JR福知山線脱線事故

 平成17年 (2005年)4月25日の午前9時18分頃、JR西日本の福知山線で快速電車が塚口駅を通過直後、半径304mのカーブを曲がりきれずに先頭車両が左へ転倒するよう脱線し、続いて2~5両目が脱線し、猛烈な速度で線路横のマンション1階に激突した。1、2両目は原型をとどめないほどに大破し、3から5両目が脱線、死者107人、負傷者562人の大惨事となった。
 事故までの経過を振り返ると、午前9時4分、高見隆二郎運転手(23)と松下正俊車掌(44)は、宝塚駅で同志社前行き快速電車(7両編成)に乗務。定刻より15秒遅れで出発し、北伊丹駅を34秒遅れの9時13分に通過した。次の停車駅である伊丹駅の手前648mを時速112kmで走行し、ATSが「停車です、停車です」と警告音をだし、非常ブレーキを掛けたが間に合わず、伊丹駅の停止位置から72mオーバーランして停止した。
 高見運転士は松下車掌に「バックする」と連絡し、制限速度を超える時速16kmでバック。その結果、停止位置を3m行き過ぎてしまった。列車は停止位置を修正し、乗客の乗り降りを終えて、このオーバーランで定刻より1分20秒遅れの9時16分10秒に伊丹駅を発車した。

 伊丹駅を出発した後、車掌が次の停車駅を告げる社内放送を行った。そのとき、運転士から伊丹駅でのオーバーランの距離を小さく報告して欲しいとの意味で、「まけてくれへんか」との電話があり、車掌はこの依頼を了承した。

 車内電話で話している最中に、1人の乗客が車掌室の窓をたたき「遅れているのに、あやまらんか」と述べた。車掌はお詫びの車内放送を行った。
 9時18分、高見運転士は遅れを取り戻そうと、時速122kmで塚口駅を通過。高見運転士は車掌と指令所との会話に気が取られながら、次の停車駅である尼崎駅手前の制限速度70kmの半径304mの右カーブを116kmで進入、乗客が床に倒れるほどの急ブレーキをかけたが、列車はカーブを曲がりきれず、遠心力で1両目の右側が大きく浮上し、左側の車輪が脱線、轟音とともにマンションに激突した。1両目は2両目につぶされ原型をとどめず、2両目は「くの字」になってマンションに張り付くように曲がり5両目まで脱線した。

 この事故で高見運転士が死亡しているため真実は明確ではないが、カーブ手前のスピード超過、急ブレーキは明らかで、定刻時間の遅れ、オーバーラン、日勤教育による懲罰を恐れての焦りがあったのであろう。

 

組織的原因
 JR福知山線は、国鉄からの民営化後に、私鉄との熾烈な乗客獲得競争を繰り広げていた。大阪から宝塚間の所要時間はかつて41分だったが、事故当時は23分になっていて、それだけスピードを上げていた。さらに朝のラッシュ時には2分30秒に一本の割合で列車が通過していて、1分20秒のダイヤの遅れは心理的重圧を招いていた。営業施策を優先した度重なる運転時間の短縮により、タイトな列車運行計画になっていた。JR西日本では、運転技術向上等に効果のない懲罰的な形の「日勤教育」が行われていた。この日勤教育に対する回避願望が、会話内容に気を取られた大きな要因と思われる。

日勤教育の問題
 目標が守られない場合、乗務員に対する処分として日勤教育という懲罰的なものを科していた。具体的には乗務員休憩室や詰所、点呼場所から丸見えの当直室の真ん中に座らせ、事象と関係ない就業規則や経営理念の書き写しや作文・リポートの作成を一日中させ、トイレに行くのも管理者の許可が必要で、ホームの先端に立たせて発着する乗務員に「おつかれさまです。気をつけてください」などの声掛けを一日中させたり、敷地内の草むしりやトイレ清掃などを命じるなど、いわゆる「見せしめ」「晒し者」にすることもあれば、個室に軟禁状態にして管理者が集団で毎日のように恫喝や罵声を浴びせ続けて自殺や鬱に追い込んだ。それが充分な再発防止の教育としての効果につながらず、かえって乗務員の精神的圧迫を増大させていた。事故の当該運転士も、過去に運転ミスや苦情などで3回の日勤教育を受けていた。そのため車掌にオーバーランの距離を少なく報告するように要請したのである。
安全の問題
 JR福知山線には列車自動停止装置(ATS:Automatic Train Stop)がついていたが、このATSは旧国鉄時代のもので、信号が赤で列車が停車しない場合にブレーキをかけるものであるが、速度制限を超えた列車を減速させるものではなかった。

 新型の列車自動停止装置は、列車の追突防止、スピード制限の自動的制御をするので、新型装置が付いていれば今回の事故は防止できていた。この新型ATSは昭和39年の新幹線で採用され、多くの私鉄で導入されたが、JR福知山線は旧型のものであった。
 事故発生後、現場に向かっていた対向列車や後続列車は、緊急時の「防護無線機」で、直ちに停止する筈であった。しかし事故車の車掌が狼狽して、発信スイッチを押し間違えたため作動しなかった。

 下り線に新大阪発城崎温泉行きの特急「北近畿3号」が接近中だったが、事故現場手前にある踏み切りの非常ボタン(特殊信号発光機)を押したのは、車掌でも鉄道関係者でもなく通りすがりの主婦であった。通りすがりの女性が踏み切りの非常ボタンを押し、特急電車の運転士がこの信号に気付いて、およそ100m手前で停車して、全列車に緊急停止を命じたのである。この女性の機転がなかったら二重・三重の事故が起きていた可能性が強い。

民間救護
 事故発生直後、日本スピンドル製造の全社員270人が救助に走った、社員たちは救急箱やカッターなどの道具をもち、フェンスを切り、バールでドアをこじ開け、負傷者を励ましながら次々に助けた。社員は2両目が先頭車両だと思っていたが、1両目が完全につぶれていることに気が付いた。1両目はマンションの駐車場に突っ込んでいて、ガソリンに引火する可能性があった。社員は消火栓を取りに会社に走った。
 救急車が来る前に、警察が来る前に、社員たちは自分たちのマイカーやトラックで病院に負傷者を搬送し130人以上を救助した。さらに尼崎中央市場から60人が大量の飲料水、タオル600枚を持って駆けつけ、現場近くの大成中学の教師たちは担架代わりの毛布を持って走った。突然の事故で、救急隊や警察の数は少なかったが、民間人の協力が大きな力を発揮した。負傷者を乗せたマイカーは病院へ向かったが、マイカーには救急隊員が乗り込み、白バイが先導した。 民間人400人が現場に走り、救助活動を行った。隣人や弱者へのおもいやり、社会的正義感、健診と勇気、勤勉な性格と品格、敬意と感謝、このような心を持った日本人が多くいた。「助けなければいけない」この条件反射的な行動を持つ日本人が多かったのである。一方、マスコミは取材ヘリを現場に飛ばし、救助者の声や生体反応を轟音でかき消した。

トリアージ
 午前9時26分、到着した救急隊と医療チームは「トリアージ」を開始した。トリアージとはフランス語で選別の意味である。災害現場に駆けつけた医師や救急救命士が、どの順番で患者に治療を施せば最も多くの命を救えるかを決めることで、治療の必要性の高い順に医療施設への搬送を決めた。尼崎市は集団救助出動を指令し、周囲の病院に受け入れを依頼した。
 兵庫県災害医療センター、兵庫医大、千里救命救急センター、逢坂医療センターの医師たちが駆けつけトリアージ、緊急治療、搬送を行った。救命チームは正式の出動命令を待たず、自主判断でドクターカーを出動させ、閉じ込められていた傷病者の治療に当たった。
 現場から60キロ離れた済生会滋賀県病院からも救急チームが駆けつけ、瓦礫の下の救命活動をおこなった。潰れた車両に閉じこめられた人たちに、医師は自分の名前を言って安心させ、挫滅症候群の予防のために点滴を行った。要請もないのに、自分たちの判断で救命活動に駆けつけた医師たちの行動を高く評価したい。
マスコミの罪

 さらにJR西日本が事故当日に行った発表の中で、線路上への置石による脱線の可能性を示唆したことから、愉快犯による線路上への置石や自転車などの障害物を置くといった犯罪も相次いだ。