メソポタミア

 現在のイラク共和国を流れるティグリス川とユーフラテス川の領域を指すメソポタミアは人類最古の文明が栄えた地である。すでに紀元前6000年前頃からこの地に農耕社会が誕生し、農村集落ができ富の蓄積が可能になり強大な国家を作り上げた。小麦の栽培と家畜の飼育が行われ彩文土器がつくられた。

  司祭、監視、商人といった社会階層が生み出され、法律も生み出された。人類最古の法律ハムラビ法典の石碑が残されている。この石碑に見られる浮き彫りはメ ソポタミアの高度の発展を見せ、神々や王族の肖像などの作品は、他の時代のものと比べても見劣りしない。さらに動物の頭や角を極度に強調したデザインがこ の地方の装飾の特徴となっている。

ハンムラビ法典の上部浮き彫り

シュメール人医師の経験処方集、BC2200頃

シュメール人医師の経験処方集、BC2200頃のもの

イシュタル門のライオン

(イスタンブール考古学博物館)

 右はハンムラビ法典の上部浮き彫りで右の太陽神から王が法典を授かる場面である。

 前1800年、都市国家を統一した古バビロニア王国のハンムラビ王は25歳で即位、宗教や内政を整備、自ら築いた王国の安泰のため、王は裁判や行政制度、契約や相続などに関する規定を「ハンムラビ法典碑」の283カ条に及ぶ法典にまとめた。同害復讐に関わる条文でも特に有名な「目には目を、歯には歯を」は196条である。しかし198条には「もし目を損なったならば、銀約500gを払わなければならない」とされ、常に「目には目を」という罰が与えられたというわけではない。
 この「目には目を」の条文は現代ではしばしば「やられたらやり返せ」との意味に解釈されるが、本当はそんな意味ではなく、「仕返しは同程度まで」という、倍返しなどの過剰な報復や、復讐の連鎖を防ぐためのものであり、それも常に適用されるというわけではなく金銭による解決等も可能だった。

シュメール美術
 メソポタミアの集落は次第に規模を拡大し、やがて都市が形成され、商業が活発となり、のちに楔形文字として発達する絵文字も出現する。この時代の彫刻を代表する作品が、女性頭部像である。
 都市には、しだいに宮殿も出現し、礼拝者像も出現し始める。礼拝者像は彫刻による表現領域が拡大したことを物語っている。その代表作には聖樹と牡山羊(おやぎ)がある
 古代文明においても、神や悪魔、恨みが多くの病を引き起こすと考えられ神事と呪術で治療することが重要だった。治療も含めた問題解決に、手に負えないものほど人々は神の力に頼った。古代文明の王達も神に頼った。
都市化が進むほど伝染病は猛威を振るうことになった。しかし文字使用が進むと医術も進歩し、病への理解も進んだ。これはより深い理解と満足を人々にもたらした。進んだ医術を持つ文化圏で誕生した宗教は崇敬され広まった。一方、医術と宗教の関わりは、その国家の成り立ちによって地域差が生じた。すべては紀元前の地球全域で始めて起きた大きな精神変化でした。


アッシリア美術
 メソポタミア北部のティグリス川流域を中心とするアッシリアは、
軍事力を背景にバビロニアを占領支配する。これは、宗教・言語の分野でアッシリアのバビロニア化を進めることとなった。しかし、美術に関しては、アッシリア固有の美術を展開したのである。


メソポタミア文明詳細

 メソポタミアはティグリス川とユーフラテス川流域に生まれた世界最古の文明が栄えた地で、大河を利用した灌漑農業を行っていた。BC3500年頃から人口が増え、楔形文字が使われ青銅器が普及した。BC3000年頃からシュメール人の都市国家が形成された。メソポタミアでは大洪水が何度も起き、都市の中心には人口の丘が造られた。洪水の話はノアの箱舟の物語に、ジッグラトはバベルの塔の伝説になった。
 都市国家では、王を中心とした神権政治が行われ、人民や奴隷を支配していた。王のもとには莫大な富が集まり、大規模な治水や灌漑、壮大な神殿や宮殿が作られた。シュメール人の都市国家は絶え間ない戦争のため衰え、BC2350年、アッカド人のサルゴン1世が都市国家を征服し、シリアからイラン南西部に至るアッカド帝国を建国した。BC2230年頃、シュメール人が勢力を回復してアッカド帝国を滅ぼすが、BC1900年頃、アムル人がバビロンに古バビロニア王国を建国し、第6代のハンムラビの時に最盛期を迎える。ハムラビ王は「目には目を、歯には歯を」で有名なハムラビ法典を発布する。
【オリエント】 オリエントとは「太陽の昇るところ」を意味し、ヨーロッパから見た東方、現在の中東をさす。エジプトの太陽暦、バビロニアの60進法(現在も時計に使われている)、フェニキアの表音文字(アルファベット)がヨーロッパに伝わった。キリスト教もオリエントでうまれた。
 BC17世紀半ば頃、鉄製の武器を使ったヒッタイトが、古バビロニア王国を滅ぼし、ヒッタイト王ムワタリは、シリアに進出してきたエジプト軍と戦った(カデシュの戦い)。ヒッタイト軍はエジプト軍を壊滅させたが、その後エジプト軍が巻き返しこう着状態となり停戦となった。平和条約は成文化されて粘土板に刻まれ、この粘土板は1905年にトルコのボアズカレで発見され、またエジプトにも同じ内容がカルナック神殿の壁に刻まれている。メソポタミアを支配してきたエジプトやヒッタイトが衰退すると、アラム人、フェニキア人、ヘブライ人が活躍した。
 アッシリアはBC2000年頃イラク北部にできた国家で、鉄製の武器と戦車や騎兵によって勢力をのばし、サルゴン2世の頃、オリエントの大半を統一し(最初の世界帝国)、最盛期はエジプトを征服する。首都をニネヴェに移し図書館を建設し、この遺跡からギルガメッシュ叙事詩が発見された。
 しかし過酷な専制支配をしいたため、BC612年にカルデア・メディア連合軍に滅ばされた。オリエントはエジプト、リディア、新バビロニア(カルデア)、メディアの4王国に分立し、この中で新バビロニアが優勢となり、リディアは世界で初めて鋳造した貨幣を造り、物流に大きな変化をもたらし貨幣はギリシャに広まっていった。
 新バビロニアはネブカドネザル2世(BC604~562年)の頃が最盛期で、メソポタミア、シリア、パレスティナを支配し、バベルの塔やイシュタル門などを建築した。また、またユダ王国を滅ぼしユダヤ人の大量移送、バビロン捕囚を行った。新バビロニアはBC539年にアケメネス朝ペルシアに滅ぼされ、バビロン捕囚で連行されたユダヤ人は解放された。