多剤耐性結核菌の集団感染

多剤耐性結核菌の集団感染 平成9年(1997年)

 宮城野病院は仙台市郊外の光ケ丘の麓(ふもと)に建つ320床の病院である。平成9年1月、その宮城野病院で職員248人の定期健康診断を行ったところ、8人の職員(看護師7人と薬剤師1人)が結核に感染していることが分かった。

 同院は、昭和28年に結核治療のサナトリウムとして建てられ、一般病床のほかに結核病床66床が含まれていた。感染した看護師のうち3人は結核病棟に勤務していて、残る5人は一般病棟の勤務で、一般病棟の患者に感染者はいなかった。その後、さらに3人の看護師が感染していることが分かった。DNA鑑定の結果、看護師ら11人は同一の多剤耐性結核菌に感染していた。多剤耐性結核菌とは「イソニアジド(INH)とリファンピシン(RFP)の両剤に耐性を持つ結核菌」と定義され、多剤耐性結核菌はまれであるが致死率は高かった。

 多剤耐性結核菌の集団感染は、平成6年の八王子市の家内工場内の発症に続き、同院が日本で2件目だった。多剤耐性といっても薬が全く効かないわけではないが治療は困難であった。看護師ら11人のうち2人が肺切除術を受けたが、懸命の治療にもかかわらず、6月3日、26歳の看護師が死亡した。

 結核専門医による結核感染症対策専門委員会は2年半後に、「感染ルートは特定できないが、看護師ら11人の誰かが感染、残りの看護師らに感染を広めた可能性が高い」とした。入院していた多剤耐性結核菌患者と看護師らの多剤耐性結核菌のDNAパターンが違っていたこと、看護師らは院内7カ所に分かれて仕事をしていたことから、特定の患者から感染した可能性は低いとしたのである。

 かつて結核はわが国の死因の第1位を占め、「亡国病」「国民病」と呼ばれていた。その後、ストレプトマイシン(SM)、INH、RFPといった治療薬が開発され結核は順調に減少。現在では結核患者数は横ばいのまま、毎年約4万5000人の患者が発生し、約3000人が死亡していた。

 平成3年頃に米国の病院で多剤耐性結核菌の院内感染が多発し、日本での院内感染が心配されていた。宮城野病院の集団感染から5年後の平成14年、結核療法研究協議会が国内99カ所に入院している結核患者3122人の結核菌を分析し、多剤耐性結核菌を55人(1.8%)から検出している。さらに多剤耐性結核菌55人中17人が、INHとRFPだけでなく多くの抗結核剤に耐性を持つ「超多剤耐性結核菌」であった。

 結核は過去の疾患とのイメージが強く、結核を知らない医師も多いが、結核が念頭になければその診断は不可能である。また結核患者が減ったことから、社会全体が結核に対し無関心になっていた。

 結核の集団感染とは「感染した結核菌のDNAが同一菌と判定された場合」に用いられている。集団感染として最大のものは、平成7年から2年の間、新潟県の特別養護老人ホームで27人が感染して12人が死亡する事例である。最初の患者を医師が肺炎と診断したため治療が遅れたのだった。

 結核の集団感染は、学校、老人福祉施設、簡易宿泊施設、刑務所、事務所などでみられ、その中でも病院での集団感染が最も多い。平成12年1月13日、日本看護協会は「過去1年間で、全国248の病院で看護職員が結核に感染した」と報告している。

 病院の集団結核感染は件数が多すぎて書ききれないが、主だったものとしては、平成10年7月、熊本市民病院で看護師ら12人が感染。平成12年、北九州市の東筑病院で10人が感染。平成17年、京都の病院で14人が感染。同年、札幌の病院で16人が感染。平成19年、壱岐市の松嶋病院で15人が感染。同年、熊本市の朝日野総合病院で13人が感染していた。

 また死亡事例としては、平成15年、茨城県取手市の西間木病院で15人が感染3人が死亡。平成16年、熊本の小柳病院で11人が感染1人が死亡。平成18年、山形の病院で9人が感染2人が死亡などがある。

 結核は、結核菌を吸い込んで発症することから、病院での感染が多いのは当然である。病院で結核の集団感染が起きると、病院の管理が悪いようにマスコミに叩かれるが、むしろ医療従事者は常に感染の危険性のある最前線で働いていることを知ってほしい。