看護師インスリン殺人事

看護師インスリン殺人事 平成5年(1993年)

 平成5年2月2日、山口県警徳山署は住職・安峯又茂さん(47)を殺害したとして、看護師・林多美子(31)を逮捕した。安峯さんは岩国市の大師院と田布施町の無量寺の住職で、2つの寺の信者から相談事を受け祈祷などを行っていた。安峯さんは1月21日から行方が分からず、家族から捜索願が出されていた。

 徳山署が交遊関係から看護師・林多美子を調べたところ殺害を自供。2人の関係は、林多美子が安峯さんの寺を訪ね、相談事をしたことがきっかけだった。安峯さんが林多美子のアパートの保証人になり、多美子は柳井市内の病院に就職。やがて安峯は多美子の私生活を監視するようになり、預金通帳やキャッシュカードを取り上げ、「お前の行動は、透視力ですべて分かっている」と脅していた。その結果、追い詰められた多美子が殺害を計画したのだった。

 1月21日午後8時半頃、多美子はアパートを訪ねて来た安峯さんに睡眠薬入りの麦茶を飲ませ、病院から持ち出した糖尿病の治療薬インスリンを注射した。そのため安峯は低血糖で死亡した。多美子は遺体を資材置き場に運ぶと、タイヤ6本を集め、遺体にガソリンをかけて火をつけた。

 平成5年7月24日、山口地裁は「犯行は事前に睡眠薬やインスリンを持ち出すなど計画的であるが、被告を追い込んだのは被害者である」として懲役7年の判決を言い渡した。男女間の殺人事件では、保険金目当ての計画的殺人は別として、感情のもつれが動機になることが多い。殺害に至るまでの感情は、本人にしか分からないが、相手を愛していれば、愛する者を殺害するのは矛盾している。憎悪が動機であれば、自分は加害者として人生を棒に振ることになる。冷静に考えれば、殺害で得ることは何もないが、追い詰められて混乱し、ノイローゼ状態にヒステリックな行動が重なったのであろう。

 糖尿病の治療薬であるインスリンが殺人に使われたのは、この事件が日本で初めてのことである。インスリンは人の命を救うために開発されたが、人の命を奪うことも簡単なのである。インスリン殺人事件の犯人は、医療知識を持つ看護師であることが多い。

 平成10年、福岡県久留米市で日本中を戦慄(せんりつ)させた「看護師仲間4人による連続保険金殺人事件」が発生したが、この事件でもインスリンが使用されている。

 平成10年1月24日、吉田純子、堤美由紀、池上和子の3看護師が、池上の夫・平田栄治さん(39)の静脈に空気を注射して殺害。保険金約3500万円をだまし取った。平成11年3月27日には、石井ヒト美看護師を加えた4人が石井の夫・久門剛さん(44)の鼻から胃にチューブを入れ、大量のウイスキーを流し込んで殺害、保険金約3300万円を詐取。さらに平成12年5月29日には堤を除く3人が、堤の母親にインスリンを注射して殺害しようとしたが、抵抗され未遂に終わっている。

 平成18年5月、福岡高裁は、「異常な金銭欲に基づく冷血非情な犯行で、まさに白衣の殺人鬼」として、吉田に死刑、堤に無期懲役、石井に懲役17年を言い渡した。池上は判決前に病死したため公訴棄却となった。

 平成15年4月8月、埼玉県本庄市でもトレーラーハウス販売業・横田有信さん(55)がインスリンを注射され、ひもで絞殺される事件が起きている。加害者は妻(52)と長女(33)、二女(30)、三女の夫(26)で、横田さんの長年にわたる暴力から逃れるためであった。

 平成16年4月、千葉県光町(現・横芝光町)で農業・鈴木茂さん(53)が中国出身の妻・鈴木詩織(32)から大量のインスリンを投与され、意識不明の重体となり脳に障害を残した。風俗店の経営者と風俗嬢を兼ねていた詩織は、美容整形に約1000万円をかけ、中国への仕送りもあることから保険金殺人を企てたのである。スポーツ紙は「美人中国人妻が、鬼に変わる時」と報道した。

 平成16年12月には、手形の債権をめぐり、大阪府八尾市の近藤博さん(75)が工場に監禁され、インスリンを打たれて死亡している。平成18年10月、この事件で津地裁は犯人の電気部品製造会社役員(72)に懲役11年、その長男(42)に懲役6年を言い渡した。

 インスリン殺人事件で世界を驚かしたのは、平成元年にオーストラリアの病院で起きた大量殺人事件である。4人の看護師が49人の老人患者にインスリンや睡眠薬を投与して殺害。インスリン投与による殺害のほか、老人の鼻をつまみ、口から水を流し込んで窒息死させたケースもあった。老人が病死する場合、肺水腫をきたすことがあるので、検視でも疑われなかった。人間の生命を守るのが白衣の天使の使命であるが、事件にかかわった4人の看護師は「無駄な治療を省くのが目的だった」と自供し、生命の重さ、犯罪の重大性を感じていなかった。「老人はつまらないことで看護師を呼ぶ、わずらわしくて腹が立った」というのが殺害の動機だった。

 人間の膵臓で分泌されるインスリンは、前駆タンパクであるプロインスリンがインスリンとCペプチドに分解されて分泌される。そのため致死量のインスリンを注射した場合、Cペプチドが異常に低くなる。つまり血糖値とCペプチドを測定すれば、他殺かどうかを見分けることができる。もちろん、それ以前のこととして、不審死と疑うかどうかである。

 殺人とは別に、通常の診療でインスリンの過剰投与により患者を死亡させる医療事故も起きている。平成14年9月24日、三重大病院で脳出血のため入院していた男性患者(64)に、看護師が指示された量の40倍のインスリンを投与して患者が死亡している。この医療事故は、医師(28)がインスリンを1時間当たり4単位(0.1mL)の投与のつもりで、「インスリンを時間4で」と看護師に口頭で指示。看護師は時間4単位を「1時間で4mLの投与」と勘違いして、40倍のインスリンを投与したのだった。

 この医療事故で、津地検は医師と看護師を起訴猶予処分にした。起訴猶予にしたのは、「遺族と国の間で和解が成立していて、医師と看護師は国とは別に遺族に弔慰金を支払っていたこと」がその理由だった。この医療事故では、「口答指示、単位の勘違い」が危険であることの教訓を残した。

 さらにインスリンが自動車事故を引き起こすことがある。平成12年8月、広島県海田町でトラック運転手(32)が運転中に低血糖から意識障害を起こし、大学生(20)をはねて死亡させた。運転手は糖尿病の治療でインスリンの投与を受けていた。弁護士は「医師の説明はなく、事故の予見は不可能」と無罪を主張したが、検察は「過去にも運転中に意識障害を来したことがあり、事故を予見できた」と反論。同年12月20日、広島地裁の高原章裁判官は、「意識障害に陥る直前に運転を中止するのは困難で、最初から運転をやめるべきだった」として運転手に禁固1年を言い渡した。

 現在の道路交通法では、「精神障害者や知的障害者に免許を与えない」という以前の条項は廃止されているが、意識障害を起こす可能性のある患者については免許交付停止、免許取り消しの規定が設けられている。インスリンの自己注射や、血糖降下剤を内服している患者は、低血糖を来す可能性があるのでこの規定に相当するが、この規定は申告制なので、ほとんど申告されてないのが現状である。