印象派

 印象派の画家には有名人(マネとコローは創立時の重要人物であるが、正確には印象派ではない)ばかりであるが、印象派の作品はいまでこそ高額で、展覧会では人があふれているが、当時は完全な負け組だった。

 印象派という名前も風刺新聞シャリヴァリに「印象的にへたくそだ」と書かれたことに由来する。このコメントは、印象派展のモネの作品「印象ー日の出」を揶揄したものだった。
 もそも当時のフランスの画家の勝ち負けの勝敗は、唯一の展覧会である「サロン」に入選するかかどうかだった。サロンという名は1725年にルーブルのサロン・カレで展覧会が開かれたことに由来する。当時、芸術家の発表の場はサロンしかなく出品数が増大したことから1798年に審査制度が導入された。
 審査制度が導入されれば当然落選する画家がでてくる。落選すれば地位や名誉も得られず、作品も売れずにパトロンもつかない。画家として失格の烙印を押され窮地に見舞われることになる。当時の画家が生き残るためにはサロンに入選することが絶対条件だった。
 当然ながら、落選した画家からは審査への苦情が殺到する。この苦情は皇帝ナポレオン3世も無視出来ないほどになり、ナポレオン3世は苦情を考慮して、1863年にサロンの開催と同時に落選作を別館で展示する「落選者のサロン」を開催した。
 1863年の第一回「落選者のサロン」でマネ、ピサロ、セザンヌは落選した作品を発表している。そのときのマネの作品が有名な「草上の昼食」であった。

 一方、同年のサロンの一番人気はカバネルで、「ヴィーナスの誕生」を発表し絶賛されてナポレオン3世が買い上げている。
 印象派のほとんどの画家は落選続きだったが、もっとも好成績を残したのはドガで、ドガはただ一人一度も「サロン」で落選したことがない。一方、ただひたすら負け続けたのがセザンヌだった。セザンヌは落選に次ぐ落選で(9年連続の落選)印象派展まで1度もサロンに入選ができなかった。全敗は印象派のなかでもセザンヌただ一人で、「「近代絵画の父」言われるセザンヌは当時負け組中の最下位だった。

 「落選者のサロン」は大評判となり、多くの人が詰めかけた。ただし落選した画家たちの「審査員ではない多くの人に見てもらって認めてもらいたい」という思いとは裏腹に、観客は彼らの作品を指差し、笑い転げて帰っていった。そのこともあり落選者のサロンは2回で取り止めみなった。
 負け組だった印象派の画家たちは落選者のサロンの再開を嘆願する。かれらは既存のアカデミーや権威を壊そうとか、新しい流れを作ろうとかは考えていなかった。ただひたすら「自分の作品を発表できる機会がほしい」と願い、請願書に署名をしたのである。
 彼らはサロンに入選したかった。入選して自分の絵を認めてもらいたい。そのため落ちても落ちても毎年サロンに応募したのである、彼らは落選者のサロンの再開を嘆願したが、当局は再開を許さなかった。さすがに業を煮やした負け組たちは、自分たちの展覧会を企画する。これが「印象派展」である。

 第一回印象派展は1874年の4月15日から1ヶ月間開催された。実に落選者のサロンから10年が経過していた。1ヶ月の入場者数はサロンが40万人、一方、印象派展は3500人ほどであった。ちなみに日展の入場者数は20万人弱である。
 印象派展はその後8回開催され、ゴーギャンやゴッホ、スーラ、ルドンなどが参加している。結局、印象派展は10年ほどで幕を閉じるが、芸術後進国であったフランスの絵画を牽引する礎を築いた。

 それまでの絵画に比べて全体が明るく、色彩に富み、筆致も粗いものが多く、変化の質感を絵画で表現したことが大きな特徴である。写真の発明により写実よりも内面の表現を重視するようになり、それまでの膀胱袋入りの油絵具がチューブ式油絵具の登場によって屋外で描くようになったことも特徴的である。つまりは印象派の登場には歴史的必然性が重なっていたとみるべきである、

 

 印象派といわれる画家は


 エドゥアール・マネ
 ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
 カミーユ・ピサロ
 エドガー・ドガ
 アルフレッド・シスレー
 ポール・セザンヌ
 クロード・モネ
 ベルト・モリゾ
 ピエール=オーギュスト・ルノワール
 アルマン・ギヨマン
 メアリー・カサット
 ギュスターヴ・カイユボット