ソリブジン事件

ソリブジン事件 平成5年(1993年)

 平成5年9月3日、日本商事が開発した帯状疱疹の治療薬「ソリブジン」(製品名:ユースビル錠)が発売され、その発売からわずか2週間後の9月19日、副作用による最初の死亡例が発生した。

 この死亡第1例については、販売提携先のエーザイから翌20日に日本商事へ連絡が入ったが、日本商事が厚生省に報告したのは27日のことであった。厚生省は日本商事に注意文書を配布するよう指示を出したが、日本商事はそれを無視して販売を続けた。10月6日になって次の死亡例が報告されたときには、その対応はすでに後手にまわっていた。ソリブジンは発売からわずか1カ月で23人の被害者を出し、15人が死亡する事件へと発展した。医療現場への危険通知がなかったため、多くの犠牲者を出すことになった。

 ソリブジンは、帯状疱疹に対する新しい治療薬だった。帯状疱疹とは、水痘ウイルス(ヘルペスウイルス)によって生じる皮膚疾患で、皮膚に有痛性の湿疹が帯状に出るのが特徴である。免疫能が低下した患者に出現することが多く、そのため抗がん剤を内服中のがん患者が帯状疱疹を合併することがあった。

 ソリブジンによる死亡例は、がん治療中の患者であった。がん患者に投与されたソリブジンが、抗がん剤(フルオロウラシル系)の薬物相互作用によって、白血球減少の副作用を生じさせた。通常、フルオロウラシル系の抗がん剤は、肝臓で代謝され無毒化されるが、ソリブジンの代謝産物プロモビニルウラシルが抗がん剤の分解を阻害するため、抗がん剤の血中濃度を上昇させたのである。つまり投与された10倍の抗がん剤を飲んだのと同じくらいの作用を起こし、抗がん剤が白血球減少を生じさせたのである。ソリブジンの被害者は、全例フルオロウラシル系の抗がん剤を内服していた。

 この薬害はソリブジン単独のものではなく、ソリブジンと抗がん剤との組み合わせによるものであった。ソリブジンとフルオロウラシル系の抗がん剤の併用投与が危険であることは、発売前からすでに指摘されていた。臨床試験の段階で、抗がん剤を投与されていた4人のうち3人が死亡していたのだった。

 昭和62年12月、京都府立医大で乳がん患者(54)がソリブジン投与10日後に死亡、昭和63年8月には鹿児島大で肺がん患者(76)が死亡、同年10月には東北大で乳がん患者(51)が投与10日後に死亡していた。しかし日本商事が厚生省に報告したのは京都府立医大1例のみで、しかもソリブジンの副作用ではないと報告したのである。治験総括医である新村眞人・慈恵医大教授はこのことについて、大した問題ではないと説明していた。これでは何のための治験なのか分からない。「大した問題ではない」が「大した問題」を引き起こしたのだから、それなりの責任があるはずである。日本では、多くの治験がなされているが、治験総括医は必ずしも学問的に優れた医師ではなく、医学界での政治力を持つ教授が多い。つまり患者の生命よりも、製薬会社の利益誘導が根本にあった。

 ソリブジン類義の抗ウイルス剤「プロモビニルデオキシウリジン」が欧州で研究されていたが、すでに抗がん剤の作用を強めることが分かっていた。こうした危険性を示すデータがありながら、その危険性を隠していた。

 さらに日本商事は、臨床試験で死亡例が出たことから、ラットでの動物実験を行い、抗がん剤との相互作用を調べていた。動物実験ではラット全例が2週後に死亡し、薬剤の相互作用は確実となったが、このことも日本商事は隠していた。ソリブジンは厚生省の新薬審査をパスした新薬であるが、審査を担当した中央薬事審議会の102人委員のうち14人がソリブジンの治験にかかわっていた。

 新薬ソリブジンは、発売からわずか1カ月の間に、全国1万2000の医療機関に50万錠以上が納入されていた。日本商事は年商が100億円にも満たない企業であるが、ソリブジンは薬価ベースで1カ月に11億円の売り上げがあった。日本商事の1錠2216円の新薬ソリブジンにかける意気込みが、いかに大きかったかが想像される。

 多くの医師は、ソリブジンがこのような重大事態を招くとは想像もしていなかった。ソリブジンの添付文書には「抗がん剤との併用投与をさけること」と虫眼鏡がなければ見えないような字で書かれているだけだった。それでも添付文書に書かれていることから、それを投与した医師の責任も問われた。しかし添付文書は生命保険の契約書と同じような文字の羅列であり、全部読んだとしても覚えている医師はないに等しかった。

 たとえこの副作用を医師が知っていたとしても、がんの非告知患者は抗がん剤内服を知らないため、医師も患者も併用を回避することはできなかった。特に診療科が皮膚科と内科にまたがるため、患者が病院を変えて受診すれば、併用薬を把握できない可能性が高かった。つまり死に至るような副作用を持つ薬剤は、認可すべきではなかったのである。にもかかわらず、厚生省は3人の副作用による死亡を公表した、平成5年10月12日の時点で、ソリブジンは薬効の優れた薬剤なので、厳しい制限のもと薬剤として残す異例の決定をしていた。そしてその1カ月後に、ソリブジンの回収作業を命じるという、ちぐはぐな対応となった。

 平成6年9月1日、厚生省は日本商事に過去最長の105日間の製造業務停止処分を行った。同時に、緊急副作用情報の即時伝達システムの改善策をまとめたが、ソリブジンを承認審査した厚生省の責任は問われなかった。

 被害者の補償は日本商事が個別にすすめ、死亡した15人のうち14人の遺族が示談に応じ、約5億円の賠償金が支払われた。しかし残りの1人である横浜市青葉区の主婦・春日信子さん(64)の遺族は医師を相手に訴訟を起こした。

 春日さんは、平成5年7月から乳がんの治療のため京都市内の病院で抗がん剤を服用し、同年9月7日、横浜市青葉区の医院でソリブジンの投与を受け、同月19日に死亡した。平成6年12月、春日さんは医師が副作用の注意を怠ったため死亡したとして、遺族がソリブジンを投与した医師に約1100万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。医師側は「強い副作用があるときには、添付文書の冒頭に記さなければならないが、この薬にはそれがなかった」と過失責任を否定した。結局、この訴訟は横浜地裁で和解が成立したが、詳細は明らかにされていない。

 死者15人を出した「ソリブジン事件」は、生命を無視した商売第一主義が引き起こしたといえる。さらに卑劣なことに、日本商事が最初に死亡例を知ってから医師向けに注意文書を配布するまでの間、つまり9月20日から10月12日までに、日本商事社員175人が自社株を売却していたのだった。

 ソリブジン事件が公表される直前に、副作用情報を知った社員は株を売却していた。日本商事の社員は、副作用による死亡をより早く医療機関に通知すべきなのに、社員は自社株の売り抜けを優先させていたのである。

 売却したのは日本商事175人のうち管理職82人が含まれ、さらに提携先のエーザイの社員10人、医師らが含まれていた。自社薬剤により患者の生命が危険にさらされているときに、社員は自分の財産保持に専念していた。死亡事故の公表前に、日本商事株を売り払ったことで、インサイダー取引容疑で証券取引等監視委員会の強制調査が行われた。

 死亡事故が公表された10月12日は連休明けだったため、朝から同社株の売り注文が殺到し、午後2時10分に、大阪証券取引所が取引を一時停止したほどであった。厚生省が記者会見で副作用死を発表したのは、取引停止直前の午後2時であった。

 大阪地検特捜部は同社株1万株を「空売り」したとして、千葉市の皮膚科開業医・T(56)を証券取引法違反の疑いで逮捕した。T医師は千葉大医学部を卒業、同大助手を経て、昭和44年から千葉市中央区内で皮膚科医院を開業していた。

 T医師は厚生省が副作用死事故を公表する約1時間前に、販売代理店幹部から「日本商事の新薬で、副作用による死亡例が発生したため、出荷が一時停止される」との情報をもらった。そのため公表のわずか10分前に、1万株を売って、翌日に買い戻す信用取引の「空売り」で約400万円の利益を得ていた。

 証券取引等監視委員会による事情聴取で、T医師は「販売代理店とは副作用事故の話はしていない」と全面的に否認。しかし特捜部は、販売代理店幹部がT医師と会っていたことを確認し、さらに代理店幹部が「T医師に副作用事故の話をした」と証言したため、逮捕に踏み切った。

 これらのインサイダー取引により、日本商事の関係者ら24人が大阪簡易裁判所から罰金20万から50万円の略式命令を受けた。しかしT医師だけは略式手続きに同意せず、「副作用を知らされたことはない。株の値動きがおかしかったので売っただけ」と無罪を主張した。しかし検察側は「悪質な犯行」としてT医師に罰金50万円を求刑した。

 平成8年5月24日、大阪地裁の谷口彰裁判長は「空売りという積極的な投機で、取得した利益は少なくないが、社会的制裁を受けている」として罰金30万円を言い渡した。T医師は判決を不服として大阪高裁に控訴したが、平成13年3月16日、大阪高裁の河上元康裁判長は「副作用情報は投資判断に著しい影響を与える」としてT医師の控訴を棄却した。

 ソリブジンの薬害報道は、薬害報道よりも次第にT医師の株取引に関するものが多くなった。しかし本当の悪人はソリブジンの薬害を隠していた日本商事、さらにソリブジンの薬害が公表される前に自社株を売り抜けていた日本商事の社員である。彼らの悪事に比べれば、T医師の行為は微罪と思われる。T医師についての報道は、日本商事の巨悪を隠すようなもので、マスコミや法曹界は、巨悪と小悪人の区別をつけてほしい。

 平成10年9月25日、日本商事と昭和薬品が合併しアズウェルと社名を変更し、そのアズウェルもまた名前を変え、平成15年9月29日よりアルフレッサとなっている。日本商事の名前は薬害史の記録に残っているが、その後の社員については誰も知らない。