ダヴィッド

ジャック=ルイ・ダヴィッド(Zhak-Lui-David 1748年〜1825年)
 フランスの新古典主義の画家。18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランスの激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家である。ダヴィッドは英雄を好み、またギリシャやローマ時代の古典を好んで絵画にしていた。ダヴィッドは新古典主義の代表的な画家で、人物の描写は簡潔で写実的で、構図や表現はより英雄に見えるように強調している。そのため描かれている人物たちの動きがは居がかっているようにも見える。人物の細かい描写は伝統的な手法が使いつながら、題材は英雄というのが特徴である。
 1748年にパリの商人の子として生まれた。9歳の時、父親は決闘で亡くなっている。ロココ絵画の大家であるブーシェが親戚(母の従兄弟)だったこともあり、幼いころから絵画への興味があった。当時50歳代だったブーシェは弟子を取ず、ブーシェの紹介でヴィアンに師事する。
 ヴィアンの下で長い間修業をしていたが、入門から約10年後、ダヴィッド26歳頃(1774年)に「アンティオコスとストラトニケ」で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を得た。これは、画家としては遅いデビューであった。ローマ賞受賞者は、副賞として国費でイタリア留学ができたので、ダヴィッドも翌年よりイタリアへ留学した。同年、師のヴィアンはローマのフランス・アカデミーの院長としてローマへ赴任したため、師弟揃ってのローマ行きとなった。
 ダヴィッドは約5年間、イタリアで古典絵画の研究に没頭する。このイタリア留学をきっかけに、彼の作風は18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから、新古典主義的な硬質の画風へと変化してゆく。
 すぐに画家として認められ、「ホラティウス兄弟の誓い」(1784年)は王室から注文を受けて制作した作品である。この作品をサロンに出品したさいに「ダヴィッドこそサロンの真の勝利者である」と画家たちが評価したほどであった。
 1789年、フランス革命が起きるが、ダヴィッドは政治にも関わるようになった。ジャコバン党員として革命後の政治に大きな力を発揮するようになった。
 このころの「球戯場の誓い」を描き、バスティーユ牢獄襲撃事件にも加わり、1792年には国民議会議員になっている。革命政府の美術行政を担当したダヴィッドは全国に美術館を作るように働きかけ、1793年には革命家マラーの死を描いた「マラーの死」を制作している。1794年にはロベスピエールに協力し、最高存在の祭典の演出を担当、国民公会議長もつとめていた。
 しかし革命政府がたおれ、ロベスピエールの失脚に伴いダヴィッドの立場も危うくなり一時投獄もされた。この時、自画像と唯一の風景画を残している。しかし妻の力によって自由の身になった。
 1800年、今度はナポレオンがレカミエ夫人を愛人にするための贈り物として肖像画を依頼され「レカミエ夫人像」を制作した。しかし、レカミエ夫人はこの肖像画を気に入らなかったため未完成に終わった(その後、夫人は彼の弟子のフランソワ・ジェラールに肖像画を依頼し、彼の絵画はドミニク・アングルが現在の形にした)。
 その後、ナポレオンの庇護を受けて復活し、1804年にはナポレオンの首席画家に任命されている。縦6.1メートル、横9.3メートルの大作「ナポレオンの戴冠式」は1806年から1807年に描かれたものである。1808年「帝国における騎士ダヴィッド」の爵位を与えられた。ナポレオンの失脚後、ダヴィッドも失脚し、1816年にブリュッセルへ亡命し、9年後の1825年に亡命先の同地で77年の生涯を終えた。
 ルイ16世の処刑に賛成票を投じたことが災いし、彼の遺体はフランスへの帰国を許されなかったが、心臓が現在ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されている。


アルプスを越えるナポレオン
(1801年)
美術史美術館所蔵

 ダヴィッドの名前を知らなくても、この絵画を見た人は多いであろう。ナポレオンがイタリアに向かう途中のアルプスでの様子を描いているが、実際、ナポレオンは馬ではなくラバに乗って移動したようである。ラバよりも馬に乗っているほうが英雄らしいということで、ダヴィッドは馬を描いた。

ホラティウス兄弟の誓い
1784年    カンバスに油彩 326 cm × 420 cm
ルーヴル美術館(パリ)

  フランス国王だったルイ16世が注文した絵画。古典的なシーンが描かれているが、ここには市民の義務と自己犠牲をたたえたダヴィッドの考えが表現されている。ルーブル美術館にあります。
    フランス革命がおきた激しい時代のうつりかわりの中で、ダヴィッドは画家としてだけでなく、政治にも関わった画家であった。描かれている絵は古典的なものですが、その中でダヴィッド自身の信念も伝えたかったのであろう。

ブリュッセルにあるダヴィッドの墓