アニサキス症

アニサキス症 昭和62年(1987年)

 日本人の食習慣からアニサキス症は古くからあったが、このアニサキス症を有名にしたのは俳優の森繁久弥さんであった。昭和62年11月、名古屋の御園座で舞台公演中、森繁さんがさばの押しずし(ばってら)を食べ、腹部の激痛を訴えて腸閉塞の診断で緊急手術を受けた。あまりの激痛から開腹手術となったが、激痛は腸アニサキス症によるものであった。この森繁久弥事件を、NHKが特別報道番組として取り上げたことから、アニサキスが有名になった。

 アニサキス症は、名前の通りアニサキスという寄生虫の幼虫によって引き起こされる。アニサキスは、本来はクジラやイルカなどの海棲哺乳類(かいせいほにゅうるい)に寄生する回虫で、成虫が産んだ卵が便から海中に排泄され、サバやスルメイカなどの魚介類に取り込まれて幼虫となる。この幼虫のいる魚介類をクジラやイルカが食べることによってサイクルが形成されるのである。ヒトが感染するのは、アニサキスの第2中間宿主であるサバやスルメイカを食べたときで、魚を生で食べる習慣のある日本人に多く、海外の医学書の記載はまれである。

 アニサキスは大型のサバではほぼ100%が感染しており、サバを観察すると2〜3センチの白い糸クズのような幼虫を見ることができる。もちろんアニサキスはサバ以外の多くの魚類に寄生している。

 アニサキスは人体内では長期生育できず、1〜2週間で死滅する。人間はアニサキスの中間宿主なので、アニサキスは人間の体内では成虫になれず、排便時に肛門から出てくることがある。肛門から白い糸の様なものが出てきて、驚いて病院に駆け込むことがまれにある。

 アニサキス症で問題になるのは、アニサキスが胃や腸壁に穿入(せんにゅう)した場合である。アニサキスは人間の消化管では成長できないため、苦し紛れに粘膜に食らいつき、胃や腸に潜り込もうとする。そのため消化管粘膜に炎症が起き、はき気、おう吐、腹痛などの症状を引き起こす。七転八倒の激しい腹痛から病院を受診することがあり、壁の薄い小腸では小腸穿孔(せんこう)を来すこともまれにある。

 アニサキス症は食中毒とは異なり、下痢や発熱を来すことはない。最初の感染では症状が軽く、2回目以降の感染時に症状が強くなる。このことからアレルギーの関与がいわれている。

 アニサキス症の診断は、魚介類を食べたかどうかの問診が重要になる。また超音波検査で胃や小腸の壁の一部が腫れていれば、アニサキス症の可能性が高くなる。胃アニサキス症を疑った場合は胃内視鏡検査を行い、胃壁に食らいついている虫体を内視鏡で取れば痛みはすぐによくなる。小腸アニサキス症を疑った場合は小腸バリウム造影で診断すが、小腸アニサキスは発見しにくく、腸閉塞、急性虫垂炎、腹膜炎などの診断で開腹手術になることがある。

 小腸まで入り込んだ虫体は摘出できないが、激痛であっても死に至ることはない。有効な薬剤はないので、診断が確実であればアニサキスが衰弱死するのを待つことである。点滴を行い、2、3日の絶食で退院可能となる。

 アニサキス症は、内視鏡が普及するまでは診断が困難であった。かつて刺し身やすしを食べて腹痛を起こし、「あの刺し身は腐っていた」「サバに当たった」と言われていたケースに、アニサキス症が含まれていたと想像される。また、「サバの生腐れ」の言葉もアニサキスによるものと思われる。

 アニサキス症はかつては沿岸地域に見られたが、流通網の発達により長野県のような山間部でも発症がみられる。魚の鮮度が良くなり、アニサキス症は全国津々浦々まで広がっている。しかし本職の店や市販品は注意しているので感染はまれである。外国では日本食ブームで刺し身や寿司を食べて発症することがまれに起きている。平成7年、中国から輸入された養殖用のカンパチからアニサキスが見つかり、200万匹のカンパチが冷凍後に飼料や肥料として処分されたことがあった。

 アニサキスは魚類などの内臓に生息するが、水揚げ後には内臓から筋肉に移行する。アニサキスは冷凍によって死滅するので、一度冷凍した魚は安全で、また50℃以上でも死滅する。一方、酒、酢、塩、しょうゆ、ワサビなどでは死なない。生で食べる場合、よくかんで虫体を殺すのがよいとされているが現実的ではない。

 平成3年3月14日、長崎県福江市(現在の五島市)および周辺の住民が五島列島海域で捕れたカタクチイワシを生で食べ、数時間後に腹痛、はき気、おう吐などの症状を訴えた。そのため、28人(男性21人、女性7人)が病院で治療を受けた。福江保健所と県環境衛生課が食べ残したカタクチイワシを調べた結果、大部分のカタクチイワシからアニサキスを検出した。通常、アニサキス症は散発的で、このような集団発生は珍しいことだった。かつてはアニサキス症を食中毒とする認識がなかったため、正確な患者数は不明であるが、年間2000〜3000件のアニサキス症が発生しているとされている。

 アニサキス症を世界で初めて報告したのはオランダの学者である。昭和35年に、ニシンの酢漬けを食べた後の腹痛例を、アニサキスの幼虫が原因として、「アニサキス症」と名付けた。このことから、昭和43年、オランダではアニサキス症予防のため、ニシンなどをマイナス20℃で24時間冷凍することが法律で義務付けられている。この法律によって、オランダではアニサキス症は消失したが、食文化の違う日本には応用されていない。

 アニサキス症を世界で初めて発見したのはオランダ人であるが、実は日本人がそれ以前からアニサキスを研究していた。昭和34年、北海道岩内町の開業医・石倉肇が急性虫垂炎に似た奇病としてアニサキス症を疑い、30例をまとめて報告していた。石倉医師は寄生虫を疑ったが確認には至らなかったことから、第1発見者の称号を受けることはできなかった。しかし石倉医師は札幌医科大非常勤講師となり、アニサキス症の第一人者として高い評価を得ている。石倉医師は、平成14年に86歳で死去するまで、アニサキスの研究を続け、多くの論文を残している。

 平成11年12月28日、食品衛生法施行規則の一部が改正され、アニサキスも食中毒原因物質となった。つまりアニサキスによる食中毒が疑われる場合は、24時間以内に保健所に届け出ることになっている。