セクシー

ピグマリオンとガラテア
1890
ニューヨーク・メトロポリタン美術館

ジャン=レオン・ジェローム作

 中央の女性はモデルではなく、生身の女性に変身した彫像である。古代キプロス王ピュグマリオンは、現実の女性に失望していた。あるとき理想の女性を大理石で彫刻するうちに、その彫像に恋をしてしまう。彫像をガラテアと名づけて、朝に夕に話かけ、彫像が人間になることを願い、心身が衰弱するほど苦悶する。それを見かねた女神アフロディテが、ピュグマリオンの願いをききいれて彫像に生命を与える。二人は結婚して幸せに暮らし、ピュグマリオンは女神に感謝して、各地の神殿に女神の彫像を残した。
 彫刻家が彫像に接吻する場面を描き、右上には女神の使者グピドが愛の弓矢を射ろうとしている。さらに女性の脚の下半分は、まだ青白く、堅い大理石のままである。彫刻像ガラテアも愛の言葉を受け入れ、身体を曲げて彫刻家の求愛に応えている。彫像ガラテアの上半身と、大理石の脚の硬直の対比が愛とエロチズムを最大限に表現している。
 「ピグマリオン」は、英国の劇作家バーナード・ショーの戯曲名で、ギリシャ神話のキプロス王のピュグマリオンの話を現代の話に置き換えて戯曲化したものである。男性が自分好みの女性を作る、あのオードリー・ヘップバーン主演の「マイ・フェア・レディ」もその発想から生まれている。

カバネル作「ヴィーナスの誕生」(1875)

 アカデミー主催の官展で絶賛され、アカデミズム絵画の最高傑作と謳われ、フランス皇帝ナポレオン3世が買い上げた作品。アカデミズムとはフランス画壇の最高権威である芸術アカデミーを支配していた古典重視の保守派閥である。聖書や神話が題材ならば、裸を描いても「神聖な美」と認められる伝統があった。

 女神ヴィーナスが泡から誕生した瞬間を、天使たちがほら貝を吹いて祝福している。ヴィーナスの美しく透き通る白い肌と、金色に輝く髪が美しく、装飾や飾り立てがなくても、この神秘的瞬間が見事に描かれている。カバネルがアトリエの中で女性を描き、後から海を合成したため、ヴィーナスが波に対してどのように寝ているのか不可解になっている。

 印象派とは表現も思想も正反対であるが、この絵画は印象派の殿堂ともいえるオルセー美術館に所蔵されている。

ルフェーヴル作「洞窟のマグダラのマリア」(1876)

 女性の曲線美の美しさ、きめの細かい肌と赤毛の巻き髪、それらが陽の光を浴びて神々しく光輝いている。マグダラのマリアはイエスに従った女性で、新約聖書中の福音書に登場する。キリスト教では聖母マリアに次ぐ女性であるが、かつて娼婦だった過去を悔やみ改心する場面である。聖書上の人物だから裸でも問題にならない。完璧なプロポーション、本物の女性よりも遥かに美しい。

ダナエ
1907-08年77×83cm | 油彩・画布 |
個人所蔵

 セクシーをはるかに超えた絵画史上最もエロティックなクリムトの作品。ダナエは神話を主題とする作品で、オウィディウスの「転生神話」に記されている。アルゴス王の娘ダナエに恋をした主神ゼウス(ユピテル)が、妻ヘラの嫉妬を逃れる為に黄金の雨に姿を変え、ダナエへ降り立ち、愛の契りを交わすという神話である。
 正方形の画面の中へ蹲るダナエの股間部に、精子を思わせるような円と線、そして鉤状の形をした黄金の雨に姿を変えた主神ゼウスが流れ込んでいて、その情景はあたかも主神ゼウスによるダナエへの愛撫を連想させる。ダナエはゼウスの激しい愛撫を受け、頬は紅潮し恍惚の表情を浮かべ、あまりの快楽ゆえなのか、右手は乳房へと置かれ、己の敏感になった感覚を掻き毟るかのように爪を立てている。薄透した黒布の装飾的な文様とダナエの姿態の大部分を占める左大腿部で隠れてはいるが、ダナエの左手は性器へと向けられ、自慰行為をおこなっているとされている。女性の曲線美の美しさや、きめの細かい肌、赤毛の巻き髪、その全てが陽の光を浴びて神々しく光輝いている。

 ダナエはティツィアーノを始め、コレッジョ、レンブラントなど過去の偉大なる画家たちも描いてきた神話の中でも有名な主題であるが、ここまで露骨にエロスと快楽を表現した作品は他にない。

ジャン・レオン・ジェローム作「アレオパゴス会議のフリュネ」(1861)

 紀元前340年のアテネの法廷が舞台である。古代ギリシャの娼婦フリュネはその類いまれな美しさで巨額の富を得ていた。アポロ神殿で騒ぎ、新たな神を紹介し、男女の宗教的集会を開いたことが神を冒涜した罪で法廷に立つ。弁護人は弁護するも、頑迷な裁判官たちを納得させる事は出来なかった。そこで弁護人はフリュネの服を引き裂き服を脱がしてしまう。その裸体があまりに美しかったので無罪になったという物語である。滅茶苦茶と思うかもしれないが、肉体美は神性の一面で神聖なしるしと見なされた。

ジェローム「ローマの奴隷市場」(1867)

シャセリオー「オリエントの室内」(1850~1852)

 デッサンを重視した新古典主義に対し、ロマン主義は色彩を重視。異国の強烈な光の下で鮮やかに輝く色のリズム、強調される白い肌の艶めかしさ。

F・レイトン「漁夫とセイレーン」(1856~1858

 セイレーンは歌声で船乗りを誘惑し海に引きずり込む怪物

ブーシェ「黄金のオダリスク」 1751

 ルイ15世の愛人の一人であるマリーを描いた作品。オダリスク(オスマン帝国の宮廷ハーレムに仕える女性)との題名であるが、当時は絵画に題名を付ける習慣は無かったので後の時代の人々がテーマを推測して付けたものである

ブーシェ「ヴィーナスとアムール」(1751)

 アムールはキューピッドと同じと思っといていい。ヴィーナスの子供という設定なので、ヴィーナスとキューピッドが裸で戯れてる絵はよく考えると結構ヤバい。だが当時の約束事として、「神話や宗教の絵なら現実じゃないからエロくない、セーフ!」という事になっていた。こういう絵をどういう目的で見たり飾ったりしてたのだろうか。

ブーシェ「ユピテルとカリスト」(1744)

 女神ディアナに変身してその侍女カリストに近付くユピテル(=ゼウス)の図。ギリシャ神話をなぞるだけで結構色んな種類の性癖をカバーできるからすごい。ロココ絵画は明るいエロが特徴で、王族や貴族を中心に人気があった。しかしこういう享楽的な風潮は王室の堕落を象徴する物でもあり、その後の市民革命につながっている。

コリアー「ゴダイヴァ夫人」(1898頃) 

 伯爵夫人ゴダイヴァは11世紀イングランドの女性で、コヴェントリーの街を裸で行進したという伝説が広く信じられている。
 ゴダイヴァは聖母の敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に減税を迫った。伯爵はきつく叱りつけ、二度とその話はせぬようと嗜めたが、ついに「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで裸で乗りまわし、町の市場をよぎり、端から端まで渡ったならば、お前の要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは、髪を解きほどき、髪を垂らして全身を覆わせた。そして馬にまたがり市場を駆けてつっきった。そして道程を完走すると、彼女は驚愕する夫のところに舞い戻り先の要求を叶えた。
 領民に対して情けぶかい夫人が、素裸で長髪をなびかせ馬に乗って町内を横断することになり、町人は夫人に恩義を感じて目をそむけたが、ただ一人トムという男が盗み見たため、以来、ピーピング・トムといえば覗き見をする人間の代名詞となった。

モロー「オイディプスとスフィンクス」(1864)

 セイニャク「プシュケの目覚め」(1904)


ブグロー「キューピッド」(1891)

ブグロー「甘言」(1890)


ファレロ「エンカンタドーラ」(1878)


ブグロー「春の再来」(1886)