ピサネロ

 ピサネロ(1395年頃〜1455年頃)は15世紀に活動したイタリアの画家。国際ゴシック様式を代表する画家で、記念メダルの作成者としても知られている。

 ピサネロは大規模なフレスコ(壁面の漆喰が生乾きのうちに仕上げる壁画の技法)、優雅な肖像画、小型の板絵などさまざまな作品を手掛け、多くの優れたデッサンも残している。肖像入り記念メダルの作家でもある。

 ピサネロはヴェネツィアの総督、バチカンの教皇、各宮廷、ナポリ王などの仕事をしてゴンザーガ家やエステ家でも重用された。生前から同時代の詩人や人文主義者たちから称賛され、チマブーエ(ゴシック絵画の巨匠)や古代ギリシャの彫刻家になぞらえられていた。作品の多くは失われているが、素描と記念メダルはかなりの量が現存している。

 ピサネロの生涯は謎につつまれているが、ピサで生まれ、少年期をヴェローナ領内のサン・ヴィジリオ・スル・ラーゴで過ごした。ピサネロの初期はヴェローナの画家に師事したと思われる。1415年から5年間年、ヴェネツィアとローマで著名な画家ジェンティーレの助手として働き、細部表現に優れた洗練された画風を学んだ。さらに師の高級品や美麗な織物への関心も受け継いだ。

 現存する作品「鶉の聖母」(ヴェローナ、カステルヴェッキオ美術館蔵)にはラテン語で署名がなされている。パオロ・ウッチェロ(多くの馬が登場する「サン・ロマーノの戦い」の作者)とも知り合いで、ピサネロが馬の素描を好んだのは彼の影響とされている。

 ピサネロは代表作「受胎告知」(ヴェローナ、サン・フェルモ・マッジョーレ聖堂)を描いている。この作品は同聖堂にあるバルトロ(フィレンツェの彫刻家)の作になるニッコロ・ディ・ブレンゾーニのモニュメントの上方を荘厳するために描かれた。

 師ファブリアーノはローマで死去したが、未完成だったサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂のフレスコの仕事を1432年にかけて完成させた。これらのフレスコは17世紀に大聖堂を修復した際に失われたが、フレスコを写した淡い色のスケッチが残されている。

 画家として名を成したピサネロは、多くの宮廷に紹介されイタリアの各都市を旅した。フィレンツェにも滞在し、「シジスムント皇帝像」(ウィーン、美術史美術館蔵)、「男の肖像」(ジェノヴァ、パラッツォ・ロッソ蔵)の現存する重要な2つの肖像画を描いている。

 1433年から再びヴェローナに滞在し「聖ゲオルギウスと王女」(1436 - 1438年、ヴェローナ、サンタナスタジア聖堂ペッレグリーニ礼拝堂)を描いている。この作品は19世紀末に壁の雨漏りによって大幅に損傷を受けている。ピサネロはこの作品を構想するために多くの素描を残したが、それらの多くはルーヴル美術館に収蔵されている。この頃の作品である「聖エウスタキウスの幻視」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)はそ長らくデューラーの作とされてきた。この板絵は動物を真横向きあるいは固定したポーズで描いている。この小さな絵の主題である聖人の幻視は、「高貴な」動物たち(馬、狩猟犬、鹿、熊など)と、あらゆる生物の中でもっとも高貴な存在(狩猟する宮廷人)を描くための口実であったと思われる。

 彼の素描は15世紀に宝石のように高値で取り引きされた。同時代の他の画家と異なり、彼の素描は完成画のための習作ではなく、それ自体が芸術作品であった。彼は素描集をいくつも編集し、それらは優雅な衣装や自然主義的技法で描かれた動植物などを細部にわたり描写したものであった。

 1435年以降、ピサネロは肖像とメダル制作に関心をもつようになる。「エステ家の公女」はこの時期の作品である。王妃は多くの蝶とコロンバイン(キンポウゲ科の草)を背景に横顔を見せている。彼女の周囲にはばたく蝶は死の象徴と見なされている。

 1438年、東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世はフィレンツェ公会議に参加した。この機会に記念メダルを制作した。また皇帝と従者たちの肖像の素描(ルーヴル美術館蔵)をいくつか描いている。。

 ピサネロは記念メダル、美術メダルの創始者となり、メダル作家として知られている。ピサネロ以前にもメダルは通常の貨幣と同じように鋳造されていたが、ピサネロは浮き彫り像のようにメダルを鋳造した。彼はさらに自分の手掛けたメダルにOpus Pisani pictoris(画家ピサーノの作品)というサインを入れた。彼にとってはメダルの肖像と絵画の肖像は同価値だったのである。彼はまたメダルの裏面に寓意の画像を入れた。

 1438年、ミラノとヴェネツィアの間に戦役が発生し、ヴェネツィア政府はピサネロを反逆者と見なし、重罪を宣告しようとしたが友人のとりなしで事無きをえた。彼は1440年からミラノに滞在した後、1441年にフェラーラに戻り、そこで「レオネッロ・デステの肖像」(ベルガモ、アカデミア・カッラーラ蔵)を制作した。「聖母子と聖アントニウスと聖ゲオルギウス」もこの時期の作である。マントヴァのパラッツォ・ドゥカーレにある「騎馬戦闘図」は1447年以後のものである。

 1448年12月以降の晩年をナポリで過ごし、その後の記録はとだえている。現存する作品は主にヴェローナとマントヴァにある。ロンドンのナショナル・ギャラリーには2点の作品(「聖エウスタキウスの幻視」「聖母子と聖アントニウスと聖ゲオルギウス」)がある。素描の多くはミラノのアンブロジアーナ図書館とパリのルーヴル美術館にある。

 ピサネロは同時代の画家たちに大きな影響を与えたが、自分自身の画派を形成しなかった。彼の才能は短期間に発揮されたが、古典的なルネサンス文化の勃興とともに死後急速に忘れられていった。国際ゴシック様式の最後の重要な画家と見なされ、ルネサンス絵画の最初のリーダーと見なされている。ピサネロの様式は時代を先取りするもので、描く風景は真に迫り、制作したメダルは時代を超えたものである。傑作の一つとされる「聖ゲオルギウスと王女」は古風な画風を示している。

聖ゲオルギウスと王女

 伝説上の戦士聖人ゲオルギウスは犠牲に供せられようとしている王の娘を救うため、城壁の外の海岸で竜との戦いに挑もうとしている。馬にまたがろうとする聖人の表情は緊張のせいか自信なげであるが、見守る王女の顔には聖人の勝利を確信したかのような毅然とした力が漲っている。そこには「逃げたら許さない」という威圧感がうかがえる。
「聖ゲオルギウスと竜」を描く場合、大抵は勇敢に竜と戦う聖ゲオルギウスの姿が描かれ、美しくか弱いお姫様がそばに立っているというのが普通である。聖ゲオルギウスの信仰によるカッパドキアの征服を示す主題において、お姫様はカッパドキアの擬人化された姿なのである。しかし定型からは離れた、本来勇壮な人物像であるはずの聖人の精神的な弱さ、人間らしさが生き生きと表現されているところに、ピサネッロ芸術の真の魅力がうかがえる。
 この作品は二つの場面から描かれている。画面右側の背後には、華麗で蜃気楼のような幻想性に満ちた都市が描かれている。そこは城壁の内部であり、都市は後期ゴシック建築の特徴を示し、巨大で豪華で装飾的な魅力にあふれている。国際ゴシック様式の最後を飾る宮廷芸術の典型と言われた、巨匠ピサネッロ(1395-1455年)の持ち味が生かされている。
 また、13世紀から14世紀のイタリアは、神聖ローマ帝国とローマの教皇庁という、世俗権力と宗教権力の利害関係の中で数多くの都市国家が散在していた時期でもあった。そのように揺れ動く後期ゴシックの空気を、ピサネッロは象徴的に示している。
 聖ゲオルギウスの馬の衣装のきらびやかさは、主人公の二人に劣らないほどの美しい。民俗学的な知識に裏打ちされた描写や、聖人の足元に描かれた犬たちの生き生きとした表現は、まさしく動物の描写に興味を抱き続けたピサネッロならではと言える。
 この写実的でありながら、画面全体に漂う幻想性もピサネッロの特徴である。ピサネッロの画面はいつもロマンティックでシニカルでもある。それは人間の心情にまで入り込む冷静な観察眼があったからである。聖ゲオルギウスの、聖人と言ってしまうには余りに人間的な緊張感は、500年の時を経た私たちにも感じ取ることができる。
 『聖ゲオルギウスと王女』は、15世紀初期における国際ゴシック様式最後の巨匠ピサネッロの、最も重要な大作である。勇ましい出陣というよりも、華麗で精巧で優美な伝説の物語絵巻といった趣がある。

聖エウスタキウスの幻視

 森の中で出会った奇跡、思わず右手をかざすエウスタキウスの素直な驚きの表現が、とても自然に見る側の心に流れ込んできます。
 トラヤヌス帝の軍隊の将校であったエウスタキウスは、ある日、森の中で狩りをしているときに、角の間に光り輝く磔刑像をつけた白い牡鹿に出会う。そのため、彼は妻とともに改宗したと言われているが、新たな信仰心の証しとして多くの艱難辛苦に耐えねばならないと告げる声も聞いたと言われている。
 エウスタキウスには苦しい日々が続く。まず家族とともに船でエジプトに向かう途中、金を持っていなかったために船賃の代わりとして船長に妻を奪われ、ナイル川を渡るときには二人の息子をライオンと狼にさらわれている。この後、家族は奇跡的に再会するが、迫害に遭い、全員が内側が空洞になっている真鍮の牡牛の中に押し込められ、生きながら焼かれて殉教した。
 そのようなエピソードを持った聖エウスタキウスが、磔刑像と出会う重要な場面をピサネッロはとても神秘的に、印象深く、美しく描いている。そこには聖人の苦難の生涯を予感させるものは微塵もなく、人と動物が同じ空間で静かに息づき、ひそやかな語らいが感じられる。国際ゴシック様式を代表するピサネッロらしく、息詰まるような奥行き感のない画面であるが、だからこそ生まれてくる独特の親密な安らぎは、見るものの心を情景の中に穏やかに溶かし込んでくれる。
 画面の中に折り重なるように描かれた暗い森や岩山のあちらこちらに、動物や鳥たちがまるでビロードにはめ込まれた宝石のように配置されている。そこには、ピサネッロの好みがうかがえます。彼は当時、卓越した素描家で、15世紀イタリアのどの画家よりも多くの素描スケッチを残している。彼の手で描き出された狩猟動物や鳥たち、また当時流行していた衣装などの素描には、細部にいたるまでの鋭く機敏なピサネッロの眼の動きを感じることができる。彼の愛した動物たちは、緻密な描写と画家の手の温もりの中で、確かな生命を与えられている。
 国際ゴシック様式を独創的に駆使したピサネッロは、装飾的図式を飽くまでも守りながら、不思議なほどに透明な、想像力に満ちた生命の世界を描き出した稀有な画家だった。

エステ家の公女

1437年 テンペラ 板 43×30㎝ 

パリ、ルーヴル美術館

 1435年頃、ピサネロは肖像とメダル制作に関心をもつようになるが、「エステ家の公女」はこの時期の作品である。王妃は多くの蝶とコロンバイン(キンポウゲ科の草)を背景に横顔を見せている。モデルの若さを象徴する花や蝶は精妙な装飾で描かれ、この上ない優美さを醸し出している。彼女の周囲にはばたく蝶は死の象徴と見なされている。