水俣病・有機水銀中毒

水俣病・有機水銀中毒 昭和31年(1956年)

 熊本県・水俣市は熊本市から90キロ、鹿児島県との県境に近い人口約5万人の小都市である。不知火海(しらぬいかい)に面したこの水俣市が、公害の中で最も大規模で、最も悲惨な患者を生んだ水俣病の舞台となった。

 昭和31年5月1日、水俣市の新日本窒素(現、チッソ)水俣工場付属病院の細川一院長が、「水俣市の漁村一帯に、これまでに見たことのない奇病が多発している」と水俣保健所に報告。細川院長が保健所に報告した奇病とは、歩行障害、言語障害、狂躁状態などの中枢神経障害をきたした小児患者で、チッソ水俣工場付属病院に入院していた姉妹(5歳の姉と2歳の妹)に関する報告で、水俣病が公になった初めての症例であった。

 この姉妹は水俣市内月浦に住む田中義光さんの子供で、姉妹の症状は進行性で日本脳炎に似ていたが、日本脳炎の特徴である発熱、頭痛、嘔吐はみられず、これまでに経験したことのない悲惨な症状を示した。さらに医師たちを驚かせたのは、同じ症状の患者が近所にもいるという家族の話だった。そのため内月浦地区周辺を調査すると、田中姉妹と同じように四肢の筋肉を硬直させ、狂声を発する患者8人が見つかり入院とになった。

 昭和31年5月16日、熊本日日新聞は「水俣に子供の奇病、ネコにも発生」との見出しで水俣病を報じた。この水俣の奇病は人間に限らず、他の動物にもみられていた。

 海岸周辺の住民の話から、10年以上も前から水俣湾の魚介類が大量に死んでいることが確認された。また数年前から、「ネコが痙攣を起こし、よろけながら歩き、狂ったように急に走り、壁にぶつかり、あるいは海に落ち死んでしまう」という不気味な現象が知られていた。さらにふらふらと飛んでいたカラスが急に落下するのを住民が目撃していた。

 その2年前の昭和29年7月31日、熊本日日新聞は、「ネコがてんかんで全滅」の見出しの記事を掲載していた。漁村では、ネズミに網をかじられないようにネコを飼う家庭が多かったが、そのネコが全滅したため、ネズミが増えて、網がかじられる被害が多発していた。

 その当時は、ネコの病気は問題にされず、住民たちはこれを「ネコ踊り病」「ネコの自殺」と呼んでいた。さらに飼いネコが「ネコ踊り病」で死んだ家では、その後、同様の症状の患者が発症していた。

 5月28日、水俣市役所、市立病院、市医師会、保健所、チッソ水俣工場付属病院の5者が集まり、「水俣奇病対策委員会」が組織され、対策に乗り出すことになった。周辺地区の調査が行われ、この奇病は3年前から広がっていて、この奇病に取りつかれた患者は30人で、11人が死亡していることがわかった。急性発症の激症型はほとんどが死亡し、慢性型は重症例が多く、この悲惨な奇病の致死率は37%に達していた。原因は全く分からず、治療法もなく、患者は廃人となり狂気のまま死を待つだけであった。

 患者の家はすべて漁業を営んでいて、水俣湾の入り江の漁村に住まいが集中していた。特に月の浦、湯堂地区に患者が多く、しかも同じ家族に同じ患者がいることが特徴であった。狭い地域に集団で発生し、患者の家のネコも「ネコ踊り病」で死んでいたことから、この奇病は新種の伝染病とされた。そのため、白衣を着た保健所職員が患者の家を真っ白になるまで消毒し、患者は疑似日本脳炎として隔離された。

 この伝染病のうわさから、患者たちはさまざまな差別を受けることになる。患者の家の前を通る人たちは、手で口をふさぎ、足早に過ぎていった。患者が街を歩けば、住民は汚いものを見るように、遠くから見つめていた。患者がバスに乗ると、乗客は席を立ち離れようとした。このように患者や家族は病苦だけでなく、周囲からの差別を受け、孤独の中で苦しみ、村八分と同じ扱いを受けた。

 6月に、水俣工場付属病院の細川院長は熊本大学医学部付属病院の勝木司馬之助院長を訪ね、12人の患者を熊大へ学用患者として入院できるように依頼した。この日から熊大医学部は水俣病の解明に乗り出すことになる。8月には熊大医学部に「水俣奇病研究班(班長、尾崎正道医学部長)」が設置され、臨床、病理、疫学など多角的に研究がなされた。その結果、最初は子供の病気とされていたが、成人にも多発していること、患者は熊本県南部の水俣市一帯に限定していること、水俣湾の魚介類を多く食べていること、患者は64人で、21人が死亡していることが分かった。

 この奇病は、細川院長の公式届け出(昭和31年5月)以前から多発していた。昭和28年12月15日、5歳の少女がチッソ工場付属病院に原因不明の脳障害と診断されて入院したが、後にこの少女が水俣病認定第1号の患者となった。

 水俣病は、想像を絶する悲惨な症状で、初期症状は視野が狭くなり、舌の運動障害による言語障害や手足のしびれ、運動障害などを示した。症状が進行すると、四肢の運動障害が強くなり、手足が硬直して立てなくなった。患者は面会にくる家族や知人を、誰なのか判別できずに後ずさりした。さらに痙攣や精神障害をきたし、廃人同様の状態から死に至った。

 同年11月4日、熊大水俣奇病研究班は、「水俣病はある種の重金属による中毒で、人体への侵入は魚介類による疑いが濃い」と発表したが、この重金属が何であるのかは不明であった。第1内科は手足の震えや運動障害からマンガン中毒を、精神神経科は多発性の神経症状からタリウム中毒を、公衆衛生教室は視力障害からセレン中毒を疑ったが、いずれも決め手がなかった。

 昭和32年3月、水俣保健所の伊藤蓮雄所長は「ネコ踊り病」が水俣病と似ていることに注目し、水俣湾の魚をネコに与える実験を行った。実験開始から10日目、ネコに水俣病同様の「ネコ踊り病」を発症させることに成功。水俣病は何かに汚染された魚を食べたことによって起きたと考えた。もし魚介類が原因ならば食中毒になる。熊本県は魚中毒の報告を受け、食品衛生法の適応を考え、厚生省に見解を求めた。厚生省は食品衛生調査会のなかに「水俣食中毒特別部会」を設けて検討することになった。

 一方、熊本県水産課は、因果関係は明確ではないが、工場排水による魚介類汚染によると考え、食品衛生法に基づき工場排水の停止、漁獲禁止を行おうとした。しかしチッソと日本化学工業協会は政府に圧力をかけ、厚生省は熊本県の処置を認めなかった。漁業の補償問題を懸念した行政は、すべての魚介類が有毒化している証拠がないとして、漁獲禁止の措置をとらなかった。

 水俣の漁民は病気を恐れ、また水俣湾の魚は売れずに水揚げは激減した。昭和31年に45万トンだった水俣湾の水揚げは、翌32年には1万トンまでに激減。漁民は生活の補償を受けられず、どん底の生活に追い込まれた。一方、この水揚げの激減により、32年には新たな患者の発症はみられていない。

 熊大水俣奇病研究班は第2回研究報告会で、「水俣湾の漁獲を禁止する必要がある」と結論を出し、汚染源として水俣湾に排水を流しているチッソ水俣工場を疑った。チッソ水俣工場以外に海を汚染するような工場はなかったが、確証がないため名指しはできなかった。

 水俣市はチッソ工場を中心に商店街が連なり、「チッソ城下町」とよばれていた。市民の多くがチッソ工場で働き、チッソは水俣市のドル箱と言われていた。地元の人たちはチッソが奇病の原因と疑ってはいたが、チッソで成り立っている水俣市では、チッソ水俣工場の存在はあまりにも大きく、市当局や市議会は常にチッソに逃げ腰だった。

 チッソは工場内の立ち入り調査を執拗(しつよう)に拒否、そのため工場内の調査は不可能であった。工場排液が怪しいと疑っていたが、水俣市の財政の半分以上を占めているチッソ水俣工場に立ち入る勇気がなかった。「チッソ城下町」と呼ばれていた水俣市は、会社の責任を追及せず、そのため原因究明は大きな遅れをとった。

 貧しい漁民たちは生活苦に耐えかね、漁業を再開することになる。そのため時間が経つとともに犠牲者が再び増えていった。昭和34年までの患者数は79人、そのうち32人が死亡する事態に至った。

 患者が増え、死亡者も続出しているのに原因は明確にされなかった。少なくても汚染された魚が原因で、伝染病でないことは明らかであった。伝染病は否定されたが、患者たちはかつての癩病や結核などの伝染病患者が受けたのと同じような差別と偏見を受け、周囲の目を気にしながら、発病を隠しながら死んでいった。

 昭和33年9月、それまで水俣湾へ直接流していた排水経路を、チッソ水俣工場は突然反対側の水俣川河口へと変更した。それまで狭い水俣湾に停留していた廃液が不知火海へ直接流されることになった。なぜ排水経路を変更したのか、この点について会社側の説明はなかった。チッソ水俣工場は工場排液を水俣病の原因と認めていなかった。しかし、多分、狭く限局した水俣湾に廃液を流すよりは、広い不知火海へ流すほうが希釈され、被害が少なくなると予測したのであろう。

 この排水路の変更によって決定的なことが起きた。水俣湾周辺に限局していた水俣病患者が、不知火海全域に広まったのである。それまで患者がいなかった不知火海沿岸各地、さらに離島にも患者が続出する事態になり、不知火海沿岸はパニックに陥った。この工場排水路の変更が被害を拡大させ、工場排水が水俣病の原因である可能性を高めていった。

 昭和34年7月22日、熊大医学部の水俣病研究班が「チッソ水俣工場の排水中に含まれるメチル水銀が魚貝の体内に入り、これを多食した者が発病する」という有機水銀中毒説を発表した。これは水俣病が有機水銀中毒(ハンター・ラッセル症候群)の症状と似ていることからの推測であった。

 熊大医学部は「水俣病の有機水銀中毒説」を発表。病理学的所見を武内忠男教授が、臨床の立場から徳臣晴比古助教授が、公衆衛生の立場から喜田村正次教授が有機水銀中毒説を説明した。熊大医学部が水俣奇病研究班を発足させてから3年目に、やっと水俣病の本体が見えてきた。

 チッソ水俣工場が排水経路を変更して、不知火海沿岸全体に被害が広がると、沿岸の住民たちは水俣病への不安、魚が売れない生活苦からチッソ水俣工場と直接交渉しようとした。チッソ水俣工場が水俣病の原因とする確証はなかったが、誰もが確信していた。

 昭和34年7月31日、水俣市の鮮魚小売商組合は、水俣湾およびその近海で捕れた魚を買わないことを決議。水俣湾周辺の漁民たちは仕事を奪われ死活問題となった。

 昭和34年10月、チッソ水俣工場付属病院の細川一院長は工場の排水をネコのえさに混ぜ、ネコに水俣病と同じ症状が出ることを確認した。さらに解剖の結果、人間の水俣病と同じ所見であることを突き止めた。この「ネコ400号の実験」によって水俣病の原因は工場の排水であることが確実となったが、工場長はこの結果を握りつぶし、公表を禁止して実験の中止を求めた。このようにチッソ水俣工場は、同年10月の時点で水俣病の原因が自社の排液であることを知っていたが、この重大な事実について箝口令(かんこうれい)を敷いた。

 昭和34年10月以降、工場幹部は水俣病の原因を廃液と知りながら、うやむやにする工作にでた。まず患者や漁民にわずかばかりの見舞金、補償金の支払いを約束。その条件として、「将来、水俣病が工場排水によるものと判明しても、新たな補償金の要求は一切しない」という項目を入れた。さらにこの補償金は会社側の責任を示したものではなく、あくまでも「隣人愛による行為」とした。

 このような説明と、わずかばかりの補償金に漁民たちは納得しなかった。同年11月2日、不知火海沿岸36の漁業協同組合の漁民1500人が、漁船に幟(のぼり)を立て水俣に集結、地元漁民300人と合流した。漁民たちは水俣工場の排水中止を叫び、水俣市内をデモ行進、水俣駅前で決起集会を開いた。漁民たちは決議文をチッソ水俣工場に渡そうと工場へ向かったが、チッソ水俣工場は話し合いに応じず、漁民が求める操業中止、補償金の要求を拒否した。

 この工場側の態度に漁民たちの怒りが爆発。数百人が工場に乱入し、事務所を手当たり次第に破壊していった。チッソ水俣工場は警官隊を要請し、警官隊と漁民たちが衝突、警察官80人が負傷し、漁民35人が逮捕された。

 水俣病は、それまでは九州地方のローカルニュースに限られていたが、この漁民の乱入が全国ニュースとなり、国民が水俣病の存在を知るきっかけになった。しかしこのニュースは暴力反対の世相を引き起こし、漁民は孤立することになった。

 水俣市長、農協、労働組合は、工場排水の停止は水俣市の死活問題につながるとして、排水停止に反対する声明を出した。そのため水俣病患者、漁民たちは孤立感をますます深めることになった。そのなかで同年12月17日、チッソは自分たちの非を認めないまま、熊本県漁連と補償調停案に調印した。

 チッソ水俣工場は、最初は水俣病の解明に協力的であったが、原因がチッソ水俣工場の廃液の可能性が高くなるにつれ、熊大医学部と対立を深めていった。チッソ水俣工場は、水俣病の原因を工場排液とする説を絶対に認めず、メチル水銀を水俣病の原因とする説も認めなかった。工場の技術者幹部は、工場では無機水銀は使用しているが、有機水銀は使用していないと反論。無機水銀がメチル水銀を生み出すはずがないと主張した。また工場の生産量が増加しているのに患者が減少していると反論した。

 患者が減ったのは事実であったが、それは住民が水俣湾の魚を食べなくなったからである。しかし、魚の安全を示唆する工場の発表により、水俣病患者が再び増加することになった。沿岸の人たちにとって、沿岸で捕れる魚介類は主食に近いものだった。

 熊大の有機水銀説を否定するかのように、昭和35年4月12日、東京工業大学の清浦雷作教授が「水俣病の原因は腐った魚介類の毒(アミン説)による」と新聞紙上で大きく発表した。清浦教授は水俣湾の魚介類を分析し、魚肉が分解したときに出る4種類のアミンを検出。これをネコに注射すると水俣病と同様の症状がおきることから、魚介類のアミンが何らかの反応によって有毒化したことが原因と発表した。

 翌36年には、東邦大学の戸木田菊次教授がこのアミン説を支持する論文を書いた。このように水俣病について、熊大の有機水銀説と清浦教授のアミン説の2つが対立したが、当時のことである、田舎の熊大より東工大の清浦教授の方が多くの支持を得ていた。

 さらに日本化学工業協会・大島竹治理事は、戦時中水俣にあった日本海軍施設の爆薬が海中に投棄され、その爆薬が溶けだしたとする「爆薬投棄説」を持ち出した。チッソ工場を守ろうとする諸説について、メチル水銀説の熊大教授らはただちに反論したが、メチル水銀の出所を明らかにできなかった。チッソ水俣工場が廃液の検査を拒否したため、決め手に欠けていた。

 しかし昭和38年2月16日、水俣病は急展開することになる。熊大水俣病研究班が以前にチッソ水俣工場から偶然採取していた泥土から有機水銀を抽出したのだった。このことから熊大・入鹿山且郎教授は「水俣病の原因はチッソ水俣工場の排水である」と発表。チッソ水俣工場が製造していたアセトアルデヒドの生産過程で有機水銀が発生し、その有機水銀中毒が水俣病の原因だったのである。

 昭和40年になって、通産省はチッソ水俣工場に廃液をリサイクルして、外に出さない閉鎖循環方式にすることを命じたが、この方法では水俣湾の魚介類の水銀値は減少するものの不完全であった。そのため生産停止が命じられ、魚介類の水銀値は確実に低下した。

 水俣病は他の公害病とは異なっていた。海水によって希釈されたメチル水銀が食物連鎖を経て魚貝類に濃縮され、この魚貝類を摂取した人々から中毒者が出たのだった。

 チッソ水俣工場の技術者は、一貫して有機水銀発生の可能性を化学的にあり得ないと否定していたが、アセトアルデヒドの生産過程で有機水銀が発生することは、昭和5年にスイスのザンガーが論文で指摘しており、昭和15年にはハンター・ラッセルが有機水銀による中毒症状として水俣病と同様の症状を発表していた。

 水俣病は多くの犠牲者を出したが、より悲劇的なのは汚染された魚を食べた母親だけでなく、胎児にも障害を及ぼしたことである。メチル水銀が胎盤を通して胎児に蓄積し、生まれた子供に脳性小児麻痺の症状を引き起こした。妊娠中や出産時には異常がなく、出生後に精神運動遅延がくることから、気付くのが遅れてしまうのであった。この胎児性水俣病は、しばらくの間、水俣病とは関係のない脳性小児麻痺として扱われていた。水俣病の原則は汚染された魚を食べることで、胎児性水俣病の子供は魚を食べていないので、他の原因による脳性小児麻痺と区別できなかったのである。

 水俣病の妊婦から産まれた子供に脳性小児麻痺が多発したが、胎児性水俣病の証明は難しかった。ネコを用いた動物実験を行っても、気まぐれなネコはなかなか交尾をせず、胎児性水俣病は証明できなかった。結局、脳性小児麻痺の子供が死んで、その脳の病理所見から胎児性水俣病が証明された。これまで40例以上の胎児水俣病が確認され、多くの人たちの涙を誘った。

 水俣病が問題となった昭和30年代は、日本の経済が復興し、高度経済成長の牽引役として工場側を擁護する雰囲気があった。政府も工業立国を目指す政策から工場側に有利な立場を取っていた。明治41年にチッソ水俣工場が操業を開始して以来、チッソは日本の化学工業をリードし、水俣市の政財にも大きな影響を及ぼしていた。

 経済成長を最優先した時代、工場排水が原因と疑っていても、国や市は工場の操業停止を求めず、このことが水俣病の解明を遅らせ、被害を大きくした。水俣病は被害の大きさと悲惨さから公害の原点といわれている。

 水俣病患者は、チッソ水俣工場を相手に裁判に踏み切った。チッソ水俣工場は、「メチル水銀による水俣病の発生は予想できなかった」「アセトアルデヒドの生産過程で有機水銀が発生することを知らなかった」「熊本大学医学部の水俣病研究班が3年かかって原因を明らかにしたが、医学専門家でない技術者に原因がわかるはずはない」、などと弁明した。

 水俣病の患者や家族たち138人がチッソ株式会社に損害賠償を求めた裁判で、熊本地裁は「被告チッソは工場廃液を放流する際に安全を確認せず、その後の対策や措置も極めて適切を欠いていた」として患者側の主張を全面的に認め、死者と重症患者1人当たり最高1800万円、生存者には1600万円から1800万円、総額約9億3000万円の支払いを命じた。

 第2次訴訟が提訴され、昭和54年3月に熊本で14人が第2次水俣病訴訟を提起し12人が勝訴、昭和60年8月の控訴審判決でも4人が勝訴判決を得た。

 さらに国と熊本県およびチッソを相手に第3次訴訟が提起され、関西や東京在住の被害者もそれぞれ大阪地裁、京都地裁、東京地裁に訴訟を提起し、昭和62年3月30日、初めて国と熊本県の責任が認められた。

 一方、水俣病患者同盟は民事訴訟とは別に、当時の新日窒の吉岡喜一社長とチッソ水俣工場の西田栄一工場長が「未必の故意」による殺人、傷害罪で告訴され、熊本地裁と福岡高裁で有罪の判決が出て、昭和63年2月、最高裁は上告を棄却して有罪が確定した。

 被害者は裁判で勝ったが、「銭は1銭もいらない、そのかわり会社のえらか衆の上から順々に水銀母乳を飲んでもらいたい」と言う患者の言葉を、作家の石牟礼道子は「苦海浄土」のなかで紹介している。

 行政の責任を問う水俣病の訴訟は、平成6年7月の大阪地裁の判決までに6件の判決が下され、3件が国、熊本県に行政責任があるとして和解勧告が出された。国は和解を拒否してきたが、平成7年になって未認定患者の救済を中心とした与党合意が自社さ連立政権でまとまり、水俣病被害者・弁護団全国連絡会は訴訟の取り下げを条件に政府案を受け入れた。同年7月、村山富市首相が水俣病患者に謝罪し、これをきっかけに患者団体との話し合いがもたれ、翌8年5月、熊本水俣病訴訟は正式に和解した。

 水俣病の発生から決着まで約40年の歳月が流れていた。最終的な患者数は、平成5年末までに2946人が水俣病と認定され1394人が死亡していた。

 水俣病患者の補償金はチッソの支払い能力を超えるもので、チッソそのものが経営に行き詰まった。もしチッソが倒産すれば、水俣病患者の救済補償は行き詰まることになる。このため熊本県は県債を発行してチッソに融資することになった。県債の総額は平成9年に3218億円に達し、チッソは年間70億円を熊本県に返さなくてはいけない。平成10年のチッソの赤字は47億円で、累積赤字は2029億円に達している。環境庁は、被害を出さないように対策を施した場合、その費用は被害額の100分の1に過ぎなかったと試算している。

 チッソは昭和7年から昭和43年まで約100トンの水銀を水俣湾に排出したとされている。水俣湾汚染海域は485億円をかけて埋め立てられ、平成2年には埋め立て地が公園に生まれ変わった。水俣湾には、汚染魚の湾外への拡散を防ぐために網が設置されていたが、平成9年8月、23年ぶりに仕切り網が撤去された。湾内の魚介類の水銀値が国の規制値を3年連続で下回り、熊本県知事が安全宣言を出したのである。水俣病は公害の原点とされ、世界的にも「ミナマタ」の名前で知られている。