古代ギリシャ

 ギリシャ彫刻といえば、美しい肉体の代名詞である。古代ギリシャ人は、人間と神々は同じ心と肉体をもつと考え、人間美の理想は神の姿を意味していた。古代ギリシアの絶対的美は「見るものをどれほど感動させるか」で、その結果、ギリシアの芸術作品は、完璧な美を備えている神々の姿に近づこうとした。

古代ギリシャの歴史 

 その国の芸術を知るには、その国の文化、歴史を知らなければならない。まず西洋文明の発祥のギリシアの歴史から述べる。
 紀元前2600年ころトロイア周辺に青銅器文明を持つトロイア文明が栄え、紀元前2000年ころにはミノア文明がクレタ島を中心に興る。さらに紀元前1500年ころにミケーネ文明が起きる。その後ギリシア人が北方から南下してミノア文明やミケーネ文明を滅ぼし、紀元前1000年頃に今のトルコあたりの沿岸部で初期のギリシア都市が成立した。

 当時は、ギリシアより東のオリエントやエジプトが文化的に進んでおり、ギリシアは辺境の地であった。その中で、ギリシアは徐々に文化の花を開いていく。

 古代ギリシアの美術は、文明とは別に3つの時代に区切られる。紀元前700年から同480年までがアルカイック期、紀元前480年から紀元前323年までがクラシック期、それ以降ローマ時代までがヘレニズム期である。


 古代ギリシアには、ギリシアという国はなく、ポリスという都市国家の集まりであった。そしてギリシア人によって運営される各ポリスの総体が古代ギリシアである。
 ギリシアは山や川に囲まれ、エーゲ海の島々も海によって分断されている。つまりポリスという都市国家がギリシアの基本単位になるが、人口が増加すると、貧しいギリシアはその人口を支えきれず、南イタリア、黒海沿岸へと移住が進められ、移民地は食料だけでなく、鉄や銀などの資源をギリシアにもたらし、やがてその活動は商業へと変わってゆく。紀元前500年までには、ギリシアは地中海、黒海まで移住(植民)を進めていた。

都市国家ポリス 

 代表的なポリスがアテネとスパルタである。ポリスの真ん中は小高い丘があり、丘の上には城塞があって戦争の時にこれが最後の守りになる。この城塞は、神殿と一緒になっていることが多い。

 ポリスにはポリスの数だけの政治形態があり、その中で最も有名なものがアテネの民主制である。ただし当時の民主制と現在の民主主義は全く違っている。

 人口の半数が市民で、その他は奴隷と出稼ぎ外国人であった。当時は奴隷は当たり前で、ギリシアが文化的に高みを示したのは、奴隷制があったからである。奴隷は言葉を喋る道具であり、牛馬と同様に市民に貢献する」人間の形をした動物であった。

 古代ギリシア人は、家事や作業は女性や奴隷にまかせ、市民どうしの談義で日々を過ごしていた。その談義からギリシア哲学や科学が生まれ、キリスト教以前のギリシアはキリスト教が禁じる同性愛も普通のことであった。

 古代ギリシア人はポリス単位であったが、ギリシア人は共通の祖先を持ち、ギリシア神話を信じ、共通の言葉を話していた。このギリシアは、東の大国ペルシアから常に圧迫を受けていたため、アテネなどの各ポリスはペルシアに対抗するため軍事同盟をむすんでいた(デロス同盟)。こうした中で起きたペルシャ戦争で、アテネとスパルタを中心とするギリシア連合軍は、20万人とも50万人とも言われるペルシャ軍を撃退した。このペルシャ戦争でアテネの発言権が強くなり、各ポリスはしだいにアテネの属国となっていく。

 有名なアテネのパルテノン神殿は、アテネが属国から絞り上げた冨によって作られた。反抗するポリスは容赦なく叩きのめされ、敵はペルシアだけでなく、ギリシアの各ポリスも敵対して争っていた。

 しかし紀元前338年、北方のマケドニア王国がカイロネイアの戦いでアテネ連合軍を破ると、ポリスの独自性はなくなってゆく。マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)はペルシア帝国を征服し、ヨーロッパ、北アフリカ、西アジアに至る大帝国をうち立てるが、大王の死後、各地に拡散していた古代ギリシア文明と古代オリエント文明を融合したヘレニズム期を迎える。7世紀以降、東ローマ帝国は、その領土の大半をギリシア人が占めていたので公用語もギリシア語になり、中世末期までヘレニズム期を受け継ぐことになる。

アルカイック期

 当時の彫刻の特徴は「丸彫り彫刻」といい、それ以前の彫刻はすべてに支柱があって、彫刻は支柱に支えられていた。しかし「丸彫り彫刻」は神によって立たされているのではなく、人間の意思、自分の意思で立っていることを示している。ここに人間中心の文明が始まったことがわかる。

 

 ギリシア人は変わりゆくものの中で、変わらないものに真理を見ようとした。それが哲学の始まりである。最初に哲学が生まれたのはアナトリアの港町ミレトスである。哲学者タレスは世界の始まりを水とし、季節は移ろいやすく動植物は生まれそして死ぬ。その中で水は変わらずに循環を続け、動植物は水なしでは生きることはできない。

  当時のギリシアの美術も、変わりゆくものの中に変わらないものの姿をとらえようとした。ギリシアの古代人物像は無表情であるが、この無表情こそが人間の根 源ととらえていた。感情という不安定な表情や仕草は極力排除され無表情が特徴である。

 

クレオビスとビトン

 このクレオビスとビトンには次の逸話がある。母親が神殿に向かうが牛車の牛を手配できなかった。そこで二人が牛車を引いて母親を神殿まで連れて行 く。その二人の屈強さに感激した母親が神殿の女神ヘラに、二人にあらん限りの恩恵を願う。女神ヘラは母の願いを聞き入れ、神殿で横になって休んでいる二人を天に召し上げた。

 つまり、老いて衰えることは不安で恐ろしいことで、その反対に肉体に絶頂期があり、名誉をつかんだ瞬間に死ぬことが幸運とする考えが根底にある。
 このアルカイック期からクラシック期に移り変わるのは紀元前480年の第二次ペルシア戦争の勝利からである。

  それに先立つ第一次ペルシア戦争では、ギリシアはペルシアに負け組み入れられた。紀元前499年にギリシアは反乱を起こすが、前494年に鎮圧され、ミレトスの成人男子は全員処刑されている。この第一次ペルシア戦争によってギリシア人の不安と恐怖はピークに達し、第二次ペルシア戦争でアテナイは陥落するが、ペルシア軍を撃 退した。ギリシア人は自信を取り戻したが、不安が失われたわけではない。巨大な東方の大国から圧迫され続けたギリシア人が持っている民族としての運命的不安である。

 クラシック前期の芸術では、人間の根源的な部分よりも、人間個人の精神、感情に多くの関心が向けられていく。 

 アルカイック・スマイル

 無表情にも拘らず口元に笑みをたたえた表情のこと。彫刻はエジプトの影響を受けた静止像であるが、彫像に人の感情を与えようとして、表現力が稚拙だったため頬笑みの表情しか表現できなかったとされているが、ギリシャ人がこの微笑みを健康と幸福の象徴としていたとの説もあり本当の由来は謎である。いづれにしても、アルカイック時代はいかに静止像に動きを与えるかが課題であった。そのための生命感の表現とされている。

 アルカイック・スマイルは古代日本の飛鳥時代の仏像にも見られ、例えば弥勒菩薩半跏思惟像の表情がアルカイク・スマイルとされている。

瀕死の兵士(ミュンヘン古代美術館)

 左の二つの像は、いずれも同じアファイア神殿の像でトロイア戦争のシーンを表している。制作年に10年の違いがあるが、上が紀元前490年頃のアルカイック期で、下が紀元前480年頃のクラシック期に作られた。

 同じ死にゆく戦士の像にも関わらず、上のアルカイック期の戦士の顔はスマイルで、これは死ぬのが嬉しいのでも悟りを開いたわけでもない。瀕死の状態をスマイルで悠然と表現しているのである。下のクラシック期の兵士は今にも崩れ落ちそうな様子を描いてい る。


クラシック期

プラクシテレス作「幼児ディオニソスを抱くヘルメス」

 ディオニソスはギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神である。
全能の神ゼウスはテーバイの王女セメレと不倫をした。ゼウスの妻ヘーラーは激怒しセメレー大変に憎んだ。そこでヘーラーは乳母に姿を変え、セメレに「あなたの相手は、本当にゼウスの人かしら?」という疑惑を吹き込んだ。不安になったセメレは疑惑に耐えきれず、ゼウスに必ず願いを叶えさせると誓わせた上で、「あなたが本当にゼウス様なら、ヘーラー様に会う時と同じ神様のお姿でいらしてください」と願った。
 ゼウスはしぶしぶ炎に包まれた神様の姿で現れると、人間であるセメレはその炎で焼かれてでしまう。ゼウスはセメレの焼死体からディオニソスを取り上げ、自分の腿の中に埋め込み臨月を待った。
 ゼウスは生まれたディオニソスを息子のヘルメスに命じ、ニンフ(妖精)にそだてさせた。「幼児ディオニソスを抱くヘルメス」はその時のワンシーンである。なおディオニソスはローマでは「バッカスの神」、ワイン、お酒の神様になっている。


エトスとパトス

 個人の感情について、ギリシア人はエトスとパトスという2つの概念を持っている。エトスとは人間本来の持つ性質であり、習慣や自己鍛錬によって身につけたものである。対するパトスとは、運命や災害など何ものかによって引き起こされる感情である。

 エトスとパトスの表現は、美術に限らず劇にも見ることができる。例えば、有名なオイディプス王。平常時、彼は有能な王で、それが彼の持つエトスである。ところが、その悲劇の運命によって自分の目がえぐってしまう。この悲劇という運命によって引き起こされたのがパトスである。

デルフォイの御者像

リアチェの戦士像

ミュロン作 円盤投げ

 デルフォイの御者像は、紀元前474年か478年に戦車競争で優勝した記念の像である。勝者としての興奮を胸にしまうような高貴なるエトスが前面に出ている。後のヘレニズム期にいたるとパトスの表現が重視されるが、この頃はまだ高貴なるエトスを表現した像が多い。


 クラシック期になると、ギリシア人はブロンズ像を数多く作り始める。大理石と違って細かく繊細な表現が可能なブロンズをギリシア人は好み、大理石像よりもブロンズ像の方が一般的になっていく。ギリシア時代のブロンズ像の製作技術は、現代では不可能とさえいわれている。

 しかるにブロンズは簡単に鋳造し直すことができるので、その多くが失われている。

 

 

  リアチェ沖で発見された戦士のブロンズ像である。紀元前460~430年に製作された像とされているが、作成した彫刻家は不明である。ギリシア史上最高の彫刻家であるフェイディアスの作品とも言われているが、名もなき彫刻家の一作品の可能性もある。






 さらにクラシック前期において変化したのがリズムと均斉の表現である。個人の感情の表現を進めるに従い、だんだん人間の動きにも注意が払われるようになる。静止状態を表現する彫像や絵画において、いかに動きを表現するのか。その問題を解決しようとしたのがリズムと均斉の工夫である。

 これは有名なミュロンの円盤投げの像である。元々はブロンズ像で、写真はローマ時代のコピーである。

 円盤投げで、このような姿勢で静止することはありえない。彼は腕を振り上げた次の瞬間、勢いよく腕を振り出すに違いない。これが円盤を持って立っているだけの像であったならば、円盤を投げようとしているのか、持っているだけなのか区別はつかない。動きは次の動きへのリズムが必要であ、リズムの表現に重要なのが均斉である。ポリュクレイトスはこの均斉について、彫刻に数学を適用して人体造形に理想的な方程式を見つけようとした。

 「万物は数である」と説いたのは、紀元前6世紀ごろのピタゴラスで、彼は数はいっさいの存在者の原理であると考え、音階の和音に数学の比が存在することを発見した。そしてこの音階の世界は、調和(ハルモニア)と秩序(コスモス)で成り立つとした。

 変わらないものに宇宙の真理を求めようとしたギリシア人たちは、おそらく美術全般についても同様の考えだったのだろう。


 ギリシア美術の集大成と言えるのが、紀元前447年から前432年にかけて建設されたアテナイのパルテノン神殿である。パルテノン神殿建設の主役は政治家ペリクレスである。ペリクレスはギリシアに偉大な文化と精神を植えつけようとし、その実現のために哲学と芸術の庇護者になろうとした。そのためペリクレスはデロス同盟の軍資金をパルテノン神殿建設に流用している。ギリシアでは人間中心主義、啓蒙思想が渦巻いていた。その影響はパルテノン神殿にも及んでいて、パルテノン神殿は単純な垂直線ではなく曲線や凸型の湾曲が神殿全体の均衡をとっている。これは人間の目の錯覚を補正するためで、神殿には神々や英雄の彫刻を置くという常識を覆して当時の人々の様子がフリーズに刻まれている。
 ペリクレスによって構想されたパルテノン神殿建設の総指揮をとっていたのがフェイディアスとされているが、本当のところはよくわからない。いずれにせよパルテノン神殿はギリシアの優れた彫刻家を集めて膨大な数の彫刻を作成し、アテナイの理想にを模索しながら築かれていった。
 アテナイの理想が生み出したクラシック盛期の美術様式は、やがてギリシア中に広まっていった。当時の歴史家トゥキュディデスは、もしスパルタが廃墟になったら何も残らないが、アテナイが同様の運命になっても、実際の栄光のふたまわりも大きな印象を残すだろうと書いている。

 アテナイが人間中心の啓蒙主義の最中にいるときに、ギリシアのもう一方の雄、スパルタは蒙昧主義ともいえる態度をとっていた。アテナイの帝国主義と保守的で自主独立を志向するスパルタが争うのは、ギリシアの歴史の中で必然だった。30年近く続くことになるペロポネソス戦争に代表されるように、以後、ギリシア中で戦争が繰り広げられることになる。この時代、ギリシア人の傭兵が地中海中に溢れていた。ギリシアのポリスは戦争に疲弊しつつも、なお人口の過剰を持て余していた。

 紀元前5世紀後半はギリシアが疫病によって陰惨を極めた。トゥキュディデスの残した疫病に関する記述は陰惨と呼ぶのにふさわしい。街路に溢れる屍、火葬用の薪さえ奪い合いが起きる。明日の運命すら分からない人々は、宗教的な感情も、社会的な道徳も投げ捨て享楽にふける。
 「次々と息絶えていくものたちの体は容赦なく屍体の上に積み重ねられ、街路にも累々 ところがり、ありとあらゆる泉水のまわりにも水を求める瀕死者の体が蟻集していた。神殿諸社は息を引き とる者たちの屍で、みるみる満たされていった。災害の暴威が過度につのると、人間はおのれがどうなるかを推し測ることができなくなって、神聖とか清浄などの宗教感情をかえりみなくなる。」
 このような状況下でペリクレスの理想とする人間中心主義は一挙に存在意義を失う。再びオイディプ ス王に登場願おう。テーバイの王、オイディプスは人民の信頼を集める有能な王であった。ところが、領土に発生した謎の疫病をきっかけに彼の有能さは徹底的 に粉砕される。どんなに誇り高く理性的な王であっても、神の前ではひたすら無力なのだ。オイディプス王は、人間の運命の儚さを謳った物語ではない。それは まさに、「人間は万物の尺度である」とした人間中心主義という理想に込められた人間の驕慢を弾劾する物語なのだ。ギリシア世界において、この価値観の転換 は美術にも大きな影響を与えている。

 豊麗様式の時代から相も変わらず、ギリシア人は戦い続け、戦乱と疫病、ありとあらゆる混沌へ沈み込む。そんな時代がクラシック後期と呼ばれる時代 だ。人々は人間中心主義という全体主義的な社会への理想を捨て、個人の理想、快適を求めるようになる。ついには、優れたものがより多く持つべき世界こそが 正義であると説く哲学者、政治家まで現れる。資本主義の世界で暮らす我々にとって聞きなれた議論ではあるけれど、全体主義、平等を旨としてきたギリシア世 界にとっては大きな転換である。そのような世界において、知者(ソフィスト)を名乗る者たちを次々と論破し、無知の知を説いてまわるソクラテスのような人 物は、前時代的なやっかいものでしかなくなる。やがて、ソクラテスは市民により裁判で死刑に処されることになる。自身は何も生まず、ただアテナイという社 会のために行動しようとする道楽者を養っていく余裕など、とうの昔に社会からなくなっていたのだろう。ソクラテスの弟子、プラトンはそれでも哲学者の統治 による理想国家を夢見る。そんなプラトンの理想がかなうことはなく、代わりに彼はアカデメイアという知の小国家、学園を設立する。全体主義という理想を捨 て、選ばれたものだけが世間から離れて知識を求める(フィロ・ソフィア)ことは、個人主義という社会の趨勢に一致していたのだろう。同様の施設が次々と建 てられた。知識を教え広めるソフィストの時代から、知識を求めるフィロソフィストの時代へと学問の世界も変貌を遂げていく。当然、美術にも社会から個人へ という時代の流れが反映されることになる。つまり、エトスよりもパトスを重視した作品が増えてくるのだ。

プラクシテレス作 クニドスのアフロディテ(ローマンコピー)

スコパス作 アレスの座像(ローマンコピー)

プラクシテレスは初めてオールヌードの女性像を作ったといわれている。つまり、このクニドスのアフロディテが、その最初の像である。豊麗様式時代に培われ た優美さが表現されていて、とても官能的だ。この個人的とも思われる感覚、官能性を持った像が神殿に飾られると、クニドスの一大観光名所となった。人々が美術に求めるものが確実に変化してきたのである。ちなみにこの時代の大理石像は着色されているのが普通で神殿彫刻なども彩色され ている。プラクシテレスの彫刻に色が着いていれば、どれだけエロティックなのか、ちょっと想像できない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




スコパスもプラクシテレスと同時代人。一緒に仕事もしていたらしい。アレスは本来、粗野で残忍な戦いの神。けれどもこの像からは、どこか優雅な物腰が感じられる。


ヘレニズム美術

古代ギリシア美術の最も洗練された時代。美術に人間的な感情が現れるようになった。最も知られた作品に「ミロのヴィーナス」がある。(紀元前320-30年ごろ)

 戦乱に打ち沈みつつも美術を発展させてきたギリシアの諸都市にも、ついに終わりがやってくる。アレクサンドロス大王の登場である。彼の野望はギリ シアをのみ込み、ついにはインドにまで達する。植民活動を通じて地中海世界とつながっていたギリシア諸都市は、既にコスモポリタン(世界市民)という発想 を持っていたが、より幅広くギリシア文化を世界に伝える力が必要となった。それはギリシアの社会で培われ、ギリシアという社会、文化を背景に育まれてきた エトスという概念よりも、パトスという誰もが直感的に理解できる個人の感情、ギリシアを知っている者も知らぬ者も理解できる表現へという流れに繋がってい く。つまり、クラシック後期に現れたエトスからパトスへという潮流は、そのままヘレニズムへと受け継がれていくのである。

 ヘレニズムに入り、パトスの表現が人々に要請されるようになってきたが、必要としたのは人々というような社会の動きに限らない。東方に広がる大帝 国を築き上げたアレクサンドロス大王やその帝国を受け継ぐ、国王達、そういった個人においても自分の姿を彫像として残し、広めることで偉大さをアピールす るために、大いに美術を必要としたのである。独裁を嫌うアテナイの人々が神殿という社会性の高い公共物を中心に美術を発展させてきたのとは異なる動きだ。


 リュシッポスはアレクサンドロス大王お抱えの芸術家としても活躍した人。ポリュクレイトスが実際の人間の体に対して忠実な均斉の概念を完成させたのと同じように、リュシッポスは見た目を中心に据えた新しい均斉の概念を完成させた。リュシッポスは見た目を重視し、よりリアルな見た目を再現するためには、現実の人体造形から逸脱 することも辞さない。ポリュクレイトスの槍を持つ人と比べると、頭が小さく腰のひねりもどことなく優雅である。ポリュクレイトスは人体の構成比に忠実に7頭身の像を、ポリュクレイトスは理想化して8頭身の像を作っている。さらにポリュクレイト スは、彫像の立体感にこだわった。右手をさりげなく前へ突き出しただけに見えるポーズも、像の正面からだけでなく左右様々な方向から見たくなるよう な空間を持っている。

 ヘレニズムの時代には、ダイナミックで個人の感覚に訴えるような像が多くつくられた。巨大な像、とりわけ有名なのは世界七不思議に挙げられる高さ 50mにもなるロードス島の巨像。全身で苦悩を表現するラオコーン像。そして有名なミロのヴィーナスもこの時代につくられた像だ。アレクサンドロス大王の 死(紀元前323年)を境に、ギリシア美術はクラシック期からヘレニスティック期へと変わり、ローマへと受け継がれていく。ローマの属州となってからも、 ギリシアは文化、芸術の中心地であり続け、ローマ中へギリシアの美術品が供給され続けた。

クニドスのアプロディーテー

 クニドスのアプロディーテー(左)は、古代ギリシアの彫刻家プラクシテレスの代表作である。この恥じらいのヴィー ナスは、右手で陰部を隠しているのが特徴である。ここから派生した型(胸を手で隠すなどのポーズをしているもの)として、メディチ家のヴィー ナス やカピトリーノのヴィーナスがある。

 この像はどの方向から見ても美しく、初の等身大の女性裸像で有名である。 女神アプロディーテーが純粋さ(処女性ではない)を回復させる儀式の風呂に入るところを描いたもので、脱いだ服を左手で置こうとし、右手で陰部を隠しその右手は奥ゆかしさを表しているが、実際には裸であることを強調しているに過ぎない。
 ラクシテレスはコス島の市民から女神アプロディーテーの像の制作料を受け取り、着衣像と裸像の2つを制作した。しかし裸像を見て驚いた市民は裸像の受け取りを拒否し、着衣像だけを購入した。受け取りを拒否された裸像を市民が購入して、あらゆる方向から見られるように屋外の神殿に設置した。その堂々とした裸の大胆さから、プラクシテレスの最も有名な作品となった。
 この像は非常に有名になり、ある時、女神アプロディーテーがクニドスに現れ、この像を見ると「ああ、プラクシテレスはどこで私の裸を見たの?」と言ったとされている。
 この像はクニドス人の信仰対象となったが、同時に観光名所にもなった。この像があまりにも生き生きとしているため、ある若者が夜中に像と交 わろうとして射精したという逸話がある。これは、この像の一方の腿の後ろに汚れのようなものが見えることを説明する伝承である。


ギリシャ文明詳細

 地中海域で最初に開花したクレタ美術は紀元前1700年頃に発生した大地震により壊滅の危機に陥るが、新宮殿時代に入り豪華な装飾を持つ宮殿や離宮が建立された。自然と人類を調和させ、自由闊達に描いた壁画が残されている。

 紀元前1400年頃に入ってミュケナイ人がクレタ島を征服すると、ミュケナイ美術は最盛期を迎え、後のギリシア建築に大きな影響を与える建造物が建築された。ミュケナイ美術は時代を経るに従い、豊かな自然主義的な作品から簡素化された装飾を用いた形式主義的作品へと変遷してゆく。その後、紀元前12世紀頃のドーリス人の大移動を境に衰退することになる。
 紀元前11世紀中ごろ、これまでとは異なる陶器が出現した。黒線や水平帯によって区分した装飾帯、波状線や同心円文の装飾を持った様式は原幾何学様式と呼ばれ、紀元前8世紀前半に登場したディピュロン式陶器はさらに複雑な装飾が配されている。
 このような幾何学的な構想は陶器の文様に限らず、テラコッタや青銅小彫刻などにも同じ傾向が見られ、動物や人間などの各部位を幾何学的形態に置き換え、部分均衡と全体調和によるギリシア美術固有の造形が見られる。このような経緯を経てギリシア美術は確立し、ギリシア美術が西洋美術のはじまりとされるようになった。
 その後エジプト、アッシリア、シリアからの工芸品を通じて、ギリシア美術の装飾も大きく拡大し、このような装飾を用いて制作された作品は東方化様式とよばれている。
 一方、アテネでは叙事詩や物語への関心が高まり、これらをモチーフにした陶器や彫刻がつかられ、これらはやがて神話表現へと昇華していく。紀元前7世紀に入るとエジプト彫刻の影響で彫刻がさかんになり、この頃作られた男性裸体像は両足を前後させて体重を均等に支えるポーズをとっていて、ギリシア彫刻としての特徴がでている。
 紀元前7世紀中盤ごろよりギリシア美術において最も創造力に満ちた「アルカイック美術」が展開された。人体彫刻はより自然な骨格と筋肉となり、神殿の建築では石材が用いられるようになり、アポロン神殿に代表される周柱式神殿が誕生した。紀元前6世紀には巨大な神殿が建立され、これに伴う建築装飾技法が発達した。

 浮彫彫刻では静止像に動性を、運動像に瞬間の静止を表現できるよう試行錯誤が繰り返され、その過程でアルカイックスマイルなどの立体表現が生み出された。なおギリシア彫刻の特徴としてその「白さ」が取り上げられることがあるが、制作当時はエジプトから輸入された顔料などを用いて鮮やかな彩色が施されていた。
 陶器画の分野では黒絵式技法が確立し、神々や英雄の神話的場面を描出した作品が制作された。その後、黒絵式陶器画は赤絵式陶器画へと転換していき、より細部にこだわった絵画的な表現がなされるようになった。こうした技法発展の背景は、板絵や壁画といった新しい芸術表現に対する絵画的探究の表れだった。
 紀元前5世紀に入ると、「トロイア陥落」「マラトンの戦い」などの神話歴史画が描かれた。四色主義という制約の下、形像の重複や短縮法といった技法によって絵画に奥行きのある表現が試みられており、絵画、彫刻におけるギリシア美術の進むべき方向性を示した。彫刻分野においては、それまでの直立不動の姿態から支脚・遊脚が取り入れられて、クリティオスの青年やデルフォイの御者像などが制作された。
 この時代、ペルシアを撃退したアテネは最盛期を迎え、ギリシア美術もそれにあわせてクラシック時代に突入することとなった。ペリクレスによってアクロポリスの整備が推進され、オリンピアのゼウス神殿やパエストゥムのポセイドン神殿で培った技術に優美さを付加したパルテノン神殿が建立される。彫刻分野ではパルテノン神殿の造営を指揮したフェイディアスによってアテナ・パルテノスの黄金象牙像が制作された他、ポリュクレイトスによって体中線をS字に湾曲させるなどの技法が生み出された。
 絵画の分野ではアポロドロスによって空間表現に不可欠な幾何学的遠近法、空気遠近法の融合化を図った作品が制作された。その他、明暗技法に優れた才能を発揮したゼウクシス)、性格表現と寓意的表現に優れていたパラシオスなどがギリシア美術における絵画の発展を牽引している。
 クラシック時代後期に入ると個人主義が台頭し、彫刻分野ではプラクシテレス、スコパス、リュシッポスが静像に内面性を付加させ、裸体女性像の価値を大きく引き上げることに貢献した。アレクサンドロス3世の宮廷彫刻家としても知られるリュシッポスは肖像彫刻の分野でも優れた作品を残しており、後世ヘレニズム美術やローマ美術の彫刻家達に大きな影響を与えた。同じく宮廷画家であったアペレスは明暗法、ハイライト、遠近法を駆使した大絵画を創出し、古代最大の画家と評価されている。
 アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動、人口流動が活発化すると美術の産業化が顕著となった。富裕層の市民が住宅を壁画で装飾して彫刻で彩ることが流行化し、古典主義美術の伝統が一時的に途絶えることとなった[66]。こうした現象についてローマ時代の文筆家大プリニウスは「美術は紀元前3世紀第2四半期に滅亡し、紀元前2世紀中頃に復興した」としている。