青物横丁医師射殺事件

青物横丁医師射殺事件 平成6年(1994年)

 平成6年10月25日午前8時5分頃、ラッシュで混雑している東京都品川区の京浜急行・青物横丁駅の改札口付近で、出勤途中の都立台東病院の泌尿器科医長・岡崎武二郎さん(47)が60cmの背後からいきなり拳銃で撃たれた。銃弾は腹部を貫通し、岡崎さんはその場に倒れこんだ。すぐに病院に搬送されたが、翌日、出血多量で死亡した。

 この事件は、医師をはじめとした医療関係者を戦慄(せんりつ)させた。医師ならば、誰でも同じような被害者になりえたからである。

 犯人は、駅の近くに止めてあったバイクで走り去った。しかし死亡した岡崎さんが言い残した言葉から、警察は犯人を患者・N(36)と断定。品川署は全国に指名手配した。

 Nは、平成5年に台東病院の泌尿器科で鼠蹊ヘルニアの手術を受けたが、術後しばらくすると体調不調を訴えるようになった。Nは体調不良を、執刀医である岡崎さんが手術の際に体内に異物を入れたせいと思い込んでいた。そのためNは岡崎さんを恨んでいた。手術が人体実験であったと執拗(しつよう)に訴え、岡崎さんに抗議したが、その妄想を否定されたため報復を決意していた。

 Nは技術系の専門学校を卒業し、都内の電気機械メーカーに勤めていた。仕事内容は、販売先での機器の保守や点検などで、仕事は熱心でまじめだった。Nは独身で母親と埼玉県浦和市に住んでいた。平成4年10月から鼠蹊ヘルニアの治療のため、台東病院泌尿器科に通院。平成5年6月7日に入院して手術を受けた。手術は順調で、その後は通院の必要もなかった。しかし術後半年を過ぎたころから、体調不調を訴えるようになった。体調不調とは、食欲不振、全身倦怠、腹部膨満感、意欲低下などで、体のあちこちに痛みを訴え、他の病院を受診しても原因は分からなかった。

 そのためNは不安をつのらせ、心気症の状態になった。体の中に何かが回転する異常感覚が増幅し、手術をした岡崎さんが身体に何かを入れたせいと確信するようになった。岡崎さんが何らかの人体実験を行ったと思い込み、あるいは手術用具を体内に置き忘れたと疑った。Nは岡崎さんを訪ねては何度も苦情を言った。

 岡崎さんは一通りの検査をして、苦笑しながらどこにも異常がないと言った。しかしNは納得しなかった。Nは妄想を増幅させ執拗に面会を求め、また頻回に電話をかけては、身体に入れた手術用具を取り除くように要求した。

 身体の中に回転体を埋め込まれたとする異常感覚は、統合失調症などの患者にみられる体感異常(セネストパチー)という幻覚の一種だった。体感異常は、身体の中で虫がうごめくとか、脚や足にアリが這っているなど虫に関するものが多いが、Nの訴えもこれと同様の幻覚の一種であった。

 平成6年夏までNは都内の病院の精神科に通院していたが、不安定な精神状態は改善せず、被害妄想が増幅して死を考えるようになった。そして死ぬ前に岡崎さんへの報復を心に誓った。平成6年9月に会社を辞めると、Nは岡崎さんの周辺を調べ回った。Nは岡崎さんの自宅が品川で、毎朝、京浜急行・青物横丁駅から電車で通勤していることを調べ、報復計画に取りかかった。

 一般的に、Nのような被害妄想を持つ患者は珍しいことではない。多かれ少なかれ、医師であるならば荒唐無稽(こうとうむけい)な患者を経験している。そのため、この事件によって「もし患者が簡単に拳銃を入手できたら、自分の生命が奪われるかもしれない」と、多くの医師たちは戦慄を覚えた。医師たちはこの事件を他人事とすることができず、自分たちの身近な事件ととらえた。

 岡崎武二郎さんを射殺したNは、犯行後、隠していたバイクに乗り青物横丁駅から逃走し、翌朝、あらかじめ用意してあった犯行声明文を、NHKなど都内テレビ局4社の警備員に手渡した。またフジテレビのワイドショーに電話をかけ、「撃ったのは俺なんですけど、ちゃんと報道してもらいたい。生島さんに会って経過を話したい」などと言い、このやり取りが全国に放映された。さらにテレビ朝日には「27日午後1時に出頭する。その前に都立台東病院関係者をピストルで撃つ」と電話で犯行を予告してきた。

 当初、警察は精神科病院に入院歴のあるNの人権を配慮して名前を伏せていたが、病院幹部への犯行をほのめかしたため、2次犯罪につながるとして、公開捜査に踏み切った。Nは3日間、都内のホテルなどを転々としていたが、手持ちの金がなくなっていた。そのため28日に母親へ電話をかけ、南浦和駅で会う約束をした。母親はすぐに警察に連絡し、「私が姿を見せれば、本人も現れるでしょう。その時に捕まえてもらいたい」と申し出た。28日夕方、刑事8人が駅構内に張り込みNは逮捕された。

 岡崎武二郎さんの告別式には、医師・看護師ら約500人が参列して別れを惜しんだ。都立台東病院の高畠弘病院長は「ライフワークだった臨床医学を天国でも続けてほしい」と悲しみを語った。

 この事件が衝撃的だったのは、Nが暴力団とは関係のない一般人であったことである。Nは新宿、渋谷、赤坂などの暴力団事務所を歩き回り、拳銃を売ってほしいと頼んだが、冗談だと思い誰も相手にしなかった。

 しかし病院近くの浅草のソープランドの呼び込み人から、暴力団事務所を教えてもらい、留守番をしていた暴力団組員に拳銃購入を持ち掛けた。すると組員は140万円で中国製拳銃トカレフと実弾7発をNに売ってくれた。この拳銃の値段は密売相場の5倍だったが、普通の住民でも金さえ出せば、拳銃が買えることをこの事件は教えてくれた。

 平成6年前後の1年間だけで、拳銃発砲による負傷者は24人、死者11人で、拳銃による犯罪が多発していた。それまでの拳銃発砲事件は、暴力団の抗争に絡んだものがほとんどだったが、平成6年頃から一般市民の犠牲者が増し、社会に大きな不安と衝撃を与えていた。

 暴力団以外の者から拳銃が押収されたのは、それまでは全体の7%程度だったが、平成6年は30%を超えていた。このように拳銃の一般人への拡散が急速に進んでいた。トカレフは、平成3年からの4年間で、中国から2000丁以上が密輸入されていた。

 犯人であるNは、事件前に都内の病院の精神科に通院し、また入院歴もあった。このことから刑事責任能力が問題になった。検察側は「多少の判断能力の障害は認めるが、心神耗弱程度」と主張。弁護側は「統合失調症あるいは妄想性障害による犯行で、善悪を判断する能力はなく、心神喪失状態だった」と反論した。

 精神鑑定は慶応大・保崎秀夫名誉教授、東京大・斎藤正彦講師ら6人が約1年5カ月かけて行った。保崎教授は「妄想はあるが人格の崩れは少ないとして妄想病」と診断。一方、斎藤講師は妄想型統合失調症と診断した。

 裁判では事実関係についてはほとんど争われず、犯行当時のNの精神状態と刑事責任能力の有無が争点となった。平成9年8月12日、三上英昭裁判長は「犯行は被害妄想に基づくが、責任能力を問える心身耗弱状態にあった」としてNに有罪の判決を下した。この事件は狂気に近い犯行であったが、数日前から通勤時間帯を狙って青物横丁駅で待ち伏せていたこと、拳銃を暴力団組員から入手して試射していたこと、医師の顔を確認してから発射したこと、さらに逃走に使ったバイクを1カ月前に浦和から品川まで運んでいたこと、日常生活に異常がなかったことから、冷静で沈着な行動を取っていたと裁判長は判断した。

 裁判長はNの責任能力を認め、懲役12年(求刑・懲役15年)を言い渡し、「無防備な被害者を待ち伏せし、至近距離から短銃で撃つという計画的で極めて残虐な犯行」と厳しく批判した。なおNに短銃を売った暴力団組員(29)には、懲役6年の実刑が言い渡された。