プーシェ

フランソワ・ブーシェ
 フランソワ・ブーシェ(1703年〜1770)はフランスの画家、素描家、エッチング製作者。ロココを代表する画家であり、上流社会の肖像画や神話画などを描いた。多作家として知られ生涯に1000点以上の絵画、200点以上の版画、約10000点の素描を制作し、壁画装飾、タピスリーや磁器の下絵制作、舞台デザインの仕事をこなした。画家となるべく運命づけられた人間と称され、「我らがフランス画派にとっての大いなる名誉」と絶賛されている。
 ブーシェの父は、刺繍のデザインを行っていた装飾家で、職能組合的組織である聖ルカ・アカデミー所属の画家ニコラ・ブーシェであり、この父から絵画の最初の手ほどきを受けた。この時期に制作された作品として、「聖バルトロマイと聖アンデレ」がある。その後、父の後押しを受けて画家ルモワーヌの下で修業したが、ブーシェはルモワーヌから学ぶことはなかったといっている。
 ブーシェは1723年ローマ賞を受賞する。しかし王立建造物局長官の寵を得られず、イタリア留学にあたって、自己負担で留学することを与儀なくされた。1728年4月から5月、経費節減のためにヴァン・ロー家の3人とともにイタリアを旅行し、ローマのフランス・アカデミーに1727年から1731年まで滞在した。
 イタリアにおけるブーシェの活動内容は不明である。アカデミーの他の芸術家たちとは異なり、ブーシェはラファエロやミケランジェロの作品研究にいそしむことはなく、ルネサンス期の巨匠たちから様式上の影響を受けることもなかった。その代りモーロ噴水にあるネプチューン、聖アグネス・イン・アゴーネ聖堂内部の壁画、ルカ・ジョルダーノ「ユディトの勝利」といったイタリア・バロックの巨匠たちの作品の素描を制作した。 

 1731年にブーシェは王立絵画彫刻アカデミーの準会員として認められる。1734年には正会員としてアカデミー入会を果たす。
 1733年、ブーシェは13歳年下のマリー=ジャンヌ・ビュゾーと結婚する(ブーシェ30歳、マリー=ジャンヌ17歳の時。妻はブーシェの作品にしばしば描かれる。なお、フランスは夫婦別姓である)。ふたりは一男次女をもうける。男子は幼くして死ぬが、娘たちふたりは父親の弟子たちと結婚する。
 ブーシェはルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人のために複数の作品を描いている。イタリアにいた当時の弟のヴァンディエール侯爵に宛てた手紙の内容から、ポンパドゥール夫人はブーシェが描く肖像画を気に入っていたことがわかる。彼女をモデルとした作品に関しては複数のヴァリエーションが描かれた。ブーシェはポンパドゥール夫人のために相談役としても働き、彼女の美術コレクション形成を助けた。
 ブーシェは国王ルイ15世の覚えもめでたく、1755年にゴブランのタピスリ製作所の監察官を拝命すると、翌年にはジャン=バティスト・ウードリの後任として同製作所の長官に就任する。このころブーシェはボーヴェやゴブランのタピスリの下絵やパリのオペラや公の祝祭で用いる装飾下絵を大量に制作する。
 1762年から務めていたカルル・ヴァン・ローの後任として、1765年、ルイ15世の「国王の筆頭画家」を拝命し、同年には王立絵画彫刻アカデミー院長の座に就いた。ブーシェは1770年に世を去る。
 ロココが新古典主義に取って代わられると、ロココ文化を否定する動きが見られた。ブーシェも晩年はその絵画だけではなく、人格も非難されるようになった。 ブーシェの死から30余年後にその大作が競売されたときは、ほとんど値段がつかないほど不人気であった。 19世紀の後半、ゴンクール兄弟(が18世紀のフランスを中心とする美術の再評価を行い、ブーシェも高い評価を与えられた一方、室内装飾家に過ぎないとも評されている。

アウロラとケファロス (Aurore et Céphale) 1733年と推測 250×175cm | 油彩・画布 | ナンシー美術館
アウロラとケファロス (Aurore et Céphale) 1733年と推測 250×175cm | 油彩・画布 | ナンシー美術館

盛期ロココ美術を代表する巨匠フランソワ・ブーシェ初期の重要な作品『アウロラとケファロス(アウロラに帰宅を懇願するケファロス)』。寸法や構図、表現様式的特徴などの点から、おそらくパリのルーヴル美術館に所蔵される有名な『ヴィーナスとウルカヌス』 の対画として、高等法院弁護士フランソワ・デルベの依頼により制作された作品であると推測されている本作は、古代ローマ有数の詩人オウィディウスによる傑 作≪転身物語(変身物語)≫第7巻703に記される≪アウロラとケファロス≫を主題に描かれた作品である。本主題≪アウロラとケファロス≫は恋多き曙の女 神アウロラがある日、美青年の狩人ケファロスに恋(一目惚れ)をし、己の宮殿へ連れ帰るものの、新婚であった狩人ケファロスが妻プロクリスを一途に想い女 神アウロラの求めを拒絶し、自身の帰宅を懇願するという逸話で、曙の女神アウロラはその後、狩人ケファロスの願い(帰宅)を了承するものの狩人ケファロス と妻プロクリスの暗い未来を予言したと話は続くが、本作では本来の物語進行とは異なり、「狩人ケファロスに拒絶された動揺から己の仕事を放棄した曙の女神 アウロラを見かねた愛の神キューピッドが、狩人ケファロスの心から妻プロクリスを消し女神アウロラに陶酔させた」と、絵画ならではの独自的解釈に基づいた 物語展開が描かれている。その為、本作の狩人ケファロスは明らかに女神アウロラの輝くような美貌に心を奪われている様子であり、女神アウロラも己の恋の成 熟に満足そうな表情を浮かべている。また本作には3人の天使が描かれており、画面上部の2天使のひとりは夜明けを告げる松明を、もうひとりは女神アウロラ が乗る馬車の軍馬ランポスとファエトンの手綱を、画面下部(狩人ケファロスの背後)の天使は朝露となる水瓶を手にしている。本作の当時の流行に倣う重厚さ と軽快さが混在した伸びやかな初期ロココ的表現や、卓越した人物や対象描写など若きブーシェの優れた画才が如何なく発揮されており、盛期ロココ美術最大の 巨匠の誕生を予感させる。

ヴィーナスの勝利 (Triomphe de Vénus) 1733年頃-1740年 130×162cm | 油彩・画布 | ストックホルム国立美術館
ヴィーナスの勝利 (Triomphe de Vénus) 1733年頃-1740年 130×162cm | 油彩・画布 | ストックホルム国立美術館
ロココ美術の大画家フランソワ・ブーシェを代表する神話画作品のひとつ『ヴィーナスの勝利』。1733年頃に制作を開始したと推測されるが、サロンへは 1740年に出品された作品である本作に描かれるのは、画家がその生涯の中で最も多く手がけた画題のひとつである女神≪ヴィーナス(ギリシア神話のアフロ ディーテと同一視される)≫の司る≪愛≫と≪美≫が勝利を収めた場面である。愛と美と豊穣の女神ヴィーナスは、世界を統べた最初の神々の王ともされている 天空神ウラノスが(子息クロノスによって)切り落とされた性器から海へと滴り落ちた精液が作り出した泡から生まれたとされており、ヴィーナスにとって海は 自分が誕生した重要な場所である。本作では画面中央やや右寄りの岩に腰を下ろした、一際肌が白く輝くヴィーナスが下方へ視線を向けており、その背後ではニ ンフが海の宝石である真珠をヴィーナスに差し出している。さらに画面下部では巨大魚に身体を預けながら複数のニンフたちがその身を捩じらせている。本作に 描かれるヴィーナスやニンフらの裸婦表現は、いずれも理想化されない現実的な官能性に溢れており、観る者を愛と美が勝利した甘美な世界へと誘う。また ヴィーナスという画題やその官能的表現は元より、隆々とした肉体美を見せる裸の男たちの逞しい躍動感や、天空を舞う複数のアモル(ギリシア神話ではエロ ス、キューピッドとも呼ばれる)たちの軽やかな運動性、光の輝きに満ちた明瞭で対比の大きい色彩表現などは盛期ロココ様式の典型であり、本作はそれら様式 の特徴が顕著に示されたブーシェの代表的な作例としても広く知られている。
  化粧 (La Toilette) 1742年 | 52.5×66.5cm 油彩・画布 | テュッセン=ボルネミッサ・コレクション
化粧 (La Toilette) 1742年 | 52.5×66.5cm 油彩・画布 | テュッセン=ボルネミッサ・コレクション

18世紀フランス絵画の大画家フランソワ・ブーシェの代表作『化粧』。ブーシェの重要なパトロンであり、友人でもあった(又、画家の妻とも親密な関係に あった)スウェーデン大使カール・グスタヴ・テーシンの依頼により、上流階級(貴族階級)の婦人の一日の場面を描いた4点から構成される連作の、最も初期 に制作された作品である本作は、ひとりの貴婦人が女中と共に化粧直し(身支度)をする姿を描いた作品である。ストッキングを上げガーターを着ける婦人の姿 は、あきらかにヤン・ステーンなど17世紀オランダ風俗画におけるエロティシズムの影響の痕跡が示されており、この婦人の姿態は過去の素描作品からの引用 であることが知られている。また女中の後ろ姿の姿態も、身支度をする婦人同様に過去の素描作品が元となっている(参照:『後ろ向きの女中の元素描』)。 女中のモデルに関しては(一説には依頼主テーシンと密かに恋愛関係にあったとの憶測もされている)ブーシェの妻とする説も唱えられているが、確証を得るに は至っておらず、一般的には否定的である。さらに一部の研究者からはこの椅子に座り身支度を整える婦人の姿と、画家が1739年に手がけた『朝食(昼食)』 の登場人物との類似性も指摘されている。本作の婦人や女中が身に着ける(おそらくはシルク地の)衣服の質の高さを感じさせる艶やかな光沢感の描写や、明瞭 で輝きに満ちた色彩描写は見事の一言であり、観る者を魅了する。また花鳥図が描かれる屏風や小物類など当時流行していたシノワズリ(中国趣味)の様式を、 ロココ様式の特徴である軽やかで優雅な表現を融合させた本作は、まさに時代的趣味(流行)の典型であり、画家の類稀な才能が画面の至る所に遺憾なく発揮さ れている。なお4点の連作中、本作以外で唯一残されるのが、ストックホルム国立美術館が所蔵する『『朝(身支度)』である。

  水浴のディアナ (Diane au Bain) 1742年 57×73cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)
水浴のディアナ (Diane au Bain) 1742年 57×73cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

ロココ美術の大画家フランソワ・ブーシェの代表作『水浴のディアナ』。本作に描かれる主題は、ローマ神話から主神ユピテルと巨人族の娘レトとの間に生まれ た双子のひとり(もう一方は太陽神アポロ)で、多産や狩猟を象徴する地母神であり、純潔の象徴でもある女神≪ディアナ(ディアナはギリシア神話のアルテミ スと同一視される)≫が狩りを中断し、ニンフと共に水浴する姿である。本作で最も観る者の眼を惹きつけるのはディアナとニンフの官能性に溢れた甘美な裸体 表現と輝くような肌の美しさにある。著名な神話上の逸話≪ディアナとアクタイオン(例:ティツィアーノ作『ディアナとアクタイオン』)≫ などにもあるよう、激しい気性を持つことでもで知られるディアナではあるが、本作ではその荒々しい気性部分は影を潜め、純潔の女神として神々しいまでの美 しさを描き出しているのみならず、ブーシェはそこに俗世的な肉体的官能美をも表現した。このような裸体表現はブーシェの描く裸婦像の典型であり、本作はそ の最も優れた作例のひとつでもある。また軽快でありながら繊細で、多彩な色味を感じさせる輝くような光と色彩の描写も特筆に値する出来栄えである。なお本 作は、印象派の巨匠ルノワールがルーヴル美術館で模写をおこなっていた修行時代に触れて、大変感銘を受け(ルノワールは本作を生涯気に入っていたと伝えられている)、ルノワール独自の世俗的な裸体表現に多大な影響を与えた。

日の出 (Lever du soleil) 1753年 321×270cm | 油彩・画布 | ウォーレス・コレクション
日の出 (Lever du soleil) 1753年 321×270cm | 油彩・画布 | ウォーレス・コレクション

ロココ様式独特の軽快かつ繊細で優美な装飾性が存分に表現されているフランソワ・ブーシェの代表的な神話画のひとつ『日の出』。タピスリーの原画(下絵)として制作された本作は、共に制作された『日没』の 対画であり、ギリシャ神話のアポロン説話(太陽神話)に典拠を得て、光明の神アポロンが四頭立ての戦車に駕して東の宮殿を出て、天の穹窿を横切り、西の涯 へ向かう場面が描かれている(アポロンはしばしば太陽神ヘリオスと同一視され、本作の解釈もそれに基づいている)。画面中央には東の宮殿を出て上昇するア ポロンと、自身が生み出した暁の明星が、光輝く天上へと導く曙(あけぼの)の女神アウロラが配されており、ブーシェ独特の軽やかで演劇的なその表現は、観 る者にある種の高揚感と官能的な感覚を与える。特に曙の女神アウロラの表現は、バロックの巨匠グィド・レーニグエルチーノなど過去の偉大なる巨匠らも天井画(参照:グィド・レーニ作『アウロラ(曙)』、グエルチーノ作『アウロラ(曙)』) として描いているが、それらとは決定的に異なる軽快性と、甘美で官能的な肢体の美しさが際立っている。また二人のさらに上空には(諸説あるが)太陽神アポ ロンの双子の姉(妹という説もあり)月の女神アルテミスの姿が配されており、観る者を日の出(夜明け)の世界へと導いている。なお『日没』との対画となる本作ではあるが、絵画上の時間軸とは異なり、この『日の出』の方が後に制作されたことが知られている。

ポンパドゥール夫人の肖像(マダム・ド・ポンパドゥール) (Portrait de Mme Pompadour) 1756年 201×157cm | 油彩・画布 | アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)
ポンパドゥール夫人の肖像(マダム・ド・ポンパドゥール) (Portrait de Mme Pompadour) 1756年 201×157cm | 油彩・画布 | アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)
ロココ美術盛期の巨匠フランソワ・ブーシェの代表的な肖像画作品のひとつ『ポンパドゥール夫人の肖像(マダム・ド・ポンパドゥール)』。本作に描かれる肖 像画の人物は、平民階級出身ながら、その美貌と幼少期から受けてきた教育・教養の高さから、当時のフランス国王ルイ15世の公妾(公式の愛妾)にまで登り つめた≪ポンパドゥール夫人(本名はジャンヌ=アントワネット・ポワソン)≫である。ポンパドゥール夫人は1745年に公妾となったことで侯爵夫人(マダ ム・ド・ポンパドゥール)の爵位が与えられ、その教養の高さから政治的介入をおこなうほか、審美眼や文芸的才能にも秀でており、ブーシェを始めとした諸芸 術家たちや文芸者たちとの交友、邸宅建設、美術品収集で莫大な金銭を浪費したものの、それは結果的にはロココ美術(様式)の発展の大きな貢献となった。本 作は制作された翌年(1757年)にサロンで展示された時に、賛辞を以って迎えられたものの、グリム男爵など一部からは批判的な言葉も受けた。本作の描か れる部屋については現在も不明であるも、本作での高価な長椅子へ横たわるように座るポンパドゥール夫人は、当時の流行に則る、軽やかでありながら洗練され た豪華さも感じさせるドレスに身を包み、確固たる強い意志を感じさせる大きな瞳と端整な顔を右側へと向けている。また真珠の腕輪が控えめに輝く左手には、 彼女の知識の高さと象徴するかのように一冊の書物が描かれているほか、足元には夫人の愛犬ミミが配されている。本作のロココ様式の典型的な肖像展開や洗練 性、理想化する対象(本作ではポンパドゥール夫人)の美的描写などはロココ時代の肖像画の中でも特に秀逸の出来栄えであり、画家の技量と才能の高さを見出 すことができる。なおヴィクトリア・アンド・アルバート美術館(ロンドン)が所蔵する『ポンパドゥール侯爵夫人の肖像』を始め、画家(とその工房)が制作したポンパドゥール夫人の肖像画が多数確認されている。