病院長バラバラ殺人事件

病院長バラバラ殺人事件 昭和54年(1979年)

 昭和54年11月4日、北九州市小倉北区の病院長・津田薫さん(61)が「ちょっと街へ出かけてくる。会う人がいる」と夫人に言い残して自宅を出た。津田薫さんは病院長のほか、マンション経営も手掛け、北九州市の高額所得番付で3位にランクされる資産家であった。津田薫さんは小倉のネオン街で派手に遊び、「夜の帝王」、「芸能人好きの病院長」としても有名だった。

 津田院長はその日は帰らず、翌5日の午前9時ごろ、津田院長から夫人に「高い買い物をした。現金を2000万円か3000万円を準備してくれ。車のトランクに積んで、小倉キャッスルホテルに置いてキーはフロントに預けてくれ」と電話があった。

 津田夫人は福岡相互銀行で2500万円を引き出して帰宅すると、「都合で場所が変わった。ホテル・ニュー田川に持って来い」と電話があった。夫人は指示通りに「ニュー田川」へ行ってフロント係に預けた。正午頃、ニュー田川に男性がやって来て、「津田さんから預かっているものをください」と言ったが、フロント係は「貴重品なので、預かり証がなければお渡しできません」と断り、そのことを自宅の夫人に伝えた。夫人は事件に巻き込まれたと思い警察に届けた。

 警察の調べでは、院長は失踪当日に24歳の愛人と福岡市で会っていた。愛人と院長は美術館で絵を鑑賞すると、北九州市に戻り、4時ごろに別れていた。さらに病院に出入りしている製薬会社の社員は、院長が「4日に小柳ルミ子と会うことになっているが、良いレストランが開いてなくて困っている」と言っていたと証言した。警察はこの証言から、院長がホテルの特別室とレストランを予約していたことをつきとめた。もちろん小柳ルミ子の件は架空のものであった。

 11月12日午後3時頃、大分県の国東半島の沖合のノリ養殖場に漂流物が引っかかっているのを漁師が発見。海岸まで曳航して調べてみると、毛布とビニールに包まれた人間の胴体が入っていた。すぐに警察に連絡、指紋から遺体は津田薫さんと判明した。

 遺体をくるんでいた毛布にクリーニング店のタグがついていて、タグから釣具店店主の杉本嘉昭(33)が容疑者として浮上した。杉本嘉昭は院長とは交友はなかったが、院長の病院に入院したことがあった。また遺体を巻いていたロープは、柳川市の卸店から杉本の店に納入されたものであった。さらに11月4日の小倉港発・松山行きの関西汽船フェリー「はやとも丸」の乗船名簿に、杉本嘉昭の車のナンバーが控えられていた。もしそのフェリーから院長の遺体を投げ落とせば、潮流に乗って国東半島の沖合に漂着する可能性が高かった。

 さらに院長の交友関係から、スナック「ピラニア」の経営者・横山一美(27)が容疑者となった。横山一美は院長とよく飲み歩き、杉本嘉昭の友人でもあった。横山一美は院長が行方不明になってから3回、スナック「ピラニア」の絨毯を張り替えていた。昭和55年2月29日、捜査本部は2人を恐喝未遂で逮捕。2人は院長殺害を否認したが、3月31日に横山が殺害を自供、その翌日、杉本も自供した。

 殺害の動機は遊興金欲しさであった。2人は高級車を乗り回し、愛人を囲い借金があったため、共謀して完全犯行を計画した。横山が杉本に、「あの院長を誘拐して脅そう。1億や2億円はとれる」と犯行を持ちかけた。そして横山は津田院長に「小柳ルミ子が、福岡市の公演を終えると、うちの店に来ることになっている。小柳ルミ子に会わせる」と持ちかけた。小柳ルミ子は地元出身で、当時27歳のスターだった。院長は何の疑いもなくその誘いに乗った。

 2人は犯行前に死体運搬用のロッカー、死体解体用のナタ、のこぎり、ポリバケツ、ニューム線、軍手などを買い、犯行当日の11月4日、院長は横山の店で小柳ルミ子を待っていると、杉本が入ってきて散弾銃をつきつけ、横山も匕首を手にとった。院長はポケットから75万円を差し出したが、2人は院長に服を脱ぐように命令した。すると院長は「何をするんだ。こげなことをしてタダで済むと思うのか、わしにはヤクザがついとる」と怒鳴った。

 この直後、横山が匕首で院長の胸を刺した。傷は肺に達していたが、自宅に電話をさせ、夫人から現金2000万円を奪おうとした。2人は院長に電話をかけさせて、横山がホテル「ニュー田川」に行ったが、金の受け取りに失敗したのだった。5日の正午頃、横山が院長の首を絞めて殺害。遺体をロッカーに入れてモーテルに運ぶと、遺体をバラバラに切断した。深夜1時頃に遺体を毛布にくるみ、小倉発松山行きの深夜のフェリーから遺体を国東半島沖の海に捨てた。

 裁判が始まったが、昭和57年2月15日の求刑前日、大分県の長崎鼻沖で院長の頭蓋骨が引きあげられた。昭和63年4月、最高裁で2人は強盗、殺人、死体遺棄の罪で死刑が確定した。

 被害者が1人に対し加害者2人が死刑という厳しい判決であったが、計画的犯行で、院長を長時間苦しませたことから極刑となった。2人が公判中に罪をなすり合ったため、犯行に軽重の差を見出せずに2人とも死刑になった。