ブルーボーイ事件

ブルーボーイ事件 昭和44年(1969年)

 昭和44年、東京地裁の熊谷弘裁判長は優生保護法違反で東京都中央区の青木病院院長・青木正雄医師(41)に懲役2年、執行猶予3年、罰金40万円の有罪判決を下した。産婦人科医である青木医師は、3人の男性(ゲイボーイ)から女性になりたいと頼まれ、1人6万円で性転換手術を行った。睾丸摘出、陰茎切除、造膣などの性転換手術が優生保護法違反として罪に問われたのは、わが国では後にも先にもこの事件だけである。

 この性転換事件は「ブルーボーイ事件」として、事件発生の昭和40年から判決が下る44年まで世間の注目を集めた。この事件が発覚したのは、赤坂警察署が検挙した売春婦を調べたところ、毛深く声の太い売春婦が含まれており、問い詰めたところ男性であることが分かったからである。その男性は、青木医師から性転換手術を受けたと自白したのである。

 ブルーボーイというのはパリのカルーゼル・ショー劇が来日した際に、男性から女性へ性転換したダンサーをブルーボーイと呼んでいたことが語源になっている。このブルーボーイ事件には被害者は誰もいない。青木医師が医師法に違反したわけでもない。また医療ミスを犯したわけでもない。罪に問われたのは、青木医師が行った性転換手術が優生保護法(現在の母体保護法)に違反したからである。

 優生保護法の第28条「故なく、生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない」という条文への違法性を問われたのだった。しかしこの優生保護法違反は青木医師を有罪とするための名目上の理由であって、青木医師が性転換手術を闇で行っていたことが有罪の本当の理由であった。つまり性転換手術そのものが優生保護法に違反しているわけではない。

 弁護側は「性的倒錯者の性格を変える方法はなく、むしろ性転換をして精神的な苦しみを解消させる手術の方が正統な医療行為である」と主張した。これに対し検察側は「完全な女性になれないのだから、異常な欲望を満足させるだけで、取り返しのつかない手術は正当とはいえない」と反論した。判決で熊谷裁判長は、性転換手術の法的問題は日本では未開発の分野だが、正当行為と認められるためには少なくても次ぎの3条件が必要だとした。

 <1>精神的、心理的観察を行い、一時的な気分による者を排除すること<2>家族、生活環境を調査し、人間形成の過程を調べ手術がやむを得ないかどうかを調べること<3>精神科医を含んだ複数の医師団の決定によること。

 このように裁判所は性転換手術の合法性を示したのである。つまり性転換を希望する患者は、適切な精神科コンサルトなどの手順を踏めば性転換手術は可能としたのである。

 青木医師が罪を受けたのは、カルテも作らずに闇で手術をしていたからで、また青木医師は友人に医療用麻薬オピアト注射液10本を合計6000円で譲り、この麻薬取締法違反が絡んでいたので重い判決となったのである。この判決で、裁判所は「性転換手術を行うためのガイドライン」を提示したが、この事件は性転換手術に対して必要以上に医療機関を委縮させてしまった。

 医療機関だけでなく患者も「性転換手術そのものが違法」と誤解したのである。裁判所は「もし性転換手術を行うなら、こうあるべき」との的確な指針を示したのに、なぜか「性転換手術は違法」との誤解が広まったのである。

 このブルーボーイ事件を境に、日本では性転換手術はタブー視され、手術をする医師はいなくなった。性転換手術を違法行為と誤解したため、性転換手術を希望する者はモロッコなどの海外で受けるようになった。ゲイボーイとして有名なカルーセル麻紀さんも日本では手術ができず、昭和47年にモロッコで手術をしている。

 このようにこの事件から30数年間、自分の性に強い違和感を持ち、別性になりたいと悩む性同一性障害者の手術はタブー視されていた。平成10年になって、埼玉医大が性同一性障害女性の性転換手術を行い、これをきっかけに性転換手術が行われるようになった。

 性転換手術といえども、当然ながら性を転換することは不可能である。内性器を摘出、外性器を構築して性器の形状を異性のものに変えるだけで、どんなことがあっても女性は死ぬまで女性である。学校で習ったように、性別は染色体によって決定されているからである。

 性転換手術を受けても、戸籍の性を変更することはできなかったが、平成16年7月、性同一性障害者性別特例法が施行され、家裁の審判で戸籍上の性別を変更できるようになった。カルーセル麻紀さんも家庭裁判所へ戸籍の変更を申し立て、同年10月、戸籍の性別変更が認められ晴れて「女」になり、カルーセル麻紀さんは「平原徹男」から「平原麻紀」となった。

 昭和44年のブルーボーイ事件までは性転換手術は意外に多く行われていた。ブルーボーイ事件摘発の背景には、警察が性転換によって女性になった男性街娼の対策に手を焼いていたからでで、彼らは戸籍上男性なので、売春防止法で取り締まることができなかったからである。

 そこで優生保護法を持ち出し、「性的に不能にする手術は行ってはならない」との規定を無理矢理当てはめ、あたかも性転換手術そのものが違法行為であるようなイメージを植えつけたのである。