アンブロージオ

アンブロージオ・ロレンツェッティ(1319-48年)

 13世紀から14世紀のイタリアは、多くの都市国家が散在していた。その中で北イタリアとローマを結ぶ要所に位置していた都市シエナは、隣町フィレンツェとつねに利害を争う関係にあった。シエナはフィレンツェと政治的にも、商業的にもライバルの関係にあり、市民たちは美術作品を通して、自らの信仰心、連帯感を確認する必要があった。このように当時のイタリアでは個々の都市が独立した一つの国家の役割を果たしていたので、美術も都市ごとにそれぞれの特徴を備えていた。自分の都市を守る意識は、今では考えられないほどに強かった。

シエナ(イタリア)、 パラッツォ・プッブリコ 

 この壁画はシエナの市庁舎の「平和の間」に描かれている。「平和の間」はシエナの行政や司法にたずさわる9人の評議員の椅子が置かれた部屋であるが、部屋そのものは意外と狭い。ここに描かれた壁画「善政の寓意」「都市と田園における善政の結果」は都市防衛のための市民の意識の結束をうたっている。寓意に満ちた作品群ではあるが、絵巻物のようにつつましい。しかし発想の豊かさと完成度の高さは、いまでもイタリア美術の最高傑作とされている。

 「善政の寓意」は、正しい市政に必要とされる9つの美徳の擬人像が、中央に座する白い上衣の老人を囲んでいる。この老人は「善なる都市国家」の寓意像で、老人の足元にはシエナの起源に関する2つの伝説を表わす双子と雌の狼、老人の頭上には「信仰」「慈愛」「希望」の三人の天使が舞っている。老人の向かって左から盾を持ちヴェールを被った「賢明」、笏と盾を持つ「剛毅」、白い服でくつろいだ姿の「平和」。向かって右には貨幣に満ちた盆と王冠を持つ「寛大」、砂時計を持つ「節制」、膝に斬り落とされた男の首を載せて剣を持つ「正義」の、それぞれ擬人像が座している。

 画面の左側を見ると、天秤を持つ「正義」がちょっと離れて座している。左の皿の天使が男の首をはね、もう一人に冠を与え、右の皿の天使が2人の男に正義の執行に必要な指揮棒と槍、金庫を与えている様子まで見ることができる。その頭上には知恵の書を持つ「知恵」、その下には鉋を持つ「共和」の寓意像が描かれ、「共和」の右からはシエナの24人の評議員が列をなして進んでいる。右端には罪人を捕らえた兵士や騎士の一群が描かれ、画面の下にはアンブロージオの署名も見ることができる。

 この作品は、アンブロージオの名を不朽のものにした傑作であり、みごとな寓意画である。同時に当時のシエナの都市と田園の風景を生き生きと見せてくれる貴重な壁画でもあり、イタリア絵画における最初の広大な風景表現でもある。作品中に見られる寓意像、殊に平和の寓意像などから、アンブロージオが古典彫刻にも造詣が深かったことが感じられる。

 政治的理想をイメージで示しながら、アンブロージオは人々の生活をつぶさに見つめていました。鋭い画家の眼で観察しながら、市民を描く彼の目は本当に温かいものだったことがわかる。人々はふくよかで、幸せそうに生き生きとして、今もこの画面の中で都市国家シエナを愛し生活を続けている。

 聖母マリアと大天使ガブリエルの存在感を際立たせるために、アンブロージオは彼の持ち味である写実的な細部描写を控え、遠近法を用た床に情熱を注いだように思われる。そのことによって存在感あふれるマリアと大天使ガブリエルが美しく象徴的に描き出されている。

 アンブロージオ25歳の時の作品であるが、老成ぶりには圧倒される。アンブロージオはこの4年後、兄のピエトロとともにペストに冒され29歳の若さで亡くなっている。

  アンブロージオの特徴は遠近法に対する深い理解だった。そのため構図や図像はきわめて独創的で、14世紀シエナの代表的画家としての揺るぎない位置を保っている。しかし彼の魅力はそのすぐれた技巧だけにとどまらず、現実のものをお伽噺に変えてしまうような、神聖で難解な主題に具体的で明快な人物の姿を与えることで、とても楽しく、晴れ晴れとした雰囲気に変化させてしまう才能を持っていた。アンブロージオの鋭敏な感受性が、この時代としてはあまりに洗練され、並外れた才能を実感せずにはいられない。

 受胎告知にはさまざまな表象があるが、ここには大天使とともに小さな鳩が登場している。鳩は11世紀以降、この主題に頻繁に顔を出すようになった。最初のころにくらべると小さく描かれているが、鳩は小さくて象徴的な役目を果たしているのである。

  大天使は神の言葉の伝達者、鳩は神秘の受胎の運搬者で、それは、「ヤコブ原福音書」の天使が「あなたは彼の言葉によって身ごもる」と告げたことからも明らかである。この作品でも、大天使の口から出た言葉がラテン語の金の荘厳文字で示されている。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。マリアは答えます。「お言葉どおり、この身になりますように」。

 注目したいのが、マリアがひざに置いている赤い革表紙の中型の旧約聖書である。マリアが神の母としてふさわしい知的な女性として描かれている。彼女と棕櫚の葉を携えた大天使の間は接近し、ある意味、親密でさえあります。二人の間を隔てるものは何もない。天使とマリアが同等の立場で描かれて、聖なる世界を平板な表現ではなく、現実の人間世界に生きるドラマとして描こうとしたルネサンスの息吹を感じさせる受胎告知となっている。 

 赤ちゃんが最初に覚えるのはお母さんの顔だとされている。おとなしく抱かれていた赤ちゃんが急に小さな頭を反らせて、お母さんの顔をじっと見上げることがある。そのような時斜め上から見守る愛に満ちた母親の眼差しに安らかな感覚をおぼえるものなのであろう。長い人生のなかでも母と子が間近で視線を合わせる時間は本当に短い間である。しかしその瞬間に感じたしっかりした腕や豊かな胸への信頼感は、子のなかに一生残るものなのだろう。
 繊細で優美な聖母子像は祭壇画の硬さがなく、見つめ合う姿という新しいスタイルで描き出されている。また聖母の円光、上部のアーチ型装飾に描かれた花模様、そして聖母の被り物に描かれた植物柄、アンブロージオの特徴でもある温かい色彩の裏地も美しい。
 14世紀シエナ派の代表的な画家アンブロージオ・ロレンツェッティは、ピエトロとの兄弟画家です。シエナを中心にフィレンツェでも活躍したこともあって、シエナ的要素とフィレンツェ的要素を結びつけた画家である。兄のピエトロに比べアンブロージオの作品はやや荘重さに欠けるかも知れない。しかしより親しみやすく、絵肌の持つ感触は、より甘やかで優しく、特にその色彩の美しさにはアンブロージオの優れた感覚を見ることができる。
 ロレンツェッティ兄弟は互いに独立して仕事をしていたが、遠近法に対する深い理解、自然主義的な描写という点では似通っていて、様式という点でも次第に近づいている。彼らの遠近法はフィレンツェ画派における遠近法の発達を100年も先取りした、とまで言われ、その構図や図像の独創性は後のロレンツェッティ兄弟の評価を決定づけている。兄弟は、1348年に、そろってペストで死去した。
n決して強い主張を持った作品ではありませんが、この85×57㎝の板絵に描かれた聖母の目にあふれる愛しさが、赤ちゃんの無垢な目から流れ込んで、赤ちゃん自身も愛と信頼に満ちた存在となっていくのがわかる。