者がミサへ出席するように命じ、これにはプロテスタントのエリザベスも含まれていたが、イングランドは表面上これに従った。

 メアリー1世の即位は、カトリックによるプロテスタントへの弾圧、宗教裁判の再開であった。プロテスタントの時代に肩身の狭い思いをしたメアリー1世は、異端処罰法を復活させると、プロテスタントへの復讐を始めた。プロテスタントの聖職者や神学者、信者をつぎつぎに捕らえては、宗教裁判にかけて処刑していった。

 ケンブリッジ大学やオックスフォード大学の神学者が火刑され、指導者カンタベリー大司教、ロンドン司教、ウースター司教が拘束され裁判にかけられ火あぶりの刑に処せられた。メアリー1世はプロテスタントを弾圧して、統治した5年間で300人以上のプロテスタントを処刑した。この苛烈な迫害は、イングランド国民の神経を逆なでにした。陰湿で残酷なやりかたに、民衆は女王を「ブラッディ(血まみれ)メアリー」と呼んだ。

 メアリー1世が女王の座についてからのイングランドは暗黒時代となった。さらにメアリー1世は神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の皇子フェリペと結婚を発表した。このカトリック同士の結婚はイングランドがスペインの属国になることを意味していた。そのため民衆は次の王位継承権のあるエリザベスに期待しはじめた。

 カトリックの復活に燃え、王位と同時に意気込んでフェリッペと結婚したメアリー1世だったが、その結婚生活はうまくいかなかった。なにしろ結婚したときのメアリー1世は37歳で、フェリッペより10歳年上だった。もともと政略結婚だったがフェリッペはメアリー1世にまったく魅力を感じていなかった。フェリッペの目には、プロテスタントに対する憎しみをたぎらせるメアリーはただの狂った老女にしか映らなかった。

 フェリッペは、結婚1年後にスペインへもどると、1556年にフェリッペ2世としてスペイン国王に即位した。高齢のメアリー1世は子供を授かりたい気持ちが強かったせいかフェリペに何度も妊娠を告げるが、すべて想像妊娠であった。メアリー1世はフェリペに夢中であったが、それは一方通行の片思いであった。

ロンドン塔送りに

 エリザベスは熱烈なカトリック教徒メアリー1世女王の下で、何かと疑惑をもたれた。メアリー女王は自分の母親がヘンリー8世と離婚したのは、エリザベスの母親の存在のせいと考えており、エリザベスを恨んでいた。そのためエリザベスは生命の危機すら覚える日々であった。このことは後のエリザベス統治の姿勢によい教訓となった。

 エリザベスはエドワード6世の王位時に、トーマス・シーモア(1508~1549)の陰謀に加担したと疑がわれた。トーマスは3番目の王妃ジェーン・シーモアの兄で王室の実権を持とうとした。エリザベスと結婚して、王室の実権を握ろうとしていた。結局、シーモアは逮捕されて処刑された。エリザベスに疑惑の目はあったが、幸いにも何の証拠もなかった。

 新教徒によるワイアットの陰謀事件が起きた時も、陰謀関与の容疑がかけられた。メアリー1世がカトリックの大国であるスペインの皇太子フェリッペと結婚したが、メアリー1世が子供を産めば、王子は将来スペインとイングランド両国の国王となるが、当時の力関係からいえばイングランドがスペインの属国になることを意味していた。愛国的な国民は、メアリー1世イングランドをスペインに売ったと反発し、サー・トマス・ワイアットの反乱を招くことになった。

 ワイアットはケント州で4千の兵をあつめると、女王の結婚発表の撤回をもとめて、ロンドンにむかって進撃した。この反乱は多くの国民の共感をあつめたが、数ヶ月で鎮圧されれた。ワイアットら首謀者は全員逮捕され、4月に首をはねられ、彼らの首はさらしものになった。

 ワイアットはロンドン塔に送られたが、拷問されるとエリザベスの関与をほのめかす供述をしたのである。そのため15才のエリザベスにも反逆者の容疑がかけられ、エリザベスは反逆者の門をくぐってロンドン塔に幽閉された。反逆者の門をくぐったら二度と生きて戻ってきた者はいなかった。エリザベスも死を覚悟した。

 ところがワイアットは処刑される寸前、拷問による苦痛から逃れたいための自白で、エリザベスは何の関係がないと叫んだため、エリザベスの容疑は晴れ一命をとりとめることができた。もしもワイアットが前言を撤回しなければ、エリザベスは濡れ衣を着せられ陰謀に加担したとして首を斬られていた。ロンドン塔に幽閉され、処刑される恐怖をあじわった。このことはその後のエリザベスの人生観に大きな影響を与えた。

 この当時、王族や貴族であっても、容疑をかけられ処刑されることは珍しいことではなかった。恐ろしい罠がいたるところに仕掛けられていて、エリザベスは梨下に冠をただすような行為は絶対避けねばならなかった。何事も用心深くなければ生き残れないのである。

 1558年にメアリー女王が42歳で卵巣腫瘍が原因で死去すると、25才のエリザベスが次の国王として女王の座についた。若さといい、気品といい申し分がなかった。ルネッサンス的教養と知性溢れる24歳の女王エリザベスに、イングランド国民は湧いていた。この新しい女王に期待し、エリザベスはそれに応えようとした。

 エドワード6世時代はプロテスタント、メアリー1世時代はカトリックと、それぞれに極端な対場からイングランドはふたつに分裂、混乱を招いていた。そのような時代の救世主として国民はエリザベス女王に大きな喜びと期待をもったのである。

 カトリックを装いながらプロテスタントであったエリザベス女王は、イングランドをプロテスタントの国に戻したかった。しかし宗教政策は慎重でかつ現実的であった。宗教に深入りすることを避け、政治的な安定をめざしたのである。貴族や庶民のなかにはカトリック信者も多くいたからである。またカトリックにしてみればエリザベスは庶子であり、正統な女王としては認められなかった。カトリック勢力はローマ教皇やスペインと手をむすび、反乱や暗殺を策謀していたのである。

 エリザベス女王は王位につくまでに経験した不幸な生い立ちを教訓にしていた。

 独身をつらぬく

 処女王と呼ばれ独身のイメージが強いエリザベス女王だが、結婚に関心がなかったわけではない。若い頃にはフランス、スペイン、スウェーデンなどの王朝から何度も結婚の話が舞い込んできていた。たが意味ありげな返答で、相手をじらせるだけで成立することはなかった。

 女王になると結婚は彼女の意思だけの問題ではなく、イングランドの運命を他国にゆだねることにもなりかねない。しかも相手国の宗教が違っていればなおのことである。 国外の王族と結婚すればその国の属国になり、国内の貴族と結婚すればその貴族が国王となってしまう可能性があった。また未婚でいることで外交を有利に運ぼうとする政策があった。このことから彼女は自分の欲望を犠牲にしてすべて破談にした。「私は国家と結婚したのです」が女王の口癖であった。 

 スコットランドの女王メアリ・スチュアートは自在に結婚をくりかえし、最後は臣下の貴族たちに王位を剥奪され、イングランドに逃げたが、20年監禁されロンドン塔で処刑されたことに比べれば、エリザベスのとった行動がいかに懸命であったかがわかる。

 エリザベスも女性である。26才の頃に恋愛でわきかえった時期もあった。相手はロバート・ダドリー(1533~1588)で彼女と同じ年であった。背が高く堂々としていて教養もあった。エリザベスはよほどダドリーが気に入ったと見えて、何度もお忍びで部屋を訪問していたとうわさが流れた。 ダドリーはジェーン・グレイ事件に関与した家系だが、処刑はまぬがれ女王の寵臣となっていた。

 ダドリーとの交際は話題になったが、問題なのは病弱の妻がいたことだった。夫婦仲はかんばしくなく子供もいないので、もし病弱の妻が死ねば女王はダドリーと結婚するだろうと言われていた。

 ところがまもなくダドリーの妻が階段から転落して死ぬという事件が起きた。多くの人たちはダドリーが女王と結婚するために妻を事故にみせかけて殺したと疑った。審問の結果、妻の死因は事故であると断定されたが、それでも共謀説が流れたため結婚していたら反対派の貴族たちが反乱を起こしかねない状態であった。

 女王はダドリーよりも国民の信頼を得る方に動いた。ダドリーとの結婚を断念したのである。しかしそれ以後も彼女の関心はダドリーであったらしく、彼の恋愛に関するうわさ話を聞くとたちまち嫉妬に狂ったとされている。このように、彼女は女王であるがゆえに、毅然としていなければならず、女性としての自分を捨てなければなかった。

独特な外交術

 15世紀のヨーロッパはスペイン、オランダ、フランスなどの列強がひしめき、植民地を求めて制海権を我がものにしようと虎視眈々としていた時代である。そのような国際情勢の中で彼女はイングランドのかじ取りをしなければならなかった。バランス感覚に富んだ外交を40年以上続けることになる。女王の外交政策はどちらともつかない柔軟的な姿勢であった。

 相手国にすれば、女王の態度で想像するしかなかった。例えば旧敵スペインが和平を求め、フランス大使をつかって女王の了承をもらいにきたことがあった。

 その時、女王は大使を前に次から次へと話題をだしてきた。フランスとスペインの文化の違いとか、イングランド人の価値観の話だとか、それを表現するのにラテン語の詩の一部を引き合いに出しギリシア文学も引用したりした。さらにスペイン王の死客に何度も命をねらわれた話になった。結局、スペインとの講和には賛成なのか反対なのか明確な回答はなく、大使は返されてしまった。

 本国に帰った大使はフランス王アンリ4世にどう報告すればよいかわからず、ただ女王は才能豊かでラテン語、フランス語、イタリア語など数種類の言語をお使い、あらゆる文学に精通し、深紅のドレスをお召しになりたいそう美しい女王でしたと報告するしかなかった。

 このように女王は政治的な話より、宗教や芸術の話のほうが多く、詩を引用したり、数種類の言語をつかい分け、核心なことに触れることなく相手を煙に巻いた。これがエリザベス女王の外交戦術であった。

 相手からすればよくわからず、何度も謁見を申し出ることになるが、女王の人柄や雰囲気にほだされて、最後は都合よくまるめこまれてしまった。謁見の際には、女王は真珠の散りばめた赤のかつらをかぶり、豪華なドレスに身を包みジェスチャー豊かに話すが、衣装や宝石も女王の外交戦術であった。奇抜なデザインの衣装を身にまとった女王の姿に半ば見とれて話を上の空で聞いていた大使も多くいた。

 フランス大使メッスは、女王の胸が大きく切り込んだドレスを着ていたので、終始目のやり場に困り、女王が愛想をふるまうので、女王が自分を誘惑していると思った。

 女王の話はとりとめがなく抽象的な内容が多かった。女王の外交方針はどことも仲良くせず、どことも喧嘩せずで、これがエリザベス外交の基本であった。

  フランスとスペインが敵対関係にあるので、フランスとは表向きは仲良くするが、スペインの手前、決してそれ以上はしない。同盟国への支援も精神的な援助は惜しまなかったが、財政面での援助は最小限にとどめた。しかし顧問団の中には、こうした女王のやり方にいら立ちを覚える者も多く、優柔不断と陰口をたたく者も少なくなかった。

 また彼女は側近たちに「戦争だけは絶対にしてはいけない」とよく諭していた。いったん戦争になれば、膨大な出費と多くの犠牲がついてくる。それらが国庫を圧迫するのは確実であったからである。このように手堅く石橋を叩いてわたる慎重な外交戦術のおかげで、イングランドは列強の中でも強国となり大英帝国の基盤が出来上がっていった。

 厄介な問題が起きた。1568年、かってフランス王フランソワ2世の妃でもあったスコットランド女王メアリーがスコットランドの内紛でイングランドへ逃げてきたのだった。メアリーはエリザベスの伯母マーガレット・テューダーの孫であり、イングランド王位継承権を持っていたため、側近達が生かしておくには余りにも危険な存在だと主張して、イングランドに18年半滞在した後、メアリーは処刑となった。

 英西戦争

 海外との戦争を望まぬエリザベス女王であったが、どうしても許せぬことがあった。それは世界貿易を独占して利益を独り占めにしているスペインの横暴であった。スペインに反感を持つ者も多く、女王自身もスペインからの独立を願うオランダに公然と援助の手をさしのべた。

 スペインからの巨額な重税に苦しめられていたオランダは、スペインからの独立が念願であったが、スペインがオランダを手放すはずはなく、オランダの独立を後押しするエリザベス女王に不快感をあらわにした。この利害をめぐってイングランドとスペインは幾度か衝突し、急を告げる不穏な空気がただよっていた。さらにカトリック教徒だったメアリーの処刑で、スペインとの対立が深刻化したのだった。1588年、エリザベス女王が55才のとき、ついにスペインとの間で英西戦争(アルマダ戦争)がおこなわれた。

 これはフランシス・ドレイクが世界の各地でスペイン船を襲い、スペインから厳重な抗議が来たことがきっかけになった。

 エリザベスは財政難を補うため私掠船に私拿捕特許状を与え、植民地から帰還途上のスペイン船を掠奪させていた。船長のフランシス・ドレークは1585年から1586年に西インド諸島のスペイン諸港と船を襲撃し、1587年にはカディスを襲撃してスペイン艦隊の船舶の破壊に成功していた。

 エリザベス女王はドレイクを呼びだした。

「そなたはあるまじき海賊行為で、スペイン王フェリペ2世を怒らせました。そなたに対する罪状と非難決議が出ています」そう言うと、女王は声高らかに罪状文を読み上げた。ドレイクは女王の前で頭をたれひざまづいて聞いていた。何しろ国家間をこじらせたのである。ロンドン塔送りになるかもしれないという考えが脳裏をかすめた。

「そなたの行為は国際上、好ましいことではありませんが、わたしはそなたにナイトの称号を与えましょう。この意味がわかりますね」 エリザベス女王に謁見をゆるされたドレイクはスペインから奪った30万ポンドという膨大な額の財宝を王室に差しだした。しかしドレイクは王女の言葉の意味がわからなかった。女王が「自分を処罰することなく、逆にナイトの称号を与えた」と知って、興奮状態になるまで長い時間が必要なほどだった。 

無敵艦隊破れる

 感激して顔をあげたドレイクに女王はさらに言った。「さあ、お立ちなさい。サー・ドレイク、そなたを今から大英帝国艦隊の司令官に任命します」。

 

 エリザベスのこの処置に怒ったスペインは、報復として艦隊をつかってイングランド沿岸部を荒らしはじめた。フェリペ2世はイングランドとの本格的な戦争を決意する。ここに至りスペインとの雌雄を決する海戦が行われた。1588年4月29日、スペイン無敵艦隊がパルマ公率いるスペイン陸軍をネーデルラントからイングランド南東部へ輸送すべく、英仏海峡へ向けて出港した。

 無敵艦隊の運命を知らないイングランド民兵が国土防衛のために召集されていた。8月8日、彼はエリザベスを閲兵のためにエセックス州ティルベリーへ招いた。ビロードのドレスの上に銀色の胸当てを着た彼女はここで最も有名な演説  を行う。

 「我が愛する民よ、私は貴方たちに自信を持って言う。私は我が忠実かつ愛すべき人々を疑ってはない。私はか弱く脆い肉体の女性だ。だが私は国王の心臓と胃を持っている。それはイングランド王のものだ。そして、パルマ公、スペイン王またはいかなるヨーロッパの諸侯が我が王国の境界を侵そうと望むなら、汚れた軽蔑の念を持って迎えよう」。

  1797年アルマダの海戦を描いた「無敵艦隊の敗北」
  1797年アルマダの海戦を描いた「無敵艦隊の敗北」

 当時、スペインの艦隊は無敵艦隊と呼ばれ、数でも大きさでもイングランドを上回っていた。しかしイングランド艦隊は小型ながらその快速性を生かしてスペイン艦隊に対抗した。

 スペインの無敵艦隊には誤算と不運が重なった。海戦は一週間つづいた。スペイン艦隊は三日月型になってイングランド艦隊を包囲したが、その手には乗らず、逆に狭い海域に誘い込み火をつけた船をスペイン艦隊に放った。鈍重なスペイン船は密集したまま次々と燃え上がった。ドレイクの海賊の経験を生かした見事な奇襲攻撃であった。

  イングランド軍による火船攻撃によって混乱した無敵艦隊は7月29日のグラヴリーヌ沖で敗北し、艦隊は北東へ潰走した。帰路、アイルランド沿岸で嵐に巻き込まれて大損害を出したスペイン艦隊残余は散りぢりになって本国へ帰還した。海賊あがりの提督フランシス・ドレークらの活躍により、世界最強とされていたスペインの無敵艦隊(アルマダ)を打ち破ったのである。

 国民は歓喜した。セント・ポール大聖堂でのエリザベスの感謝の祈りを捧げる行列は、彼女の戴冠式に匹敵する壮観なものであった。無敵艦隊の撃退はエリザベスとプロテスタント・イングランドの勝利であり、神の恩寵さらには処女王の国家の勝利と受け取った。

 

大英帝国の基礎を築いた女王

 スペインを倒したイングランドは名実ともに世界帝国への道のり歩んでいた。16世紀後半になるとイングランドの経済はますます活気づき史上空前の繁栄をむかえた。1600年に東インド会社が創設され、東インド会社は莫大な富をイングランドにもたらした。アフリカ西海岸には奴隷貿易のための港がいくつも造られ、世界の七つの海は大英帝国のためにあった。香辛料を積載した数えきれないイングランド船が行き交っていた。

 薄日が雲のあいだから射し込んでくる夕暮れどきである。護衛のお供を引きつれ天使の像が彫られた馬車が走っていた。市民たちは女王を一目見ようと総出で広場に集まって来きた。広場は昨日からの雨であちこちに水たまりができていた。

 やがて馬車は停車し、両脇を従者が整列し、長いドレスのすそを持ち上げて気品高い女王が姿をあらわした。そのときお供の中から一人の紳士が歩み寄ると自分のマントを脱いで水たまりに置いた。

 紳士は女王の前ににひざまずくと、

「足下が濡れるといけませんので、この上をお渡り下さいませ。陛下」

 女王は紳士の手を取るとすっくと降り立った。女王の誇り高い姿に多くの市民から思わず賛美と賞賛のため息があがった。

 この話は華やかなエリザベス時代を象徴する有名な逸話として知られている。この紳士は冒険家のウォルター・ローリー卿で、この後に女王の寵臣となる。彼は終身、女王につかえ、その後、北アメリカに植民したとき、踏み入れた土地を独身の女王にちなんでヴァージニア(処女の大地)と命名したことでも知られている。

 エリザベス時代のロンドンはまぎれもなく世界一の大都市で、世界中のどこをさがしてもこれに匹敵する都市はなかった。世界に冠たる大英帝国は彼女の治世の間にその基礎が出来上がったとされる。しかしその国づくりも決して安易なものではなかった。

蝋燭の炎が消え去るように

 エリザベス1世は1603年3月24日に69歳で亡くなった。宗教、外交の諸政策に冴えを見せた生涯であったが、その他にも貨幣経済の安定策や貧民の救済策、貿易振興策など数々の政策を実行している。さらにエリザベス1世の治世は「安定の上に文化の花が咲いた時代」でもあった。シェイクスピアなどの文豪が活躍し、イギリス史上でも最もよい時代のと言われている。1600年前後にはかつての爆発的な栄光のイメージは影をひそめ、得意の外交戦術にも切れがなくなった。大量の難民、長引く戦争などにより物価が高騰し、生活水準は低下した。カトリックへの弾圧が激しくなり、民衆の女王への好意も衰えていった。

 彼女のブレーンというべき取り巻き連中が年老いて次々と死んでいき、エリザベス1世は心細いかぎりであった。彼女の親しい友人が亡くなっていくのが沈痛な思いにさせた。彼女は無口になって考え込む時間が多くなった。もっとも親しくしていた友人キャサリン・ハワード伯爵夫人の死は、エリザベス1世にとって致命的な痛手となり、その1ヶ月後にエリザベス1世は69歳でリッチモンド宮殿で死去した。 

エリザベスの棺は夜のうちに船に乗せられ、ホワイトホール宮殿に運ばれた。1603年4月28日、小雨のぱらつく中、弔いの鐘が打ち鳴らされ、4頭立ての 馬車にひかれてウェストミンスター寺院に向かった。ロンドン市民は1ヶ月のあいだ喪に服して、女王の死を心から悼んだ。

 エリザベス1世には生涯を独身で通し、子供もいなかった。彼女の死後、直系の子孫による王位継承はなく、エリザベスの死とともに 120年間つづいたチューダー王朝もそのとき幕を下ろし、古き良き時代が去っていった。テューダー朝が終わりステュアート朝の時代に移った。エリザベスが独身を貫いたのは「政治を有利に進めるため」で、国民からも敬愛された女王は人生を国家と国民に捧げたのである。