埼玉医大投薬ミス事件

埼玉医大投薬ミス事件 平成12年(2000年)

 平成12年10月11日、埼玉県川越市にある埼玉医科大総合医療センター(安倍達所長)で医師が過って大量の抗がん剤を入院中の高校2年生・古館友理さん(16)に投与、10月7日に死亡していたことが明らかになった。川越署では投薬ミスによる業務上過失致死として、主治医らから事情を聞くとともに、司法解剖を行い、投薬と死亡との因果関係を調べることになった。

 平成12年4月、古館友理さんは下あごの腫瘍に気付き、近医の耳鼻咽喉科を受診。埼玉医大から派遣されていた墨一郎医師(30)の診察を受け、8月22日に埼玉医大総合医療センターに入院。8月23日に腫瘍摘出術が行われ、病理組織で滑膜肉腫と診断された。

 9月25日、古館友理さんは化学療法のため同センターに再入院。病理診断では滑膜肉腫だったが、墨医師は滑膜肉腫に対し横紋筋肉腫の治療(VAC療法)を予定した。墨医師は教授回診でVAC療法を行うと述べ、上級医師と教授はこの治療法を確認せずに了承した。しかし滑膜肉腫と横紋筋肉腫の治療はまったく違うもので、この治療そのものが大きな間違いであった。9月27日から抗がん剤「ビンクリスチン」が投与された。ビンクリスチンは副作用の強い薬剤で、1週間に1回の投与であったが、墨医師は12日間の連日投与の治療計画を立てた。小児科に勤務したことのある主任看護師はビンクリスチンの連日投与に疑問をもち、使用説明書を墨医師に手渡したが、墨医師はこれを無視した。

 古館友理さんは毎朝、同剤を投与され、同月30日から高熱きたし、10月1日には全身の痛みのため歩けなくなった。その後も症状は悪化し、10月6日に意識障害をきたしたが、家族には睡眠薬を飲んでいるためと説明され、翌10月7日午後1時35分、多臓器不全で死亡した。墨医師がビンクリスチンの投与法を間違え、過剰投与により血小板減少、多臓器不全を引き起こしたのである。

 古館友理さんの死亡時、墨医師は遺族に投薬ミスを説明せず、同センターの耳鼻咽喉科では緊急医局会を開き隠蔽工作を謀ろうとした。耳鼻咽喉科教授・川端五十鈴は投薬ミスを口外しないように墨医師に指示。遺族には病死と告げるようにさせたとされている。墨医師は両親から「抗がん剤の副作用で死亡したのではないか」と質問されたが、「がんが転移して、検査データに問題はなかった。がんがはじけたせい」と説明した。耳鼻咽喉科医局員全員が霊安室に行き、川端教授は父親に「頑張ったが、助けてあげられなかった」と霊安室横の部屋で話した。

 しかし死亡から約6時間後の同日夜7時、同センターの安倍達所長らが「説明不足だった」として女子高生宅を訪れ、「カルテを見たら、抗がん剤を投与する間隔が短すぎた」と説明した。所長は死亡前日に投薬ミスの報告を教授から受けていて、家族に投薬ミスを告げるように指示していたとされている。さらに埼玉医大は記者会見を行い、「当初は混乱しており、説明が不十分だったので、あらためて自宅に伺い説明した。医療事故の可能性は当初から説明している」と述べた。

 10月24日、墨医師は弁護士とともに両親宅を訪れ謝罪。経過を詳しく説明した。墨医師は「女子高生が死亡した直後に開かれた検討会で、川端教授から死亡診断書の書き換えを指示され口止めされた。自分は医局の人間なので、自分の意思ではどうしようもなかった」と述べた。しかし川端教授は「口止めや死亡診断書の書き換えの指示はしていない。医局内の口裏合わせや死亡診断書の書き換えは不可能なこと」と弁護士を通して声明を出した。

 古館友理さんの両親は、同医大に対し治療法や投与ミスの状況について説明を求めた。しかし埼玉医大は「刑事事件として警察が捜査中なので、当事者が連絡を取り合うことは証拠隠滅が疑われてしまう」として説明拒否の文書を送付した。同医大は「要望に沿えないことは申し訳ない」とし、耳鼻咽喉科教授ら医師団に弔意を示してほしいという両親の要請にも「差し控えます」と回答した。両親は「担当医はミスの口止めを認めているのに、大学側はなぜ認めないのか。さらに回答書の娘の名前が誤っていて、誠意が感じられない」と述べた。

 今回の医療ミスは「ビンクリスチン」という抗がん剤の説明書に書かれた「パー・ウイーク(毎週)」を「パー・デイ(毎日)」と読み違え連日投与したことによる。墨医師が作成した指示簿には、治療6週目から投与すべき抗がん剤「シクロホスファミド」を治療6日目に、12週間隔で投与するべき抗がん剤「アクチノマイシンD」を12日間隔で投与する計画が書かれていた。墨医師はビンクリスチン以外の2種についても説明書を読み違え、実際にシクロホスファミドを6日目に飲ませていた。墨医師は卒後5年目の医師で、この抗がん剤を使用するのは初めてであった。そこにチーム医療としての体制の不備、上級医師、教授、薬剤師らのチェック機能の不備が重なっていた。

 墨医師は滑膜肉腫の治療として、「ビンクリスチン」「アクチノマイシンD」「シクロホスファミド」の3種類の抗がん剤を投与する「VAC療法」を選択したが、VAC療法は「横紋筋肉腫」の治療法で滑膜肉腫への効果は不明だった。主治医が引用した手引書にもVAC療法は横紋筋肉腫の治療法として記載されていた。滑膜肉腫と診断された友理さんの治療そのものが間違っていたのである。

 平成12年12月31日、埼玉医大は墨医師を懲戒解雇とし、耳鼻咽喉科川端教授を減給としたが、同教授は依願退職することになった。さらに平成13年1月5日、埼玉医大は安倍達所長、院長、副所長、副院長、所長補佐ら5人を解任し、「医療事故が起きたため人事を刷新した」と説明した。

 平成13年5月18日、古館友理さんの両親は同医大と墨医師、耳鼻咽喉科川端教授ら6人を相手に約2億3000万円の損害賠償を求める訴訟をさいたま地裁に起こした。訴訟時の記者会見で、父親は「言葉では言い表せない。わずか16歳で、友理は夢と希望を持っていた」と怒りを込め、母親は「殺されるために入院したようなもの」と涙を流した。

 平成15年3月20日、さいたま地裁の金山薫裁判長は「医師として弁明の余地はない」として、墨医師に禁固2年(執行猶予3年)の判決を下し有罪が確定。耳鼻咽喉科教授・川端五十鈴に罰金20万円、指導医の本間利生に罰金30万円を言い渡したが、検察側が軽すぎると控訴。2審の東京高裁は川端五十鈴を禁固1年(執行猶予3年)、指導医の本間利生を禁固1年6月(執行猶予3年)とした。

 中川武隆裁判長は「川端医師は治療の最終責任者であり、指導医の本間医師は抗がん剤の副作用を的確に把握すべき注意義務があったとした。なお墨医師ら6人と同大学に約2億3000万円の損害賠償を求めた訴訟では、東京高裁は約8370万円の支払いを命じた。