薬害ヤコブ病

薬害ヤコブ病 平成8年(1996年)

 プリオンというタンパクが異常をきたした牛の病気が狂牛病(牛海綿状脳症、BSE: Bovine Spongiform Encephalopathy)で、同じく異常プリオンによるヒトの病気がクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)である。狂牛病とCJDの病態はほぼ同じで、脳がスポンジ状に破壊され、歩行障害や痴呆などの中枢神経症状を呈して死に至る。この疾患が恐ろしいのは、治療法がないだけでなく、発症から1年以内に確実に死亡するからであった。

 CJDはまれな疾患で、ヒトでは100万人に1人の頻度で自然発生する。大正9年、ドイツの2人の病理学者(ハンス・ゲルハルト・クロイツフェルトとアルフォンス・マリア・ヤコブ)がこの疾患を初めて報告。そのため2人の医師の名前を取り、クロイツフェルト・ヤコブ病と命名された。

 昭和61年、英国で狂牛病騒動が起きたが、当初は牛だけの病気とされた。それが、平成8年になって狂牛病に罹患した牛を食べたヒトも、変異型ヤコブ病(vCJD:variant CJD)を引き起こすことが分かり世界的な騒動となった。

 平成8年、厚生省の調査研究班は、牛からヒトへの感染を調べる目的でCJD患者の全国調査を行った。その結果、大変な事実が判明することになる。調査では日本国内に878人のCJD患者が確認されたが、その中に開頭手術で硬膜移植を受けた43人がいたのである。自然発生のCJDは50歳以上での発症であるが、硬膜移植後にCJDを発症した患者は30歳以下が多かった。このことから、移植した硬膜とCJDとの関連性は明確であった。

 ヒトの脳は硬膜、軟膜、くも膜という3枚の膜に覆われている。脳の手術を行う場合、頭蓋骨を取り、脳を包んでいる硬膜を切る必要があった。手術が終わると、硬膜を縫合するが、硬膜をそのまま縫合することはできない。硬膜の縫合にはバンソウコウのような継ぎ当て(硬膜移植)が必要であった。この継ぎ当てに用いられたのが、ヒトの遺体から取り出して凍結乾燥させた硬膜であった。

 硬膜移植が行われるまでは、患者の大腿部の筋膜を切り取って継ぎ当てにしていた。しかし、大腿筋膜の移植は患者の負担が大きく、手術での手技が増えることになった。このことから、乾燥硬膜が発売されると、多くの脳外科医は乾燥硬膜を用いるようになった。

 日本で使用されたヒト硬膜は、ドイツのBブラウン社が製造したもので、日本ビー・エス・エス社が「ライオデュラ」の商品名で販売していた。昭和48年に厚生省が輸入を承認、平成9年までに約200の医療機関で年間2万〜3万枚が使用されていた。ライオデュラは「ヒトの遺体から採取した硬膜を、滅菌処理した後に乾燥凍結させたもの」で、この硬膜の中に信じがたいことに、CJDで死亡した患者の硬膜が混入していたのだった。

 遺体から硬膜を採取する場合には、提供遺体の死因や既往歴を調べ、感染の危険のある硬膜を排除しなければいけない。しかしBブラウン社は、病院の解剖助手にわいろを渡し、病院に無断で硬膜を集めていた。また法医学教室からも遺体の硬膜を買っていた。硬膜提供者の病気を調べずに、1体分の硬膜を日本円にして約2000円で買っていた。さらに1体分の硬膜をそれぞれ製品化したのではなく、300人分の硬膜を1つのポリ袋で保管していた。つまり300人の硬膜の中にCJD患者の硬膜が1枚でも含まれていれば、全部が感染したのである。

 昭和62年、米国で汚染した硬膜が問題になったとき、Bブラウン社に硬膜の売買記録がなかったことから、硬膜の追跡調査ができなかった。このようにBブラウン社はずさんな管理をしていたのだった。Bブラウン社は硬膜をガンマ線で滅菌していたが、ガンマ線はCJDの病原体であるプリオンには効果がなかった。ノーベル賞を受賞した米国のガイジュセックが、昭和53年にこのことを証明しているが、Bブラウン社は、米国で第1症例が報告される昭和62年までガンマ線による滅菌法を用いていた。その後、Bブラウン社は水酸化ナトリウムによる滅菌を追加したが、古い硬膜を回収せず2年間にわたって売り続けていた。

 昭和62年2月、米国でライオデュラによってCJDを発症した第1例目が報じられると、同年4月、FDA(食品医薬品局)は安全性に関する警告を出し、6月にはライオデュラの使用を禁止して製品を回収させた。ドイツでも、Bブラウン社が病院の解剖助手にわいろを渡し、病院に無断で硬膜を集め密売していたことが報道され、Bブラウン社の社員は「死者に対する尊厳の侵害罪教唆」で刑事処罰を受けた。

 しかし驚くことに、Bブラウン社は硬膜移植後にCJDを発症したカナダや英国の患者に解決金を払いながら、ライオデュラの販売を続けていた。この点に関し、Bブラウン社は「解決金を払ったが、CJDとの因果関係を認めたわけではない」と述べた。

 昭和62年にライオデュラは米国で使用禁止となったが、その後10年にわたり日本では使用されていた。さらに平成8年に世界保健機関(WHO)が使用禁止の勧告を行い、同年6月にライオデュラは製造を中止したが、その後も在庫を販売していた。日本でライオデュラが使用禁止になったのは平成9年3月からであった。

 米国が販売を禁止した時点で、厚生省がライオデュラを禁止していれば、薬害CJDは回避できたはずである。厚生省はこの点を国会で追及されると「ヒト乾燥硬膜移植とCJD発症について報告を受けていなかったこと、米国の感染症情報をチェックする責任部局がなかった」と述べた。しかし昭和62年、厚生省の研究班はライオデュラによるCJDの感染の可能性を学会誌で警告していた。このため国の無責任体質が問われ、「薬害ヤコブ病」と呼ぶようになった。現在、厚生労働省が認定している患者は76人である。

 平成8年11月20日、薬害ヤコブ病患者の谷たか子さん(42)とその家族が日本ビー・エス・エス社、国、大津市を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。谷さんは、平成3年に頭部手術を受けCJDを発症していた。この大津訴訟が、日本で初めての薬害ヤコブ病の訴訟となった。大津市が訴えられたのは、大津市民病院が危険な硬膜を使用したとことが理由であった。その後も、薬害ヤコブ病訴訟は各地で起き、平成10年12月11日には「薬害ヤコブ病を支える会」が発足。平成13年11月6日、原告や支援者たち500人が薬害ヤコブ病の早期全面解決を求め、厚生労働省を「人間の鎖」で取り囲んだ。

 平成13年11月14日、東京、大津両地裁は国の責任を指摘して和解を勧告。平成14年3月25日、CJDの発生について国とBブラウン社は和解確認書に調印。坂口力厚生労働相は「心からのおわびを幾重にも申し上げても、なお言い尽くせない。療養を続ける患者、家族にもお見舞いを申し上げる」と述べた。国とBブラウン社は、患者1人当たり平均約6000万円の和解金を支払うことになった。

 脳の手術を受けて元気になった患者が、移植された硬膜によりCJDを発症し、短期間のうちに死亡した。和解が成立した時、原告患者のほとんどが死亡していた。CJDは企業の過度な営利追求が生んだ悲惨な薬害であった。