エゴン・シーレ

エゴン・シーレ(1890年〜1918)
 オーストリア・ハンガリーの首都ウィーン近郊にあるトゥルン・アン・デア・ドナウに生まれる。父は帝国鉄道の鉄道員として働き、後には駅長を務めている。母チェコ系オーストリア人であった。シーレ家は北ドイツ出身でルター派教会牧師、官吏、軍人、医者を輩出した中産階級の家系である。鉄道技師だった祖父がオーストリア北西部鉄道の敷設に関わり、初代監督官に就任したことによってオーストリア=ハンガリー帝国に住むようになる。
 ローマ・カトリック教会が圧倒的なオーストリアにあって、少数派のルター派オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派に属していた。なお、オーストリアでは19世紀後半以降、芸術、文学、建築等で新教徒の活躍が目立ち、彼もその集団の一人でもあった。
 幼少期にシーレは初等教育を受ける為にクロスターノイブルク市へ移住、そこで美術担当の教員から早熟な才能を認められている。教師からの推薦を受けたことはシーレにとって大きな後押しとなった。15歳の時に父が梅毒で病没すると叔父に引き取られた。叔父はシーレが学業に励まないことに悩んだが、同時に芸術への強い興味に理解を示すなどシーレに愛情を持って接している。翌年にシーレはギムナジウムではなく職人としての訓練を受ける許可を得て、16歳の時にグスタフ・クリムトと同じウィーン工芸学校に学んだ。ただ異なったのはクリムトがそのまま職工として開業したのに対し、よりアカデミック色が強く純粋芸術を追求する場であったウィーン美術アカデミーへ更に進学した点であった。
 ちなみにシーレが同アカデミーに入学した1906年の翌年と翌々年には、アドルフ・ヒトラーが同アカデミーを受験して不合格になっている。

  ヒトラーにとっては一生の羨望となるウィーン美術アカデミーもシーレにとっては失望の場でしかなかった。保守的で時代錯誤な古典主義を継承するアカデミーに価値を感じなかったシーレはアカデミーの授業から離れ、代わりに工芸学校時代の先輩であるクリムトに弟子入りを志願した。クリムトとシーレの作風は必ずしも同じ路線ではなかったが、クリムトは熱意ある後輩を大いに可愛がり、貧しいシーレがモデルを雇う代金を立て替えてやるなどした。またクリムトは自身の分離派を初めとして、象徴派や表現主義など新しい作風を模索する作家達が組織したウィーン工房にシーレの入会を推薦した。 クリムトの全面的な援助にも助けられ、1908年には最初の個展を開いている。1909年、アカデミーを正式に退校してアカデミー教育と決別、同時にアカデミーを離脱した仲間達と交流会「ノイ・クンスト・グルッペ、新たなる芸術の集い」を設立した。本格的に独自の活動を開始したシーレに衝撃を与えたのは、分離派の源泉とも言えるフランス印象派の絵画展をクリムトが開いた時のことであった。その展覧会で実物のゴッホの作品を目にし、芸術観に多大な影響を受けた。またゴッホの影響を受けたドイツ表現主義の画家達ムンクの絵画も展示され、彼らからも強い影響を受けた。
 展覧会の刺激で創作意欲に駆られたシーレは精力的に試作を繰り返し、アカデミーの制約を離れた自由な創作を繰り広げた。人体に関する研究も単に人体構造を作品に反映させるだけでなく、性の部分などタブー視されていた部分も作品に取り込もうとした。死や性行為など倫理的に避けられるテーマをむしろ強調するようになっら。裸体や性を描くこと自体は問題視される傾向が減りつつあったが、彼の描く表現は非常に過激だと受け取られた。しかしシーレは倫理的に問題視されるような描写も怯まず作品へ用いていった。画風ではゴッホに代表される表現主義の躍動感ある描き方を好み、特に「向日葵」を賞賛している[3]。自らもゴッホへの賛辞として同じ構図の向日葵を作品として遺している。また自らの生年がゴッホの死没年であることに「運命を感じていた」という。
 1911年、シーレは裸体モデルを務めていた17歳の少女ヴァリ・ノイツェル(1894-1917)と同棲を始めた。彼女と知り合った経緯は定かではないが、二人はウィーンの喧騒を離れて母方の故郷であるチェコのチェスキー・クルムロフ市へ移住している。別段二人の関係は隠し立てされなかったが、シーレの母の一族が住んでいたにも関わらず閉鎖的な田舎町は彼らを歓迎しなかった。というのも絵のモデルとして娼婦などが出入りし、シーレの家でヌードモデルをしていることを近隣の住民が知るところとなり、やがて二人は町から追い出されるようにしてウィーンへと舞い戻った。
 今度はウィーン近郊のノイレングバッハにアトリエを開いて活動したが、下町の子供を誘い込んで絵のモデルにしたり、庭で女性モデルを裸にしてデッサンを描くなどしたため、近隣住民から追い出されるように町を後にすることとなった。
 1912年4月、14歳の少女がシーレの家で一夜を明かしたと警察に告げ、警察が逮捕の為に踏み込むと大量の猥褻な絵が見つかった。その後、シーレは24日間にわたって拘留されている。シーレ自身の手記によれば彼は家出少女に宿を貸しただけで、何らやましいことはしていないと書き残している。しかし裁判所はシーレの絵を猥褻物として押収し、そればかりか裁判官の一人は目の前にあった蝋燭で絵を燃やす挑発行為まで行ったという。
 1914年、ウィーンに戻ったシーレは、通りを挟んだ向かい側に住んでいた中産階級職人の娘、ハルムス家のエーディトとアデーレ姉妹と知り合っていた。シーレはどちらかと結婚することを考え、エディトを選択した。シーレによれば社会的に許される人間を選んだとしているが、実際のところはエーディトとヴァリの両方を繋ぎ留めたいと考え、年に1回それぞれと2人でバカンスに行くなどといった妥協案を2人に提示したが、そんなことが受け入れられるわけもなく、ヴァリは2人の前から去った。そして、ショックを受けたヴァリは二度とシーレの前に現れなかった。シーレはこの時の経験も絵画として描いている。その後ヴァリは従軍看護婦としての訓練を受け、クロアチアに派遣されるも、1917年に23歳の若さで派遣先で病死した。
 1915年6月17日、ウィーン市の中心部ドロテーア通りにあるオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派市区教会でエーディト・ハルムスとの結婚式が執り行われている。花嫁の父は北ドイツ出身の機械工のマイスターでルター派であった。カトリックが圧倒的であったウイーンにおいて、少数派のルター派教徒同士の結婚を選択している。結婚はハルムス家の妹エーディトとしたが、姉のアデーレとも親しかった。エディトの姉アデーレを下着姿のモデルにして作品『紫色の靴下をはいて座っている女』(1917年)を描いているが、その時期シーレと姉アデーレの間には性的関係があった。
 結婚の3日後、第一次世界大戦が勃発すると24歳のシーレはオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集された。作品制作も中止に追い込まれたが、結果としてみればこの出来事はシーレの飛躍に繋がる結末となった。チェコ地方のプラハ駐屯部隊に配属されたシーレは上層部に画家として活動していることを説明すると、軍は芸術家を尊重して前線勤務に就かせなかった。彼は主に後方のプラハで捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争という経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができた。更に1917年に首都ウィーンに転属すると作品制作を再開できるようにもなり、暖めていたアイディアの製作に打ち込んだ。
 1918年、大戦も終わりに近付いた時にクリムトによる第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に公開、それまであまり知名度の高くなかった彼の作品群は一躍注目を集めた。シーレの絵の価格は上昇し、要望を受けて次々と絵の買取依頼が舞い込むようになった。画家としての大きな一歩を踏み出したシーレであったが、妻エーディトが大戦前後に流行していたスペインかぜに罹り、シーレの子供を宿したまま、10月28日に死去。シーレも同じ病に倒れ、妻の家族に看護されたが、10月31日に亡くなった。シーレは死の直前にエーディトのスケッチを遺している。
 シーレの「二十代で早世した天才画家」というイメージは1980年にジェーン・バーキンが主演した映画「エゴン・シーレ」(ビデオ邦題『エゴン・シーレ/愛欲と陶酔の日々』)で知られている。これ以外にも、シーレを題材とした様々な芸術作品が製作されている。エゴンシーレの名を冠した楽曲『ミュージック・フォー・エゴン・シーレ(英語版)』、ダンス、エッセイ、小説などに彼の作品やその人生がモチーフに引用されている。
 作品群は世界中の美術館に収蔵されている。ナチス時代にヒトラー政権によって退廃芸術展が開かれた際、ドイツ国内はもちろん占領地域からもシーレの作品が没収されるなど危機的な状態に置かれ、戦争が終ってからは作品返還についての議論がドイツ国内の美術館を相手に行われている。2010年、オーストリア政府は1900万ドルでシーレの作品を買い戻す依頼をドイツ政府に行った。
  現在レオポルド国立美術館は最も多くのシーレ作品を保管している。2011年に200点以上が存在するシーレ作品の一つが資金調達の為にサザビーズへ委託されたが、オークション価格は4010万ドルまで高騰した。日本では1979年の回顧展がきっかけとなって、展覧会や出版物でシーレがたびたび紹介されるようになった。

死と乙女

1915年 150×180cm | 油彩・画布 | 

 

Osterreichisches Galerie Wien

 

 退廃と官能を描いた作品である。この乙女のモデルは、愛を恐れるが故にシーレが捨てた女性ヴァリィである。後にエディットという名の女性と結婚したが、この絵の人物をみると自らの死を予見しているかのように思える。この作品を描いた三年後、師事してきたクリムト同様スペイン風邪によって亡くなる。享年28歳。