米軍王子野戦病院

【米軍王子野戦病院】昭和43年(1968年)

 終戦後、米軍は東京都北区十条の旧陸軍用地を接収し、兵器修理工場「キャンプ王子」として使用していた。昭和41年、米軍はこの「キャンプ王子」をハワイへ移転し、その跡地にベトナム戦争の後方支援として野戦病院を作ることを計画していた。当時、ベトナム戦争の激化に伴い負傷兵が増加してため、埼玉県・朝霞基地の野戦病院だけでは対応しきれず新たな病院が必要だった。

 この米政府の動きに対し、小田実、開高健、鶴見俊輔らが発起人となったべ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)、声なき声の会などの市民団体が、王子野戦病院建設反対を掲げ、デモや街頭ビラなどの行動を行った。彼らはベトナム戦争を米国の侵略戦争ととらえ、日本が基地や病院を提供することは、米国の侵略戦争の手助けになると政府を非難した。「ベトナム侵略戦争やめろ」の声とともに、王子野戦病院は「日本の中のベトナム」として、反戦の象徴となった。

 闘争は特定の市民団体だけでなく、地元の町内会も立ち上がり、エプロン姿の婦人たちが駅頭宣伝やデモを繰り返した。北区の高校の文化祭ではベトナム侵略戦争をテーマに取り上げ、校舎には「王子野戦病院反対」の垂れ幕が掲げられた。このように王子野戦病院の建設は、ベトナム戦争反対と反基地闘争が相まって、激しい街頭闘争をもたらした。

 昭和43年3月18日、米軍は王子野戦病院を突然開院。その前後に、反代々木系学生(全学連)が王子でデモを行い、警官と衝突して157人が逮捕された。全学連の反対闘争は激しかった。彼らはヘルメット姿で、マスクで顔を隠し、手に角材を握り、歩道の敷石をはがして機動隊に投げつけた。

 機動隊員にも多数の死傷者がでた。3月28日の王子野戦病院反対デモでは一部の学生が病院に突入、将校クラブを占拠して179人が逮捕された。このデモはその後も激化し、交番の焼き討ちに発展した。4月1日のデモでは、巻き添えになった通行人が死亡、闘争期間中の負傷者は1500人以上となった。自民党の佐藤栄作総理は「安保条約上、やむを得ない」と発言、この発言は安保条約がベトナム戦争と結びつく要素を暗に意味していた。

 ベトナム戦争の激化に伴い、戦傷兵が直接ベトナムから運び込まれ、マラリアなどの伝染病の発生も心配された。さらに米兵による風紀上の不安が広がった。カービン銃を持った米兵が住民を威嚇し、米兵の基地からの脱走兵も相次いだ。このような状況を背景に、王子野戦病院の閉鎖を求める声が急速に高まり、署名は続々と集まり52万人を超えた。美濃部亮吉・東京都知事も反対運動の先頭に立ち、米軍に野戦病院の移転を要請した。「米国はベトナム侵略をやめよ」「日本は侵略戦争の手先となるな」、このような声が沸きあがった。国民世論が急速に高まり、昭和44年12月、王子野戦病院はとうとう閉鎖に追い込まれた。

 王子野戦病院の跡地は現在、北区中央公園として野球場やテニスコート、サイクリングロード、図書館など充実した施設を備えた憩いの場所になっている。