ジョット・ディ・ボンドーネ

ジョット・ディ・ボンドーネ
(1267-1337)70歳ごろ没、イタリア生まれ。
 西洋絵画の父、イタリア絵画の父といわれるジョットはゴシック絵画最大の巨匠で、後のルネサンス期の画家に影響を与えている。つまりルネサンスに必要な3つの様式、空間性・人体把握感情表現を確立した先駆者であった。 ジョットはそれまでの形式化した様式に人間らしさを吹き込み、感情のあるいきいきとした絵画を生みだし、宗教画を描く上での基準となっている。

 イタリアのフィレンツェの郊外で羊番の少年だったジオットは、岩に羊の頭を描いていた。偶然通りかかったイタリア絵画の創始者チマブーエはその写実力に驚き、すぐに父親を説得してジオットを弟子にした。さらにチマブーエが工房を留守にしている間に、ジョットがハエをチマブーエの作品に描いたところ、戻ってきたチマブーエが本物のハエと勘違いして何度も絵筆で追い払おうとした。その他のエピソードとして、教皇がジョットに使いを出し、技量を確認するために何か描いてみるよう要求した。ジョットは赤い絵の具で正確な円を描き、それを持って帰らせ教皇に見せるよう使いに頼んだ。このエピソードはフリーハンドで正円を描くこと、さらにはデッサン力が画家の器量になることを示している。

 当時の絵画は、ビザンティン様式で生気のない絵画が支配的だった。題材はほとんどが聖人や天使など誰も見たことのないものばかりで、自然をリアルに描く者はいなかった。ジョットは絵画に浮き彫り的な空間、内面に迫る心理描写をもたらし、それまでの絵画を新たなものにした。

 絵画のほとんどが宗教画だった当時、教えを広めたい教会は、民衆にもわかりや すい絵を必要としていた。 しかしそれまでの宗教画は、型にはまったように、神秘的、象徴的な雰囲気を平板に表現しているだけで、人間の感情が欠けていた。

 だがジョットの作品は違っていた。彼は日常的なしぐさや目線を使うことで、 登場人物に自然で人間的な表情を与え、人間の感情を明確に表現した。さらに、人物を遠近表現を使った奥行きのある現実的な空間に描いた。こうして、宗教画は現実的で身近なものになり、意味もわかりやすくなった。同時代の詩人ダン テも「神曲」のなかで、ジョットを最高の画家と賛えている。

 生きているような人物像、自然をありのままの表現する方法、そして物語の劇的な解釈で、「絵画に命を与えた」とされている。これまでの絵画の世界に革命を起こしたことから「偉大なる個性の創造者」といわれ、文学の祖ダンテと並び、イタリア絵画の創始者と讃えられルネサンス期はジョットから始まるとされている。

 ジョットと同時代の画家ヴィッラーニは「ジョットはこの時代における最大の巨匠で、ジョットが描く人物やポーズはこの上なく自然に見える。その才能と卓越した技術によって、ジョットはフィレンツェのお抱え画家となった」と書き残している。ジョットはフィレンツェの経済力を背景に大規模な工房を経営し、多くの弟子を抱え多くの注文をこなした。新しい時代の画家として富と名声を手にして、当時、理想の画家と讃えられていた。
 当時、自然をありのままに表現する古代彫刻の発掘が相次ぎ、ジョットの絵画は彫刻的な空間や形を絵画の中に取り入れたと注目された。

 彼の墓碑には「私は絵画に命を与えた人問である」と刻まれている。

 

『フレスコ画』壁に塗った漆喰が乾かないうちに、水で溶いた顔料で描く。毎日、その日の分だけ漆喰を塗って描く。描き直しが難しいので制作には熟練が必要である。

ユダの接吻(裏切り)
1304-1306年 150×140cm | フレスコ
スクロヴェーニ礼拝堂(イタリア・パドヴァ)

 神の子イエスに接吻をおこなうユダの姿が描かれている。本来ならば愛情を示す接吻が(ユダの)裏切りという罪の重さを強調している。二人の周囲には松明や長槍を手にする大勢の兵士らが描き込まれ、その中には受難者イエスの逮捕を指示するユダヤの司祭長(画面右側最前景の人物)の姿が確認できる。

 祭司や兵士たちが松明や武具を持ち、イエスを捕らえようとイエス一行と激しいぶつる中で、この喧噪と隔絶した空間にイエスとユダが不動の姿勢をとっている。美しい横顔を見せ澄んだ眼差しでいるイエスに対し、ユダは唇を突き出した醜い表情をしている。ユダは銀貨30枚で神の子イエスの身柄を引き渡す密約を交わし、ユダが司祭や兵士らを引き連れ、ゲッセマネの園(オリーブ山麓の園)で祈りを終えたイエスと対面し、どの人物がイエスかを示す為に接吻をおこなっている瞬間である。聖なるイエスとサタンに魅入られたユダが相対した劇的なフレスコ画で、身に着けた黄色の外套を広げイエスへ近づき、裏切りという罪に歪むユダの醜状的な表情、凛とした美麗なイエスの表情などは連作壁画の中で特に優れている。

 使徒のうち、12使徒のひとりである聖ペトロ(画面左側で光輪が描かれる人物)が逆上し、ユダヤ司祭の耳を切り落とそうとしている。左側にその様子が描かれていて、この司祭の名前はマルコスという。このあとキリストが司祭マルコスの耳の治癒をする。敵も味方もなく、救い主としての務めを果たすキリストの生きざまを示すエピソードとなっている。

 この後、弟子たちはキリストを見捨て逃げ出が、イエスはそのことを承知していて、イエスの目は目前のユダだけでなく、遙か遠くの神の国を見ているのであろう。

 ジョットの画風は著しく変化するが、本作品はジョットの基準作となっている。このフレスコ画が見られるスクロヴェーニ礼拝堂は、エンリコ・スクロヴェーニが高利貸しであった父の贖罪のために建設したされてきたが、エンリコ自身の自己顕示のための礼拝堂との説もある。礼拝堂はジョットの壁画で埋め尽くされ、さながらジョット美術館の様相を呈している。イタリア美術史上最高の傑作と言われており、3段に分けられた左右の壁面には38の聖書の物語、入り口側の大壁面には「最後の審判」が描かれている。

  左右壁面中段に描かれる「キリストの生涯」を題材とした24場面中、第13場面「ユダの裏切り(ユダの接吻)」で、新約聖書の4福音書に記述が残されている。

東方三博士の礼拝

1310年頃

ニューヨーク、メトロポリタン美術館

 中央で横たわるのは出産間もない聖母マリアで天使たちに祝福され、羊飼いたちに見守られ、聖ヨセフとともに三博士を迎えている。二人の博士は贈り物を手に待機し、最年長の博士は幼子イエスの礼拝している。冠を脱ぎ、ひざまずき、飼い葉桶から布にくるまれたイエスを抱き上げている。

 貧しく旅の途上にある聖家族の様子は驚くほど写実的で、博士たちの豪華な出で立ちと引き比べ、何一つ持たぬ生まれたばかりのキリストの姿は、困難に満ちた生涯をすでに感じさせるものとなっている。

 フランシスコ修道会に属する教会のために描いた祭壇画の一部と言われ、地味ではあるが、ジョットの革新性がみられる。幼いイエスの寝る飼い葉桶が隆起した地面の上にじかに置かれ、何の装飾もベッドもない。向こうにはロバと牡牛が礼拝の様子を見守っている。

 フランシスコ修道会は、礼拝者に写実的な方法でキリストの生涯を示したことで知られている。その方針はジョットの持つ感覚と合致したようである。

 聖母、聖ヨセフ、三人の博士、フランシスコ修道会の僧服を着て犬を連れた羊飼いたちまでも、血のかよった人間らしい、それぞれの表情の人物たちの個性が生き生きと表現されている

聖フランチェスコの遺骸に別れを告げる聖女キアーラと修道女たち

1300年

アッシージ サン・フランチェスコ教会上堂壁画

 破損部分が多く残念であるが、この作品はサン・フランチェスコ教会上堂に制作した壁画「聖フランチェスコ伝」の一つで、 聖フランチェスコの亡骸にすがって嘆き悲しむのは聖キアーラとその妹アニエーゼと思われる。

 貴族の娘としてアッシジに生まれたキアーラは、18歳のとき、両親の反対を押し切って家を出、1212年に聖フランチェスコの最初の女性の弟子となった。その後、聖フランチェスコの清貧の理想を守り「貧しきキアーラ女子修道院」を開いた。1241年、東北のサラセン軍が修道院を襲ったとき、キアーラの祈りによって異教のサラセン軍を退散させたとされている。またキアーラの臨終には聖母マリアが魂を迎えに来たと伝えられている。キアーラの人生は悲惨なもので、死期近い彼女を訪れた教皇が、直接地面に横たわる姿を見て涙を流したと言われている。

 聖フランチェスコとキアーラは、困苦の生活を共にしようとするが、非難の目にさらされ別れねばならなかった。富裕な家の娘がなぜフランチェスコを追って、自らすすんで苦しい人生を選んだのか、そしてフランチェスコ自身もどのような展望を抱いて彼女の想いを受け入れたのか判らない。しかし一途なキアーラを想うとき、最期には聖母マリアに、神にに愛され、受け入れられて天国にのぼったのだと信じたい。

 ところで「キリスト哀悼」を思わせるような劇的な深い悲しみの場面であるが、この画風は真正のジョットの作風とは異なると言われている。西洋美術史上、作品の真偽について議論のある画家も珍しい。間違いなく真作とされているのは、パドヴァのスクロヴェーニ家礼拝堂の壁画他の少数だけである。

荘厳の聖母(オニサンティの聖母)
1306-10年頃 325×204cm | テンペラ・板 |
ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

 西洋絵画の祖ジョットが、フィレンツェのオニサンティ聖堂の祭壇画として制作したの傑作である。ジョット以前の絵画はすべて平面的に描かれてきのだが、荘厳の聖母では正確な遠近法にはまだ遠いが、聖母マリアの座る玉座が立体的に描れ、空間に奥行きが生まれている。中央の玉座の奥行きは遠近法で描かれ、荘厳な聖母を他の人物より大きく描いたことで、神界の序順を表している。中央の玉座に聖母マリアと幼子イエスを描き、その左右に複数の聖人を配する祭壇画(宗教画)独特の配置である。

 祭壇画の原型になった作品で、中央の玉座に描かれた聖母マリアは、それまでは平面的に描かれてきたが、ジョットは聖母と幼子イエスの内面性まで表現している。聖母の現実と向き合うかのような眼差しが特徴である。この眼差しがのちの「モナリザ」にみられる視線の表現に影響を与えたとされている。

 人体把握だが、たとえばマリアの膝のあたりを見ると、流れるような衣紋が描かれている。これは革新的なことで、それまでは服の中の人体を表現した作品は存在しなかった。
 幼子イエスは、周囲に集まる聖者たちに祝福のポーズで応え、威厳の中にもキリストの神秘性と不可侵性を表現している。また教会堂建築がリブ-ボールト(肋骨穹窿)・バットレス(控え壁)・尖頭アーチで構成されている。高い尖塔や尖頭アーチが、強い上昇効果を表している。ゴシック様式は12世紀中頃、北フランスから始まり、数十年の後に諸外国へ伝達し、それぞれの国で独自の発展を遂げた様式である。

聖痕を受ける聖フランチェスコ
1290-1300年代 312×162cm | テンペラ・板 |
ルーヴル美術館(パリ)

 ピサのサン・フランチェスコ大聖堂の主祭壇画として制作された。同地のサンタ・ニッコロ聖堂を経て、パリのルーヴル美術館に所蔵されている。本作は裕福なアッシジ商人の放蕩息子が信仰に目覚め、聖フランシスコ会を創始した名高き聖人「聖フランチェスコ」となった伝説を主題とした作品である。
 アッシジ聖堂身廊の28面からなる連作の中の一枚である。聖人フランチェスコが晩年、50日間の断食後に体験した脱魂時に、有翼のセラフィムを通じて主イエスと同じ聖痕を受けたとされる場面である。

 中央左側へセラフィムの登場に驚く聖フランチェスコが、その対角線上には主イエスを連想させる6翼のセラフィムが両手足と脇腹に刻まれる聖痕を聖人へ授ける(印す)姿が描き込まれている。明確で力強い輪郭線や登場人物の量塊感、絶妙な配置などには、ジョットの主題に対する傾向が示され、同時期の画家の様式を研究する上で重要視されている。なお下部のプレデッラ部分(左から「イノセント3世の夢」「教皇による会則の許可」「小鳥への説教」)は弟子の手による。

ヨアキムの夢(連作)
1304-1306年200×185cm | フレスコ |
スクロヴェーニ礼拝堂(パドヴァ)

 本作品は裕福な野心家エンリコ・スクロヴェーニの依頼により、同氏が建てたサンタ・マリア・アヌンツィアータ聖堂(アレーナ礼拝堂)の壁面装飾として制作された。ヨアキム伝、聖母マリア伝、キリストの生涯、善徳の寓意像、悪徳の寓意像、最後の審判から構成される宗教画で、ヨアキム伝第5場面「ヨアキムの夢」を主題にしている。「ヨアキムの夢は聖母マリアの父ヨアキムが妻アンナが子供(聖母マリア)を身ごもっているので、すぐ戻るようにと天使がつげる」夢の場面である。静謐で精神性の深い場面で注目すべきは、画面右下へ配される老ヨアキムの立体的な描写と、その対角線上にの聖告の天使の浮遊的な描写である。さらにヨアキムと天使に呼応するかのように、右上の岩山と左下の羊飼いよる全体の均衡性である。

金門での出会い(連作)
1304-1306年 200×185cm | フレスコ |
スクロヴェーニ礼拝堂(パドヴァ)


 「金門での出会い」は、子供を授かることがなかったエルサレムの老夫婦ヨアキムとアンナの話で、夫ヨアキムが神への供物の羊を捧げに神殿へ行くが、神殿から子供がいないことを理由に追い返され、途方に暮れた後、羊飼いの住まう荒野(山)に引き篭もる。しかし老夫婦の願いを受け入れた神の命により、大天使ガブリエルが家で祈りを捧げる妻アンナのもとを訪れへ子供(後の聖母マリア)を懐胎することを告げた。またヨアキムもその夢を見て急ぎエルサレムへと帰り、同地の市門のひとつ黄金門で夫婦が再会して、受胎を喜び、抱擁・接吻し合う場面である。画面左側の夫ヨアキムと妻アンナが、金門の前の小橋の上で再会して子供の懐胎を抱擁と接吻によって喜び合っている。また背後では妻アンナに付き添う女性らが柔らかい微笑みを浮かべている。
 密度の高い人物・建物などの構成や柔和な造形、宗教画としての威厳性と絵画的な優美性の融合、人間性に溢れた登場人物の感情描写などは当時のジョットの表現の典型例であり、今も人々に感動を与えるほどである。

 なお金門は旧約聖書の預言者エゼキエルが預言した「閉ざされた門」と同一視され、このことが聖母マリアの処女の解釈とされている。

 ダンテの神曲にも登場するパドヴァの高利貸しレジナルドの息子エンリコ・スクロヴェーニが建立したサンタ・マリア・アヌンツィアータ聖堂の装飾画とし て、同氏からの依頼により制作された壁画連作(ヨアキム伝、聖母マリア伝、キリストの生涯、善徳の寓意像、悪徳の寓意像、最後の審判)のひとつである。

キリストの哀悼(連作)
1304-1306年 200×185cm | フレスコ |
スクロヴェーニ礼拝堂(パドヴァ)

  キリストの哀悼は37場面からなるフレスコ画のひとつ。ユダヤの民を扇動したとして磔刑にされた受難者イエスの亡骸を聖母マリアが抱えている。足元にいる赤い衣装の女性はマグダラのマリアである。その他、聖ヨハネ、アリマタヤのヨセフ、ニコデモらが囲み嘆き悲しんでいる。画面下部左側にはイエスの亡骸を抱き悲哀の表情を浮かべる聖母マリアが描かれている。それまでは超越的な存在である聖人たちが、絵画のなかで悲しみや痛みを顔に表すな 考えられなかった。しかし哀悼ではイエスを囲むすべての者が悲しみに顔をゆがませている。

 さらに受難者イエスの対角線をなすように岩山が描がかれ、その途中(画面ほぼ中央)には聖ヨハネが両腕を広げ主イエスの死に絶望する姿が、山頂となる画面右上には一本の枯れた樹木が配されている。さらに天使らに視線誘導が講じられ、この空間構成は壁画の中でも特に工夫されている。

 空を飛び交う天使らも悲しみを表現し、また注目すべきは登場人物の感情に富んだ生身の人間的表情にある。特に聖母マリアが、我が子キリストの最後を見つめ溢れ出す感情を噛み殺すかのような口元、イエスを見つめる深い視線の感情描写にジョットの絵画表現の頂点をみることができる。

十字架上のキリスト
1300-1305年頃 | 430×303cm テンペラ・板 |
サン・フランチェスコ聖堂(リミニ)

 ジョットがアドリア海に面する古都リミニに滞在していた1300年から1305年頃に描かれた。磔刑に処される「主イエス」を十字架形の板絵で表現している。従来の磔刑図では、イエスの体は曲線美を意識したS字で描かれていた。しかし、実際に人間が磔にされると腰に重みがかかり膝が曲がる。ジョットはその様子を忠実に描いた。

 受難者イエスの姿は当時のジョットの表現的特長である彫刻的立体感を残しているが、印象としては苦痛と悲哀に満ちた主の姿というより、薄く微笑を浮かべるような独特の精神性の深度を見せる。本作品は1934年に修復されているが、それまでの保存状態も良好で、生涯の中でその様式を変化させたジョットの特長を比較的強く見せている。また頂上部には「祝福する贖罪主キリスト」の板絵が配されていたが、現在は散逸している。

      パドヴァにあるスクロヴェーニ(アレーナ)礼拝堂のジヨッ卜の壁画。
   この建物は資産家のエンリコ•スクロヴェ一二がアレーナ地区に家の隣に建てた。