マーラーの恋物語

グスタフ・マーラー
出生地:ボヘミア カリシュト
生年月日:1860年7月7日(かに座)
結婚暦:1902年3月9日
 マーラーというと、1970~80年代あたりに「マーラーブーム」があった。今もブームは安定した人気になっている。ピアノ曲が多いショパンやリストは女性に人気で、交響曲のマーラーは男性ファンが多くいるようである。ただイタリア映画「ベニスに死す」(ヴィスコンティ監督)で、マーラーのアダージェットが使われ、この曲の官能と頽廃といった耽美的な雰囲気は女性に人気のある美しい曲である。色香をこのように漂わす音楽をつくれたのは、ある女性との決定的な出会いがあったからである。

ウェーバー夫人との不倫大失恋-交響曲第一番
 マーラーはチェコに生まれ、14人の兄弟がいたが、その半分は病気でなくなっていた。そして一番親しい弟が病死したときに感じたのは「自分が悪いのではないか」という自責の念だった。マーラーは陽気でおおらかではなく、神経質で内省的な性格だった。
 幼い頃から音楽的才能を発揮し、15歳のときにはウィーンの音楽院に入学し作曲を学んだ。17歳のときには、ブルックナーのクラスを受けて生涯を通して交流を続けていく。26歳のとき、彼はライプツィッヒの歌劇場で指揮をとっていたが、フォン・ウェーバー男爵よりオペラの完成を依頼される。マーラーは多忙だったため、断ろうとしていたが、ウェーバー家を訪ねると、その妻マリオン・ウェーバーに一目ぼれしてしまった。仕事も引き受け、その曲も成功を収め、マーラーは大金を手にする。そしてマーラーはウェーバー夫人と駆け落ちを決心するが、夫人は現れずマーラー一人で街を去って行く。この失恋から2ヵ月後、交響曲第一番を完成させる。失恋は心の痛みを伴うので、大きなパワーを使うが、このパワーを創作に生かしたのである。

ファム・ファタールとの出会い-アルマ・シントラー
 1900年、マーラーは知り合いの家に食事会に招かれました。そこでアルマ・シントラーという女性と出会う。彼女は当時、「ウィーン一の美女」と評判の女性で、20世紀はじめのウィーン芸術界の中心であった。知的で芸術的才能に恵まれたアルマはピアノの作曲を行っていたが、マーラーが彼女に会って数ヵ月後、早くもプロポーズし、アルマも受け入れた。
 このアルマは少女時代から、絵、文学、哲学、作曲に才能を発揮し、大変美しく多くの男性芸術家をとりこにしていた。いわゆる魔性の女で、作曲家のツェムリンスキーや画家クリムトなど多くの男性との浮名を流していた。
 二人は結婚して、子供にも恵まれ幸せな結婚生活を過ごしているように見えたが、アルマは「グスタフ、私のように飛ぶのが好きで、華やかな色が好きな鳥を、どうして鎖につなぐの」と日記に書き残している。 マーラーは指揮者として多忙な生活を送っており、アルマにもその生活につき合わせていた。仕事で多忙なマーラーが、アルマ話しに耳を傾けず、自由人のアルマはマーラーとの結婚生活に不満をもっていた。
 そのような中、アルマはオーストリアの療養地でヴァルター・グロピウスという建築家と出会い、不倫関係に陥ってしまう。マーラーはグロピウスがアルマに送った手紙を発見し、アルマに詰め寄った。しかしアルマはそれまでの結婚生活の不満を爆発させてしまう。マーラーは自分がアルマを傷つけたことに気づいていたが、自身の心にも深く傷を刻んでしまう。オトコの運命を狂わす魔性の女と結婚してしまった、完全主義の天才マーラーであった。
 精神的に参ったマーラーは、フロイトからカウンセリング治療を受ける。しかし、アルマの不倫はその後も続き婚姻関係は続いていたが、マーラーの孤独はますます深くなり、1911年、「やがて、私の時代が来る」そういい残してこの世を去った。享年50歳、天才マーラーの一生は、“孤独“や”喪失“といった哀しみに包まれていた。
 マーラーは交響曲を9番まで書き残したが、最も有名な第5番はアルマと出逢った頃に書かれた。その第4楽章はクラシック音楽では稀に見る官能的で頽廃的な傑作とされている。この第4楽章こそ、アルマへの愛の調べだった。映画「ベニスに死す」でも効果的に使われている。
 マーラーが亡くなった後、アルマは画家ココシュカとの恋愛を経て、かつての不倫相手グロピウスと再婚。その後、詩人フランツ・ヴェルフェルと再再婚。84歳でその生涯を終えた。アルマの墓はウィーンのグリンツィン墓地にあり、マーラーと背中合わせに眠っている。