六価クロム汚染事件

六価クロム汚染事件 昭和50年(1975年)

 昭和48年3月、東京都は都営地下鉄建設のため、江東区大島9丁目の土地を買い上げて掘り起こした。すると大量のクロム鉱滓(こうさい)が見つかり、これが六価クロム汚染事件の発端となった。

 クロム鉱滓とは、クロム鉱から重クロム酸ソーダを作る過程で生じた残りかすのことである。クロム鉱滓はいわば産業廃棄物だが、このクロム鉱滓には猛毒の六価クロムが含まれていた。投棄されたクロム鉱滓は33万トンで、その中には環境基準の2万倍もの六価クロムが含まれていた。東京都が買収したのは日本化学工業の所有地で、大量に投棄されていたクロム鉱滓は同社が捨てたものと判明。さらにクロム鉱滓が投棄されていたのは大島9丁目だけでなく、江東区の広範囲にわたっていた。

 明治時代から江東区にある日本化学工業は、戦後の景気に乗り生産量を伸ばし、それに伴い産業廃棄物であるクロム鉱滓が急増し、工場敷地だけでなく江東区のいたるところに投棄していた。クロム鉱滓を地面に敷くと地面が固くなるため、埋め立て地や造成地にも大量のクロム鉱滓がまかれ、その結果、草も生えず、虫も生息しない荒れ地になった。投棄された場所の周辺では、風が吹くとクロム鉱滓の黄色い粉じんが舞い上がり、雨が降ると黄色い土砂混じりの汚水があふれた。日本化学工業が捨てたクロム鉱滓は合計52万トンに達していた。

 クロムは一価から六価までの化合物があるが、その中で最も使用されていたのが三価クロムと六価クロムだった。三価クロムは緑色の顔料に使われ毒性は弱かったが、メッキや皮なめしに使用される六価クロムは毒性が強かった。

 六価クロムが社会問題になる以前から、メッキ工場の従業員の間で健康被害が起きていた。投棄されていた土地の周辺では、子供の皮膚炎が異常に多かった。六価クロムが皮膚に付着するとアレルギー性皮膚炎を起こし、六価クロムの粉じんを吸うと鼻中隔穿孔を引き起こした。六価クロムは気化しやすいため、鼻の粘膜に炎症が生じ、徐々に鼻中隔潰瘍や鼻中隔穿孔を引き起こした。鼻中隔穿孔とは左右の鼻を分けている鼻中隔に穴が開くことで、それは鼻輪を通した牛と同じになることである。

 工員の間ではクロムの蒸気や粉じんによって鼻中隔穿孔が生じることは以前から知られていた。また皮膚から骨膜に達した六価クロムは激痛をもたらし、末梢神経麻痺を生じさせ、さらに六価クロムの長期暴露によって肺がんを発生させた。工場は六価クロムが身体に有害とは教えず、むしろ体に良いと教育していた。そのため工員たちは、作業衣を着ないで上半身裸のまま重労働に従事していた。

 昭和46年の日本化学工業・小松川工場の調査では、従業員461人のうち62人に鼻中隔穿孔を認めていた。当時は公害という概念は存在せず、鼻中隔穿孔を職業病とする認識はなかった。鼻中隔穿孔を来すことが1人前の労働者と受け止められていたほどで、職業病として工場を糾弾する動きはなかった。

 六価クロムは肺がん誘発物質として知られていたが、工場はその対策を立てていなかった。そのため作業員が肺がんになる頻度が高かったが、従業員が立ち上がったのは、周辺の住民が公害として日本化学工業を追及してからである。同社はクロム鉱滓を投棄して公害問題を引き起こし、従業員の健康管理を軽視していた。このため元従業員や家族たちは、総額54億8000万円の「クロム職業病訴訟」を起こすことになった。昭和14年から小松川工場は六価クロムを投棄していたが、肺がんは退職して数年後に発症することが多いため、肺がんの被害者数は50人以上とされたが、実際の被害者は不明であった。

 六価クロム禍は従業員に健康被害を及ぼし、地域住民に健康被害をもたらし、産業廃棄物を勝手に処理していたなど。多くの問題を含んでいた。六価クロム汚染は、全国にある六価クロム工場も実情はほとんど同じで、江東区の日本化学工業が住宅密集地にあったため被害者を多く出した。この事件をきっかけに、全国各地で六価クロムの報告が相次ぎ、環境庁はクロム鉱滓が全国112カ所に未処理のまま埋め立てられていると発表した。

 昭和52年10月29日、六価クロム禍で初の和解が成立、65人に1億9500万円の補償金が支払われた。さらに昭和56年9月、東京地裁は企業責任を認め、被害者102人に10億5000万円の賠償金を支払うよう会社に命じた。

 東京都は「汚染物は汚染した者の責任で処理する」という汚染者負担の原則に基づき、昭和55年2月、日本化学工業にクロム鉱滓の処理を命じたが、その処理には長い年月を必した。工場跡地に還元剤を入れ、盛り土をして地中に封じ込める処理を行い、跡地を「風の広場」として開放した。